1921年〜 牡蠣の煮汁を薬でなく菓子に載せた創業と、全工場焼失からの再建
- 1921年 グリコーゲンを成分とする栄養菓子グリコの製造販売を開始
- 1921年 江崎利一氏が合名会社江崎商店を創立
- 1922年 大阪三越でグリコを発売。(のちに創立記念日と定める。)
- 1929年 江崎商店に組織変更
- 1933年 ビスコを創製し製造販売を開始
- 1934年 グリコに商号変更
- 1943年 江崎グリコに商号変更
牡蠣のグリコーゲンを菓子に載せる判断と、大阪三越からの船出
江崎グリコの創業者である江崎利一氏は、1882年12月23日に佐賀県神崎郡蓮池村の薬種業を営む家に生まれた[1]。1901年6月に父清七氏を亡くし、19歳で弟妹を含む6人家族の全責任を負った[2]。家業の薬販売のかたわら1915年からブドウ酒の量り売りを手がけ、大樽で仕入れて小びんに詰め替える商いは翌年に1万3千円の利益を生んだ[3]。1919年春、有明海に近い筑後川堤防沿いの川原で牡蠣を煮る作業を見た[4]江崎利一氏は、煮汁が捨てられているのを知り、牡蠣には多量のグリコーゲンが含まれるという薬業雑誌の記事を思い出した。一升びん2本分の廃液を煮つめて九州帝国大学医学部の早船氏へ分析を依頼したところ、グリコーゲンの含有量は36〜43%あり、鉄分も含まれていた[5]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [1]江崎利一 1882年12月23日 佐賀県神崎郡蓮池村の薬種業の家に生まれる
- [2]1901年6月 父清七の死去により19歳で6人家族の責任を負う
- [3]1915年 ブドウ酒の量り売りに着手、翌年の利益 1万3千円
- [4]1919年春 筑後川堤防沿いで牡蠣の煮汁を見てグリコーゲンの事業化を着想
- [5]九州帝国大学医学部の分析でグリコーゲン含有量 36〜43%、鉄分も含有
事業化の向きを決めたのは、10歳の長男誠一氏がチフスにかかり医師がさじを投げたときの経験[6]だった。江崎利一氏は医師の許可を得て牡蠣のエキスを飲ませ、誠一氏は快方に向かった[7]。製薬業界では三共がグリコナール錠を先に世へ出していた[8]が、江崎利一氏は薬にすれば病人にしか届かないと読み、健康な人が毎日口にする菓子に混ぜる道を選んだ[9]。つくだ煮やびん詰め、ふりかけゴマも試したうえでアメ菓子に決め、1921年4月、41歳で妻エキ氏と3人の子を連れて大阪へ移った[10]。ブドウ酒の商いに使っていた堀江の店をそのままグリコの本拠に充て、資本金6万円で発足した[11]。同じころの資本金は森永が1500万円、明治が750万円[12]で、後発の小資本での船出だった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [6]10歳の長男誠一のチフス罹患と牡蠣エキスによる回復が事業化の契機
- [7]医師の許可を得て牡蠣のエキスを飲ませ長男誠一が快方に向かった
- [8]三共がグリコナール錠を先行発売
- [10]1921年4月 41歳で一家をあげて大阪へ移住、堀江の店を本拠とする
- [11]創業時の資本金 6万円(当時 森永1500万円・明治750万円)
- [12]当時の資本金 森永1500万円・明治750万円
- 日経ビジネス 1977年5月9日号「頭はいくら使っても減らない」江崎利一(江崎グリコ会長)インタビュー
- [9]薬でなく健康な人が食べる菓子へグリコーゲンを載せる判断
商品名と商標は中身より先に決まり、江崎利一氏はペンギンや象の鼻を含む5案を小学校の廊下に張り出して子供に選ばせ[13]、両手を挙げてゴールインする姿を採った。標語は500メートルでは大げさ、100メートルでは弱いと考えて「一粒三百メートル」に定め、実際に一粒には体重40キロの人が300メートル走るだけのカロリーを持たせた[14]。粒はハート型の型抜きに成功し、包装は森永にならった黄色が通り相場だったところを赤箱に変えた[15]。無名の新製品を一流商店から売り出そうと三越へ通い詰め[16]、断られても頼み続けて、1922年2月11日に売り場へ並べ、この日を創立記念日と定めた[17]。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号「頭はいくら使っても減らない」江崎利一(江崎グリコ会長)インタビュー
- [13]ゴールインの商標は5案を小学校で子供に選ばせて決定
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [14]「一粒三百メートル」は体重40キロの人が300メートル走るカロリーに相当
- [15]粒はハート型、包装は森永の黄色に対し赤箱を採用
- [16]一流商店から売り出す方針で三越へ通い詰めた
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】
