東武鉄道 の歴史

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創業 1897年
創業者 根津嘉一郎(初代)
創業地 東京都
創業
1897年11月、東武鉄道株式会社が資本金265万円で設立され、1899年8月に伊勢崎線の北千住〜久喜間で営業を始めた。ただし線路は利根川の手前で止まり、群馬・栃木の集客圏まで届かないまま業績は振るわなかった。1905年に参画した根津嘉一郎氏が初代社長として利根川へ鉄橋を架け、1907年に当初の目的地である足利へ到達する。以後は自ら線路を敷くよりも周辺の鉄道会社を合併して路線網を広げ、1912年に佐野鉄道、1920年に東上鉄道、1937年に上州鉄道、1943年に下野電気鉄道と越生鉄道、1944年に総武鉄道を順に取り込んだ。1949年5月に東京証券取引所へ上場している。
決断
路線網は自ら敷いたのではなく、周辺の鉄道を合併して継ぎ足した。1912年の佐野鉄道から1944年の総武鉄道まで五社を取り込み、浅草を起点とする伊勢崎線・日光線と、池袋を起点とする東上線という接続しない二系統を抱える。戦後は新線をほとんど建設せず、投じる先を線路から沿線の土地へ移した。浅草雷門への延伸後の業平橋(現・とうきょうスカイツリー)には、約6万平方メートルの貨物駅跡地が残った。地上デジタル放送への移行で在京テレビ局が新しい電波塔の建設地を探すと、東武鉄道は2006年3月にこの用地を提供し、総額1,430億円を投じる。2012年5月に東京スカイツリータウンが開業し、投資回収期間は25年に設定された。合併で集めた路線の結節点が、鉄道以外で最大の投資を受ける場所になった。
現況
線路から離れた投資が実った現在、資金は再び鉄道へ戻っている。2026年3月期の連結売上高は6,554億円、営業利益719億円、純利益556億円である。運輸事業が売上2,160億円・利益276億円、レジャー事業が1,887億円・184億円、流通事業が1,654億円・60億円、不動産事業が459億円・159億円、その他が393億円・70億円で、5事業の利益合計749億円のうち運輸が37%、レジャーが25%を占める。スカイツリータウンとホテルを含むレジャーは、売上でも運輸に次ぐ規模へ育った。一方で同期の設備投資1,159億円は57%にあたる662億円が運輸事業へ向かい、利益率34.6%と最も採算のよい不動産事業には281億円しか配られていない。
競合
池袋で客を降ろす前提を、自社の直通運転が崩した。東上線の起点である池袋では、東口の西武百貨店と西口の東武百貨店が同じ改札の客を奪い合ってきた。1990年に海外百貨店の買収計画が頓挫したのち、池袋店の増床に900億円を投じ、1992年6月に売場面積82,963平方メートルの国内最大級の店を構える。売場では優位に立ったが、1987年の有楽町線から2008年の副都心線、2013年の東急東横線、2023年の相鉄線まで直通運転を重ねた結果、東上線の乗客は池袋で乗り換えずに渋谷・横浜方面へ抜けられるようになった。2026年3月期の流通事業は売上1,654億円に対し利益60億円、利益率3.6%にとどまる。乗り換えを不要にした鉄道側の投資が、乗り換え客を前提に建てた百貨店の採算を狭めた。
東武鉄道:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 根津家と路線網の拡大 ── 明治末から戦後初期にかけての基盤形成 (1897年〜)

利根川を越えた鉄道王 ── 根津嘉一郎氏の参画と伊勢崎線の全通

1897年11月、東京から北関東を結ぶ鉄道を敷設する目的で東武鉄道が設立された。資本金は265万円である。[1]創立の願い出は1895年4月、川崎八右衛門ら12名の発起人によるもので、計画線は東京市本所から草加・久喜・館林を経て足利へ至る52哩だった。設立時に置かれた役職は社長ではなく専務取締役で、初代専務取締役には末延道成が就いている。[2]1899年8月、北千住〜久喜間の40.1キロメートルが開通して営業を始めた。[3]しかし1903年4月に利根川南岸の川俣へ達したところで日露戦争のために北進が止まり、当初の目的地である足利へ届かないまま経営は行き詰まった。[4]

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1897年11月 東武鉄道設立(資本金265万円)
    • [3]1899年8月 伊勢崎線 北千住〜久喜間40.1キロメートルが開通し営業開始
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [2]1895年4月に川崎八右衛門ほか11名が創立願を提出。設立時は初代専務取締役に末延道成が就任した
    • [4]1903年4月に利根川南岸の川俣へ到達したが日露戦争で北進が停滞した

