1897年11月、東京から北関東を結ぶ鉄道を敷設する目的で東武鉄道が設立された。資本金は265万円である。[1]創立の願い出は1895年4月、川崎八右衛門ら12名の発起人によるもので、計画線は東京市本所から草加・久喜・館林を経て足利へ至る52哩だった。設立時に置かれた役職は社長ではなく専務取締役で、初代専務取締役には末延道成が就いている。[2]1899年8月、北千住〜久喜間の40.1キロメートルが開通して営業を始めた。[3]しかし1903年4月に利根川南岸の川俣へ達したところで日露戦争のために北進が止まり、当初の目的地である足利へ届かないまま経営は行き詰まった。[4]
この不振の会社に経営者として入ったのが、山梨出身の相場師・実業家である根津嘉一郎氏だった。根津氏は1905年4月に取締役、5月に専務取締役、11月には初代の社長へ就いている。[5]経営不振の会社の株をひそかに買い集めて経営権を握る手法は当時ボロ買いと呼ばれ、東武もまた人から相手にされないボロ会社の一つに数えられていた。[6]根津氏は生涯で72社の役員を兼ねたが、なかでも最も力を入れたのが東武で、世に鉄道王と呼ばれる。[7]赤字会社の会議にコーヒーが出たのを見て番茶で済ませと叱ったという逸話が残るほど、冗費を嫌う経営でもあった。[8]
根津氏が最初に手がけたのは、資金難で止まっていた利根川の架橋だった。2代目根津嘉一郎氏は後年、当時の東武は利根川まで線路が来ていたものの鉄橋を架ける金がなくそこで止まっており、父が無理をして鉄橋を架けて館林に入ったのだと振り返っている。[9]橋が通ると上毛地方の機業地と東京が結ばれて経営は好転し[10]、1907年8月に当初の目的地である足利へ達した。[11]1910年7月には太田〜伊勢崎間が開通して幹線115.5キロメートルが全通する。[12]利根川を越えるかどうかという一つの投資判断が、その後の東武の路線規模を決めた。
1912年に佐野鉄道、1913年に太田軽便鉄道を吸収して集客圏を広げ[13]、1920年4月には資本的に傍系だった東上鉄道を合併して東上線を得た。[14]伊勢崎線系統と東上線系統という2大路線体制はこのとき整い、資本金は2,450万円になった。1929年4月には事業目的に土地建物の売買と賃貸を加えて不動産業へ踏み出し[15]、同じ4月に日光線の杉戸〜新鹿沼間が開通、10月に日光まで観光電車が乗り入れた。[16]日光線は計画の当初から電化を前提に工事が進められた、観光のための路線だった。[17]
1931年5月、隅田川に高架線を架けて浅草雷門(現・浅草)〜業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間が開通し、都心との接続が完成した。[18]2代目根津嘉一郎氏は後年、この延伸について1キロメートル足らずの区間に1千万円ほどを投じて都心乗り入れをしたのだと語っている。[19]終点に建った延1万470坪・7階建の東武ビルには松屋が入り、東京で最も古いターミナルデパートとして知られた。[20]鉄道の終点に百貨店を置いて乗降客を売場の集客に変えるという後年の型は、すでにこの時点で現れている。
1937年1月に上州鉄道、1943年5月に下野電気鉄道、7月に越生鉄道を買収し、1943年12月には熊谷線が開通した(1983年6月廃線)。1944年3月には総武鉄道を合併して資本金は5,550万円となる。[21][22]この統合の結果、東武鉄道は営業キロ数463.3キロメートルの路線網を持つに至った。一方で1945年3月の東京大空襲は浅草〜鐘ヶ淵間と亀戸線の一帯に甚大な被害を与え、4月の太田空襲では太田駅などが焼けた。[23]統合で広げた路線網は、そのまま戦災の被害範囲でもあった。
1940年1月に初代根津嘉一郎氏が世を去り、原邦造氏が後を継いだのち、1941年7月に長男の2代目根津嘉一郎氏が社長へ就いた。[24]初代は資産2億円のうち後継の藤太郎氏(2代目)には300万円しか残さないと公言し、書画骨董は根津美術館へ移している。[25]戦後は1945年12月に労働組合が結成され、1949年3月には5日間に及ぶ最大の争議が起きた。[26]1946年11月に資本金を1億2,000万円へ増やし、1947年6月に東武自動車と日光電気軌道を合併して体制を立て直し[27]、1949年5月に東京証券取引所へ上場した。[28]
1955年3月期の全収入は31億4,000万円で、うち鉄道軌道が22億円、自動車が8億4,000万円だった。[29]翌1956年には鉄軌道550.4キロメートル、バス路線約2,931キロメートル、1日平均輸送人員70万人に達している。[30]浅草から日光までの135.5キロメートルを特急ロマンスカー華厳号が1時間59分で結び、外国人観光団の利用もあった。[31]葛生の石灰石、荒針の大谷石、野田の醤油といった沿線の産物を運ぶ貨物の比重が高かったことも、この時期の東武を特徴づけている。[32]
観光地への投資も戦前から続いていた。赤城山の開発は初代根津氏以来の念願とされ、1956年にケーブルカーを第一着手として総予算4億5,000万円で本格化した。[33]鬼怒川や川治は、初代が鉄道を敷いたうえで旅館に資金を貸して育てた温泉地である。[34]1959年には電車の新造を年12両から40両へ一気に増やしたが、増える乗客の大半は割引率が最大9割2分に達する定期客で、通勤輸送そのものは採算に合わなかった。[35]観光と通勤という性格の異なる二つの需要が、この時期の設備投資を規定していた。
