歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1831年、京都烏丸松原で飯田新七が古着と木綿を扱う店を構え、屋号は妻の父の出身地である近江国高島郡から取った。京都を本店とする呉服商の時代が長かったが、1909年に髙島屋飯田合名会社を設立し、1919年に株式会社髙島屋呉服店へ改組して京都・大阪心斎橋・東京京橋の三都に店を構えた。1930年に商号を髙島屋とし大阪南海店を開き、1933年に東京店を日本橋へ移して大阪・東京の両証券取引所へ上場し、家業の呉服商から近代百貨店企業への移行を終えた。
決断1956年の国鉄新宿駅ビル進出は地元商店街の反対運動で挫折し、首都圏旗艦店は1991年公表の新宿店出店まで35年先送りとなった。組織でも独自の道を選び、1957年からは地方資本や地元金融機関と組みやすい地域子会社方式で全国へ広げた。さらに1963年設立の東神開発で商業施設運営を、1986年設立の髙島屋クレジットで金融機能を外部に委ねず社内に置き、本業の百貨店に不動産と金融を自前で抱える構造をつくった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1831年〜1988年 京都の古着商から株式会社化と地域子会社方式での全国網形成
御堂筋整備に賭けた難波出店と三都体制
1831年に京都烏丸松原で飯田新七が古着と木綿を扱う店を構えたのが高島屋の起点で、屋号は妻の父の出身地である近江国高島郡から取った[1][2][3]。1909年に資本金100万円で髙島屋飯田合名会社を設立、1919年8月20日には株式会社髙島屋呉服店へ改組し、京都下京区烏丸通に本店を置きつつ大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町にも店舗を構える三都体制を敷いた[4][5]。京都を本店とした単一拠点の呉服商から、東西を結ぶ三都市で同時に店舗を運営する近代企業への移行は、創業から約1世紀を要した。1928年の業界記事は、富裕層向け路線の三越に対し、高島屋と松坂屋を実質本位の大衆向け百貨店として並置して論じており(京城日報 1928/6/7)、株式会社化と時を同じくして高島屋の業界での位置取りも富裕層特化型から大衆百貨店型へ移っていた。
1930年12月に商号を「株式会社髙島屋」へ改め、同月に大阪南区難波の南海ビル内へ南海店を開設した[6][7]。出店の前提は当時整備が始まった大阪市の御堂筋拡幅と地下鉄計画で、地下鉄第一期工事の梅田・難波間は1933年5月に開通した。当時の業界紙は心斎橋・難波間に高島屋・大丸・十合が大玄関を構える御堂筋沿道を大阪のショッピング街と評し(大阪時事新報 1936/7/17)、別の業界紙は南海ビルの店賃負担の重さを開店当初から懸念材料として伝えた(中外商業新報 1930/10/2)[8][9]。難波店は1933年3月の東京店日本橋移転と同年の大阪・東京両証券取引所上場へ連なり、家業の呉服商から近代百貨店企業への組織転換を終えた[10]。御堂筋整備と地下鉄延伸という都市インフラに賭けた難波の立地選択は、戦後に本店が大阪へ移る判断の地ならしとなった。
戦後の1944年3月に本店を京都市から大阪市南区難波へ移し、関西を経営の主軸に据えた[11]。1950年10月に京都市下京区四条河原町で京都店第1期増築を完成、創業の地・烏丸店を1952年に閉鎖した[12][13]。1957年4月に株式会社横浜髙島屋を設けて1959年10月に横浜店を開設、1960年12月に株式会社東京ストア(後の立川髙島屋)、1961年5月に株式会社米子髙島屋、1968年7月に株式会社大宮髙島屋、1970年1月に京葉興業(後の柏髙島屋)と地方ごとに子会社を立ち上げた[14][15][16][17][18]。当時の大手百貨店は既存大都市の旗艦店を中核に直営拡大を選んだのに対し、高島屋は地方資本や地元金融機関と組みやすい子会社方式で全国を広げ、出店の経路で他社と一線を画した。
新宿駅進出阻止という1956年の挫折
東京での店舗網を広げる過程で、1955年から1956年にかけて高島屋は国鉄新宿駅の駅ビル開発(新宿建物による地下1階・地上2階・3億円規模)への参画をめざした。当時の社長飯田直次郎は「新宿民衆駅が建設された暁には、高島屋の進出を許可してほしい」(高島屋社史)と国鉄に陳情を重ねた[19]。これに対し新宿の地元商店街は「新宿駅百貨店進出反対期成同盟」を結成し、駅構内に百貨店が入れば乗降客の大半が吸収され新宿商店街はもとより中央線・京王・小田急沿線の商店までもが死活問題に直面すると主張した(新日本経済 1956/2)[20]。東京駅大丸の前例が反対の論拠となり、駅という公共財を一企業が独占する形が地元の警戒心を集める結果となった。