- [17]1922年2月11日 大阪三越でグリコを発売、創立記念日と定める
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [1]江崎利一 1882年12月23日 佐賀県神崎郡蓮池村の薬種業の家に生まれる
- [2]1901年6月 父清七の死去により19歳で6人家族の責任を負う
- [3]1915年 ブドウ酒の量り売りに着手、翌年の利益 1万3千円
- [4]1919年春 筑後川堤防沿いで牡蠣の煮汁を見てグリコーゲンの事業化を着想
- [5]九州帝国大学医学部の分析でグリコーゲン含有量 36〜43%、鉄分も含有
- [6]10歳の長男誠一のチフス罹患と牡蠣エキスによる回復が事業化の契機
- [7]医師の許可を得て牡蠣のエキスを飲ませ長男誠一が快方に向かった
- [8]三共がグリコナール錠を先行発売
- [10]1921年4月 41歳で一家をあげて大阪へ移住、堀江の店を本拠とする
- [11]創業時の資本金 6万円(当時 森永1500万円・明治750万円)
- [12]当時の資本金 森永1500万円・明治750万円
- [14]「一粒三百メートル」は体重40キロの人が300メートル走るカロリーに相当
- [15]粒はハート型、包装は森永の黄色に対し赤箱を採用
- [16]一流商店から売り出す方針で三越へ通い詰めた
- 日経ビジネス 1977年5月9日号「頭はいくら使っても減らない」江崎利一(江崎グリコ会長)インタビュー
- [9]薬でなく健康な人が食べる菓子へグリコーゲンを載せる判断
- [13]ゴールインの商標は5案を小学校で子供に選ばせて決定
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】
- [17]1922年2月11日 大阪三越でグリコを発売、創立記念日と定める
返品と銀行倒産をしのいだ販売の工夫、広告で選んだ御幣島の立地
発売してからの2年半は資金が減る一方で、46円の小切手不足を銀行から催促されて日歩15銭の高利貸しに頼った[18]。江崎利一氏は住み込みの店員14人に向こう3年間は下着と下駄以外の新調を禁じると告げた[19]。撤退を進言した販売員には「私は一人になってもやり通す。城を枕に討ち死にする覚悟の者だけついてこい」と応じた。打った手は、グリコ2粒を入れた風味袋の試供品、クーポン1枚と4銭で5銭のグリコに引き替える引き札、5銭を入れて1個取る公徳販売機[21]だった。公徳販売機は神社のおみくじから思いつき、16年間も売店を禁じてきた浜寺海水浴場に置かせた[22]。1924年秋、三越へ持ち込んでから2年8か月で収支は黒字に転じた[23]。 [20]
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [18]46円の小切手不足で日歩15銭の高利貸しに借金
- [19]住み込みの店員14人へ3年間の耐乏生活を宣言
- [20]撤退を進言した販売員へ「私は一人になってもやり通す」と応じた
- [21]風味袋・クーポンつき引き札・公徳販売機による販売策
- [22]公徳販売機を16年間売店を禁じていた浜寺海水浴場に設置
- [23]1924年秋 三越納入から2年8か月で黒字転換
1925年1月、江崎グリコは豊崎の世界ゴム工場の中に敷地250坪を借りて移り、従業員150人の工場を構えた[24]。ところがその夏には深追いした出荷の反動で返品が山積し、負債は6万2千円に達した[25]。同じ時期に6万4千円で整理したB製菓との差は2千円しかなく、返品の処理には約1年半を要した[26]。1927年4月の金融恐慌では、取引を集中していた近江銀行が倒産して手持ちの現金が260円まで減った[27]。江崎利一氏は第一銀行の野口支店長を訪ねてその場で取引を開いてもらい[28]、手形を割り引かせて危機を抜けた。この前後に豆玩具の封入を始め、1929年からはオマケとグリコを別々の箱に収めて連結するオマケサックを売り出した[29]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [24]1925年1月 豊崎の世界ゴム工場内へ移転、敷地250坪・従業員150人
- [25]1925年夏の返品で負債6万2千円、6万4千円で整理したB製菓との差は2千円
- [26]返品処理に約1年半を要した
- [27]1927年4月 近江銀行の倒産で手持ち現金260円まで減少
- [28]第一銀行の野口支店長に直談判して取引を開始
- [29]1929年 オマケサックを考案、豆玩具の封入は1927年ごろから