1962年5月、東武伊勢崎線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の相互乗入れが始まった。[36]地下を掘るのは営団で、東武は北千住から自社の車両を乗り入れるという分担である。[37]2代目根津嘉一郎氏は開始前から、沿線が都心と直結すれば非常に開発が進み、水田を埋めて住宅になっていくと述べていた。[38]私鉄各社が山手線で止まっていては沿線開発で国電中央線に遅れるという危機感が、都心直通を最優先の課題へ押し上げていた。[39]前年の1961年10月には東証第一部に指定されている。[40]
乗入れに伴う設備投資は約40億円に及び、2代目はこれを戦前に父が築いた発展とは別の、戦後の新しい出発だと位置づけている。[41]1958年から1962年までの4年間で東武の設備投資は3部門合計144億円と、東急の64億円の倍以上に達した。[42]同じ4年間で旅客人員は49%、定期客は54%増え、定期客比率は67%から69%へ上がっている。[43]地下鉄との相互乗入れは国鉄環状線という枠を取り払うものであり、関東の私鉄経営はこれを境に新しい段階へ入った。[44]線路を延ばすかわりに他社の網へつなぐという選択が、投資額の面でも旅客の面でも実を結び始めていた。北千住以遠と都心の所要時間は20分以上縮まり、1968年時点の東武は近畿日本鉄道の573キロメートルに次ぐ私鉄第2位の路線規模を保っていた。[45]
1987年8月には東上線と有楽町線の相互乗入れが和光市経由で始まり[46]、東上線沿線から有楽町・新富町方面への直通が開いた。1962年の日比谷線直通から1987年の有楽町線直通までの約25年で、自社路線を延ばすのではなく他社路線との結節点を作って沿線価値を高める方針が固まった。鉄道インフラへの追加投資を抑えつつ、相互乗入れで路線価値を引き上げ、沿線の宅地化で不動産・流通の需要を取り込む手法が東武鉄道の事業モデルの根幹となる。この方針はのちの半蔵門線・副都心線・東急線との直通運転へ続いた。
1958年に東武宇都宮百貨店、1960年に東武百貨店と東武会館(現・東武ストア)を設立し[47]、1962年5月29日、創立60周年記念事業として池袋西口に東武百貨店が開店した。約3年半の工期と30数億円を投じた建物である。[48]延床は約1万2,000坪に達したが、百貨店法の制約で売場面積は3,600坪に抑えられ、開業の時点から増床の申請が前提になっていた。[49]当時の東武は鉄軌道約515キロメートル・自動車3,700キロメートルを擁する一方、副業は全収入の5%程度にすぎない鉄道会社だった。[50]
百貨店の建設と都心乗入れにはそれぞれ30億円以上が投じられ、当面は資金が出ていく一方だった。[51]沿線では住宅公団と組んだ団地開発が進み、東上線沿線の福岡町では3年間で人口が169%、朝霞町で43%増え、東上線の乗降客は年10〜12%の割合で伸びている。[52]鉄道で運んだ乗客を沿線の住宅と都心の売場の双方で収益に変える構図が、この時期に形になった。日比谷線直通と池袋店開業が同じ1962年5月に重なったのは偶然ではなく、路線と売場を一体で設計した結果である。副業が全収入の5%にすぎなかった鉄道会社は、ここから複合事業の会社へ変わっていく。
1941年に社長へ就いた2代目根津嘉一郎氏は、1994年1月に退任するまで約53年間その職にあった。1989年時点の東武グループは交通・流通・住宅不動産・観光レジャーという生活産業に88社を数えたが、基本はあくまで鉄道と自動車の交通事業にあるとされた。[53]関東の私鉄で最長の464キロメートルという路線は人口密度の高い地域ばかりを走るわけではなく、堅実経営にならざるを得なかったという。[54]一歩ずつ安定成長を図るという方針のもとで、相互乗入れと流通併設という二つの筋は半世紀にわたって揺らがなかった。[55]
1967年度を初年度として、大手民鉄14社は総工事費4,465億円の輸送力増強五カ年計画に着手した。[56]自己資金でまかなえるのは39%にとどまり、残る61%は社債と金融機関からの借入に頼らざるを得なかった。[57]輸送量の約7割を占める定期客が運賃収入の4割しか生まないという構造がその背景にあり[58]、1936年を基準にすると消費者物価が464倍になる間、民鉄の基本賃率は174倍、定期運賃は124倍にしか上がっていなかった。[59]運びたい客ほど採算が悪く、それでも設備を増やさねばならないという矛盾が、この時期の私鉄経営を締めつけていた。
日本民営鉄道協会の会長も務めた2代目根津嘉一郎氏は、兼業を鉄道赤字の穴埋めではなく設備効率の問題として説明した。定期外の旅客を増やしてラッシュ時以外に遊んでいる車両を動かせば全体の設備投資効率が上がり、運賃のコストを低く抑えられるという理屈である。[60]1969年時点で東武の鉄道とバスをあわせた1日の利用者は200万人に達しており、ターミナル駅の百貨店はその流動を収益へ変える装置と位置づけられていた。[61]通勤地獄だけは解消して次の世代へ引き渡すというのが、当時の言い分だった。[62]
レジャー事業が本格化したのは1981年で、創立80周年記念事業として埼玉県宮代町に東武動物公園を設立した。[63]動物園と遊園地を併設したこの施設は1993年時点で年間約160万人を集めている。1991年に東武博物館、1992年に東武美術館が続き、1993年4月には日光・鬼怒川へ東武ワールドスクウェアが開業した。当初40億円だった予算は最終的に110億円へ膨らんだが[64]、初年度目標の150万人を約4カ月で達成する。[65]1993年の売上構成は鉄道61.5%・バス16.1%・開発22.4%で、運賃改定に頼らない収益源として開発事業が育っていた。[66]
