1912年に飯能町の平沼専蔵氏らが設立した武蔵野鉄道が起源。
1950年に西武園遊園地を開き、1978年には西武ライオンズを発足させて、沿線を行楽と野球の地に育てた。池袋線と新宿線を幹線とする首都圏西北部の大手私鉄で、2006年に西武ホールディングスの完全子会社となった。
堤康次郎氏が武蔵野鉄道の支配権を得たのは、株を買い集めたからではない。差し押さえと破産申し立てに追われた会社の整理を引き受け、強制和議で債権の75パーセントを免除させ、残りを増資優先株による代物弁済に振り替えた結果である。現金はほとんど動いていない。債権者は元本の大半を諦める代わりに株主の列へ並び、堤氏は7年の時間と信用を差し出して経営権を手にした。土地を買う資金と鉄道を買う資金では桁が違うが、潰れかけた鉄道なら前者の何分の一かで足りる。1937年8月の和議認可は、武蔵野鉄道の再建が成ったという記録であると同時に、堤氏による取得が完了したという記録でもあった。
ではなぜ、その損な役回りを引き受けたのか。武蔵野鉄道の沿線に約100万坪の土地を持ち、大泉学園を経営していたからである。分譲地の価格は、そこへ通う電車が動くかどうかで決まる。幽霊電車と呼ばれる速度でしか走らない路線を抱えたまま土地は売れず、路線が他人の手に渡れば運賃も本数も自分の都合では動かせない。多摩湖鉄道を自ら創立したのも同じ理由による。村山貯水池を観光地にする計画が先にあり、線路はそれを実現する手段として敷かれた。堤氏にとって鉄道の経営権は事業の目的ではなく、土地の値段を自分で決めるための条件だった。
武蔵野鉄道が敷かれるまで、埼玉県の飯能から東京へ出る道は限られていた。陸路は所沢と田無を経て四谷大木戸へ至る本道、水路は川越新河岸から午後に出る川船へ乗り翌朝に浅草花川戸へ着く経路の二つだけで、秩父側の名栗や吾野からは木材を筏に組み、名栗川と吾野川を下って荒川づたいに千住まで運んでいた。1887年に入間川馬車会社が飯能と入間川を結び、1895年3月に川越鉄道が開通すると、飯能の住民は馬車で入間川町へ出て、そこから鉄道で国分寺へ回り、中央線で新宿に入るようになった。この川越鉄道が、のちに旧西武鉄道となる会社である。飯能は東京の西北にありながら、他社の線を乗り継いでしか都心へ届かない地区だった。
鉄道を敷く動きは地元の有志から起こった。1910年2月、飯能町の平沼専蔵氏を筆頭とする有志が鉄道敷設運動準備会を組織して政府を動かし、翌1911年10月に池袋・飯能間43.8キロメートルの鉄道敷設認可を受けた。1912年5月7日、資本金100万円で武蔵野鉄道株式会社が設立され、社長には平沼氏が就いた。建設は認可後ただちに始まり、1915年4月、汽車による池袋・飯能間の営業が始まっている。飯能を中心とする産業の興隆が交通事情に阻まれていたことが、この路線を敷く機運を作っていた。沿線の産業が求めて引かれた線であり、都心側の需要から逆算して引かれた線ではなかった。
開業から7年後、武蔵野鉄道は動力の切り替えに入った。池袋から飯能までを汽車で走らせていた会社は、1922年から電化工事に着手し、1925年12月までに全線を電車へ切り替えている。続いて1927年10月に練馬・豊島園間、1929年5月に西所沢・狭山湖間、同年9月に飯能・吾野間を相次いで開通させ、池袋から吾野まで57.9キロメートルの現在の池袋線が完成した。会社はこの区間の完成をもって社礎を確立したと記録している。ただし路線を広げた分だけ債務も膨らみ、その負担が次の10年を決めることになった。