この不振の会社に経営者として入ったのが、山梨出身の相場師・実業家である根津嘉一郎氏だった。根津氏は1905年4月に取締役、5月に専務取締役、11月には初代の社長へ就いている。[5]経営不振の会社の株をひそかに買い集めて経営権を握る手法は当時ボロ買いと呼ばれ、東武もまた人から相手にされないボロ会社の一つに数えられていた。[6]根津氏は生涯で72社の役員を兼ねたが、なかでも最も力を入れたのが東武で、世に鉄道王と呼ばれる。[7]赤字会社の会議にコーヒーが出たのを見て番茶で済ませと叱ったという逸話が残るほど、冗費を嫌う経営でもあった。[8]

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [5]1905年4月に取締役、5月に専務取締役、11月に初代の社長へ就任
  • 証券 1950年
    • [6]東武は根津が引き受けた当時「人から相手にされなかつたボロ会社」だった
    • [8]赤字会社の会議に出たコーヒーを見て番茶で済ませと叱るほど冗費を嫌った
  • 経済往来 1957年「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
    • [7]初代根津は72社の役員を兼ね、最も力を入れたのが東武鉄道で「鉄道王」と呼ばれた

根津氏が最初に手がけたのは、資金難で止まっていた利根川の架橋だった。2代目根津嘉一郎氏は後年、当時の東武は利根川まで線路が来ていたものの鉄橋を架ける金がなくそこで止まっており、父が無理をして鉄橋を架けて館林に入ったのだと振り返っている。[9]橋が通ると上毛地方の機業地と東京が結ばれて経営は好転し[10]、1907年8月に当初の目的地である足利へ達した。[11]1910年7月には太田〜伊勢崎間が開通して幹線115.5キロメートルが全通する。[12]利根川を越えるかどうかという一つの投資判断が、その後の東武の路線規模を決めた。

  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [9]2代目根津嘉一郎は、初代が資金難で止まっていた利根川に無理をして架橋し館林へ入ったと回想した
  • 実業の世界 1963年
    • [10]初代が最初に手がけたのが利根川架橋で、上毛地方の機業地と都内の連絡がついて経営が好転した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [11]1907年8月 創立当初の目的地である足利に到達
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1910年7月 伊勢崎線太田〜伊勢崎間開通(浅草〜伊勢崎の幹線115.5キロメートルが全通)
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1897年11月 東武鉄道設立(資本金265万円)
    • [3]1899年8月 伊勢崎線 北千住〜久喜間40.1キロメートルが開通し営業開始
    • [12]1910年7月 伊勢崎線太田〜伊勢崎間開通(浅草〜伊勢崎の幹線115.5キロメートルが全通)
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [2]1895年4月に川崎八右衛門ほか11名が創立願を提出。設立時は初代専務取締役に末延道成が就任した
    • [4]1903年4月に利根川南岸の川俣へ到達したが日露戦争で北進が停滞した
    • [5]1905年4月に取締役、5月に専務取締役、11月に初代の社長へ就任
    • [11]1907年8月 創立当初の目的地である足利に到達
  • 証券 1950年
    • [6]東武は根津が引き受けた当時「人から相手にされなかつたボロ会社」だった
    • [8]赤字会社の会議に出たコーヒーを見て番茶で済ませと叱るほど冗費を嫌った
  • 経済往来 1957年「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
    • [7]初代根津は72社の役員を兼ね、最も力を入れたのが東武鉄道で「鉄道王」と呼ばれた
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [9]2代目根津嘉一郎は、初代が資金難で止まっていた利根川に無理をして架橋し館林へ入ったと回想した
  • 実業の世界 1963年
    • [10]初代が最初に手がけたのが利根川架橋で、上毛地方の機業地と都内の連絡がついて経営が好転した

路線網の完成と戦時統合 ── 浅草乗入れから空襲まで

1912年に佐野鉄道、1913年に太田軽便鉄道を吸収して集客圏を広げ[13]、1920年4月には資本的に傍系だった東上鉄道を合併して東上線を得た。[14]伊勢崎線系統と東上線系統という2大路線体制はこのとき整い、資本金は2,450万円になった。1929年4月には事業目的に土地建物の売買と賃貸を加えて不動産業へ踏み出し[15]、同じ4月に日光線の杉戸〜新鹿沼間が開通、10月に日光まで観光電車が乗り入れた。[16]日光線は計画の当初から電化を前提に工事が進められた、観光のための路線だった。[17]

