第1章 年〜年

東京地下鉄:早川徳次氏の東京地下鉄道設立と浅草〜上野間の開業

1920年〜ロンドンの地下鉄に学んだ早川徳次氏と、浅草〜上野間で開いた東洋初の地下鉄

東京地下鉄道は1920年8月29日、東京海上ビルでの創立総会を経て設立された。発端は1914年、鉄道院嘱託として欧米視察に出た早川徳次氏がロンドンで電化された地下鉄網を目にした経験だった。帰国した早川徳次氏は日本橋を貫く南北の通りの交通量を調べ、市電の輸送力がいずれ不足すると見込んだ。1917年7月の出願から2年余りを経た1919年11月、地方鉄道法による免許の交付。ただ恐慌で予定の資本金4,000万円は調達できず、1,000万円に縮めたうえで社長に古市公威氏、常務取締役に早川徳次氏を置いた。幹線鉄道の起点である新橋と上野を結ぶ需要の厚さが、公営の計画を待たずに民間で起業する根拠になったとみられる。

  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [1]1920年8月29日に東京海上ビルで東京地下鉄道の創立総会。社長は古市公威、早川徳次は常務取締役
    • [6]1920年8月29日に東京海上ビルで東京地下鉄道の創立総会。社長は古市公威、早川徳次は常務取締役
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節1 東京地下鉄道の創業
    • [2]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [3]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [4]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [5]恐慌で資本金4000万円の調達が困難になり1000万円に縮めて1920年8月に創立総会

1924年1月の株主総会で、東京地下鉄道は新橋〜上野間5.8キロの建設を後回しにし、上野〜浅草間2.2キロを先に掘ると決めた。資本金1,000万円では新橋〜上野間の建設費を賄えず、東京市長の後藤新平氏に依頼した株式の引受けも財政難を理由に断られた。まとまりかけた外資導入の交渉は、1923年9月の関東大震災で立ち消えとなった。距離が短く、両端に上野と浅草の繁華街を持つ区間に見本の路線を置き、順次延長する案が重役会の支持を得た。1927年12月30日の開業日には、午前中だけで上野駅2万人、浅草駅1万人を含む4万人超が乗車した。開業の混雑で地下鉄の需要を可視化し、延伸資金の調達につなげる狙いだったと推察される。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節1 東京地下鉄道の創業
    • [7]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超
    • [8]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超
    • [11]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [9]外資導入の交渉は関東大震災で頓挫。上野・浅草間は距離が短く両端が繁華街で、見本をつくり漸次延長する案が重役会で支持され1924年1月21日の総会で了承
    • [10]外資導入の交渉は関東大震災で頓挫。上野・浅草間は距離が短く両端が繁華街で、見本をつくり漸次延長する案が重役会で支持され1924年1月21日の総会で了承
参考文献[1]-[11]
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [1]1920年8月29日に東京海上ビルで東京地下鉄道の創立総会。社長は古市公威、早川徳次は常務取締役
    • [6]1920年8月29日に東京海上ビルで東京地下鉄道の創立総会。社長は古市公威、早川徳次は常務取締役
    • [9]外資導入の交渉は関東大震災で頓挫。上野・浅草間は距離が短く両端が繁華街で、見本をつくり漸次延長する案が重役会で支持され1924年1月21日の総会で了承
    • [10]外資導入の交渉は関東大震災で頓挫。上野・浅草間は距離が短く両端が繁華街で、見本をつくり漸次延長する案が重役会で支持され1924年1月21日の総会で了承
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節1 東京地下鉄道の創業
    • [2]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [3]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [4]早川徳次は1914年に鉄道院嘱託として欧米視察、ロンドンの電化地下鉄を見て事業化を決意。南北の通りの交通量を調べ市電の輸送力不足を見込む。1917年7月出願、1919年11月地方鉄道法の免許
    • [5]恐慌で資本金4000万円の調達が困難になり1000万円に縮めて1920年8月に創立総会
    • [7]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超
    • [8]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超
    • [11]1924年1月の株主総会で新橋・上野間5.8キロを後回しにし上野・浅草間2.2キロを先行と決定。後藤新平市長は株式引受けを財政上断る。1927年12月30日開業、午前中に4万人超

