東京地下鉄 の歴史

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創業 2004年
母体 帝都高速度交通営団
創業地 東京都台東区
創業
1920年8月に東京地下鉄道が設立され、1927年12月に浅草〜上野間で日本初の地下鉄営業が始まった。渋谷側からは東京高速鉄道が延び、1939年9月に両社は浅草〜渋谷間の直通運転を始める。1941年3月に帝都高速度交通営団法が公布され、政府は同年7月15日、両社と京浜地下鉄道および東京市が持つ地下鉄道の既成線・未成線の全部を営団へ譲り渡すよう命じた。譲渡価格は総額1億232万2000円である。同年7月に特殊法人の帝都高速度交通営団が営業キロ14.3キロで設立され、9月に営業を始めた。2004年4月、営団を承継して東京地下鉄株式会社が発足し、2024年10月に東京証券取引所プライム市場へ上場した。
決断
他社の電車をそのまま通す前提で掘り、建設費を自ら押し上げた。1956年8月の都市交通審議会第1号答申は、今後建設する地下鉄を郊外鉄道と相互直通運転する路線とする方針を示した。事業体の異なる鉄道どうしの相互直通は日本が世界で最初に実現したが、集電方式がパンタグラフへ変わってトンネルの断面は高くなり、既存の地下鉄との交差で駅は地下3層まで下がり、編成長を延ばして駅の規模も膨らんだ。1959年まで年2キロ程度だった建設速度は1960年代に年6キロ程度へ上がり、キロ当たり建設費も上昇して、累積赤字は1976年度に252億円へ達する。営団は1977年から運賃改定を重ね、1980年度末に累積赤字を149億円まで縮めた。直通を選んだことが、掘る費用を運賃で回収する会社の性格を決めた。
現況
上場して2年たっても、株式の半分は国と東京都が持っている。2026年3月末時点の大株主は財務大臣が26.73%、東京都が23.31%で、二者で50.04%を占める。1986年の行革審報告書は、地下鉄網が概成した時点で公的資本を含まない完全民営企業とするよう定めていたが、その状態には至っていない。2026年3月期の連結営業収益は4,224億円、営業利益896億円、純利益590億円で、いずれもコロナ禍前の2020年3月期を上回った。運輸が営業収益3,841億円・利益762億円、ライフ・ビジネスサービスが236億円・85億円、不動産が145億円・44億円である。掘るために積んだ有利子負債2,823億円の利息が、営業利益896億円を経常利益792億円へ目減りさせている。
競合
東京の地下鉄は、同じ都心を走りながら現在も2社に分かれている。都営との一元化は1946年9月に東京都が意見書を決議して以来くり返し議論されたが、運輸省が同年10月の地下鉄問題協議会で都営案に反対し、営団廃止法案は国会へ上程されないまま廃案となった。国鉄民営化の際に東京都が国鉄出資分の肩代わりを申し出たときも、運輸省と国鉄は新会社への引継ぎを求めた。会社は分かれたまま接続だけが進み、1996年3月に都営と共通のSFメトロカードを発売し、現在は乗換専用改札口を置く改札通過サービスを設けている。一元化されないまま、東京メトロは2022年3月に有楽町線と南北線の延伸で第一種鉄道事業の許可を受け、都営と重ならない区間へ自ら線路を伸ばす側に回った。
長期業績の推移 2005〜2026年
東京地下鉄:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2015年3月期2026年3月期

設立ストーリー 東洋初の地下鉄を掘った早川徳次と、統合を命じた営団法 (1920年〜)

設立ストーリー(1)

浅草〜上野間で開業した東洋初の地下鉄

地下高速鉄道が路面電車と分かれるのは、速度そのものではない。他の交通と競合せず専用の線路を走行することで所定の速度を出せる点にあり、高速度という呼称もそこから来ている[1]。鉄道のほかにストアや食堂も営み、その大半は駅構内や駅出入口の用地という鉄道業の資産の上に載っていた[2]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [1]高速度とは、路面電車と比較して他の交通と競合せず専用の線路を走行することで所定の速度を出せることに由来する呼称
    • [2]東京地下鉄道はストア・食堂などを兼業し、大半は駅構内あるいは駅出入口用地など鉄道業の資産を使用していた

政府が承認していた東京の地下鉄道の計画路線網は、1925年3月に内務省告示第56号として決まった5路線82.4キロであり、営団が創立する1941年の時点でもそのまま生きていた[3]。決定のあとも各方面の学者や専門家がこの路線網に関心を寄せ、太田圓三氏の第1案と第2案、ブリスケ案、安倍邦衛氏の案、山本新次郎氏の案、小野諒兄氏の案などが発表された[4]。内務省案が東京の都市形態の変化に対応していないという指摘や、先進諸国の大都市で自動車交通の発達がすでにみられるという指摘は傾聴に値したものの、いずれの案も私案の域を出ず、一般世論を動かすには至らなかった[5]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [3]営団創立時点で、1925年3月に内務省告示第56号として決定された計画路線網5路線82.4キロがそのまま生きていた
    • [4]決定後も研究・検討が重ねられ、太田圓三の第1案・第2案、ブリスケ案、安倍邦衛案、山本新次郎案、小野諒兄案などが発表された
    • [5]内務省案が都市形態の変化に対応していないこと、先進諸国の大都市で自動車交通の発達がみられることなど傾聴に値する指摘があったが、いずれも私案の域を出ず一般世論を動かすには至らなかった

