創業地大阪市
創業年1921
上場年1961
創業者江崎利一

独立系・個人創業発明・特許・学術シーズ起点新市場の前夜・市場創造1921年、栄養で国民の体位向上をめざす食養運動が広がるなか、江崎利一氏が大阪で合名会社江崎商店を創業した。有明海の牡蠣の煮汁に多く含まれるグリコーゲンを、病人の薬ではなく健康な人の体位を高める食品に用い、嗜好品の菓子に混ぜて広めるという着想があった。翌1922年に大阪三越で売り出した栄養菓子グリコは、ハート型の粒と「一粒三百メートル」の標語、玩具のオマケで他社との違いをつくった。森永・明治に資本で数百倍の開きがある後発ながら、栄養という価値と売り方の工夫で菓子市場に食い込んだ。

歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く

1921年〜1953年 牡蠣のグリコーゲンに賭けた栄養菓子グリコの創業と戦災からの復興

牡蠣の煮汁から生まれた栄養菓子と大阪三越での船出

江崎グリコの創業者である江崎利一氏は、1882年に佐賀県神崎郡蓮池村で薬種業を営む家に生まれ[1]、家業の薬販売のかたわらブドウ酒のはかり売りで身代を築いた。1919年ごろ、有明海の牡蠣を煮る漁師の煮汁がグリコーゲンを多く含むという薬業雑誌の記事を思い出し、九州帝国大学医学部に分析を依頼したところ、含有量は36〜43%に達していた[2]。栄養学者の佐伯矩博士がグリコーゲンの価値を学会で説いていた時期にあたり[3]、江崎利一氏は病気を治す薬ではなく健康な人の体位を高める食品にこの成分を用いる道を選んだ。そして嗜好品である菓子に混ぜて広めるという着想に至った。

1921年4月、江崎利一氏は一家をあげて大阪へ移り、栄養菓子グリコの製造販売を目的に資本金6万円の合名会社江崎商店を興した[4]。当時の菓子業界は森永が資本金1500万円、明治が750万円という規模で[5]、後発の小資本での船出だった。ハート型の型抜き、食欲を刺激する赤箱、両手を挙げてゴールインする少年の商標、そして一粒に300メートル走るカロリーがあるとうたう「一粒三百メートル」の標語を自ら考案し[7]、翌1922年2月、大阪の三越で発売にこぎ着けた[6]。何度も納入を断られながら通い詰めて一流店から売り出す策をとり、この2月11日をのちに創立記念日と定めた。

発売直後は返品が相次ぎ、資金は三分の一に減って高利貸しに頼るほど経営は苦しかった。江崎利一氏は家族と従業員に耐乏生活を宣言する一方、風味袋の試供品、クーポンつき引き札、無人販売機など創意による販売策を次々に打った。とりわけ玩具のオマケは[8]、菓子と玩具を子供の二大天職と見て別々の箱を一つにする仕組みまで作り込み、グリコを他社と分ける特色に育てた。1924年秋、三越に持ち込んでから2年8か月を経てようやく収支が黒字に転じ、翌1925年には従業員150人規模の豊崎工場へ移った[9]

ビスコの創製と株式会社化、松下幸之助らとの交友

1929年、事業の伸長に合わせて合名会社を改組し、資本金100万円の株式会社江崎とした[10]。牡蠣の煮汁から始めた小さな菓子屋は、創業から10年足らずで資本金百万円の株式会社になった。1931年12月には、アメリカの工場視察で学んだ設備思想を取り入れた御幣島工場(大阪市西淀川区)を完成させ[11]、鉄道沿線からよく見える立地を宣伝にも生かした。1934年にはグリコ株式会社、1943年には江崎グリコ株式会社へと商号を改め[12]、菓子を軸とする事業の骨格を固めた。