1928年〜デパート巡り乗車券で乗客を獲得した東京地下鉄道と、開業から6年半での新橋到達

1929年からの不況で旅客需要が減少し、東京地下鉄道は増資による延伸資金の調達に行き詰まった。打開策として東京地下鉄道が最初に掲げたのは、旅客の獲得だった。1931年9月16日、開業以来の10銭均一を廃して約2キロまでを5銭とする駅間制に改めた。一区5銭の青バスへの対抗策で、名物のターンスタイルもこの年に撤去。資金の道は路線の延伸に伴う信用の高まりで開け、日本興業銀行をはじめ金融機関の協力を得られるようになった。1932年10月5日には地下鉄融資団が1,050万円の融資を決め、新橋までの工事に見通しが立った。目先の運賃収入を減らしてでも乗客数の実績を積むことが、金融機関の信用を引き出す近道だったのだろう。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節2 新橋到達までの苦闘
    • [12]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [13]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [15]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [17]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [14]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定
    • [16]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定
    • [18]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定

東京地下鉄道は沿線の百貨店と連携し、駅の建設費と乗客の双方を百貨店から得た。上野広小路駅は当初の計画になく、上野松坂屋の要望を受けて設けた駅である。三越は三越前駅の建設工事費46万3,091円83銭を負担し、日本橋駅の建設費は白木屋の26万円と高島屋の22万円で賄われた。1932年12月の日本橋駅開通時には、10銭区間を13銭とし、百貨店のある駅で最高3回の途中下車を認めるデパート巡り乗車券を発売した。兼業では1930年4月に上野駅構内へ地下鉄ストアを開設し、1931年12月には上野駅正面に地下2階・地上8階の上野地下鉄ストアを構えた。雨に濡れずに店内へ入れる連絡口は百貨店の集客にも効き、双方の利害が一致したと思われる。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節2 新橋到達までの苦闘
    • [19]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [20]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [22]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [23]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [21]三越が三越前駅の建設工事費46万3091円83銭を負担。日本橋駅は白木屋26万円・高島屋22万円で全建設費を賄う

1934年6月21日、東京地下鉄道は銀座〜新橋間を開通させ、浅草〜新橋間8キロを16分で結んだ。浅草〜新橋間の総工費は4,200万円である。開通記念の「100万人のサービス大輸送」では3日間、5銭から15銭の3段階の運賃を全線5銭均一とし、乗客に景品入りの袋を配った。競争の焦点は主力路線が地下鉄と重なる青バスに移り、東京乗合自動車は美人車掌の接客で乗客を集めた。青バスが煙草屋での回数券の割引販売を始めると、東京地下鉄道も沿線の煙草屋で5%引きの委託販売を始め、ひと月おきに景品付きの回数券を発売した。後発の東京高速鉄道との紛争が顕在化したのも、新橋到達の前後である。東京地下鉄道は1938年、出資元の渡辺銀行の破綻処理の過程で東京乗合自動車の株式の大半を取得し、競合相手の経営権を握った。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節2 新橋到達までの苦闘
    • [24]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [26]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [28]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [30]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [31]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [25]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券
    • [27]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券
    • [29]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券
参考文献[12]-[31]
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節2 新橋到達までの苦闘
    • [12]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [13]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [15]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [17]1929年の不況で旅客需要が落ち込み、増資による資金調達は進まず。1931年に運賃を駅間制にして実質値下げしターンスタイルを撤去。延伸に従い信用が増し日本興業銀行など金融関係の協力を得る
    • [19]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [20]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [22]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [23]上野松坂屋の要望で予定外の上野広小路駅を設置。三越本店・白木屋・高島屋などが建設費の一部を負担し連絡口を設置。1932年12月の日本橋駅開通時にデパート巡り乗車券(10銭区間を13銭、途中下車3回まで)。1930年4月上野駅構内に地下鉄ストア、1931年12月上野駅正面に地下2階地上8階の上野地下鉄ストア
    • [24]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [26]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [28]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [30]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
    • [31]1934年6月21日銀座・新橋間開通、新橋・浅草間8キロを16分。100万人のサービス大輸送で3日間全線5銭均一。青バスが主力路線で競合、東京高速鉄道との紛争が表面化。1938年に渡辺銀行の清算過程で東京乗合自動車株の大半を取得
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [14]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定
    • [16]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定
    • [18]1931年9月16日に10銭均一を廃止し約2キロまで5銭の駅間制へ。青バスの一区5銭への対抗。1932年10月5日に地下鉄融資団を結成し1050万円の融資を決定
    • [21]三越が三越前駅の建設工事費46万3091円83銭を負担。日本橋駅は白木屋26万円・高島屋22万円で全建設費を賄う
    • [25]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券
    • [27]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券
    • [29]浅草・新橋間の総工費4200万円。記念乗車で景品を袋に詰め100万個を配布。青バスの回数券割引に対抗し煙草屋で5%引き委託販売、景品付回数券