新規の路線延伸は1939年以降行われず、営団が引き継いだ実際の工事は、虎ノ門〜新橋間に残されたくいの引抜作業だけだった[6]。東京地下鉄道は、新橋から札の辻を経て品川に至る路線を京浜地下鉄道へ免許譲渡したうえで建設を進める方針を持っていた[7]。自力で掘り切る計画ではない。営団設立時の営業キロは14.3キロにとどまり、内務省告示が掲げた82.4キロの2割にも届いていない[8]。民間の会社が巨額の資金を必要とする新線建設を進めることは難しく、政府が出資する営団の設立へつながった[9]。東京地下鉄道と東京高速鉄道は、東京の地下鉄道に関する一切の免許と営業路線、車両その他の設備を1941年に営団へ引き渡した[10]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [6]昭和14年(1939年)以降新規の路線延伸は行われず、実際の工事で営団に引き継がれたのは虎ノ門・新橋間の残置くいの引抜作業だけだった
    • [7]東京地下鉄道は、新橋から札の辻を経て品川に至る路線を京浜地下鉄道へ免許譲渡して建設を進めたいという方針を持っていた
    • [10]営団は設立にあたり東京市および関係各社から東京の地下鉄道に関する一切の免許、営業路線、車両その他の設備を引き継いだ
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [8]営団設立時の営業キロは14.3キロ
    • [9]巨額の資金を必要とする新線建設を進めることは困難という理由から、政府が出資する営団となった
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [1]高速度とは、路面電車と比較して他の交通と競合せず専用の線路を走行することで所定の速度を出せることに由来する呼称
    • [2]東京地下鉄道はストア・食堂などを兼業し、大半は駅構内あるいは駅出入口用地など鉄道業の資産を使用していた
    • [3]営団創立時点で、1925年3月に内務省告示第56号として決定された計画路線網5路線82.4キロがそのまま生きていた
    • [4]決定後も研究・検討が重ねられ、太田圓三の第1案・第2案、ブリスケ案、安倍邦衛案、山本新次郎案、小野諒兄案などが発表された
    • [5]内務省案が都市形態の変化に対応していないこと、先進諸国の大都市で自動車交通の発達がみられることなど傾聴に値する指摘があったが、いずれも私案の域を出ず一般世論を動かすには至らなかった
    • [6]昭和14年(1939年)以降新規の路線延伸は行われず、実際の工事で営団に引き継がれたのは虎ノ門・新橋間の残置くいの引抜作業だけだった
    • [7]東京地下鉄道は、新橋から札の辻を経て品川に至る路線を京浜地下鉄道へ免許譲渡して建設を進めたいという方針を持っていた
    • [10]営団は設立にあたり東京市および関係各社から東京の地下鉄道に関する一切の免許、営業路線、車両その他の設備を引き継いだ
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [8]営団設立時の営業キロは14.3キロ
    • [9]巨額の資金を必要とする新線建設を進めることは困難という理由から、政府が出資する営団となった
設立ストーリー(2)

五島慶太の東京高速鉄道との統合と、交通調整の帰結

争いの決着より先に列車がつながり、1939年には渋谷〜浅草間で直通運転が始まっている[11]。1つの路線を2つの会社が共同で運営する形態がここで生まれ、現業の組織は2年後の統合でも改正の必要がほとんどなかった[12]。東京高速鉄道は東京市から譲り受けた新橋〜東京間の免許に加えて四谷見附〜赤坂見附間の免許を取り、第1期工事として新宿〜赤坂見附間を建設する予定を立てていた[13]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [11]1939年から渋谷・浅草間の直通運転が行われ、運賃の調整も行われていた
    • [12]昭和14年から渋谷・浅草間で相互直通を行ない、1つの路線を2つの会社が共同で運営する形態となっていたため、現業関係では組織を大幅に改正する必要がなかった
    • [13]東京高速鉄道は東京市から免許を譲渡された新橋・東京間のほか四谷見附・赤坂見附間の免許を獲得し、第1期工事として新宿・赤坂見附間を建設する予定だった

帝都高速度交通営団法が公布されたのは1941年3月である[14]。5月には主務大臣が47名の設立委員を任命し、設立委員会が発足[15]。7月3日に原邦造総裁と喜安健次郎副総裁が発令され、翌7月4日に設立の登記が行われた[16]。資本金6000万円の出資割当は、政府4000万円、東京市1000万円、東京横浜電鉄・東武鉄道京成電気軌道が各200万円、京浜電気鉄道と小田原急行鉄道が各100万円、京王電気軌道・西武鉄道武蔵野鉄道・国鉄共済組合が各50万円で、当初はその4分の1にあたる1500万円が払い込まれた[17]。政府の出資が3分の2を占め、私鉄8社の出資は合わせて950万円にとどまる[18]

