純粋持株会社への移行を、当時流行した組織形態の後追いと読むと、この判断の位置が見えなくなる。阪急が組み替えたのは、鉄道・不動産・小売・娯楽を一社で回すという小林一三氏以来の設計そのものであった。開発用地の含み損を落とし、西宮スタジアムと宝塚ファミリーランドを閉じ、有利子負債を1兆1000億円から約9400億円まで縮めた後というのは、そう踏み込める数少ない時期であったとみられる。
もっとも、体制を替えたこと自体が稼ぐ力を生んだわけではない。移行後最初の通期の連結営業収益は約4862億円で、事業の中身は前年までと変わっていない。閉じた球場と遊園地の分だけ、抱える施設はむしろ減少していた。それでも上場主体を株式の保有会社へ移した意味は小さくなく、株式交換で他社を傘下へ迎える経路は、この時点で使える状態になった。備えを先に整えておいたか否かが、翌年に訪れる場面での動きの速さを分けたといえる。