1919年〜 缶詰商が持ち帰った国産マヨネーズと製販分離で築いた食品会社の骨格
- 1919年 食品工業として設立
- 1925年 キユーピーマヨネーズの製造を開始
- 1938年 稲野工場を新設
- 1938年 マヨネーズ・フルーツ缶詰の製造を開始
- 1948年 一時中止していたマヨネーズの製造を再開
- 1951年 東京工場を新設、マヨネーズの製造
- 1957年 社名を食品工業からキユーピーへ変更
海外実習で得た栄養思想が生んだ日本初の国産マヨネーズ
創始者の中島董一郎氏は缶詰会社の若狭商店に勤めたのち、1912年に農商務省の海外実業練習生として英米へ渡り、約3年の滞在でマヨネーズとオレンジママレードに出会った。栄養状態の乏しかった当時の日本人の体格を食で底上げしたいという発想がここで芽生え、帰国後の1918年に缶詰販売の中島商店を、翌1919年には東京・中野に製造会社の食品工業株式会社を設けて、ソース類や缶詰の生産から事業を起こした。輸入頼みだった洋風調味料を国内で作るという構想は、留学で得た知見を事業へ翻訳したものだった。 [1][2]
- 日本食糧新聞(2019年6月26日)
- [1]中島董一郎は農商務省の海外実業練習生として英米に渡りマヨネーズに出会った
- キユーピー 有価証券報告書【沿革】
- [2]1919年に東京・中野で食品工業株式会社を設立した
1925年、食品工業は卵黄を使った国産初のマヨネーズを製造・販売した。栄養価の高い卵黄タイプは欧米の一般的な全卵型と異なる独自の設計で、商品名には当時人気だったキャラクターのキユーピーを冠した。食の洋風化が緒に就いたばかりの市場で家庭にマヨネーズを根づかせる仕事は容易でなく、普及には長い年月を要したが、この一品が同社を調味料メーカーへ導く出発点になった。乳化と缶詰の技術は、のちにジャムやパスタソース、さらには介護食といった新たな加工食品を生む土台にもなった。 [3][4]
- キユーピー 有価証券報告書【沿革】
- [3]1925年にマヨネーズの製造を開始した
- [4]商品名に人気キャラクターのキユーピーを採用した
- 日本食糧新聞(2019年6月26日)
- [1]中島董一郎は農商務省の海外実業練習生として英米に渡りマヨネーズに出会った
- キユーピー 有価証券報告書【沿革】
- [2]1919年に東京・中野で食品工業株式会社を設立した
- [3]1925年にマヨネーズの製造を開始した
- [4]商品名に人気キャラクターのキユーピーを採用した
中島董商店による販売分業とジャム事業アヲハタの発祥
食品工業は製造に徹し、販売は中島董一郎氏が営む中島董商店が担うという分業の形で、まだ家庭になじみの薄かったマヨネーズを地道に世へ広げた。作り手と売り手を分けるこの体制は1972年まで続き、販路の開拓と得意先との関係づくりを商店側が引き受けることで、製造会社は生産と品質の改良に資源を集中できた。原料の入手が困難になった戦中には製造を一時中断したが、1948年にマヨネーズの生産を再開し、戦後の食生活の洋風化とともに失った需要を取り戻した。 [5][6]
- キユーピー 有価証券報告書【沿革】
- [5]1948年にマヨネーズの製造を再開した
- [6]製造は食品工業、販売は中島董商店が担い1972年まで分業した
マヨネーズと並ぶもう一つの柱がジャムであり、その源流は1932年に中島董一郎氏が全額出資して広島県竹原市忠海に設けた旗道園にさかのぼる。ブランド名のアヲハタは、英国滞在中に見たケンブリッジとオックスフォードのボートレースで両校が掲げた青一色の校旗に由来し、当初のアオハタから字面の整うアヲハタへ改めた。缶詰と乳化の技術を果実加工へ応用したこのジャム事業は、後年キユーピーの連結子会社として本体と結びつき、グループの食の幅を支える存在になった。 [7][8]
- [7]1932年に中島董一郎が出資して旗道園を設立しアヲハタの源流となった
- [8]アヲハタの名は英国ボートレースの青い校旗に由来する
- キユーピー 有価証券報告書【沿革】
- [5]1948年にマヨネーズの製造を再開した
- [6]製造は食品工業、販売は中島董商店が担い1972年まで分業した
- [7]1932年に中島董一郎が出資して旗道園を設立しアヲハタの源流となった
- [8]アヲハタの名は英国ボートレースの青い校旗に由来する