  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1941年3月、帝都高速度交通営団法公布
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [15]昭和16年5月、主務大臣から47名の設立委員が任命されて設立委員会が発足
    • [16]7月3日に総裁に原邦造、副総裁に喜安健次郎が発令され、翌7月4日に設立の登記が行なわれた
    • [17]資本金6000万円の出資割当は政府4000万円・東京市1000万円・東京横浜電鉄200万円・東武鉄道200万円・京成電気軌道200万円・京浜電気鉄道100万円・小田原急行鉄道100万円・京王電気軌道50万円・西武鉄道50万円・武蔵野鉄道50万円・国鉄共済組合50万円で、当初はうち4分の1、総額1500万円が払い込まれた
    • [18]資本金6000万円の出資割当は政府4000万円・東京市1000万円・東京横浜電鉄200万円・東武鉄道200万円・京成電気軌道200万円・京浜電気鉄道100万円・小田原急行鉄道100万円・京王電気軌道50万円・西武鉄道50万円・武蔵野鉄道50万円・国鉄共済組合50万円で、当初はうち4分の1、総額1500万円が払い込まれた

政府は7月15日、交通事業調整委員会の答申に基づき、東京地下鉄道・東京高速鉄道・京浜地下鉄道の3社と東京市が持つ地下鉄道の既成線と未成線の全部、および東京地下鉄道のストア等の兼業部門を営団へ譲り渡すよう命じた[19]。譲渡価格の総額は1億232万2000円で、うち東京地下鉄道が6955万4000円、東京高速鉄道が3097万4000円を占める[20]。算定には国が地方鉄道を強制買収する場合の方法が準用されたが、東京地下鉄道と東京高速鉄道の2社は最後まで粘り、最終的な価格に若干の調整分が上乗せされた[21]。代価は政府保証のある交通債券で交付され、年利4分2厘、償還期限15年、交付価格は額面100円につき99円50銭[22]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [19]1941年7月15日、政府は交通事業調整委員会の答申に基づき、東京地下鉄道・東京高速鉄道・京浜地下鉄道の3会社および東京市が有する地下鉄道の既成線・未成線の全部と東京地下鉄道のストア等の兼業部門を営団へ譲り渡すよう命令した
    • [20]譲渡価格の総額は1億232万2000円(東京地下鉄道6955万4000円、東京高速鉄道3097万4000円、京浜地下鉄道149万4000円、東京市30万円)
    • [21]国が地方鉄道を強制買収する場合の買収価額算定方法を準用したが、東京地下鉄道および東京高速鉄道の両社は最後まで粘り、最終的な価格は若干調整分が上乗せされた
    • [22]譲受けの代価は政府保証のある交通債券を時価により換算して交付し、年利4分2厘、償還期限15年、交付価格は額面100円につき99円50銭
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [11]1939年から渋谷・浅草間の直通運転が行われ、運賃の調整も行われていた
    • [12]昭和14年から渋谷・浅草間で相互直通を行ない、1つの路線を2つの会社が共同で運営する形態となっていたため、現業関係では組織を大幅に改正する必要がなかった
    • [13]東京高速鉄道は東京市から免許を譲渡された新橋・東京間のほか四谷見附・赤坂見附間の免許を獲得し、第1期工事として新宿・赤坂見附間を建設する予定だった
    • [15]昭和16年5月、主務大臣から47名の設立委員が任命されて設立委員会が発足
    • [16]7月3日に総裁に原邦造、副総裁に喜安健次郎が発令され、翌7月4日に設立の登記が行なわれた
    • [17]資本金6000万円の出資割当は政府4000万円・東京市1000万円・東京横浜電鉄200万円・東武鉄道200万円・京成電気軌道200万円・京浜電気鉄道100万円・小田原急行鉄道100万円・京王電気軌道50万円・西武鉄道50万円・武蔵野鉄道50万円・国鉄共済組合50万円で、当初はうち4分の1、総額1500万円が払い込まれた
    • [18]資本金6000万円の出資割当は政府4000万円・東京市1000万円・東京横浜電鉄200万円・東武鉄道200万円・京成電気軌道200万円・京浜電気鉄道100万円・小田原急行鉄道100万円・京王電気軌道50万円・西武鉄道50万円・武蔵野鉄道50万円・国鉄共済組合50万円で、当初はうち4分の1、総額1500万円が払い込まれた
    • [19]1941年7月15日、政府は交通事業調整委員会の答申に基づき、東京地下鉄道・東京高速鉄道・京浜地下鉄道の3会社および東京市が有する地下鉄道の既成線・未成線の全部と東京地下鉄道のストア等の兼業部門を営団へ譲り渡すよう命令した
    • [20]譲渡価格の総額は1億232万2000円(東京地下鉄道6955万4000円、東京高速鉄道3097万4000円、京浜地下鉄道149万4000円、東京市30万円)
    • [21]国が地方鉄道を強制買収する場合の買収価額算定方法を準用したが、東京地下鉄道および東京高速鉄道の両社は最後まで粘り、最終的な価格は若干調整分が上乗せされた
    • [22]譲受けの代価は政府保証のある交通債券を時価により換算して交付し、年利4分2厘、償還期限15年、交付価格は額面100円につき99円50銭
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1941年3月、帝都高速度交通営団法公布
設立ストーリー(3)

