CF | 2014/3 | 2015/3 | 2016/3 | 2017/3 | 2018/3 | 2019/3 | 2020/3 | 2021/3 | 2022/3 | 2023/3 |
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営業CF | 1261 | 1374 | 1625 | 1543 | 1941 | 2769 | 3033 | 2865 | 4396 | 4381 |
投資CF | -487 | -803 | -1096 | -2138 | -659 | -2046 | -889 | -403 | -707 | -326 |
財務CF | -929 | 625 | -535 | 1071 | -831 | -685 | -1927 | -1727 | -2543 | -2520 |
リクルートの創業者は、江副浩正氏である。東京大学在学中に「東大新聞」の制作に携わっており、企業の求人情報を新聞広告として募る「広告ビジネス」に足を踏み入れた。当時、学生新聞の広告は「麻雀」「書籍」などの広告が主流であり、就職活動の市場がニッチであったため就職広告の掲載は斬新なアイデアであった。
東大新聞時代には、丸紅とニチメンの会社説明会の開催を広告掲載。多くの東大生が説明会に参加したことで、企業からの信頼を獲得していた。これらの関係性が、リクルートの創業時にも生かされた。
江副浩正氏はリクルートの創業(1960年)から、1987年にリクルート事件で引責辞任するまで同社の社長を歴任。創業経営者としてリクルートのビジネスである「紙媒体を通じた広告ビジネス」を育て上げた。
1960年代を通じて大学進学率が向上し、就職活動が一般化した。高学歴な学生であっても教授のコネではなく、新卒の採用募集(公募)を通じて就職する必要があり、就職活動という市場が台頭した。
1960年3月に大学新聞広告社を個人創業した。森ビルの雑居ビル「第2森ビル(東京西新橋)」の屋上に据えられた違法建築に入居し、2坪の事務所でリクルートが創業した。
創業時は、江副氏と、東大新聞遺跡を置いていた鶴岡公氏の2名で事業に従事。就職活動のシーズン(2月〜7月)だけ忙しくなる季節性のあるビジネスだったため、出来る限り社員は雇わず、アルバイトで人手をまかなう方針で経営した。なお、アルバイトも学生を雇い、優秀なアルバイトを社員として雇用した。
事務所と言うより物置小屋に近いものでしたよ。当時、博報堂にいて手伝ってくれた森村稔(現リクルート専務)の大学時代の親しい友人で、私の先輩であった森ビルの森稔専務が好意で貸してくれたものでしてね。広さは2坪半、家賃7000円、敷金なし。西新橋の第2森ビルの屋上に作られたペントハウスで、トタン屋根だから夏は部屋の温度が40度近くになる(笑)。この違法建築の屋根裏部屋が、リクルートの創業の地です。
旧帝大、早稲田、慶應の学生新聞から広告枠を買い付けて、大手企業に販売するビジネスであった。高学歴の学生へのアプローチが可能となるため、学生をリクルーティングしたい大手企業が広告主として顧客となった。
このため、創業時の江副氏の仕事は、全国各地の大学に赴き、学生新聞の広告枠を仕入れることにあった。
江副氏の当時の仕事ぶりは、夜行で大阪へ行き、昼間は会社回り、夜は現地の大学新聞と打ち合わせ、夜行で東京に帰って、また朝から仕事というやり方で、創業から1年あまりは、日曜日を含めて半日休んだのが1回だけ。夜11時より早く帰宅するのはまれで、入浴も週1日以下。新聞を読む暇もない、若さのみが頼りの毎日だった
創業当時のリクルートの顧客は、「日綿実業(現・双日)」や「日立造船(大阪本社)」など、関西に拠点を置く大企業が中心であった。
リクルートの最初の顧客は日綿実業(現・双日)及び丸紅であった。これらの商社は大阪に拠点を置き繊維取引が本業であったが、取り扱い品目を拡大する上で東京進出を目論んでおり「東京大学を卒業する学生を採用したい」というニーズを持っていた。初年度の売上高は450万円だったという。
なお、顧客開拓の過程で、1963年に八幡製鉄(現日本製鐵)との取引を開始するにあたって、法人でないと経理(源泉徴収)の取り扱いに困るという理由から、江副氏は法人化を決定。要請があった翌日に「株式会社のつくり方」という著書を買い、資本金60万円で登記を完了した。これをもって、1963年に株式会社日本リクルートセンターを設立し、株式会社に組織変更した。
最初に手掛けたのは、現在のニチメンです。ただこれは、向こう様からぜひ東大の卒業生を取りたいとの申し出があったからです。最初にこちらからアプローチしたのは丸紅でした。
リクルートは大企業と取引をしていたが、社会的信用がない企業であったため、都市銀行からの融資を受けることができず、創業期は資金繰りに窮していた。
そこで、江副社長は芝信用金庫の田村町支店に赴き融資を依頼。田村町支店の行員は、リクルートのビジネスモデルを高く評価して融資を決定した。