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|---|---|---|---|---|
| 1897〜1960年根津家と路線網の拡大 ── 明治末から戦後初期にかけての基盤形成 | 東武鉄道を設立 | ★ | ||
| 伊勢崎線北千住〜久喜間開通、営業開始 | ★ | |||
| 根津嘉一郎が経営に参画 | ★★ | |||
| 東上鉄道を合併 | ★★ | |||
| 不動産事業に参入 | ★★ | |||
| 日光線開通 | ★ | |||
| 浅草〜業平橋間開通 | ★ | |||
| 2代目根津嘉一郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 根津嘉一郎 | 総武鉄道を合併 | ★★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武宇都宮百貨店を設立 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武百貨店を設立 | ★★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武会館を設立 | ★ | ||
| 1961〜1994年都心直通と沿線開発 ── 相互乗入れ時代と複合事業化の進展 | 根津嘉一郎 | 東京証券取引所第一部に指定 | ★ | |
| 根津嘉一郎 | 日比谷線との相互乗入れ運転を開始 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武百貨店池袋店を開店 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 熊谷線廃線 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 有楽町線との相互乗入れ運転を開始 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武百貨店によるサックス買収計画の頓挫と池袋店増床900億円投資 1990年、東武百貨店は米国の高級百貨店サックス・フィフス・アベニューの買収に名乗りを上げたが、アラブ系投資会社インベストコープが15億ドルで落札し、撤退に追い込まれた。国内では池袋駅東口の西武百貨店に対抗するため池袋店の増床を進め、1992年6月に売場面積82,963平方メートルの増改築を完成させた。百貨店増床と池袋西口再開発への投資額は合計約900億円にのぼった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 根津嘉一郎 | 東武百貨店池袋店の増改築完成 | ★ | ||
| 根津嘉一郎 | 2代目根津嘉一郎氏が社長を退任 | ★ | ||
| 1995〜2019年スカイツリーと百貨店 ── 投資の明暗 | 根津嘉澄 | 根津嘉澄氏が社長に就任 | ★ | |
| 根津嘉澄 | 経営合理化を実施 | ★★ | ||
| 根津嘉澄 | 東武バス設立 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | 半蔵門線・東急田園都市線と相互乗入れ開始 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | JR山手線・宇都宮線と相互乗入れ開始 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | 副都心線との相互乗入れ開始 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | 東京スカイツリー建設への1,430億円投資 地上デジタル放送用の新しい電波塔の建設地探しの中で、東武鉄道が保有する押上の貨物駅跡地が候補に浮上し、2006年3月に建設地として決定された。東武鉄道は自社保有地にタワーと複合商業施設を建設する事業主体となり、2012年5月に東京スカイツリータウンを開業させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 根津嘉澄 | 東急東横線・みなとみらい線と相互乗入れ開始 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | 東武ストアを完全子会社化 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | コロナ禍で最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 根津嘉澄 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 根津嘉澄 | 東上線から相鉄線への直通運転を開始 | ★ | ||
| 都筑豊 | 都筑豊氏が社長に就任(創業家以外から初) | ★★ | ||
| 都筑豊 | 日光線新鹿沼駅構内で除草作業中の作業員が特急スペーシアXに接触する死亡事故が発生 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東武鉄道)