戦災を免れた銀座線と、殺人的混雑の戦後復興

帝都高速度交通営団は1941年7月に特殊法人として設立され、翌8月に東京地下鉄道と東京高速鉄道から渋谷〜浅草間14.3キロの営業線を譲り受けた[23]。その4年後、1945年3月10日以降の空襲が東京の地上交通を壊滅させた[24]。都電は終戦までに営業所12か所を焼失し、車両602両を失い、線路の被害は149キロを数えた[25]。省線電車も私鉄各線も駅・車両・線路に大きな被害を受け、燃料不足も重なってバスは戦後しばらく運転できない状態が続いた[26]。地上の交通機関と比べたとき、地下鉄の被害は銀座駅の一部損壊と渋谷車庫の車両被害で済み、軽微にとどまった[27]

  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1941年7月に特殊法人として帝都高速度交通営団を設立し、同年8月に東京地下鉄道と東京高速鉄道から営業線(設立時の営業キロ14.3キロ)を譲受した
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [24]1945年3月10日以降の空襲で省線電車・都電・私鉄各線が甚大な被害を受け、都電は営業所12か所・車両602両を焼失、線路被害は149キロに及んだ
    • [25]都電は1945年3月10日以降の空襲により終戦までに営業所の焼失12か所、車両焼失602両、線路の被害149キロを数えた
    • [26]省線電車や私鉄各線も駅・車両・線路・車両基地に大きな被害を受け、道路の損壊やバスの被害も大きく、燃料不足もあって戦後しばらくバスは運転不能の状態が続いた
    • [27]地上の交通機関と比較すると、銀座駅の一部損壊と渋谷車庫における車両その他の被害で済んだ地下鉄の被害は軽微だった

戦災を免れた設備であっても、輸送力の低下は避けられなかった。稼働車両が減り、1日平均の車両走行キロは営団創立時の2万キロ余りから1945年には9200キロ余りへ落ち込み、1946年にようやく1万2000キロ余りまで戻った[28]。一方で需要は膨らみ、年間輸送人員は1946年に1億2000万人余に達し、それまでのピークだった1943年の約1億1000万人を1割近く上回った[29]。輸送力が60%までしか回復しないまま需要だけが増えたため、混雑は殺人的となり、営団は撤去可能な約半分の座席を外して車両の収容力を広げた[30]。焼野原となった下町では逆に利用客が絶え、1946年10月半ばまで田原町・末広町の両駅を時間を限って閉鎖した[31]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [28]稼働車両の減少により1日平均の車両走行キロは営団創立時の2万キロ余りが1945年には9200キロ余りまで落ち込み、1946年に1万2000キロ余りへ回復した
    • [29]年間輸送人員は1946年に1億2000万人余に達し、それまでのピークであった1943年の約1億1000万人を1割近く上回った
    • [30]輸送需要が増大したのに対して輸送力が60%までしか回復せず混雑は殺人的となり、営団は撤去可能な約半分の座席を撤去して車両の収容力を広げた
    • [31]終戦直後は焼野原となった下町で利用客がなく、1946年10月半ばまで田原町と末広町の両駅を時間を限って閉鎖した

輸送の混乱と並行して、営団の存廃そのものが問われた。連合国軍総司令部は日本の民主化の一環として戦時統制機関の解散を指示し、住宅営団や食糧営団と同類とみなされた交通営団も調査の対象となった[32]。営団は東京都区部と周辺の交通調整を目的に発足した法人であることを政府を通じて説明し、存続を認められた[33]。東京都は地下鉄の都営化を主張して1946年9月の都議会で意見書を決議し、営団地下鉄の買収を前提とする建設計画をまとめた[34]。しかし運輸省が同年10月に設けた地下鉄問題協議会では運輸大臣が都営案に反対し、都選出議員による営団廃止法案も国会へ上程されないまま廃案となった[35]。1949年5月の営団法改正では、政府の出資が日本国有鉄道の出資に改められ、交通債券の元利支払保証など政府の財政援助は廃止された[36]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [32]連合国軍総司令部が戦時統制機関の解散を指示し、住宅営団・食糧営団と同類とみなされた交通営団も調査の対象となった
    • [33]GHQによる戦時統制機関の解散指示で帝都高速度交通営団も調査の対象となったが、東京都区部および周辺の交通調整を目的として発足した法人である旨を政府を通じてGHQに説明し、存続を認められた
    • [34]東京都は1946年9月の都議会で「地下鉄の都営実現に関する意見書」を決議し、東京都交通局は1946年10月に営団地下鉄の買収を前提とする「都営高速度鉄道建設計画」をまとめた
    • [35]1946年10月に運輸省が設置した地下鉄問題協議会で運輸大臣が都営案に強く反対し都営化決定に至らず、都選出議員による営団廃止法案も国会に上程されることなく廃案になった
    • [36]1949年5月の営団法改正により、日本国有鉄道発足に伴って営団に対する政府の出資が日本国有鉄道の出資に改められ、政府の交通債券の元利支払保証などの財政援助が廃止された
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1941年7月に特殊法人として帝都高速度交通営団を設立し、同年8月に東京地下鉄道と東京高速鉄道から営業線(設立時の営業キロ14.3キロ)を譲受した
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
    • [24]1945年3月10日以降の空襲で省線電車・都電・私鉄各線が甚大な被害を受け、都電は営業所12か所・車両602両を焼失、線路被害は149キロに及んだ
    • [25]都電は1945年3月10日以降の空襲により終戦までに営業所の焼失12か所、車両焼失602両、線路の被害149キロを数えた
    • [26]省線電車や私鉄各線も駅・車両・線路・車両基地に大きな被害を受け、道路の損壊やバスの被害も大きく、燃料不足もあって戦後しばらくバスは運転不能の状態が続いた
    • [27]地上の交通機関と比較すると、銀座駅の一部損壊と渋谷車庫における車両その他の被害で済んだ地下鉄の被害は軽微だった
    • [28]稼働車両の減少により1日平均の車両走行キロは営団創立時の2万キロ余りが1945年には9200キロ余りまで落ち込み、1946年に1万2000キロ余りへ回復した
    • [29]年間輸送人員は1946年に1億2000万人余に達し、それまでのピークであった1943年の約1億1000万人を1割近く上回った
    • [30]輸送需要が増大したのに対して輸送力が60%までしか回復せず混雑は殺人的となり、営団は撤去可能な約半分の座席を撤去して車両の収容力を広げた
    • [31]終戦直後は焼野原となった下町で利用客がなく、1946年10月半ばまで田原町と末広町の両駅を時間を限って閉鎖した
    • [32]連合国軍総司令部が戦時統制機関の解散を指示し、住宅営団・食糧営団と同類とみなされた交通営団も調査の対象となった
    • [33]GHQによる戦時統制機関の解散指示で帝都高速度交通営団も調査の対象となったが、東京都区部および周辺の交通調整を目的として発足した法人である旨を政府を通じてGHQに説明し、存続を認められた
    • [34]東京都は1946年9月の都議会で「地下鉄の都営実現に関する意見書」を決議し、東京都交通局は1946年10月に営団地下鉄の買収を前提とする「都営高速度鉄道建設計画」をまとめた
    • [35]1946年10月に運輸省が設置した地下鉄問題協議会で運輸大臣が都営案に強く反対し都営化決定に至らず、都選出議員による営団廃止法案も国会に上程されることなく廃案になった
    • [36]1949年5月の営団法改正により、日本国有鉄道発足に伴って営団に対する政府の出資が日本国有鉄道の出資に改められ、政府の交通債券の元利支払保証などの財政援助が廃止された
設立ストーリー(4)