ただし、江副氏の父親が所有していた土地を担保として、300万円の借入を実施している。
創業当初で信用力はないし、大手の銀行は相手にしてくれない。ということで、芝信用金庫の田村町支店にお願いに行きまして、「これだけの一流企業がこの仕事の必要性を認めているんです。ぜひ面倒を見てください」と頼み込みましてね。もちろん、父が人に貸していた土地、家屋を担保にしての借入だったが、窓口の人の理解がありまして「担保能力はないし、支店長は心配していたけど、私は、あなたのやろうとしている仕事は絶対に間違いない。あなたなら間違いない、と確信して頑張ったんですよ」と、2回目のお願いで300万円の融資を了承してもらった。あの時の言葉は一生、耳にこびりついて離れないでしょうね。
大学生による就職活動の市場拡大に合わせて、リクルートも業容を拡大。その中で、リクルート自身が広告媒体を提供する方針に転換した。ただし、前代未聞の冊子創刊となるために、創刊に先立って企業に対してニーズや、プライシングを聞き出している。
1962年に「企業への招待」の冊子を創刊し、就職活動する学生に向けてアンケートハガキ(※住所の個人情報の取得方法は開示されていない)を発送。リクルートブックを希望する返送が1000通に及び、学生へのアプローチに成功した。する一方、冊子媒体に大企業から広告を募るビジネスに転身した。
また、企業からのスポンサーを募るために営業活動を行い、創刊号の掲載企業数は66社に及んだ。なお、営業活動の成約率は「都内で1日12〜13社訪問」「商談に進むのが6〜7社のうち1社」「最終的な商談成立は10社のうち1社」であった。
これにより、リクルートは「大学新聞」という第三者の媒体ではなく「冊子媒体(=広告枠)を内製化したビジネス」を作り上げた。
我々がこの仕事を始めた時、持っていたものといえば、わずかな広告営業の経験と印刷知識だけで、ゼロからのスタートに等しかった。(略)「リクルートブック」を創刊するときにも、どうすれば良いか何もわからなかったので、当然のことながら、「わからないことはお客様に聞く」という方法をとった。大学新聞で取引のあった会社を中心に、200社ばかりの企業を訪ね、採用担当者に直接、意見を聞いて回った。「配本の対象大学はどこに」「事務系と技術系は分けた方がいいか」あるいは「掲載量はいくらぐらいなら参画してもらえるか」と言ったことである。ツカ見本を作って、紙質の良否まで、見込み客に聞いて回った。 当初予想していたよりも企業側の見込み客は総じて好意的で、積極的に意見を提供していただいた方も少なくなかった。
リクルートは大学進学率の上昇に合わせて業容を拡大。非上場企業であったため、売上高は非開示だが、1971年時点で社員500名を抱えるまでに発展した。
借金による本社ビルの新設で不動産を取得。不動産の値上がりを前提とした財務プランへ
リクルートは学生の大量採用によって人員を拡大したが、その過程で「日米安保」や「成田闘争」で活動していた「元活動家の社員」も紛れ込んでしまった。このため、リクルートの社内で組合活動が過激化し、ストライキの実行、江副氏への誹謗中傷、団交で怒号が飛び交う(1984「リクルートの奇跡」p46-p47)状況であったという。経営問題に発展した。
対策として、江副氏は経営に関する数字を公開するとともに、会社の利益の1/3を社員にボーナスとして還元する方針を提示。これにより、組合活動は消沈したという。
銀座の一等地に自社ビルを土地付きで保有したが、資産圧縮のために約30年を経て売却へ
現在の企業にとっての情報というのは、まさに企業の命運を左右する重要なファクターになっています。リクルートでコンピュータを導入したのは、昭和41年ですが、以来、容量の大きなコンピュータに順次入れ替えたり、同時に各種のシステム開発にも力を注いできたわけです。その持てる大型汎用コンピュータを、各社の端末機とオンランで結び、コンピュータネットワークのサービスを行う。それが複数になればなるほど効率的ですし、ローコスとかが可能になります。
子会社のリクルートコスモスの未公開株式について、政治家に賄賂として提供したことが発覚し、日本の政財界を揺るがすスキャンダルに発展した。
この結果、リクルートは社会的な非難を受けて、リクルートの創業者である江副浩正は責任をとる形で社長を辞任した。加えて、リクルートに対する信頼が失墜し、リクルートの業績が低迷する原因となった。
なお、リクルートの創業者である江副浩正は2003年に執行猶予付きの有罪判決を受け、リクルート事件以降に同社の経営に関わることはなかった。
創業者江副氏と位田社長が深刻な対立へ
リクルートはグループ3社「リクルート」「リクルートコスモス(不動産)」「ファーストファイナンス(金融)」の3事業で、合計1.8兆円の有利子負債を抱えていた。特にリクルートコスモスが保有する不動産(有形固定資産・土地)の割合が高く、1990年代のバブル崩壊によって価値が下落して資産状況が悪化した。