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1912年 佐野鉄道合併・1913年 太田軽便鉄道(軽便鉄道部)買収
    • [15]1929年4月 事業目的に土地建物の売買・賃貸を追加(不動産事業に参入)
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [14]1920年 東上鉄道を合併し東上線を取得。東上鉄道は資本的に東武鉄道の傍系にあり、合併で資本金は2,450万円となった
    • [16]1929年4月 日光線 杉戸〜新鹿沼間開通、10月に日光へ観光電車が乗り入れ
    • [17]日光線は当初から電化によって工事を進めた路線だった

1931年5月、隅田川に高架線を架けて浅草雷門(現・浅草)〜業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間が開通し、都心との接続が完成した。[18]2代目根津嘉一郎氏は後年、この延伸について1キロメートル足らずの区間に1千万円ほどを投じて都心乗り入れをしたのだと語っている。[19]終点に建った延1万470坪・7階建の東武ビルには松屋が入り、東京で最も古いターミナルデパートとして知られた。[20]鉄道の終点に百貨店を置いて乗降客を売場の集客に変えるという後年の型は、すでにこの時点で現れている。

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1931年5月 浅草雷門(現・浅草)〜業平橋間が開通し都心と接続
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [19]浅草への乗入れは1キロメートル足らずの区間に約1千万円を投じた工事だった
  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
    • [20]浅草の東武ビル(延1万470坪・7階建)に松屋が入り、東京で最も古いターミナルデパートとなった

1937年1月に上州鉄道、1943年5月に下野電気鉄道、7月に越生鉄道を買収し、1943年12月には熊谷線が開通した(1983年6月廃線)。1944年3月には総武鉄道を合併して資本金は5,550万円となる。[21][22]この統合の結果、東武鉄道は営業キロ数463.3キロメートルの路線網を持つに至った。一方で1945年3月の東京大空襲は浅草〜鐘ヶ淵間と亀戸線の一帯に甚大な被害を与え、4月の太田空襲では太田駅などが焼けた。[23]統合で広げた路線網は、そのまま戦災の被害範囲でもあった。

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [21]戦時統合:1937年上州鉄道・1943年下野電気鉄道/越生鉄道の買収、1943年12月 熊谷線開通(1983年6月廃線)、1944年3月 総武鉄道合併
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [22]下野電気鉄道39.7キロメートル・総武鉄道62.9キロメートルの統合により資本金は5,550万円となった
    • [23]1945年3月の東京空襲で浅草〜鐘ヶ淵間・亀戸線が甚大な被害、4月の太田空襲で太田駅などが被災
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1912年 佐野鉄道合併・1913年 太田軽便鉄道(軽便鉄道部)買収
    • [15]1929年4月 事業目的に土地建物の売買・賃貸を追加(不動産事業に参入)
    • [18]1931年5月 浅草雷門(現・浅草)〜業平橋間が開通し都心と接続
    • [21]戦時統合:1937年上州鉄道・1943年下野電気鉄道/越生鉄道の買収、1943年12月 熊谷線開通(1983年6月廃線)、1944年3月 総武鉄道合併
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [14]1920年 東上鉄道を合併し東上線を取得。東上鉄道は資本的に東武鉄道の傍系にあり、合併で資本金は2,450万円となった
    • [16]1929年4月 日光線 杉戸〜新鹿沼間開通、10月に日光へ観光電車が乗り入れ
    • [17]日光線は当初から電化によって工事を進めた路線だった
    • [22]下野電気鉄道39.7キロメートル・総武鉄道62.9キロメートルの統合により資本金は5,550万円となった
    • [23]1945年3月の東京空襲で浅草〜鐘ヶ淵間・亀戸線が甚大な被害、4月の太田空襲で太田駅などが被災
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [19]浅草への乗入れは1キロメートル足らずの区間に約1千万円を投じた工事だった
  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
    • [20]浅草の東武ビル(延1万470坪・7階建)に松屋が入り、東京で最も古いターミナルデパートとなった

戦後復興と観光路線 ── 1950年代の輸送と多角化

1940年1月に初代根津嘉一郎氏が世を去り、原邦造氏が後を継いだのち、1941年7月に長男の2代目根津嘉一郎氏が社長へ就いた。[24]初代は資産2億円のうち後継の藤太郎氏(2代目)には300万円しか残さないと公言し、書画骨董は根津美術館へ移している。[25]戦後は1945年12月に労働組合が結成され、1949年3月には5日間に及ぶ最大の争議が起きた。[26]1946年11月に資本金を1億2,000万円へ増やし、1947年6月に東武自動車と日光電気軌道を合併して体制を立て直し[27]、1949年5月に東京証券取引所へ上場した。[28]