後年に西武鉄道の社長を継いだ小島正治郎氏は、身を起こしたのは不動産だと言われたほど、堤康次郎氏はこの分野に明るかったと評している。実際に堤氏の出発点は鉄道ではなく土地で、いくつもの事業でつまずいてから土地開発へ移り、箱根・軽井沢の開発に手をつけて初めて人生の道が開けたと回想に書いている。この経験が、土地開発と交通機関は切り離せないという考えを生み、多摩湖鉄道の創立に先立って駿豆鉄道の大株主となり、重役として実際の運営を押さえていた。運輸業としての鉄道より先に、開発地へ人を運んで土地の価値を実現させる装置としての鉄道が堤氏にはあった。
東京市が村山貯水池の建設を進め、周囲3里の人造湖ができあがろうとしていた時期に、堤氏はこの湖一帯を大きな観光地に育てるつもりで鉄道を興したと書いている。こうして1928年に資本金100万円で創立されたのが多摩湖鉄道で、のちの西武鉄道多摩湖線である。創立の2年目に国分寺・村山間が開業し、国内初のガソリンカーが走った。すぐ隣の山口貯水池は計画すら固まっておらず、線路のほうが湖より先に延びたことになる。沿線住民を運ぶためではなく、都心の行楽客を湖へ運ぶための路線であった。
武蔵野鉄道の沿線で、堤氏は約100万坪の土地を所有し、大泉学園の経営にもあたっていたので、この路線の行方を放っておけなかった。多摩湖鉄道の創立と並行して、池袋・吾野間を走るこの会社の株もかなり保有しており、当時の株主構成は浅野財閥・安田財閥・堤氏の三者でおおむね分かれ、経営はどの系統にもつかない専務の小林に任されていた。経営に乗り出すつもりはその頃なかったと堤氏は記すが、分譲地の値打ちを左右する鉄道が手の届かない所で動く状態は長く続かなかった。
1930年代に入ると、武蔵野鉄道は多少の事件と経営の不手際が重なって行き詰まった。池袋線を吾野まで延ばして路線を完成させた直後にあたる。大株主であった浅野家と安田家に話し合いを持ちかけた結果、立て直しは堤氏が引き受けることになった。堤氏が引き受けた会社の状態は深刻で、客の目の前で窓口の金を持っていかれることに閉口したと本人は書き残している。取り立てていたのは社債を引き受けていた富国徴兵保険と金融業者の馬越文太郎氏で、主な駅の出札窓口に連日張りつき、運賃収入がたまる頃を見はからって次々に差し押さえた。差し押さえから逃れようと、債権者に頼んで鉄道財団を強制管理の下に置いたものの、東京電灯への未払金20万円はこの仕組みでは払えずに電圧を下げられ、電車はのろのろとしか走れなくなって幽霊電車のあだ名がついたという。
電気の問題に決着がついた矢先、堤氏は馬越氏から破産の申し立てを受けた。最後の手段として選んだのが強制和議の申し立てで、条件の柱は各和議債権の75パーセントを免除させ、残りを増資優先株による代物弁済で払うというものだった。1937年8月に東京区裁判所がこれを認可し、整理に着手してから足かけ7年を経て、武蔵野鉄道はようやく再生の緒についた。債権者は元本の大半を放棄して株を受け取り、会社は現金を使わずに債務を資本へ振り替えたことになる。整理を終えた会社は3年後の1940年3月、堤氏が創立した多摩湖鉄道を合併する。国分寺・村山貯水池間9.9キロメートルを持つこの会社の資本金は、合併の時点で33万円まで縮んでいた。
合併は多摩湖鉄道だけで終わらなかった。武蔵野鉄道と、高田馬場―本川越間をそれと並んで走る旧西武鉄道、この2社を一つにしたいと堤氏は願い続けながら、その間にも1941年10月の秩父自動車、同年11月の日本企業、1944年9月の東京セメントと合併を重ねている。1942年、八田嘉明氏が武蔵野鉄道株の売却を持ちかけると、堤氏は、事業は生きものであって苦労を分け合った従業員もろとも会社を手放すのは人身売買と変わらないとして拒み、反対に東武鉄道社長だった原邦造氏から旧西武鉄道株約6万株を買い取った。守りに回らず相手の株を押さえにいったことで、統合をどちらが主導するかは堤氏の側に傾いた。
