阪急にとって球団は損益の一項目である前に、1937年の西宮球場開場以来、沿線へ客を運ぶ理由そのものであった。2リーグ制が始まった1950年に15球団のうち7球団を鉄道会社が持っていた事実は、当時の私鉄が球団を設備投資の一種として扱っていたことを示している。戦後に娯楽の選択肢が増加するにつれ、沿線へ人を呼ぶ装置としての効きは薄れていく。撤退するとは、その前提を降ろすことでもあったのだろう。
ただ、この整理が正しかったといえるのは、後の歩みを知っているからにすぎない。会社は球団を売った後も西宮の球場を抱え続け、阪急西宮スタジアムが営業を終えるまでにはさらに14年を要した。宝塚ファミリーランドの閉園も翌2003年まで待つことになる。売却する順序も速度も、1988年の時点で見通されていたとは考えにくい。売却の是非より、何を残し何から撤退するかの線を引き直し続けた点に、この時期の経営の性格が表れているといえる。