見返資金と交通債券で掘った丸ノ内線16.9キロ

営団は1949年に丸ノ内線の建設を決定したが、当時の経済情勢では巨額の建設資金の調達は難しかった[37]。各方面の理解を得て見返資金に続いて資金運用部資金の融資を取り付け、1951年3月に池袋で丸ノ内線建設の杭を打ち込んだ[38]。朝鮮戦争の影響で建設費が膨らんだため、設計と施行法を合理化して工費を切り詰め、1954年1月に池袋〜御茶ノ水間の第一期工事を完工した[39]。建設6.6キロ、期間2年10か月、工費51億7500万円[40]。工事はそのまま都心へ伸び、1956年7月に東京、1957年12月15日に西銀座の各駅が開業するまで、池袋〜西銀座間には6年8か月と123億円を要した[41]

  • 運輸 1958年「都内の地下鉄道と今後の建設」(帝都高速度交通営団)
    • [37]交通営団は1949年に丸ノ内線の建設を決定したが、当時の経済情勢では巨額の建設資金調達は非常に困難だった
    • [38]見返資金に引き続いて資金運用部資金の融資を得て、1951年3月に池袋で丸ノ内線建設の杭を打ち込んだ
    • [39]朝鮮動乱の影響で建設費が増えたため設計や施行法の合理化で工費を節約し、1954年1月に池袋〜御茶ノ水間の第一期工事を完工(建設6.6キロ、期間2年10か月、工費51億7500万円)
    • [40]朝鮮動乱の影響で建設費が著しく増えたため設計や施行法の合理化をはかって工費を節約し、1954年1月に池袋〜御茶ノ水間の第一期工事を完工した(建設6.6キロ、期間2年10か月、工費51億7500万円)
    • [41]1956年7月に東京、1957年12月15日に西銀座駅が開業し、池袋〜西銀座間は6年8か月と123億円を要した

16.9キロを掘る費用は、営団の企業規模をはるかに超えていた。丸ノ内線池袋〜新宿間の建設費は1959年3月時点で240億5000万円、キロ当たり約15億円に達し、年平均で約30億円を要した[42]。これに対して1957年度末の営団の資本金は82億円強、営団全体の収益は同じ時期に年間30億円弱にとどまる[43]。手当ての一つに資産の評価替えを選んだ。1950年4月に資産再評価法が公布されると、営団は同月1日付けで16.1倍の資産再評価を実施して26億8881万2000円の評価益を計上し、再評価益積立金を資本金へ繰り入れて交通債券の発行枠を広げた[44]。1951年3月の営団法改正により、出資者は日本国有鉄道と東京都の二者となった[45]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)2章「待望の新線建設再開へ」
    • [42]1959年3月現在の実績で丸ノ内線池袋〜新宿間16.9キロの建設費は240億5000万円(キロ当たり約15億円)に達し、年間平均で約30億円を要した
    • [43]1957年度末で営団の資本金は82億円強であり、営団全体の収益も同じ時期に年間で30億円弱にすぎなかった
    • [44]1950年4月に資産再評価法が公布され、営団は1950年4月1日付けで16.1倍の資産再評価を実施して26億8881万2000円の評価益を計上し、再評価益積立金を資本金に繰り入れて交通債券発行枠を拡大した
    • [45]1951年3月の営団法改正により、営団の出資者は日本国有鉄道と東京都の二者となった