高島屋側は反対論を行き過ぎた懸念と反論し、駅舎単独では採算に乗らないため周辺商店との共存を前提に計画を組んだ立場を強調した(実業の世界 1956/8)[21]。しかし行政は地元の声を採り、1956年8月の業界誌は阻止の顛末を見出しに掲げて計画撤回を伝えた(実業の世界 1956/8)[22]。1950年代に拡張を進めていた伊勢丹や丸物への反発が小さかったのに対し、駅ビル進出という形態が地元の警戒を集中して招いた点が、この計画固有の事情だった。首都圏の核店舗を新宿で持てなかった事実は、その後20年以上にわたって本体の収益地理を東京で弱く、関西で強いという偏った形に押しとどめる原因となった。新宿で挫折した経験は1991年の再挑戦まで、東京での旗艦店戦略を日本橋本店一店体制に縛り続けた。
呉服店からの多店舗展開は三越・大丸・そごうと並ぶ大手百貨店としての全国網を形作った一方、地域子会社が乱立する分散体制も生んだ。1971年4月に株式会社岡山髙島屋、1972年11月に株式会社高崎髙島屋、1974年3月に株式会社泉北髙島屋、1974年8月に株式会社ヤナゲン髙島屋(1976年10月に株式会社岐阜髙島屋へ社名変更)と立て続けに子会社を設立し、1973年5月に岡山店、1977年9月に岐阜店、同年10月に高崎店を順次開業した[23][24][25][26][27][28][29]。グループは1980年代までに10を超える地方子会社を抱え、店舗数と本体売上は伸びたが、連結子会社ごとに分散した組織を整理する課題は先送りされた。新宿で阻まれた首都圏旗艦店の不在も、この間ずっと未解決のまま積み残された。
不動産子会社・東神開発と髙島屋クレジットの内製
1963年12月、髙島屋は東神開発株式会社を設立した[30]。当初の役割は1969年11月開設の玉川店の開発運営など本体の百貨店用地を扱う裏方に近かったが、商業施設運営のノウハウをここで蓄えた経験が、後のグループ構造を方向づけた[31]。玉川店は1970年代以降、東京都世田谷区玉川を舞台にした郊外型ショッピングセンター運営モデルへ発展し、後の玉川髙島屋ショッピングセンターへつながった[32]。本体の百貨店事業とは別に、商業施設のテナント誘致・運営・不動産管理を手がける事業会社を社内に置く経路は、後年のROIC経営で独立セグメントとして可視化される商業開発業の出発点となる[33]。
1986年8月には髙島屋クレジット株式会社(現・髙島屋ファイナンシャル・パートナーズ)を設立し、百貨店売上に直結するカード会員基盤を内製化した[34]。クレジットカード機能を外部金融機関に委ねず、自社グループ内の事業会社に置いた判断が、後年に金融業セグメントとして独立した収益源へ育つ素地となった。1980年代までのグループは、本業の百貨店を中心に据えながら、不動産と金融という2つの周辺事業を自前の子会社として抱え込む構造へ移った。中期経営計画でROIC経営の枠組みのもと商業開発業・金融業が独立セグメントとして可視化されるのは2024年だが、その前提となる組織は1960年代から1980年代にかけて積み上がった[35]。
1989年〜2012年 シンガポール進出と地域子会社合併・売上1兆円台からの後退
店舗運営と商業施設開発を一体化したシンガポールモデル
1989年6月、髙島屋はシンガポールにTAKASHIMAYA SINGAPORE PTE.LTD.を設立し、1993年10月にシンガポール髙島屋を開設した[36][37]。日系百貨店のASEAN進出として早い時期の動きで、オーチャードロードのNgee Ann Cityを共同開発する形をとり、店舗運営と商業施設開発を一体で行う方式を採った。本体の髙島屋が百貨店区画を運営し、東神開発系のトーシン・ディベロップメント・シンガポールがショッピングセンター全体を運営する構造は、1990年代前半に整った[38]。この経路は1960年代に東神開発を設立して不動産運営ノウハウを社内に蓄えてきた企業ならではのもので、1980年代から1990年代にかけてアジアへ進出した他の日系百貨店が現地パートナーに運営を委ねた方式と一線を画した。
シンガポール拠点はその後、グループの海外百貨店業の中核となった。2024年2月期にはタカシマヤ・シンガポールが営業収益251億円・営業利益77億円を計上し、海外百貨店セグメントの黒字を支える主力拠点である。シンガポールに拠点を置く商業開発子会社のトーシン・ディベロップメント・シンガポールも、2024年2月期に営業収益108億円・営業利益32億円と安定した利益を上げた。店舗運営と不動産運営をセットで持ち込むという1989年時点の判断は長期で有効だったことが後年の数字で裏づけられ、他のアジア拠点を整える際のひな型としても繰り返し参照された。