1929年2月、合名会社江崎を資本金100万円の株式会社江崎へ改組した[30]。翌1930年8月、江崎利一氏はテーラー協会が主催するアメリカ工場視察団に上野陽一氏を団長とする12名の一人として加わり、120か所の工場を見て回った[31]。新工場の立地は、地価の安い神崎大橋付近と大阪・神戸間の鉄道沿線にある御幣島を、広告としての価値で比べて決めた[32]。チラシは配布の経費を入れて1枚5厘かかるのに対し、汽車から工場を眺める人は1人あたり8毛で6分の1の費用にとどまった[33]。1931年12月、御幣島に新工場が完成し、初めて稼働した日は江崎利一氏の48回目の誕生日にあたった[34]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「グリコ」の項
- [30]1929年2月 合名会社江崎を資本金100万円の株式会社江崎へ改組
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [31]1930年8月 テーラー協会のアメリカ工場視察団に参加、団長 上野陽一・団員12名・120か所
- [32]新工場の候補地は吹田西部・御幣島・神崎大橋付近の3か所から広告価値で選定
- [33]工場立地はチラシ1枚5厘に対し工場を眺める1人8毛と広告費で比較して決定
- [34]1931年12月 御幣島工場が完成、稼働初日は江崎利一の48回目の誕生日
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [18]46円の小切手不足で日歩15銭の高利貸しに借金
- [19]住み込みの店員14人へ3年間の耐乏生活を宣言
- [20]撤退を進言した販売員へ「私は一人になってもやり通す」と応じた
- [21]風味袋・クーポンつき引き札・公徳販売機による販売策
- [22]公徳販売機を16年間売店を禁じていた浜寺海水浴場に設置
- [23]1924年秋 三越納入から2年8か月で黒字転換
- [24]1925年1月 豊崎の世界ゴム工場内へ移転、敷地250坪・従業員150人
- [25]1925年夏の返品で負債6万2千円、6万4千円で整理したB製菓との差は2千円
- [26]返品処理に約1年半を要した
- [27]1927年4月 近江銀行の倒産で手持ち現金260円まで減少
- [28]第一銀行の野口支店長に直談判して取引を開始
- [29]1929年 オマケサックを考案、豆玩具の封入は1927年ごろから
- [31]1930年8月 テーラー協会のアメリカ工場視察団に参加、団長 上野陽一・団員12名・120か所
- [32]新工場の候補地は吹田西部・御幣島・神崎大橋付近の3か所から広告価値で選定
- [33]工場立地はチラシ1枚5厘に対し工場を眺める1人8毛と広告費で比較して決定
- [34]1931年12月 御幣島工場が完成、稼働初日は江崎利一の48回目の誕生日
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「グリコ」の項
- [30]1929年2月 合名会社江崎を資本金100万円の株式会社江崎へ改組
第二の創業ビスコから大陸・南洋への進出、そして全工場の焼失
新工場ができると気の緩みが出ると考えた江崎利一氏は、次の柱を作る仕事を第二の創業と呼び、1933年2月にビスコを売り出した[35]。当時のビスケット界では10年の歴史を持つカルシウム入りのカルケットが首位にあり、ビスコは酵母入りで対抗した[36]。サンドクリームをビスケットへ付けるのに業界が不可能としていた脂肪の使用を研究し[37]、これに成功した製法はのちに業界へ広がった。1934年1月には商号をグリコへ改め[38]、同じ年には年間50万円の純益を見込めるようになったのを機に財団法人母子健康協会を設立した[39]。鈴木梅太郎氏や嘉納治五郎氏を顧問・理事に迎え、健康優良幼児の審査と表彰を毎年続けた[40]。
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】
- [35]1933年2月 ビスコを創製し製造販売を開始
- [38]1934年1月 商号をグリコへ変更
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [36]ビスケット首位のカルケット(カルシウム入り)に酵母入りで対抗
- [37]業界が不可能としていた脂肪を用いたサンドクリームの製法を確立
- [39]1934年 年間純益50万円の見通しを機に財団法人母子健康協会を設立
- [40]母子健康協会の顧問・理事に鈴木梅太郎、嘉納治五郎ら
ビスコを世に出したころ、江崎利一氏は新聞社の招待で泊まった熱海のホテルで松下幸之助氏と同室になり[41]、無一物から身を起こした境遇が似ていたことから意気投合して、大阪へ戻ってから二人で「文なし会」をつくった。会にはサントリーの鳥井信治郎氏、中山製鋼、寿重工、堀抜帽子の各社長が加わって6人となり、のちに「大阪六人男」と呼ばれた[42]。事業の広がりは海外へも向かい、1933年の大連博覧会で満鉄理事の伊沢道雄氏から奉天進出を勧められた[43]江崎利一氏は、現地を視察してその場で工場建設を決めた。1935年に奉天、1939年に天津へ工場を持ち[44]、1940年には南洋のポナペ島にカカオの栽培加工を担うグリコ南洋産業を設立し、高碕達之助氏が発起人として加わった[45]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [41]熱海のホテルで松下幸之助と同室になり「文なし会」を結成