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [24]1940年1月 初代根津嘉一郎逝去、原邦造が社長を継ぎ、1941年7月に2代根津嘉一郎が社長就任
    • [26]1945年12月 労働組合結成、1949年3月に5日間にわたる最大の争議
    • [27]1946年11月 資本金1億2,000万円へ増資、1947年6月 東武自動車・日光電気軌道を合併
  • 経済往来 1957年「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
    • [25]初代は資産2億円のうち藤太郎には300万円しか残さないと公言し、書画骨董は根津美術館として残した
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1949年5月 東京証券取引所へ上場

1955年3月期の全収入は31億4,000万円で、うち鉄道軌道が22億円、自動車が8億4,000万円だった。[29]翌1956年には鉄軌道550.4キロメートル、バス路線約2,931キロメートル、1日平均輸送人員70万人に達している。[30]浅草から日光までの135.5キロメートルを特急ロマンスカー華厳号が1時間59分で結び、外国人観光団の利用もあった。[31]葛生の石灰石、荒針の大谷石、野田の醤油といった沿線の産物を運ぶ貨物の比重が高かったことも、この時期の東武を特徴づけている。[32]

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [29]1955年3月期 全収入31億4,000万円(鉄道軌道22億円・自動車8億4,000万円)
  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
    • [30]1956年 鉄軌道550.4キロメートル・バス路線約2,931キロメートル・1日平均輸送人員70万人
    • [31]浅草〜日光135.5キロメートルを特急ロマンスカー華厳号が1時間59分で運行
    • [32]葛生の石灰石・荒針の大谷石・野田の醤油を運ぶ貨物の比重が高かった

観光地への投資も戦前から続いていた。赤城山の開発は初代根津氏以来の念願とされ、1956年にケーブルカーを第一着手として総予算4億5,000万円で本格化した。[33]鬼怒川や川治は、初代が鉄道を敷いたうえで旅館に資金を貸して育てた温泉地である。[34]1959年には電車の新造を年12両から40両へ一気に増やしたが、増える乗客の大半は割引率が最大9割2分に達する定期客で、通勤輸送そのものは採算に合わなかった。[35]観光と通勤という性格の異なる二つの需要が、この時期の設備投資を規定していた。

  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
    • [33]赤城山の開発は初代根津社長以来の念願で、1956年にケーブルカーを第一着手として総予算4億5,000万円で本格化した
  • 東邦経済 1960年6月「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
    • [34]鬼怒川・川治は初代が鉄道を敷き旅館へ融資して育てた温泉地だった
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [35]1959年に電車の新造を年12両から40両へ拡大。定期客比率65%・最大割引率9割2分で通勤輸送は採算に合わなかった
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
    • [24]1940年1月 初代根津嘉一郎逝去、原邦造が社長を継ぎ、1941年7月に2代根津嘉一郎が社長就任
    • [26]1945年12月 労働組合結成、1949年3月に5日間にわたる最大の争議
    • [27]1946年11月 資本金1億2,000万円へ増資、1947年6月 東武自動車・日光電気軌道を合併
    • [29]1955年3月期 全収入31億4,000万円(鉄道軌道22億円・自動車8億4,000万円)
  • 経済往来 1957年「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
    • [25]初代は資産2億円のうち藤太郎には300万円しか残さないと公言し、書画骨董は根津美術館として残した
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1949年5月 東京証券取引所へ上場
  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
    • [30]1956年 鉄軌道550.4キロメートル・バス路線約2,931キロメートル・1日平均輸送人員70万人
    • [31]浅草〜日光135.5キロメートルを特急ロマンスカー華厳号が1時間59分で運行
    • [32]葛生の石灰石・荒針の大谷石・野田の醤油を運ぶ貨物の比重が高かった
    • [33]赤城山の開発は初代根津社長以来の念願で、1956年にケーブルカーを第一着手として総予算4億5,000万円で本格化した
  • 東邦経済 1960年6月「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
    • [34]鬼怒川・川治は初代が鉄道を敷き旅館へ融資して育てた温泉地だった
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
    • [35]1959年に電車の新造を年12両から40両へ拡大。定期客比率65%・最大割引率9割2分で通勤輸送は採算に合わなかった

自社路線を延ばさず他社網に結ぶ ── 相互乗入れによる沿線価値の引き上げ

1962年5月、東武伊勢崎線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の相互乗入れが始まった。[36]地下を掘るのは営団で、東武は北千住から自社の車両を乗り入れるという分担である。[37]2代目根津嘉一郎氏は開始前から、沿線が都心と直結すれば非常に開発が進み、水田を埋めて住宅になっていくと述べていた。[38]私鉄各社が山手線で止まっていては沿線開発で国電中央線に遅れるという危機感が、都心直通を最優先の課題へ押し上げていた。[39]前年の1961年10月には東証第一部に指定されている。[40]