1934年〜新橋で線路を奪い合った五島慶太氏の東京高速鉄道と、地下鉄の一本化を求めた交通調整の答申

東京高速鉄道は1934年9月に資本金3,000万円で設立され、常務取締役の五島慶太氏が事実上の経営責任者となった。東京地下鉄道の上野〜浅草間の工事を請け負った大倉土木の副頭取、門野重九郎氏らが東京市の地下鉄免許の譲渡を受けて起こした会社である。1935年2月に渋谷〜新橋間6.3キロの工事施行認可を申請すると、品川延伸を控えた東京地下鉄道は虎ノ門〜新橋間の自社建設を主張して異議を申し立てた。新橋で接続できない渋谷線を、五島慶太氏は『相互乗入れしなければ頭のない龍に等しく』と位置づけた。五島慶太氏と技師長の黒河内四郎氏は、鉄道監督局長の前田穣氏から設計変更を求められたこともあった。両社の対立は鉄道省の調停に持ち込まれ、新橋で両社の線路をつなぐ決着となった。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節1 東京高速鉄道の創業
    • [32]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [33]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [34]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [37]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
  • 私の履歴書 経済人1 五島慶太(日本経済新聞社)
    • [35]五島慶太は新橋で東京地下鉄道と連絡して相互乗入れしなければ渋谷線は建設の価値がないと考えた。技師長黒河内四郎とともに鉄道監督局長前田穣から設計変更の談示を受けた
    • [36]五島慶太は新橋で東京地下鉄道と連絡して相互乗入れしなければ渋谷線は建設の価値がないと考えた。技師長黒河内四郎とともに鉄道監督局長前田穣から設計変更の談示を受けた

東京高速鉄道は1939年1月に新橋へ達したものの、接続の協議が整わず、両社は新橋に別々の駅を構えた。虎ノ門〜新橋間の線路を時隔1分で共用する調停案で協議がまとまり、9月に浅草〜渋谷間の直通運転が始まった。並行して東京地下鉄道は京浜電気鉄道と京浜地下鉄道を設立し、新橋〜品川間の免許を譲渡して品川延伸を図った。対する五島慶太氏は『東京地下鉄の経営権を掌握して、早川を追出すより方法はないと考え』、京浜電気鉄道の株式過半数を取得した後、1939年8月に大日本電力専務の穴水熊雄氏から東京地下鉄道株を譲り受けた。これで東京高速鉄道側は東京地下鉄道株の過半数を握り、線路を共用する相手の支配権まで争う局面に入った。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節2 渋谷・浅草間直通運転へ/東京地下鉄道の経営危機
    • [38]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [39]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [40]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [42]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [43]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
  • 私の履歴書 経済人1 五島慶太(日本経済新聞社)
    • [41]五島慶太は東京地下鉄道の経営権を掌握するほかないと考え、1939年夏に穴水熊雄から東京地下鉄道株45万株を譲り受けた