- [42]文なし会にサントリー鳥井信治郎ら6人が集い「大阪六人男」と呼ばれた
- [43]1933年の大連博覧会で満鉄理事 伊沢道雄から奉天進出を勧められた
- [45]1940年 南洋のポナペ島にグリコ南洋産業を設立、発起人は高碕達之助
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「グリコ」の項
- [44]1935年 奉天工場、1939年 天津工場
1940年を頂点に統制と原材料の窮乏で生産は抑えられ、配給用のグリコはオマケを外した白い箱に変わった[46]。1943年2月には商号を江崎グリコへ改め[47]、1944年には軍の要請で国内工場の大部分が航空機生産へ転換した。大阪の工場は住友化工機塚本工場としてプロペラを、東京の工場は富士航空の子会社となった江崎航空が航空機部品を作った[48]。1945年4月に東京工場、6月に大阪工場をいずれもほぼ焼失し、海外資産も接収された[49]。江崎利一氏は焼け跡で、焼けなかった最大の資本はグリコの看板だと従業員に語り、戦災を免れた1937年型ビュイックを17万5千円で売って原料の水あめ代に充てた[50]。1945年12月には大阪工場の一部を復旧して農林省と大阪府発注の乾パンを作り始め、1951年3月に東京工場、9月に大阪工場の復旧を終えた[51]。1950年には後継者と定めていた専務の長男誠一氏を39歳で失い、江崎利一氏はふたたび陣頭に立った[52]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [46]1940年を頂点に統制強化で生産抑制、配給用グリコはオマケを外した白い箱
- [48]1944年 国内工場の大部分が航空機生産へ転換、大阪は住友化工機塚本工場・東京は江崎航空
- [49]1945年4月に東京工場、6月に大阪工場を焼失、海外資産も接収
- [50]戦災を免れた1937年型ビュイックを17万5千円で売却し原料代に充当
- [52]1950年 後継者と定めていた専務の長男 江崎誠一を39歳で失った
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】
- [47]1943年2月 商号を江崎グリコへ変更
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「グリコ」の項
- [51]1945年12月 大阪工場の一部を復旧し農林省・大阪府発注の乾パン製造を開始、1951年3月に東京工場・9月に大阪工場の復旧を完了
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】
- [35]1933年2月 ビスコを創製し製造販売を開始
- [38]1934年1月 商号をグリコへ変更
- [47]1943年2月 商号を江崎グリコへ変更
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- [36]ビスケット首位のカルケット(カルシウム入り)に酵母入りで対抗
- [37]業界が不可能としていた脂肪を用いたサンドクリームの製法を確立
- [39]1934年 年間純益50万円の見通しを機に財団法人母子健康協会を設立
- [40]母子健康協会の顧問・理事に鈴木梅太郎、嘉納治五郎ら
- [41]熱海のホテルで松下幸之助と同室になり「文なし会」を結成
- [42]文なし会にサントリー鳥井信治郎ら6人が集い「大阪六人男」と呼ばれた
- [43]1933年の大連博覧会で満鉄理事 伊沢道雄から奉天進出を勧められた
- [45]1940年 南洋のポナペ島にグリコ南洋産業を設立、発起人は高碕達之助
- [46]1940年を頂点に統制強化で生産抑制、配給用グリコはオマケを外した白い箱
- [48]1944年 国内工場の大部分が航空機生産へ転換、大阪は住友化工機塚本工場・東京は江崎航空
- [49]1945年4月に東京工場、6月に大阪工場を焼失、海外資産も接収
- [50]戦災を免れた1937年型ビュイックを17万5千円で売却し原料代に充当
- [52]1950年 後継者と定めていた専務の長男 江崎誠一を39歳で失った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「グリコ」の項
- [44]1935年 奉天工場、1939年 天津工場
- [51]1945年12月 大阪工場の一部を復旧し農林省・大阪府発注の乾パン製造を開始、1951年3月に東京工場・9月に大阪工場の復旧を完了