創業地神奈川県川崎
創業年1898
上場年1949
創業者立川勇次郎

独立系・個人創業新市場の前夜・市場創造1898年、東京近郊で立川勇次郎氏らが川崎大師への参詣輸送を狙う大師電気鉄道を設立し、翌1899年に六郷橋〜大師間で関東初の電車営業を始めた。寺社という具体的な集客地を足がかりに短距離鉄道を立ち上げたが、開業からわずか3カ月後には商号を京浜電気鉄道へ改め、川崎・横浜・東京方面への延伸を見据えた。参詣輸送で得た足場を、すぐに東京と横浜を結ぶ都市間鉄道へ広げる発想で、1905年に品川〜神奈川間を全通させた。

業態転換・収益モデルの転換多角化・事業拡張戦時統合で1942年に大東急へ吸収され京急ブランドは一度消えたが、1948年に小田急・京王とともに分離独立した。再独立後は百貨店・バス・不動産・レジャーを子会社化し、鉄道沿線の暮らし全般を担う総合企業へ広げた。1968年に都営浅草線との都心直通、1975年に三崎口までの延伸で沿線網を完成させ、1998年に羽田空港へ乗り入れた。これにより主力は東京〜三浦半島の沿線鉄道から、空港アクセス鉄道へと移った。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1899年に川崎大師の参詣輸送で始めた鉄道が、開業3カ月で京浜間の都市鉄道へ広がったのか
A 寺社という人の集まる場所は、需要が読みやすく短い区間でも採算が立つため、新規参入の足場になりやすい。立川勇次郎氏らはまず川崎大師の参詣客に的を絞り、1899年1月に六郷橋〜大師間で関東初の電車営業を始めた。しかし参詣需要だけでは伸びしろが乏しく、同年4月には商号を大師電気鉄道から京浜電気鉄道へ改め、東京と横浜を結ぶ都市間輸送を前提とする会社に組み替えた。社名が示すとおり京浜間の直結を狙い、1905年12月に品川〜神奈川間を全通させて東京〜横浜輸送の主軸の一角を占めた
Q なぜ1998年の羽田空港乗り入れが、京急の主力を沿線鉄道から空港アクセス鉄道へ移したのか
A 沿線人口の伸びが頭打ちになる一方、羽田空港の沖合展開で発着枠と利用客が膨らみ、その空港へ都心から人を運ぶ路線こそ安定した需要源になると見込めた。京急は1993年に天空橋まで延ばし東京モノレールとの接続でアクセスに加わったが、乗り換えが残った。そこで1998年11月に天空橋〜羽田空港間を開通させ、ターミナルビルへ電車を直通させて乗り換えのない優位を握った。2010年10月の羽田空港国際線ターミナル駅開業で国際線需要も取り込み、東京〜三浦半島の沿線鉄道に並ぶ収益の柱を空港輸送に得た
Q なぜ2024年に創業以来の象徴拠点である品川駅西口の土地をトヨタへ譲渡し、不動産回転型ビジネスへ移ったのか
A コロナ禍で全事業が落ち込み連結純損失272億円を抱えるなか、巨額の品川再開発を自前の資金だけで進めるのは重く、土地を抱え続けるより流動化して回すほうが資本効率を高められた。京急は2024年3月期に品川駅西口の高輪3丁目の土地持分の一部をトヨタ自動車へ譲渡して特別利益956億円を計上し、純利益838億円を稼いだ。シナガワグース跡地はトヨタとの共同で延床約31万平方メートルのオフィス・ホテル・MICE複合ビルへ建て替え、2029年度の開業を予定する。久里浜線の複線化を凍結し減損損失101億円を計上して沿線投資を畳む一方、保有不動産を売って資金を回す不動産回転型へ事業の形を組み替えた

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1898年〜1947年 川崎大師参詣鉄道から大東急統合までの50年

関東初の電車営業を始めた大師参詣鉄道

1898年2月、川崎大師への参詣輸送を目的とする大師電気鉄道株式会社が資本金9万8千円で設立された[1]。創業者の立川勇次郎氏らは、参詣需要を狙う短距離鉄道として企画し、1899年1月に六郷橋〜大師間で営業を開始した[2][3]。これは関東で最初の電車営業であり、京浜地区における電気鉄道の第1号として記録された[4]。営業区間はわずか数キロにとどまったが、宗教的集客地への参詣輸送という具体的な需要を起点に事業を立ち上げた点で、創業の発想は明確だった。原田一之氏は2023年の母校講演で、わずか2kmの路線ながら京急が戦略として仕掛けた大師詣が後の初詣として定着した経緯を説明している[5]

