1902年〜 三澤屋商店の創業と、関西進出の失敗が招いた会社更生法
- 1902年 食料品卸商三澤屋商店として創業
- 1905年 ソースの製造販売を開始
- 1926年 京橋区永島町にブルドックソース食品を設立
- 1931年 本社を京橋区八丁堀に移転
- 1934年 本社を日本橋兜町に移転
- 1935年 鳩ヶ谷工場を新設
- 1954年 会社更生法による再建と、以後の無借金・手元流動性重視という財務体質の定着 破綻の記憶は、いかにして無借金・換金性資産温存の財務体質を生んだか
食料品卸から家庭用ソース専業への分岐
ブルドックソースは1902年、小島仲三郎氏が東京で食料品卸商の三澤屋商店を興した[1]ことに始まる。三澤屋商店は1905年にソースの製造販売を開始[2]し、洋風調味料を扱う卸から製造へ踏み込んだ。1926年9月21日[3]には、個人企業であった三澤屋商店を母体としてブルドックソース食品を京橋区永島町に設立[4]し、商標をブルドックのマークに改めて営業を開始した[5]。本社は1931年12月に京橋区八丁堀へ、1934年5月に日本橋兜町へ移り[6]、1935年6月には埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設した[7]。1940年10月には商号をブルドック食品へ[8]改めた。
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1902年 小島仲三郎が東京で食料品卸商の三澤屋商店を創業
- [2]1905年 ソースの製造販売を開始
- [4]1926年9月 京橋区永島町にブルドックソース食品を設立(三澤屋商店の製造部門を分離)
- [6]1931年12月 本社を京橋区八丁堀へ移転、1934年5月 本社を日本橋兜町へ移転
- [7]1935年6月 埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設
- [8]1940年10月 ブルドック食品に商号変更
- [3]設立は大正15年(1926年)9月21日
- [5]個人企業であった三沢屋商店を母体としてブルドックソース食品として設立し、商標をブルドックのマークに改め営業を開始
1944年3月、外来語の使用が禁じられたため社名を三澤工業へ変え、1945年12月に再びブルドック食品へ戻した[9]。戦中および戦後の一時期は原料の入手難から生産を中止しており[10]、その時期を除けば業績は順調だった。1952年7月には本社を中央区日本橋兜町11番5号へ移し[11]、以後この地を本店としている。1935年6月に開いた鳩ヶ谷工場は、1998年4月に群馬県の館林工場が加わるまで、同社のソース生産を担う唯一の拠点[12]であり続けた。上場を申請した1973年の時点でも、事業所は本社と鳩ケ谷工場の二つ[13]にとどまった。
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [9]1944年3月 外来語使用禁止により社名を三澤工業へ商号変更、1945年12月 再びブルドック食品へ商号変更
- [11]1952年7月 本社を中央区日本橋兜町11番5号へ移転
- [12]1998年4月 群馬県に館林工場を新設(それまで鳩ヶ谷工場が唯一の生産拠点)
- [10]原料の入手難から生産を中止した戦中および戦後の一時期を除いて業績は順調
- [13]おもな事業所は本社および鳩ケ谷工場
- ブルドックソース 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1902年 小島仲三郎が東京で食料品卸商の三澤屋商店を創業
- [2]1905年 ソースの製造販売を開始
- [4]1926年9月 京橋区永島町にブルドックソース食品を設立(三澤屋商店の製造部門を分離)
- [6]1931年12月 本社を京橋区八丁堀へ移転、1934年5月 本社を日本橋兜町へ移転
- [7]1935年6月 埼玉県に鳩ヶ谷工場を新設