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1962年5月 伊勢崎線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の相互乗入れ開始
    • [40]1961年10月 東証第一部に指定
  • 東邦経済 1960年6月「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
    • [37]東武は自ら掘らず、営団が掘る2号線に北千住から乗り入れる方式だった
    • [38]2代目根津嘉一郎は相互乗入れ前から、沿線が都心と直結して開発が進み水田が住宅に変わると語っていた
  • 実業の世界 1963年
    • [39]私鉄が山手線止まりでは国電中央線に沿線開発で遅れるという認識が都心乗入れの動機だった

乗入れに伴う設備投資は約40億円に及び、2代目はこれを戦前に父が築いた発展とは別の、戦後の新しい出発だと位置づけている。[41]1958年から1962年までの4年間で東武の設備投資は3部門合計144億円と、東急の64億円の倍以上に達した。[42]同じ4年間で旅客人員は49%、定期客は54%増え、定期客比率は67%から69%へ上がっている。[43]地下鉄との相互乗入れは国鉄環状線という枠を取り払うものであり、関東の私鉄経営はこれを境に新しい段階へ入った。[44]線路を延ばすかわりに他社の網へつなぐという選択が、投資額の面でも旅客の面でも実を結び始めていた。北千住以遠と都心の所要時間は20分以上縮まり、1968年時点の東武は近畿日本鉄道の573キロメートルに次ぐ私鉄第2位の路線規模を保っていた。[45]

  • 実業の世界 1963年
    • [41]日比谷線直通の設備投資は約40億円で、2代目はこれを戦後の新しい出発と位置づけた
  • 証券時報 1963年6月号「会社研究 新段階を迎える東武鉄道と東京急行電鉄」
    • [42]1958年9月期〜1962年9月期の設備投資は東武が3部門合計144億円、東急が64億円
    • [43]同期間に東武の旅客人員は49%増・定期客は54%増、定期客比率は67%から69%へ上昇
    • [44]地下鉄との相互乗入れで国鉄環状線という枠が撤廃され、関東の私鉄経営が新しい段階を迎えたと評された
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「東武鉄道」
    • [45]北千住での地下鉄乗入れで北千住以遠と都心が20分以上短縮され、1968年時点の路線延長は近鉄573キロに次ぐ私鉄第2位だった

1987年8月には東上線と有楽町線の相互乗入れが和光市経由で始まり[46]、東上線沿線から有楽町・新富町方面への直通が開いた。1962年の日比谷線直通から1987年の有楽町線直通までの約25年で、自社路線を延ばすのではなく他社路線との結節点を作って沿線価値を高める方針が固まった。鉄道インフラへの追加投資を抑えつつ、相互乗入れで路線価値を引き上げ、沿線の宅地化で不動産・流通の需要を取り込む手法が東武鉄道の事業モデルの根幹となる。この方針はのちの半蔵門線・副都心線・東急線との直通運転へ続いた。

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1987年8月 東上線と有楽町線の相互乗入れ開始(和光市経由)
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1962年5月 伊勢崎線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の相互乗入れ開始
    • [40]1961年10月 東証第一部に指定
    • [46]1987年8月 東上線と有楽町線の相互乗入れ開始(和光市経由)
  • 東邦経済 1960年6月「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
    • [37]東武は自ら掘らず、営団が掘る2号線に北千住から乗り入れる方式だった
    • [38]2代目根津嘉一郎は相互乗入れ前から、沿線が都心と直結して開発が進み水田が住宅に変わると語っていた
  • 実業の世界 1963年
    • [39]私鉄が山手線止まりでは国電中央線に沿線開発で遅れるという認識が都心乗入れの動機だった
    • [41]日比谷線直通の設備投資は約40億円で、2代目はこれを戦後の新しい出発と位置づけた
  • 証券時報 1963年6月号「会社研究 新段階を迎える東武鉄道と東京急行電鉄」
    • [42]1958年9月期〜1962年9月期の設備投資は東武が3部門合計144億円、東急が64億円
    • [43]同期間に東武の旅客人員は49%増・定期客は54%増、定期客比率は67%から69%へ上昇
    • [44]地下鉄との相互乗入れで国鉄環状線という枠が撤廃され、関東の私鉄経営が新しい段階を迎えたと評された
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「東武鉄道」
    • [45]北千住での地下鉄乗入れで北千住以遠と都心が20分以上短縮され、1968年時点の路線延長は近鉄573キロに次ぐ私鉄第2位だった