1933年、江崎利一氏はグリコに次ぐ第二の柱としてビスコを創製した[13]。酵母を配合したビスケットで、業界で不可能とされた脂肪を用いたサンドクリームの製法を確立し、栄養で国民の体位を高めるという創業以来の理念を受け継いだ。江崎利一氏はこれを、従業員に創業の苦労を追体験させる第二の創業と呼んだ。同じころ松下電器の松下幸之助氏と出会って意気投合し、サントリーの鳥井信治郎氏らを交えた「文なし会」を結成した[14]。無一物から身を起こした大阪の経営者どうしの交わりは、のちに「大阪六人男」と呼ばれた。

事業の広がりに合わせ、江崎利一氏は社会への還元にも動いた。1934年には母と子の健康増進を掲げる財団法人母子健康協会を設立し[15]、健康優良幼児の表彰などを続けた。海外では1935年に奉天、1939年に天津へ工場を設け[16]、上海への進出や南洋でのカカオ栽培を計画した。もっとも、これらの大陸・南方事業は戦時統制と太平洋戦争の激化で相次いで中断し、原料の窮乏とともに国内生産も抑え込まれていった。

戦災による全工場焼失からの再建と株式公開

太平洋戦争の末期、江崎グリコの工場は軍需生産に組み込まれた。1944年には国内工場の大半が航空機生産へ転換させられ、大阪の工場は住友系のプロペラ工場、東京の工場は航空機部品を担う江崎航空となった。爆撃の標的となった結果、1945年4月に東京工場、6月に大阪工場をいずれもほぼ焼失し、海外資産も接収された[17]。創業以来営々と築いた事業は、江崎利一氏の言葉を借りれば完全に振り出しへ戻った。

焼け跡に立った江崎利一氏は、工場も機械も焼けたが全国の消費者に刻まれたグリコの信用は焼けていないと従業員に語り、食堂の一隅に社長室を構えて再建に着手した。戦後の混乱を越えて事業は回復し、資本金は終戦時の250万円から1951年に1000万円へ増えた[18]。1950年には次期後継者と定めていた長男の江崎誠一氏を39歳で失う痛手もあった[19]が、江崎利一氏は再び陣頭に立ち、アーモンドグリコやカレー、乳製品へと事業の裾野を広げた。

復興を果たした江崎グリコは、資本市場からの調達にも乗り出した。1953年には九州工場を新設するとともに大阪の店頭で株式を公開し、翌1954年3月に大阪証券取引所へ株式を上場した[20]。栄養菓子一本で始めた個人商店は、創業から30年余りを経て、証券取引所に株式を上場する公開企業になった。

1954年〜1975年 冷菓・チョコレートへの多角化と減量経営が生んだ高収益体質

アイス・チョコ・ガム・カレーへの多角化と二度の株式上場

上場を機に、江崎グリコは菓子の枠を越えた総合食品化へ進んだ。1957年にアイスクリーム、1958年にチョコレート、1960年にはチューインガムとカレーへと製造品目を相次いで広げ[21]、菓子・冷菓・食品を束ねる事業構成の原型を作った。1961年5月には東京証券取引所にも株式を上場し[22]、関西発祥の菓子メーカーは全国的に事業を広げる企業になった。

食品事業の拡大は乳業にも及んだ。江崎グリコは動物性たんぱく質の供給と自社製菓への原料確保を狙い、各地の農家と組んで乳業会社を設けていった。1966年にはこれら乳業子会社7社を合併してグリコ協同乳業を発足させ[23]、牛乳・乳製品を菓子・冷菓に並ぶ事業の柱に据えた。手を汚さず食べられる棒状の菓子群も、この総合食品化のなかで育っていった。

40年不況を機に転じた減量経営と少品種大量生産

高度成長の裏で、江崎グリコは拡大のひずみを抱えていた。1960年3月期から1964年3月期にかけて売上高は2.7倍に伸びた一方、売上債権は5.2倍、借入金は6.2倍に膨らみ[24]、末端の売れ行きを無視した生産と販売が財務を悪化させていた。1965年前後の不況を機に、当時社長だった江崎利一氏は自ら陣頭に立って方針を転換し[25]、末端で売れる分だけを出荷する体制へ切り替えた。全国の府県に置いた支店を7支店に整理し、次々に新製品を得意先へ送り込む売り方も見直した。