1991年新宿出店という35年越しの賭け
1991年11月、髙島屋は東京都渋谷区千駄ケ谷に新宿店(後のタカシマヤタイムズスクエア、1996年10月開業)を出すと公表し、1956年に阻まれた新宿進出を35年越しで実現させた[39]。当時の社長日高啓は「新宿出店は30年来の悲願だっただけに、熱意が認められたのではないか」「首都圏の大きな核店舗にする。日本橋の東京店と新宿店を核にしてシェアを高めていきたい」「開店5年後で単年度黒字を達成したい。新宿商圏はまだまだ広がるはずで、大いに期待できる。そのためには、人件費も含めて軽装備の店舗にする」(日経流通新聞 1991/11/12)と語った[40]。当初年商は約1600億円を見込んだが、業界紙は1000億円を軽く超えると見られる投資額の重さを指摘し、20年先を見据えた賭けと位置づけて報じた(日経新聞 1991/11/7)[41]。
1996年10月に開業した新宿店は、計画値1600億円に対し2013年2月期の売上高が637億円にとどまった[42][43]。賃料を巡っては国鉄清算事業団の後継組織との間で裁判沙汰となり、業界紙では年70億円規模の賃料負担と年商1000億円の目標との乖離を、20年に及ぶ勉強代として総括する論調も出た。一方、2013年3月の東急東横線・東京メトロ副都心線直通開始で導線が変わり、新宿店の3月2〜28日売上高は前年同期比7.5%増となった[44]。1956年の進出阻止、1991年の出店、2013年の流動回復という35年スパンの軌跡は、立地と賃料の重さを高島屋に強く意識させた事例となった。投資の重さは長期で回収する以外になく、新宿店の損益分岐は2010年代を通じて重い課題だった。
関東髙島屋合併と1990年代の地域子会社統合
1990年9月、髙島屋は関東髙島屋を合併し、立川・大宮・柏・高崎の関東4店舗を本体直営に戻した[45]。1995年9月にはさらに横浜・岐阜・泉北・岡山・米子の5社を一括で合併し、1970年代に設立した地域子会社群を本体へ集約した[46]。合併の背景にはバブル崩壊後の地方百貨店不振があり、各地域子会社が単独で採算を維持できなくなり本体の信用とバランスシートで支える必要が出てきたためである。合併と同時期の1996年10月には新宿店が開業し、首都圏旗艦店網を広げる動きと地方子会社の本体集約が並行した[47]。1960年代から積み上げてきた地域子会社方式は、地方経済の縮小とバブル崩壊という外部環境の変化に直面し、本体統合の形で一旦区切りを付けざるを得なくなった。
ただし2003年9月の米子店分社化と2004年4月の岡山・岐阜・高崎の再分社化は合併路線を一部巻き戻した[48][49]。連結子会社として独立採算化し収益責任を切り出す狙いがあり、本体直営で規模の利益を取るか独立子会社で収益責任を可視化するかという二者択一は、その後もコロナ禍まで決着しないままグループの組織課題として残った。合併と分社を往復した組織再編は、地方店舗の収益性をどの水準の経営単位で管理するかという答えの出ない問題をグループが抱え続けた事実を物語る。店舗別・セグメント別に収益責任を切り出す発想は、1990年代から2000年代の試行錯誤を通じて社内に蓄積された。
連結売上高は2002年2月期の1兆2058億円から2005年2月期1兆263億円、2010年2月期8777億円まで後退した。百貨店業セグメント単体でも2006年2月期9281億円から2010年2月期7869億円へリーマンショック前後の数年で1400億円以上の売上が消えた。一方、当時のセグメント名でいう不動産業の営業利益は2006年2月期56億円から2010年2月期64億円とほぼ横ばい、金融業も2006〜2010年2月期に20億円前後の利益を毎期積んだ。2000年代後半、百貨店業セグメントの営業利益率は1〜2%の低空飛行が続き、セグメント資産5000億円強に対する利益効率の低さがあらわになった。同じ百貨店業態で三越伊勢丹や大丸松坂屋が持株会社化や統合に踏み切ったのに対し、高島屋は2008年のエイチ・ツー・オー リテイリングとの経営統合協議が破談となり、外部統合に頼らない単独路線を選んだ。
2013年〜2022年 ASEANデベロッパー化とコロナ禍純損失340億円からの再起
中国・ベトナム・タイへの連続出店と海外戦略の明暗