1940年1月、社長の根津嘉一郎氏の急逝を受けて早川徳次氏が東京地下鉄道の第4代社長に就任した。早川徳次氏と五島慶太氏は3月に別々の株主総会を予定し、鉄道省は双方を流会させて調停に入った。7月の調停勧告は、早川徳次氏と五島慶太氏の両社からの引退を求める内容である。国はすでに1938年4月に陸上交通事業調整法を公布し、乱立による投資の重複と不況下の投資難を交通調整で解く仕組みを用意していた。同法に基づく交通事業調整委員会は1940年12月、地下鉄の既成線と未成線を新設の特殊機関に譲渡させる答申をまとめた。民間二社の対立が収まらなかったことも、地下鉄の経営主体を一本にする答申を後押ししたのだろう。

  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第3節1 交通調整の経緯・2 営団法の制定へ
    • [44]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [45]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [46]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [48]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [49]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [47]1938年4月1日陸上交通事業調整法公布(8月1日施行)
参考文献[32]-[49]
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節1 東京高速鉄道の創業
    • [32]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [33]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [34]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
    • [37]1934年9月東京高速鉄道設立(資本金3000万円、社長門野重九郎、五島慶太常務が事実上の責任者)。門野は大倉土木副頭取で東京市免許線の譲渡を受ける。1935年2月渋谷・新橋間6.3キロを申請、東京地下鉄道は虎ノ門・新橋間の自社建設を主張し異議。鉄道省の調停で新橋接続
  • 私の履歴書 経済人1 五島慶太(日本経済新聞社)
    • [35]五島慶太は新橋で東京地下鉄道と連絡して相互乗入れしなければ渋谷線は建設の価値がないと考えた。技師長黒河内四郎とともに鉄道監督局長前田穣から設計変更の談示を受けた
    • [36]五島慶太は新橋で東京地下鉄道と連絡して相互乗入れしなければ渋谷線は建設の価値がないと考えた。技師長黒河内四郎とともに鉄道監督局長前田穣から設計変更の談示を受けた
    • [41]五島慶太は東京地下鉄道の経営権を掌握するほかないと考え、1939年夏に穴水熊雄から東京地下鉄道株45万株を譲り受けた
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節2 渋谷・浅草間直通運転へ/東京地下鉄道の経営危機
    • [38]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [39]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [40]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [42]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
    • [43]1939年1月東京高速鉄道が新橋到達、別駅で営業。時隔1分で線路共用の調停案。1939年9月直通運転開始。東京地下鉄道は京浜電鉄と京浜地下鉄道を設立し新橋・品川間免許を譲渡。東京高速は京浜電鉄株の過半数取得、1939年8月穴水熊雄の持株を譲り受け東京地下鉄道株の過半数取得
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第3節1 交通調整の経緯・2 営団法の制定へ
    • [44]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [45]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [46]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [48]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
    • [49]1940年1月根津嘉一郎急逝で早川徳次が第4代社長。3月に双方が別々の株主総会を予定し鉄道省が流会させ調停、1940年7月両氏の引退を勧告。陸上交通事業調整法は乱立による投資重複と不況下の投資難が背景。交通事業調整委員会が1940年12月に地下鉄を特殊機関へ譲渡させる答申
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)
    • [47]1938年4月1日陸上交通事業調整法公布(8月1日施行)

出典・参考

7件
出典・参考
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節1 東京地下鉄道の創業
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第1節2 新橋到達までの苦闘
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節1 東京高速鉄道の創業
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第2節2 渋谷・浅草間直通運転へ/東京地下鉄道の経営危機
  • 営団地下鉄五十年史(1991年)序章 第3節1 交通調整の経緯・2 営団法の制定へ
  • 私の履歴書 経済人1 五島慶太(日本経済新聞社)
  • 昭和を走った地下鉄 東京地下鉄開通五〇周年記念(1977年)

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