鉄道ターミナルに流通を併設する ── 2代目53年が組んだグループの形

1958年に東武宇都宮百貨店、1960年に東武百貨店と東武会館(現・東武ストア)を設立し[47]、1962年5月29日、創立60周年記念事業として池袋西口に東武百貨店が開店した。約3年半の工期と30数億円を投じた建物である。[48]延床は約1万2,000坪に達したが、百貨店法の制約で売場面積は3,600坪に抑えられ、開業の時点から増床の申請が前提になっていた。[49]当時の東武は鉄軌道約515キロメートル・自動車3,700キロメートルを擁する一方、副業は全収入の5%程度にすぎない鉄道会社だった。[50]

  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1958年 東武宇都宮百貨店・1960年 東武百貨店/東武会館(現・東武ストア)設立
  • 東邦経済 1962年「東武百貨店の完成とわが社の経営路線」根津嘉一郎
    • [48]東武百貨店は創立60周年記念事業として約3年半・30数億円を投じ、1962年5月29日に池袋西口で開館した
    • [49]開店時の延床は約1万2,000坪だが百貨店法により売場面積は3,600坪に制限され、追加申請が前提だった
    • [50]1962年時点で鉄軌道約515キロメートル・自動車3,700キロメートル、副業は全収入の約5%だった

百貨店の建設と都心乗入れにはそれぞれ30億円以上が投じられ、当面は資金が出ていく一方だった。[51]沿線では住宅公団と組んだ団地開発が進み、東上線沿線の福岡町では3年間で人口が169%、朝霞町で43%増え、東上線の乗降客は年10〜12%の割合で伸びている。[52]鉄道で運んだ乗客を沿線の住宅と都心の売場の双方で収益に変える構図が、この時期に形になった。日比谷線直通と池袋店開業が同じ1962年5月に重なったのは偶然ではなく、路線と売場を一体で設計した結果である。副業が全収入の5%にすぎなかった鉄道会社は、ここから複合事業の会社へ変わっていく。

  • 東邦経済 1962年「東武百貨店の完成とわが社の経営路線」根津嘉一郎
    • [51]百貨店建設と都心乗入れにそれぞれ30億円以上を投じ、当面は資金をつぎ込む一方だった
    • [52]住宅公団と組んだ団地開発により東上線沿線の人口が急増し、乗降客は年10〜12%増となった

1941年に社長へ就いた2代目根津嘉一郎氏は、1994年1月に退任するまで約53年間その職にあった。1989年時点の東武グループは交通・流通・住宅不動産・観光レジャーという生活産業に88社を数えたが、基本はあくまで鉄道と自動車の交通事業にあるとされた。[53]関東の私鉄で最長の464キロメートルという路線は人口密度の高い地域ばかりを走るわけではなく、堅実経営にならざるを得なかったという。[54]一歩ずつ安定成長を図るという方針のもとで、相互乗入れと流通併設という二つの筋は半世紀にわたって揺らがなかった。[55]

  • 日経ビジネス 1989年4月24日号
    • [53]1989年の東武グループは交通・流通・住宅不動産・観光レジャーの生活産業で88社。基本は鉄道・自動車の交通事業にあるとした
    • [54]関東の私鉄で最長の464キロの路線は人口密度の高い地域ばかりを走るわけではなく、堅実経営にならざるを得なかった
    • [55]一歩一歩、ステップ・バイ・ステップで安定成長を図ることを重視した
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1958年 東武宇都宮百貨店・1960年 東武百貨店/東武会館(現・東武ストア)設立
  • 東邦経済 1962年「東武百貨店の完成とわが社の経営路線」根津嘉一郎
    • [48]東武百貨店は創立60周年記念事業として約3年半・30数億円を投じ、1962年5月29日に池袋西口で開館した
    • [49]開店時の延床は約1万2,000坪だが百貨店法により売場面積は3,600坪に制限され、追加申請が前提だった
    • [50]1962年時点で鉄軌道約515キロメートル・自動車3,700キロメートル、副業は全収入の約5%だった
    • [51]百貨店建設と都心乗入れにそれぞれ30億円以上を投じ、当面は資金をつぎ込む一方だった
    • [52]住宅公団と組んだ団地開発により東上線沿線の人口が急増し、乗降客は年10〜12%増となった
  • 日経ビジネス 1989年4月24日号
    • [53]1989年の東武グループは交通・流通・住宅不動産・観光レジャーの生活産業で88社。基本は鉄道・自動車の交通事業にあるとした
    • [54]関東の私鉄で最長の464キロの路線は人口密度の高い地域ばかりを走るわけではなく、堅実経営にならざるを得なかった
    • [55]一歩一歩、ステップ・バイ・ステップで安定成長を図ることを重視した