開業からわずか3カ月後の1899年4月、商号を京浜電気鉄道株式会社に変更し、川崎・横浜・東京方面への事業領域拡張を見据えた体制に踏み切った[6]。短距離の参詣鉄道として始まった事業は、沿線都市への延伸を前提とする都市間鉄道へと早期に方向を転換させた格好で、社名変更は経営方針の転換を対外的に示す位置にあった。京浜間という用語が示すとおり、東京と横浜を結ぶ輸送路線の主軸を目指す構想が、創業翌年の社名にすでに織り込まれていた。1905年12月には品川〜神奈川間の全通を実現し、京浜間を直結する電気鉄道網が完成した[7]

京浜直結と湘南電鉄合併で三浦半島まで貫通

1905年の品川〜神奈川間全通により、京浜電気鉄道は東京〜横浜輸送の主軸の一角を占めた[8]。続く1925年12月、三浦半島の鉄道整備を目的に湘南電気鉄道株式会社が資本金1,200万円で設立され、1930年4月には黄金町〜浦賀間と金沢八景〜湘南逗子間が開通した[9][10]。湘南電鉄は別資本の独立会社として発足したが、京浜電鉄との接続を視野に置く路線設計をとり、1933年4月に品川〜浦賀間の電車直通運転を相互に開始した。京浜・湘南の2社が直通運転を通じて事実上一体の輸送圏を形成し、三浦半島南端までの都市間鉄道ネットワークの原型が1933年に整った[11]

1941年11月、京浜電鉄は湘南電気鉄道と湘南半島自動車を合併し、三浦半島の鉄道とバス事業を一つの経営体に統合した[12]。湘南電鉄ブランドはここで消滅し、京浜電鉄が東京〜三浦半島の輸送圏を一社で握る体制が完成した。鉄道とバスを束ねる輸送網と、沿線開発を前提とする土地基盤を、戦時下に入る直前のタイミングで揃えた格好にあたる。1927年8月にはすでに一般乗合旅客自動車運送事業を始めており、鉄道と並走するバス事業への多角化も1920年代後半から積み上げていた[13]。よって戦前期の京浜電鉄は、参詣鉄道の出発点から40年余で東京〜三浦半島の総合輸送会社へと事業領域を拡張した。

戦時統合 ── 大東急への吸収と京急ブランドの消滅

1942年5月、戦時統合の国策のもと、京浜電気鉄道は小田急電鉄とともに東京横浜電鉄に合併され、商号は東京急行電鉄に変更された[14]。国は陸上交通事業調整法に基づく路線整理を進めており、関東私鉄の集約は政策的に決められた経路を辿った。京浜電鉄が44年間積み上げた京浜〜三浦半島の輸送圏は、大東急の一部門として吸収され、京急ブランドはここで一度消滅した。同社の経営判断ではなく、戦時下の交通統制が会社の存立そのものを変えた経緯にあたる。立川勇次郎氏らによる創業期の独立会社としての歴史は、戦時統合で一区切りとなった[15]

戦時期の大東急は、東京・神奈川・静岡東部にまたがる広域鉄道網を一社で運営する巨大私鉄となり、京浜・湘南・小田原・京王・井の頭の各路線を傘下に置いた。戦後の鉄道事業は、戦時下の路線統合で組織が肥大化した結果、地域ごとの経営判断と財務の透明性に課題を残した。戦時統合は短期的には資源集中と運行効率化に寄与した一方、戦後の社会構造のなかで分割再独立の必要性が早期に浮上した。京浜電鉄の旧経営陣も、戦時統合下で大東急の一部門として運営に関与しながら、戦後の再独立を視野に置いた準備を進めた。よって1948年6月の分離独立は、戦時統合の解消というより、戦前期の独立経営への復帰という性格を持つ出来事だった[16]

1948年〜2002年 大東急からの分離独立と羽田乗入による収益構造変質

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

再独立と沿線生活総合企業への多角化

1948年6月、小田急電鉄・京王帝都電鉄とともに、京浜急行電鉄株式会社が東京急行電鉄から分離独立し、資本金1億円で再独立した[17]。社名に「急行」を冠して旧京浜電鉄からの連続性を明示し、翌1949年5月には東京証券取引所に株式上場を果たした[18]。再独立から1年で公開市場での株式流動性を得た格好で、戦後復興期の資本調達手段を早期に確保した。京急の実質的な創立は1898年の大師電鉄まで遡るものの、現在の事業体としては1948年の分離独立が出発点であり、戦後の沿線開発と多角化は再独立後の経営判断によるものだった[19]