転換の柱は少品種大量生産だった。江崎グリコは売上高の9割超を占める菓子部門の生産品種を約30種に絞り、100種を超える明治や森永に比べて[26]棚卸資産と流通在庫を圧縮した。1975年3月期の従業員数は1667人で、明治の7117人、森永の5268人に対し際立って少なく[27]、少数精鋭と重点集中を貫いた。製菓機械を自社で開発する力を土台に独創的な商品を出し、地域を限って集中的に広告を投じる売り方も、この少品種大量生産の体制を支えた。

明治を利益で抜いた1975年の「出世株」とロングセラー

減量経営の成果は1970年代半ばに表れた。オイルショック後の不況下で、1975年9月中間期の経常利益は43億円と前年同期比で5割増え、菓子最大手の明治製菓や森永製菓を利益で上回った[28]。売上高では明治や森永の半分ほどにとどまりながら利益で先行した事実が市場の評価を集め、江崎グリコ株は1975年に年初の287円から大納会の1560円へ5倍超に値上がりし、その年最大の「出世株」と呼ばれた[29]

高収益体質を支えたのは、時代を越えて売れ続けるロングセラーだった。棒状ビスケットのプリッツにチョコレートをかけたポッキーは、手を汚さずに食べられる新しい形の菓子として定着した[30]。少ない品種に生産と広告を集中する減量経営のもとで、ポッキーやプリッツ、ビスコといった定番商品は改良を重ねながら長く主力に座り続けた。独創的な商品を自社の製菓機械で作り込む開発力が、長く売れ続けるこの商品群を支えた。

1976年〜2000年 タイグリコに始まる海外生産の拡大とグリコ森永事件からの再起

タイグリコとフランス合弁が広げたポッキー・プリッツの海外生産

江崎グリコの海外生産は東南アジアで先手を打った。1970年4月、資本金100万バーツでタイグリコを設立し、翌1971年から現地生産を始めた[31]。棒状ビスケットのプリッツと、それにチョコレートをかけたポッキーを主力に据え、原材料費が日本の4分の1以下、有力な競合が不在という市場をいち早く押さえた。売上高は初年度の378万バーツから1975年に2400万バーツへ伸び、シンガポールや香港への輸出基地の役割も担った[32]

1982年には、フランスのジェネラルビスケット社と合弁でGenerale Biscuit Glico Franceを設立し、ポッキーを現地名「ミカド」として欧州で生産・販売し始めた[33]。日本発の棒状チョコ菓子は、国ごとに名前を変えて各国の市場へ広がっていった。同じ1982年には食肉・食料品を手がけるグリコ栄養食品を子会社化し[34]、菓子以外の食品領域も広げた。ポッキーとプリッツを軸とする海外生産は、のちのアジア各国での合弁設立へとつながっていった。

創業者の死とグリコ森永事件による経営の試練

1980年2月、創業者で取締役会長の江崎利一氏が97歳で世を去った[35]。その4年後の1984年3月、江崎グリコは戦後の企業史に残る事件に見舞われる。当時の江崎勝久社長が自宅から誘拐され、その後も「かい人21面相」を名乗る犯人が青酸を入れたと脅す菓子をばらまき[36]、小売店からグリコ製品が回収される事態に至った。世に言うグリコ・森永事件で、脅迫は森永製菓など他社にも広がった。

事件は江崎グリコの経営を直撃した。青酸入りの脅迫で全国の店頭から製品を撤去せざるを得ず、この時期の売上高は約2割減り、17億円の営業赤字に転落した[37]。犯人は検挙されないまま、社長誘拐など一連の事件は1994年から2000年にかけて相次いで時効を迎えた[38]。江崎グリコは製品の安全包装を強化しながら販売を立て直し、消費者の信頼を取り戻す取り組みで危機を乗り越えた。