髙島屋は2012年12月に上海高島屋を開設、2013年9月には上海高島屋百貨有限公司とTAKASHIMAYA VIETNAM LTD.を相次いで設立し、2016年7月にホーチミン髙島屋、2018年11月にサイアム髙島屋(バンコク)と、5年あまりのうちにアジア4か国へ新規出店を重ねた[50][51][52][53]。2013年5月には鈴木弘治から木本茂へ社長が交代し、海外展開の実行期を担った[54]。進出先は百貨店単独ではなく東神開発系のトーシン・ディベロップメント・ベトナムやA&Bディベロップメント(フィリピン)といった不動産子会社とセットで展開する構造を踏襲し、シンガポール時代に整えた店舗運営と商業施設開発を一体で運営する方式が、ASEAN各国へ順次展開された。海外百貨店業の拡大と海外商業開発業の拡大がほぼ並行で進んだのが、2010年代前半の特徴である。
ただしアジア展開の成績は拠点ごとに割れた。シンガポールは黒字を重ね、ベトナムは2024年2月期に営業利益7.7億円と小粒ながら黒字化したが、上海高島屋百貨有限公司は2024年2月期に営業利益12百万円ながら経常損失3.5億円・当期純損失7.6億円と赤字が続き、関係者の間で撤退検討も取り沙汰された。サイアム髙島屋(51%出資)も2024年2月期時点で営業損失4.9億円と赤字のままである。海外百貨店業は拠点別で明暗が分かれ、商業開発業のほうが先にASEAN全体で利益を生み出す構造となった。後の中期経営計画では海外百貨店業よりも海外商業開発業のほうに投資の重心を置く方針が、社内で次第に固まった。
コロナ禍の連結純損失340億円が露わにした本業依存
2018年5月には木本茂から村田善郎へ社長が交代した[55]。就任して2年目にあたる2021年2月期、髙島屋は連結売上高6208億円(前年比△26.8%)、営業損失135億円、純損失340億円という赤字を計上した。百貨店業セグメントは売上5704億円・営業損失213億円と単体での構造問題があらわれ、緊急事態宣言による店舗休業と訪日客消滅の直撃が決算数字に出た。商業開発業は売上369億円・営業利益58億円と黒字を維持したが、本体百貨店の損失を相殺する規模には届かず、連結純損失340億円は1990年代以降で最も深い落ち込みとなった。本業依存というグループの構造的脆さは、コロナ禍という外部ショックを通じて初めて誰の目にも明らかな形で表に出た。1989年からASEAN展開を進めても、利益構造の柱は依然として国内百貨店だった現実が、コロナ前夜まで続いていた裏の事情でもある。
会社はこの年から業務の内製化、物流効率化、デジタル活用によるコスト構造改革を一斉に進め、2022年2月期には連結営業利益41億円で黒字復帰、続く2023年2月期には325億円まで連結営業利益を戻した。2021年2月期に特別損失233億円を計上して店舗閉鎖関連費用と減損を一括処理した結果、翌期以降の損益計算書は身軽になった。立て直しの過程で、百貨店業単体の回復速度よりも商業開発業や金融業の安定収益のほうが頼りになるという認識がグループ内で広く共有され、2024年4月から始まる新中期経営計画でROIC経営の枠組みを本格導入する素地は、コロナ禍からの回復過程のなかで整った[56]。
不採算店舗の整理と地域子会社方式の遺産処理
これと同じ時期、髙島屋は本体の側でも不採算店舗の整理を行った。2020年3月に米子髙島屋の全株式をジョイアーバンへ譲渡し、商標等のライセンス契約のみを残して「JU米子髙島屋」として外部運営に切り替えた[57]。2023年1月末に立川店の百貨店区画、2023年2月1日にタカシマヤフードメゾン新横浜店を閉店し、続いて2024年7月に岐阜店も閉店した[58][59]。立川店は1960年12月設立の東京ストアを源流とする店舗で、60年以上保有した郊外型店舗の看板を外す決断となった[60]。岐阜店も1974年8月設立のヤナゲン髙島屋を源流に持つ店舗で、こちらも50年近い歴史に区切りをつけ、地域子会社方式の遺産が一段ずつ整理された[61]。
関係会社株式評価損(岐阜髙島屋15億円)や減損損失(EC店18億円、大宮店8億円、東神開発7億円等)が決算書上に複数並び、地方店舗とデジタルチャネルの構造問題が数字の上にもあらわれた。連結子会社数は2023年2月期の28社から2024年2月期に27社へ1社減り、ファッションプラザ・サンローゼの清算を含めてグループ会社の整理も並行で進んだ。2022年4月の東証プライム市場への移行を経て、グループは次の中期経営計画でROIC経営を前面に出す準備に入り、本業の縮小と周辺事業の伸長を、報告セグメントの組み換えで開示の側からも外部投資家へ示す方向へ動いた[62]。地域子会社方式に始まり関東・関西の合併へ進み、コロナ禍で米子・立川・新横浜・岐阜の不採算店を閉じる一連の流れは、創業以来の店舗網拡大の振り子が縮小の側へ振れ切ったことを示す事実でもある。