1950年代の京急は、鉄道事業の周辺領域への子会社化を連続して進めた。1954年1月に大森水上レクリェーション(現京急開発)、同年6月に川崎鶴見臨港バス、同年8月に京浜百貨店(現京急ストア)を相次いで子会社化し、レジャー・バス・流通の3領域へ事業を広げた[20][21][22]。1958年9月には京急興業(現京急不動産)を設立し、不動産事業へも参入した[23]。1968年4月の京急油壺マリンパーク開業はレジャー事業の象徴施設となり、1971年7月にはホテルパシフィック東京を開業してホテル事業の本格運営にも入った[24][25]。鉄道輸送を軸に沿線生活全般を担う「沿線生活総合企業」への移行が、再独立後20年で形を取った。

都心直通と三崎口延伸 ── 沿線フル形成の完成

1968年6月、品川〜泉岳寺間の開通により都営浅草線との直通運転の前提が整い、京急の電車が都心の浅草・押上方面へ直通する体制が動き出した[26]。創業以来の起点だった品川駅から先の都心部へ列車を乗り入れさせる構造変化で、沿線住民の通勤輸送と都心アクセスの利便性が一段引き上げられた。1975年4月には三浦海岸〜三崎口間が開通し、本線の終点が三崎口まで延伸された[27]。1899年の六郷橋〜大師間営業開始から76年を経て、三浦半島南端までの鉄道網がようやく完成した[28]。京浜〜三浦半島という創業期からの構想は、戦時統合と再独立を挟みつつも、再独立後27年で線路上の到達点を迎えた。

1983年11月には京急第1ビル(ウィング高輪)を品川駅前で開業し、駅前商業施設運営の本格化に入った[29]。1995年9月には横須賀リサーチパーク(YRP)の分譲を開始し、横須賀市内の研究開発拠点を沿線に整備する開発に着手した[30]。1996年10月には上大岡京急ビルおよび京急百貨店を開業し、横浜南部の旗艦商業施設を構えた[31]。1989年12月には京急百貨店の独立子会社化も実施した[32]。鉄道沿線の駅前開発と商業施設運営という事業領域は、1980年代後半から1990年代にかけて積み上げられたもので、鉄道輸送と沿線開発の相乗効果を狙う構造が一段強化された。

1998年羽田空港乗入で収益構造が変質

1998年11月、天空橋〜羽田空港間が開通し、京急の電車が羽田空港ターミナルへ直通する体制が完成した[33]。羽田空港アクセス鉄道の実現は、京急の収益構造を変えた戦略インフラで、羽田空港を経由する都心〜国内航空需要のかなりの部分を取り込む位置を得た。京急蒲田駅で本線と空港線が交差する複雑な線形は、後年の連続立体交差事業(2012年10月に上下線高架化完了)で解消され、下り線をホーム3階に、上り線を2階に振り分けることで上下交差を解消し、本数増にもつながったと原田一之氏は2014年のインタビューで説明している[34][35]

羽田空港乗入は、京急の主力を「東京〜横浜〜三浦半島の沿線鉄道」から「羽田空港アクセス鉄道」に移す転換点となった。2010年10月には羽田空港国際線ターミナル駅(現羽田空港第3ターミナル駅)を開業し、羽田空港の国際化に対応した新駅を加えた[36]。国際線需要の拡大に合わせて空港アクセス鉄道としての収益力が増強された格好にあたる。京急蒲田駅高架化が2012年10月に完了し、本線と空港線の運行効率も向上した[37]。羽田空港関連の鉄道インフラ投資は、原田一之氏が2014年のインタビューで具体的な数字は伏せつつもハード面での先行投資の効果が出始めていると述べたとおり、長期にわたる回収局面に入った[38]

2003年〜2024年 バス分社化からコロナ直撃と品川開発への賭け

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

バス完全分社化と本社横浜移転 ── 沿線回帰の象徴

2003年4月に京浜急行バス株式会社を設立し、同年10月には自動車事業を承継させて完全分社化を実施した[39][40]。1927年以来76年間、鉄道とバスを一体運営してきた構造を切り離し、鉄道とバスを独立採算化する経営判断にあたる[41]。バス事業の収益構造は鉄道とは異なり、人件費比率の高さや路線ごとの収支差が大きい特性をもつため、独立した経営単位として運営する判断が下された。2008年10月にはユニオネックスを子会社化してスーパー事業を取り込み、2013年4月には京急ストア(存続会社)とユニオネックスが合併して流通事業の集約も進めた[42][43]。事業ごとの単位を明確化するグループ再編が2000年代を通じて積み上げられた。