それでも自前の資本で賄えた分はわずかだった。1958年度末までに丸ノ内線池袋〜新宿間で調達した資金は約250億円にのぼり、そのうち増資は約23億円だけで、残りはすべて外部資金が占めた[46]。最大は資金運用部資金と、日本開発銀行融資に肩代わりした見返資金との政府資金合計130億5000万円で、公募交通債券の約77億円がこれに次いだ[47]。工事の側でも制約は厳しく、地質が悪く湧水の多い国会議事堂付近231メートルの区間ではルーフ・シールド工法を採用した[48]。都市内での施行は日本で最初である[49]。1958年時点で銀座線と丸ノ内線の1日平均輸送人員は約55万人、うち銀座線が約37万人、丸ノ内線が約18万人を占め、年間輸送人員は戦前の1億人から2億人へ倍増した[50]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)2章「待望の新線建設再開へ」
    • [46]丸ノ内線池袋〜新宿間で1958年度末までに調達した資金は約250億円にのぼり、そのうち約23億円の増資のほかはすべて外部資金だった
    • [47]最大のものは資金運用部資金と日本開発銀行融資に肩代わりした見返資金との政府資金合計130億5000万円であり、公募交通債券の約77億円がこれに次いだ
  • 運輸 1958年「都内の地下鉄道と今後の建設」(帝都高速度交通営団)
    • [48]国会議事堂付近231メートルの区間でルーフ・シールド工法を採用。地質が悪いうえ湧水が多く、都市内での施行は日本で最初
    • [49]国会議事堂付近231メートルの区間は地質が悪いうえ湧水が多くルーフ・シールド工法を採用しており、都市内での施行は日本で最初だった
    • [50]銀座線・丸ノ内線の1日平均輸送人員は約55万人(銀座線約37万人、丸ノ内線約18万人)で、年間の輸送人員も戦前の1億人が2億人と倍増している
  • 運輸 1958年「都内の地下鉄道と今後の建設」(帝都高速度交通営団)
    • [37]交通営団は1949年に丸ノ内線の建設を決定したが、当時の経済情勢では巨額の建設資金調達は非常に困難だった
    • [38]見返資金に引き続いて資金運用部資金の融資を得て、1951年3月に池袋で丸ノ内線建設の杭を打ち込んだ
    • [39]朝鮮動乱の影響で建設費が増えたため設計や施行法の合理化で工費を節約し、1954年1月に池袋〜御茶ノ水間の第一期工事を完工(建設6.6キロ、期間2年10か月、工費51億7500万円)
    • [40]朝鮮動乱の影響で建設費が著しく増えたため設計や施行法の合理化をはかって工費を節約し、1954年1月に池袋〜御茶ノ水間の第一期工事を完工した(建設6.6キロ、期間2年10か月、工費51億7500万円)
    • [41]1956年7月に東京、1957年12月15日に西銀座駅が開業し、池袋〜西銀座間は6年8か月と123億円を要した
    • [48]国会議事堂付近231メートルの区間でルーフ・シールド工法を採用。地質が悪いうえ湧水が多く、都市内での施行は日本で最初
    • [49]国会議事堂付近231メートルの区間は地質が悪いうえ湧水が多くルーフ・シールド工法を採用しており、都市内での施行は日本で最初だった
    • [50]銀座線・丸ノ内線の1日平均輸送人員は約55万人(銀座線約37万人、丸ノ内線約18万人)で、年間の輸送人員も戦前の1億人が2億人と倍増している
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)2章「待望の新線建設再開へ」
    • [42]1959年3月現在の実績で丸ノ内線池袋〜新宿間16.9キロの建設費は240億5000万円(キロ当たり約15億円)に達し、年間平均で約30億円を要した
    • [43]1957年度末で営団の資本金は82億円強であり、営団全体の収益も同じ時期に年間で30億円弱にすぎなかった
    • [44]1950年4月に資産再評価法が公布され、営団は1950年4月1日付けで16.1倍の資産再評価を実施して26億8881万2000円の評価益を計上し、再評価益積立金を資本金に繰り入れて交通債券発行枠を拡大した
    • [45]1951年3月の営団法改正により、営団の出資者は日本国有鉄道と東京都の二者となった
    • [46]丸ノ内線池袋〜新宿間で1958年度末までに調達した資金は約250億円にのぼり、そのうち約23億円の増資のほかはすべて外部資金だった
    • [47]最大のものは資金運用部資金と日本開発銀行融資に肩代わりした見返資金との政府資金合計130億5000万円であり、公募交通債券の約77億円がこれに次いだ
設立ストーリー(5)