通勤地獄と兼業の理屈 ── レジャー事業への傾斜

1967年度を初年度として、大手民鉄14社は総工事費4,465億円の輸送力増強五カ年計画に着手した。[56]自己資金でまかなえるのは39%にとどまり、残る61%は社債と金融機関からの借入に頼らざるを得なかった。[57]輸送量の約7割を占める定期客が運賃収入の4割しか生まないという構造がその背景にあり[58]、1936年を基準にすると消費者物価が464倍になる間、民鉄の基本賃率は174倍、定期運賃は124倍にしか上がっていなかった。[59]運びたい客ほど採算が悪く、それでも設備を増やさねばならないという矛盾が、この時期の私鉄経営を締めつけていた。

  • 経団連月報 1968年「民鉄業界の現状と問題点」根津嘉一郎
    • [56]1967年度を初年度とする大手民鉄14社の輸送力増強五カ年計画は総工事費4,465億円
    • [57]所要資金のうち自己資金は39%(1,755億円)にとどまり、61%(2,710億円)を社債・借入に依存した
    • [58]輸送量の約7割を占める定期客の運賃収入は4割にとどまった
    • [59]1936年比で消費者物価464倍に対し、民鉄の基本賃率は174倍・定期運賃は124倍にとどまった

日本民営鉄道協会の会長も務めた2代目根津嘉一郎氏は、兼業を鉄道赤字の穴埋めではなく設備効率の問題として説明した。定期外の旅客を増やしてラッシュ時以外に遊んでいる車両を動かせば全体の設備投資効率が上がり、運賃のコストを低く抑えられるという理屈である。[60]1969年時点で東武の鉄道とバスをあわせた1日の利用者は200万人に達しており、ターミナル駅の百貨店はその流動を収益へ変える装置と位置づけられていた。[61]通勤地獄だけは解消して次の世代へ引き渡すというのが、当時の言い分だった。[62]

  • 経団連月報 1968年「民鉄業界の現状と問題点」根津嘉一郎
    • [60]兼業の目的は定期外旅客を増やし遊休車両を活用して設備投資効率を高め、運賃コストを抑えることにあった
    • [62]通勤地獄の解消を次の世代へ引き渡すべき鉄道人の使命とした
  • 実業の世界 1969年 根津嘉一郎
    • [61]1969年 東武の鉄道とバスをあわせた1日の利用者は200万人。ターミナル駅のデパートを収益源と位置づけた

レジャー事業が本格化したのは1981年で、創立80周年記念事業として埼玉県宮代町に東武動物公園を設立した。[63]動物園と遊園地を併設したこの施設は1993年時点で年間約160万人を集めている。1991年に東武博物館、1992年に東武美術館が続き、1993年4月には日光・鬼怒川へ東武ワールドスクウェアが開業した。当初40億円だった予算は最終的に110億円へ膨らんだが[64]、初年度目標の150万人を約4カ月で達成する。[65]1993年の売上構成は鉄道61.5%・バス16.1%・開発22.4%で、運賃改定に頼らない収益源として開発事業が育っていた。[66]

  • 日経ビジネス 1993年10月18日号
    • [63]東武動物公園は創立80周年記念事業として1981年に設立された、最初の本格的なレジャー事業だった
    • [64]東武ワールドスクウェアの建設費は当初予算40億円から最終的に110億円へ膨らんだ
    • [65]1993年4月開業の東武ワールドスクウェアは初年度目標150万人を約4カ月で達成した
    • [66]1993年の売上高構成比は鉄道61.5%・バス16.1%・開発22.4%
  • 経団連月報 1968年「民鉄業界の現状と問題点」根津嘉一郎
    • [56]1967年度を初年度とする大手民鉄14社の輸送力増強五カ年計画は総工事費4,465億円
    • [57]所要資金のうち自己資金は39%(1,755億円)にとどまり、61%(2,710億円)を社債・借入に依存した
    • [58]輸送量の約7割を占める定期客の運賃収入は4割にとどまった
    • [59]1936年比で消費者物価464倍に対し、民鉄の基本賃率は174倍・定期運賃は124倍にとどまった
    • [60]兼業の目的は定期外旅客を増やし遊休車両を活用して設備投資効率を高め、運賃コストを抑えることにあった
    • [62]通勤地獄の解消を次の世代へ引き渡すべき鉄道人の使命とした
  • 実業の世界 1969年 根津嘉一郎
    • [61]1969年 東武の鉄道とバスをあわせた1日の利用者は200万人。ターミナル駅のデパートを収益源と位置づけた
  • 日経ビジネス 1993年10月18日号
    • [63]東武動物公園は創立80周年記念事業として1981年に設立された、最初の本格的なレジャー事業だった
    • [64]東武ワールドスクウェアの建設費は当初予算40億円から最終的に110億円へ膨らんだ
    • [65]1993年4月開業の東武ワールドスクウェアは初年度目標150万人を約4カ月で達成した
    • [66]1993年の売上高構成比は鉄道61.5%・バス16.1%・開発22.4%