2019年9月、京急は本社を東京都港区から神奈川県横浜市に移転し、京急グループ本社を完成させた[44]。本社所在地が初めて沿線内に置かれた格好で、原田一之氏は2020年のカナロコ取材で横浜を京急グループの中心地と位置付け、横浜駅32万人・品川駅28万人という乗降人員の規模差を移転理由として挙げた[45]。横浜本社化は単なる事務所移転ではなく、グループ求心力を沿線に集約する象徴的な経営判断で、品川を起点としつつも経営の重心を沿線地域に置き直す方針を対外的に示した。沿線価値向上を軸に据えるグループ経営の姿勢が、本社所在地の選択にも反映された。

コロナ禍で連結純損失272億円 ── 戦後最大の試練

2020年から始まった新型コロナウイルス感染拡大は、鉄道・ホテル・バス・流通の全セグメントを直撃した。FY20(2021年3月期)の連結売上高は2,350億円で前年から778億円減少し、営業損失184億円・親会社株主に帰属する当期純損失272億円を計上した[46][47]。鉄道輸送人員は前年比30.5%減となり、シナガワグース解体費88億円・ホテル減損19億円を特別損失に計上した[48][49]。原田一之氏はカナロコの取材で、不景気で人の移動が減ることは過去にもあったがこれほどの急減は経験がなく戦後最大の試練だと語り、京急が直面した需要急減の規模を示した[50]

2021年5月策定の京急グループ総合経営計画(2021〜2023年度)では、品川・羽田・横浜を「成長トライアングルゾーン」と位置付け、早期の営業利益回復と財務健全性維持を最優先方針として掲げた[51]。原田一之氏は2021年1月のカナロコ取材で、感染終息までに数年を要する見込みだが足元で仕込みを止めればコロナ後に立ち行かなくなるとして、将来への備えとして必要な事業はそのまま進める方針を示し、コロナ禍下でも品川駅西口(高輪3丁目)開発をはじめとする長期投資を継続することを明示した[52]。2021年9月には1968年開業の京急油壺マリンパークを53年で閉館し、沿線レジャー事業の象徴施設の運営を終えた[53]

品川駅西口土地譲渡で純利益838億円 ── 高輪3丁目開発への賭け

2024年3月期(FY23)、京急は品川駅西口(高輪3丁目)の土地持分の一部をトヨタ自動車に譲渡し、特別利益956億円を計上した[54]。連結営業利益280億円に対し、親会社株主に帰属する当期純利益は838億円で前期比約430%の急増を記録した[55]。創業以来の象徴拠点である品川駅周辺の土地を、共同開発パートナーへ一部譲渡して資金化した経営判断は、高輪3丁目開発の本格化に向けた財務的な布石にあたる。2025年5月の決算説明会で経営陣は「高輪3丁目の本格稼働は2030年度からと考えており、この時期からフリーキャッシュフローがプラスに転じる想定」(2024年5月13日 決算説明会QA)と説明し、長期回収の前提を示した[56]

2024年7月には京急アセットマネジメント株式会社を設立し、不動産アセットマネジメント事業への参入を表明した[57]。同年9月には長野京急カントリークラブ事業を会社分割により他社に承継し、沿線外事業のリストラを並行して進めた[58]。第20次総合経営計画(2024〜2026年度)では、品川駅西口の高輪3丁目地区(2029年度開業予定)・駅街区地区・高輪4丁目地区の3エリアの再開発と、不動産回転型ビジネスへの本格移行を中核に据えた[59]。FY25(2026年3月期)には京急百貨店ビルの将来修繕計画と久里浜線複線化凍結に伴う減損損失101億円を計上し、過去の沿線投資の見直しも並行して進めた[60]

川俣幸宏氏が2022年に第25代社長に就任した後、京急は鉄道事業の構造変革と品川開発への資金集中を並行して進めた。川俣社長は2024年のインタビューで、品川駅周辺で高輪3丁目地区・駅街区地区・高輪4丁目地区の3エリアの開発を担っていると説明し、品川を東京の玄関口となる交通結節点と位置付けた[61]。1898年の川崎大師参詣輸送から始まった京浜急行電鉄は、127年を経て品川駅西口の再開発を経営の主軸に据える鉄道兼不動産デベロッパーへと事業内容を再編した[62]。創業期からの京浜直結の発想は、現代では品川エリア再開発と羽田空港アクセスの2軸に再編成された。

出典

ダイヤモンド・オンライン(2014年6月3日, ダイヤモンド社)
カナロコ(2020年1月29日, 神奈川新聞)
カナロコ(2021年1月19日, 神奈川新聞)
タウンニュース(2023年3月31日) 「自前主義から連携で勝つ発想」
京急グループ決算説明会QA(2024年5月13日)
決算説明会QA 2024年05月13日
経済界(2024年8月4日)
京浜急行電鉄 有価証券報告書
京急グループ総合経営計画
第20次総合経営計画