- [8]1940年10月 ブルドック食品に商号変更
- [9]1944年3月 外来語使用禁止により社名を三澤工業へ商号変更、1945年12月 再びブルドック食品へ商号変更
- [11]1952年7月 本社を中央区日本橋兜町11番5号へ移転
- [12]1998年4月 群馬県に館林工場を新設(それまで鳩ヶ谷工場が唯一の生産拠点)
- [3]設立は大正15年(1926年)9月21日
- [5]個人企業であった三沢屋商店を母体としてブルドックソース食品として設立し、商標をブルドックのマークに改め営業を開始
- [10]原料の入手難から生産を中止した戦中および戦後の一時期を除いて業績は順調
- [13]おもな事業所は本社および鳩ケ谷工場
関西進出の失敗と会社更生法による再建
関西進出計画の失敗などを原因として経営が行き詰まり[14]、1954年に会社更生法の適用を受けた[15]。後年に社長を務めた佐藤和雄氏は、この破綻を「会社更生法の適用を受けるに至ったのは、事業そのものの失敗ではなかった。創立者の二代目が株に興味を持って、そんな個人的な問題から会社更生法の適用を受けるようになったわけです」と振り返っている。佐藤氏は自らを「その当時この会社に席を置いていなかった」と断りつつ、更生法の適用を受けた社員が「非常にショックを受けたのではないか」と述べ、商品そのものが調味料という地味なものであったため会社の性格も同様の傾向があった[17]と語った。 [16]
- [14]関西進出計画の失敗などを原因として経営が行き詰まった
- [15]昭和29年(1954年)に会社更生法の適用を受けた
- [16]会社更生法の適用は事業の失敗ではなく創立者の二代目の株式投資という個人的問題が原因と佐藤和雄・当時社長が証言
- [17]佐藤和雄・当時社長は更生法適用時に在籍しておらず、社員が非常にショックを受けたと述べ、商品が調味料という地味なもので会社の性格も同様の傾向があったと証言
再建にあたった佐藤和雄氏は、破綻を「契機に堅実な、石橋を叩くような経営体制を取ってきました[18]」と述べている。人については「社員に働く意欲、生きがいを与えて、内部から盛り上がる力を養成しようと努めました[19]」と語った。更生の過程では更生債権が株式へ振り替えられた[20]。堅実な経営方針と、国民の食生活が洋風化して需要が増えたことが重なり、再建計画は当初の予定を上回って進み、1959年に更生債務を一掃した[21]。更生手続を抜けた同社は、鳩ヶ谷の一工場でソースを作る体制を保ったまま、関東・東北・北海道へ販売を築いた[22]。
- [18]佐藤和雄・当時社長は更生法を契機に堅実な、石橋を叩くような経営体制を取ってきたと証言
- [19]佐藤和雄・当時社長は社員に働く意欲・生きがいを与え内部から盛り上がる力を養成しようと努めたと証言
- [20]資本の変遷に更生債権振替の記載
- [21]堅実な経営方針と食生活の洋風化による需要増で再建計画は当初予定を上回って推移し、昭和34年(1959年)に更生債務を一掃
- [22]その後は関東・東北・北海道に販売を築いた
- [14]関西進出計画の失敗などを原因として経営が行き詰まった
- [15]昭和29年(1954年)に会社更生法の適用を受けた
- [20]資本の変遷に更生債権振替の記載
- [21]堅実な経営方針と食生活の洋風化による需要増で再建計画は当初予定を上回って推移し、昭和34年(1959年)に更生債務を一掃
- [22]その後は関東・東北・北海道に販売を築いた
- [16]会社更生法の適用は事業の失敗ではなく創立者の二代目の株式投資という個人的問題が原因と佐藤和雄・当時社長が証言
- [17]佐藤和雄・当時社長は更生法適用時に在籍しておらず、社員が非常にショックを受けたと述べ、商品が調味料という地味なもので会社の性格も同様の傾向があったと証言
- [18]佐藤和雄・当時社長は更生法を契機に堅実な、石橋を叩くような経営体制を取ってきたと証言
- [19]佐藤和雄・当時社長は社員に働く意欲・生きがいを与え内部から盛り上がる力を養成しようと努めたと証言