相互直通運転の開始と、建設速度が生んだ経営補助

1956年8月の都市交通審議会第1号答申は、東京圏でこれから建設する路線を郊外鉄道と相互直通運転する地下鉄道とする方針が示された[51]。都心部の新線建設に巨額の資金を要する地下鉄道にとって、この方針は開業当初から相当の旅客需要を保証した[52]。難題は互いに異なる路線規格の調整に残った。当事者間で決着がつかず、1957年6月に運輸省が関係事業者6者の首脳を招集し、第1号線は標準ゲージ、日比谷線となる第2号線は狭軌ゲージ、集電方式はいずれも架空電車線からのパンタグラフ方式と決めた[53]。事業体の異なる鉄道どうしの相互直通運転を実現したのは、世界で日本が最初にあたる[54]。1961年3月に日比谷線、1964年12月に東西線が運輸営業を開始し、1966年10月には東西線と国鉄中央線の相互直通運転が始まった[55]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)3章「相互直通運転の開始へ」
    • [51]1956年8月の都市交通審議会第1号答申で、東京圏でこれから建設する路線を郊外鉄道と相互直通運転する地下鉄道とする方針が打ち出された
    • [52]1956年8月の都市交通審議会第1号答申で、東京圏でこれから建設する路線を郊外鉄道と相互直通運転する地下鉄道とする方針が打ち出され、都心部の新線建設に巨額の資金を要する地下鉄道に対しては開業当初から相当の旅客需要を保証することになった
    • [53]路線規格の調整が最大の問題となり当事者間で調整がつかず、1957年6月に運輸省が関係事業者6者の首脳を招集し、第1号線は標準ゲージ、第2号線(日比谷線)は狭軌ゲージ、集電方式はいずれも架空電車線からのパンタグラフ方式と決めた
    • [54]異なった事業体の鉄道を相互直通運転する方式の実現は、世界でわが国が最初だった
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1961年3月に日比谷線、1964年12月に東西線が運輸営業を開始し、1966年10月に東西線と国鉄中央線の相互直通運転を開始した

路線が延びるほど営団の収支は悪化した。地下鉄はトンネルを掘るために投下資本が極端に膨らみ、支出に占める支払利息や減価償却費など資本コストの比重が高いため、事業の採算性はきわめて悪い[56]。丸ノ内線単独では支払利息もまかなえず法定の償却も行えなくなり、実質的な赤字決算となって、営団は1954年下期から配当をとりやめた[57]。収支のバランスを崩した最大の原因は、建設速度が早すぎたことにある。1959年までは年間2キロ程度だった建設速度が、1960年代を通じて年間6キロ程度まで上昇した[58]。相次ぐ新線建設に合わせ、職員は1955年の2200名から1974年に1万172名とほぼ5倍近くに増え、この間の新規採用は延べ1万2681名にのぼった[59]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)4章「路線網の大拡充」
    • [56]地下鉄道はトンネルを掘ることによる投下資本が極端に大きく、支出の中で支払利息および減価償却費などの資本コストが大きな要素を占めるため事業の採算性はきわめて悪い
    • [57]丸ノ内線単独ではその支払利息もまかなえず法定の償却を行なえなくなったため実質的には赤字決算になり、1954年下期から配当をとりやめた
    • [58]収支バランスを崩した原因は建設速度が早すぎたことが最大であり、1959年までは年間2キロ程度だった建設速度が1960年代を通じて年間6キロ程度まで上昇した
    • [59]相次ぐ新線建設により1955年に2200名であった職員は1974年に1万172名とほぼ5倍近くになり、この間に営団は延べ1万2681名の職員を新規採用した

日比谷線以降、キロ当たりの建設費も上がった。相互直通運転で集電方式がパンタグラフ方式に変わってトンネルの高さが増し掘削が深くなったこと、既存の地下鉄との交差で駅が地下3層になったこと、列車の編成長を延ばして駅の規模が膨らんだことが重なった[60]。もともと地下鉄の工事費は地上鉄道のおよそ10倍で、開業後の輸送密度や営業収益の差では工事費の開きを埋めきれなかった[61]。営団と各地方公共団体は1962年度政府予算に対し、年利4%を超える資金の超過利子分の補助を要求し、同年度に1億8178万円が予算化された[62]。営団が受けた補助金は1962年度の9739万円から1969年度の19億5345万円へ増え、補助率が50%に引き上げられた1970年度には総額35億8770万円にのぼる[63]。1974年10月、営団は有楽町線の運輸営業を開始した[64]