リクルートは非上場企業であり、投資資金は銀行からの借入金でまかってきた経緯から、銀行からの融資がストップすると債務超過に陥る恐れがあった。
リクルートの創業者である江副氏は、1988年6月のリクルート事件の発覚により社長を退任していたが、リクルートの株式は保有し続けてきた。だが、金融機関からの支援を受けられないと考え、1992年に保有株式の33%を大手スーパーのダイエーに売却した。このため、リクルートの大株主は江副氏からダイエーへと変化し、ダイエーグループの1企業として運営される形となった。
ダイエーへの株式売却は唐突であったため、リクルート創業者の江副氏と、リクルート社長の位田氏は、深刻な意見対立に陥った。位田氏は不動産事業に関与せず、ダイエーとの人材交流を行わない独立路線を目指したのに対して、江副氏は不動産事業の継続と、ダイエーからの人員派遣を容認するように考えていた。
よって、ダイエーグループ入りは、リクルートの経営上の決定ではなく、創業者の株式売却という個人的な意思決定としての側面がある。
ダイエーへの株式売却は・・ 江副氏:リクルートが銀行管理下に置かれるよりも、ダイエーグループ入りした方が従業員にとって幸せと考えた。 位田氏:銀行管理下に置かれる状況に至っていない。リクルートグループは自主再建できる。株式売却は株主の一人がダイエーに代わっただけのことに過ぎない。 グループ再建について 江副氏:リクルート、リクルートファイナンスは兄弟関係にあるのだから、仲良く協力して再建に取り組んでほしい 位田氏:債務保証はしていないし、法的に面倒を見なければいけないという義務はない。役員会の了承を得て、リクルートにとってマイナスにならない範囲で支援する。 ダイエーとの人材交流について 江副氏:親戚となった以上は、例えばリクルートコスモスの社員が出向しても良いと思う 位田氏:こちらから人を出す気はないし、ダイエーからも役員以外の派遣もあり得ない
2000年6月にダイエーは経営危機に陥ったため、リクルートの株式の売却を決定。まずは保有する株式25%を1000億円でリクルートに売却し、残り10%の保有分も2006年までに売却した。
2000年3月期のリクルートは営業利益600億円を確保しており、本業の収益によってダイエーから自社の株式を取得する形となった。この売却により、リクルートはダイエーに配慮する必要がなくなり、経営上の自由を取り戻した。
1.4兆円の有利子負債を抱え込む。約20年にわたる借金返済をスタート
スーパーコンピュータの賃貸事業を行っていた「リクルートUSA」の清算を決定。FY1993に特別損失213億円を計上した。
1992年以降、リクルートはグループ3社の財務状況を改善するために、財務状況が悪いリクルートコスモス社の負債を、業績好調なリクルートに移し替えることでBSの改善を図った。
この結果、リクルートの有利子負債は、FY1992時点の8731億円から、1994年頃には1.4兆円(+約5300億円の負担増加)へと拡大した。リクルートの年間営業利益は約600億円であり、1.4兆円の借金を返済するためには、単純計算で23年かかる想定であった。
すなわち、リクルートが「子会社の不動産事業の失敗」を被る形となり、リクルートが生み出す本業の収益で、有利子負債を圧縮していくことが経営上の至上命題となった。
リクルートは従来の拡大路線を撤回して人員抑制に方針転換。FY1991の社員数(臨時雇用を含む)約8000名から、FY1994に約5500名へと推移。アルバイトの採用抑制や、新卒採用の抑制による自然減で、3年間で約2500名を削減した。
FY2006のリクルートの単体決算は、売上高4436億円に対して営業利益1298億円を計上。高収益企業へ
リクルートの単体決算において、FY2007は売上高5065億円に対して、FY2008は売上高4228億円を計上し、YoYで約780億円の大幅減益へ
長らく非上場であったが、海外展開のための資金調達のために株式上場を決定。上場時の時価総額は1.7兆円で、上場に伴って2138億円を資金調達
オランダ(欧州)の人材派遣会社USG Peopleの株式100%を1811億円で買収することを決定。リクルートHDではFY2020の経営目標として「人材領域におけるグローバルNo.1企業となること」を掲げており、買収に踏み切った。
求人企業のレビューサービスを展開する米国企業Glass Doorの買収を決定。リクルートが運営するIndeedの求人検索と相乗効果が高いと判断し、買収に踏み切った。
FY2021にリクルートHDは当期利益2977億円(前年同1316億円)を計上し、過去最高益を達成した。Indeedを中心とするHRテクノロジー事業が収益貢献した一方、派遣事業は相対的に低収益に陥る。
買収や投資による自己資金の用途がないことから、自社株買を決定
Indeedを中心とするHRテックの業績拡大で、リクルートHDの米国地域における売上高が1兆円を突破
買収や投資による自己資金の用途がないことから、自社株買を決定