機能性菓子とオフィスグリコによる成熟市場での需要創造

1980年代後半以降、江崎グリコは成熟した菓子市場で需要をつくり出す商品開発に力を注いだ。歯の健康を訴えるガムや、就寝前のリラックスを掲げるギャバなど、機能や心理に訴える付加価値型の菓子を送り出した。1999年には、菓子を詰めた専用ボックスを職場に置く無人販売のオフィスグリコを大阪で始め[39]、置き薬の発想を菓子に持ち込んだ新しい販路として全国へ広げた。

こうした商品開発の一方で、大阪・道頓堀を走るゴールインの看板に代表されるグリコのブランドは、菓子の枠を越えた大衆的な認知を保ち続けた。もっとも、2000年前後には明治のチョコスナックが独走するなど競争は激しく、看板商品でも品切れや販売休止を招く読み違いが生じた[40]。江崎グリコは試験販売を重ねて全国展開に慎重を期す売り方で、成熟市場での消耗戦に向き合った。

2001年〜2025年 グローバル化と創立100周年後の経営構造改革

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

アイクレオ買収とアジア合弁による海外事業の主力化

2000年代の江崎グリコは、国内の成熟を海外とM&Aで補う方向へ転じた。2001年には乳幼児用粉ミルクのアイクレオを子会社化し[41]、育児分野へ足場を広げた。海外では、1990年代に参入した中国・上海の菓子事業に続き、2011年に韓国の菓子大手ハイタイと、2013年にインドネシアのウイングスグループとそれぞれ合弁会社を設けた[42]。ポッキーやプリッツを軸にアジアでの現地生産と販売を厚くし、海外事業を全社の主要な柱に育てた。

海外事業の比重は数字にも表れた。2018年3月期に海外事業を独立したセグメントとして開示し始め、翌2019年3月期の海外事業売上高は515億円に達した。米国やASEANでの買収・合弁が積み上がり、2018年にはサンフランシスコのチョコレートメーカーTCHOを取得するなど地域を広げた[43]。国内で培ったブランドを海外市場へ移し替える戦略が、連結売上高を押し上げた。

決算期変更・製造再編と連結業績の推移

経営の土台づくりも進んだ。2019年に江崎グリコは決算期を3月末から12月末へ変更し、2019年12月期は9か月の変則決算となった[44]。海外子会社と決算期をそろえ、グローバル経営の管理を一本化する狙いだった。2020年には、全国に分かれていた連結製造子会社14社の事業をグリコマニュファクチャリングジャパンへ集約し[45]、菓子・冷菓・乳製品の生産体制を再編した。

連結の稼ぐ力は緩やかに厚みを増した。売上高は2006年3月期の2610億円から2016年3月期以降は3300億円台へ乗せ、2017年3月期には営業利益が243億円とこの時期の最高水準に届いた。もっとも、原材料高や海外の採算悪化が重なり、2024年12月期の営業利益は111億円、2025年12月期は87億円へと伸び悩んだ。売上高は2025年12月期に3614億円と過去最高を更新する一方、利益水準の回復は課題として残った。

創立100周年とアクティビスト・DXが迫る構造改革

2022年、江崎グリコは1922年のグリコ発売から数えて創立100周年を迎えた。同年に東京証券取引所の再編でプライム市場へ移り[46]、パーパスを掲げた中期経営計画のもとで事業構造の見直しに入った。2023年1月には、長く続いた事業部制を組み替え、ヘルスサイエンスやグローバルブランド、乳業などを軸とする体制へ移行した[47]。100年の節目に、菓子メーカーから健康・グローバルを掲げる食品企業への転換を打ち出した。

転換期の江崎グリコには、外からの圧力も加わった。2024年3月の株主総会では、米アクティビストのダルトン・インベストメンツが複数の株主提案を行い[48]、会社提案に予想外の反対票が集まる事態が「グリコショック」として市場の話題を集めた。同年には食のサブスクリプションを手がけるGreenspoonを子会社化し[49]、事業の裾野を広げた。一方、2025年には基幹システムをSAPへ切り替える過程で物流が混乱し、プッチンプリンなどの出荷が一時止まる事態も起きた[50]。創業家出身の江崎悦朗社長のもとで、江崎グリコは100年企業としての構造改革を続けている。