  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)4章「路線網の大拡充」
    • [60]日比谷線以降キロあたり建設費が上昇した理由は、相互直通運転で集電方式がパンタグラフ方式に変わりトンネルの高さが高くなって掘削深さが深くなったこと、既存の地下鉄との交差で駅が地下3層になったこと、列車の編成長を長大化して駅の規模が大きくなったことである
    • [61]地下鉄の工事費は地上鉄道に比較するとおよそ10倍であり、開業後の輸送密度ないし営業収益に格差があるといっても工事費の開きを埋め合わせるには程遠い
    • [62]営団と各地方公共団体が1962年度政府予算に対し年利4%を超える資金の超過利子分の補助を要求し、同年度に1億8178万円が予算化された
    • [63]営団と各地方公共団体は1962年度政府予算に対して年利4%を超える資金の超過利子分の補助を要求し1962年度分1億8178万円が予算化され、営団が受けた補助金は1962年度9739万円、1969年度19億5345万円、補助率が50%に引き上げられた1970年度は総額35億8770万円となった
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [64]1974年10月に有楽町線運輸営業開始
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)3章「相互直通運転の開始へ」
    • [51]1956年8月の都市交通審議会第1号答申で、東京圏でこれから建設する路線を郊外鉄道と相互直通運転する地下鉄道とする方針が打ち出された
    • [52]1956年8月の都市交通審議会第1号答申で、東京圏でこれから建設する路線を郊外鉄道と相互直通運転する地下鉄道とする方針が打ち出され、都心部の新線建設に巨額の資金を要する地下鉄道に対しては開業当初から相当の旅客需要を保証することになった
    • [53]路線規格の調整が最大の問題となり当事者間で調整がつかず、1957年6月に運輸省が関係事業者6者の首脳を招集し、第1号線は標準ゲージ、第2号線(日比谷線)は狭軌ゲージ、集電方式はいずれも架空電車線からのパンタグラフ方式と決めた
    • [54]異なった事業体の鉄道を相互直通運転する方式の実現は、世界でわが国が最初だった
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1961年3月に日比谷線、1964年12月に東西線が運輸営業を開始し、1966年10月に東西線と国鉄中央線の相互直通運転を開始した
    • [64]1974年10月に有楽町線運輸営業開始
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)4章「路線網の大拡充」
    • [56]地下鉄道はトンネルを掘ることによる投下資本が極端に大きく、支出の中で支払利息および減価償却費などの資本コストが大きな要素を占めるため事業の採算性はきわめて悪い
    • [57]丸ノ内線単独ではその支払利息もまかなえず法定の償却を行なえなくなったため実質的には赤字決算になり、1954年下期から配当をとりやめた
    • [58]収支バランスを崩した原因は建設速度が早すぎたことが最大であり、1959年までは年間2キロ程度だった建設速度が1960年代を通じて年間6キロ程度まで上昇した
    • [59]相次ぐ新線建設により1955年に2200名であった職員は1974年に1万172名とほぼ5倍近くになり、この間に営団は延べ1万2681名の職員を新規採用した
    • [60]日比谷線以降キロあたり建設費が上昇した理由は、相互直通運転で集電方式がパンタグラフ方式に変わりトンネルの高さが高くなって掘削深さが深くなったこと、既存の地下鉄との交差で駅が地下3層になったこと、列車の編成長を長大化して駅の規模が大きくなったことである
    • [61]地下鉄の工事費は地上鉄道に比較するとおよそ10倍であり、開業後の輸送密度ないし営業収益に格差があるといっても工事費の開きを埋め合わせるには程遠い
    • [62]営団と各地方公共団体が1962年度政府予算に対し年利4%を超える資金の超過利子分の補助を要求し、同年度に1億8178万円が予算化された
    • [63]営団と各地方公共団体は1962年度政府予算に対して年利4%を超える資金の超過利子分の補助を要求し1962年度分1億8178万円が予算化され、営団が受けた補助金は1962年度9739万円、1969年度19億5345万円、補助率が50%に引き上げられた1970年度は総額35億8770万円となった

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沿革年表 1920〜2024年

東京地下鉄の沿革1920〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1920〜1940年東洋初の地下鉄を掘った早川徳次と、統合を命じた営団法東京地下鉄道を設立★★
浅草〜上野間で日本初の地下鉄営業を開始(現銀座線)★★★
東京地下鉄道と東京高速鉄道が浅草〜渋谷間で直通運転を開始★★
1941〜1974年丸ノ内線から相互直通へ、建設速度が招いた経営補助帝都高速度交通営団法公布
特殊法人として帝都高速度交通営団を設立★★★
東京地下鉄道と東京高速鉄道から営業線(現銀座線)を譲受★★
丸ノ内線運輸営業開始
日比谷線運輸営業開始
東西線運輸営業開始
東西線と国鉄中央線の相互直通運転を開始★★
千代田線運輸営業開始
有楽町線運輸営業開始
1975〜2003年累積赤字107億円の解消と、民営化を決めた行革審答申半蔵門線運輸営業開始
メトロカードを発売
南北線運輸営業開始
丸ノ内線・日比谷線・千代田線で地下鉄サリン事件が発生★★
SFメトロカードを発売(都営地下鉄と共通化)
日比谷線中目黒駅で列車脱線衝突事故が発生★★
共通乗車カードシステム「パスネット」を導入
2004〜2026年副都心線の開業から、20年越しのプライム上場まで帝都高速度交通営団を承継して東京地下鉄が発足★★★
帝都高速度交通営団法を廃止し営団は解散
ICカード乗車券「PASMO」のサービスを開始
副都心線運輸営業開始・全線開通★★
副都心線と東急東横線の相互直通運転を開始★★
山村明義有楽町線・南北線の延伸について鉄道事業許可を取得★★
山村明義南北線・副都心線と相鉄本線の直通運転を開始
山村明義東京証券取引所プライム市場に上場★★★
出典・参考 6件
出典・参考
  • 東京地下鉄 有価証券報告書【沿革】
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)1章「創立そして雌伏の十年」
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)2章「待望の新線建設再開へ」
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)3章「相互直通運転の開始へ」
  • 営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団、1991年)4章「路線網の大拡充」
  • 運輸 1958年「都内の地下鉄道と今後の建設」(帝都高速度交通営団)

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