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東武鉄道の沿革1897〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1897〜1960年根津家と路線網の拡大 ── 明治末から戦後初期にかけての基盤形成東武鉄道を設立
伊勢崎線北千住〜久喜間開通、営業開始
根津嘉一郎が経営に参画★★
東上鉄道を合併★★
不動産事業に参入★★
日光線開通
浅草〜業平橋間開通
2代目根津嘉一郎氏が社長に就任
根津嘉一郎総武鉄道を合併★★
根津嘉一郎東京証券取引所に上場
根津嘉一郎東武宇都宮百貨店を設立
根津嘉一郎東武百貨店を設立★★
根津嘉一郎東武会館を設立
1961〜1994年都心直通と沿線開発 ── 相互乗入れ時代と複合事業化の進展根津嘉一郎東京証券取引所第一部に指定
根津嘉一郎日比谷線との相互乗入れ運転を開始
根津嘉一郎東武百貨店池袋店を開店
根津嘉一郎熊谷線廃線
根津嘉一郎有楽町線との相互乗入れ運転を開始
根津嘉一郎東武百貨店によるサックス買収計画の頓挫と池袋店増床900億円投資

1990年、東武百貨店は米国の高級百貨店サックス・フィフス・アベニューの買収に名乗りを上げたが、アラブ系投資会社インベストコープが15億ドルで落札し、撤退に追い込まれた。国内では池袋駅東口の西武百貨店に対抗するため池袋店の増床を進め、1992年6月に売場面積82,963平方メートルの増改築を完成させた。百貨店増床と池袋西口再開発への投資額は合計約900億円にのぼった。

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★★★
根津嘉一郎東武百貨店池袋店の増改築完成
根津嘉一郎2代目根津嘉一郎氏が社長を退任
1995〜2019年スカイツリーと百貨店 ── 投資の明暗根津嘉澄根津嘉澄氏が社長に就任
根津嘉澄経営合理化を実施★★
根津嘉澄東武バス設立
根津嘉澄半蔵門線・東急田園都市線と相互乗入れ開始
根津嘉澄JR山手線・宇都宮線と相互乗入れ開始
根津嘉澄副都心線との相互乗入れ開始
根津嘉澄東京スカイツリー建設への1,430億円投資

地上デジタル放送用の新しい電波塔の建設地探しの中で、東武鉄道が保有する押上の貨物駅跡地が候補に浮上し、2006年3月に建設地として決定された。東武鉄道は自社保有地にタワーと複合商業施設を建設する事業主体となり、2012年5月に東京スカイツリータウンを開業させた。

詳細を読む
★★★
根津嘉澄東急東横線・みなとみらい線と相互乗入れ開始
根津嘉澄東武ストアを完全子会社化
根津嘉澄コロナ禍で最終赤字に転落★★
根津嘉澄東京証券取引所プライム市場へ移行
根津嘉澄東上線から相鉄線への直通運転を開始
都筑豊都筑豊氏が社長に就任(創業家以外から初)★★
都筑豊日光線新鹿沼駅構内で除草作業中の作業員が特急スペーシアXに接触する死亡事故が発生★★
出典・参考
  • 東武鉄道 有価証券報告書【沿革】
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「東武鉄道」
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「東武鉄道」
  • 証券時報 1963年6月号「会社研究 新段階を迎える東武鉄道と東京急行電鉄」
  • 日経ビジネス 1989年4月24日号
  • 日経ビジネス 1993年10月18日号
  • 証券 1950年
  • 汎交通 1956年「わが社の自慢――東武鉄道株式会社」柴田稔
  • 経済往来 1957年「財界歳時記《第二回》根津嘉一郎」駒村雄三郎
  • 経済時代 1959年 根津嘉一郎
  • 東邦経済 1960年6月「対談 日光の開発を大いにやりますよ」根津嘉一郎
  • 東邦経済 1962年「東武百貨店の完成とわが社の経営路線」根津嘉一郎
  • 実業の世界 1963年
  • 経団連月報 1968年「民鉄業界の現状と問題点」根津嘉一郎
  • 実業の世界 1969年 根津嘉一郎

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