1966年の西武鉄道は、鉄道で稼いだ金を鉄道へ返しきれない会社だった。輸送人員は1960年度の2億5,000万人が5年で3億7,500万人へ増え、これを運ぶために第一次で76億円、第二次で148億円を投じている。それでも1967年度からの5カ年では単独で470億円が要ると見込まれた。運賃改正で黒字が出ても賃上げと材料費がすぐ食う構造で、小島正治郎社長が設備資金の金利を6.5パーセント以下にすることと開銀融資枠の拡大を政府へ求めたのは、鉄道事業の収益では設備の償却まで届かないと認めた発言にほかならない。首都圏の人口増は会社の努力とは無関係に進み、需要が増えるほど資金繰りは苦しくなった。
不足を埋めたのが、堤康次郎氏の残した土地とホテルである。宅地分譲は1963年度に25億円、1964年度に40億円を売り、その黒字はそのまま輸送力増強へ回された。ホテルも土地開発の足がかりとして始めたもので、戦後に手放された宮家の邸宅を転用したところから育ち、1964年開業の東京プリンスは同時通訳の設備を備えて国際会議の8割を集めるに至る。1968年の部門別事業収入は鉄道が4割前後、残りを旅館業と不動産が等分した。鉄道が客を集め、その客が住む土地と泊まる部屋で利益を取る。三本柱とはこの順序のことで、鉄道は最大の事業でありながら最大の稼ぎ手ではなかった。
1945年9月、武蔵野鉄道は旧西武鉄道と食糧増産の2社を合併し、商号を西武農業鉄道株式会社へ改めた。資本金は5,174万8,000円に増え、高田馬場から本川越へ至る鉄道67.6キロメートルと軌道7.5キロメートルが加わって、東京都西北ブロックの交通網が一つになった。ところが翌1946年11月、会社は商号を西武鉄道へ戻している。のちに社長となる小島正治郎氏はこの改称について、合併したあとで被合併会社の社員にひけ目を感じさせないよう、あえて被合併会社の名を採ったのだと説明した。存続会社の名を捨てて消えた側の名を掲げる判断であり、合併後の人心をどう収めるかが商号の継続より優先された。
戦後の資本の整備は増資の連続で進んだ。1948年11月、企業再建整備令による増資で資本金は1億349万6,000円となり、翌1949年5月に東京証券取引所へ上場している。1952年10月に所沢製粉などを合併して1億998万6,000円、1954年9月には倍額増資で2億1,997万2,000円まで積み上げた。1951年以降に吸収した会社は日本畜産、西武食糧工業、所沢製粉、旭食糧工業、光和不動産、日本文化産業振興、豊島園の7社に及ぶ。農業と食糧を商号に掲げていた時期の名残が、この合併先の顔ぶれに残っていた。
路線の側では新宿への乗り入れが焦点になった。1952年3月に高田馬場・西武新宿間が開通して新宿線が都心へ届き、池袋線と新宿線という2本の幹線が揃う。1950年1月には西武園遊園地が開業し、多摩湖と狭山湖の湖畔に行楽地が置かれた。1955年3月期の一日平均運輸収入は551万円、乗客は一日平均38万3,517人、営業キロは150.7キロメートルで、関東の私鉄では二番目に長い路線を抱えるに至った。従業員は2,916名で、路線1キロメートルあたりの従業員数は私鉄各社のうち最も少なかった。
1960年代の首都圏は、鉄道の輸送力が人口の伸びに追いつかない状態へ入った。東京・千葉・神奈川・埼玉の人口は1955年の1,500万人が1965年には2,100万人を超え、1960年から1965年にかけては東京よりも周辺3県の増加が比重を高めていた。1964年度には国鉄45億6,500万人、私鉄7社39億5,500万人、バス21億5,000万人と、合計でおよそ106億人が運ばれている。うち西武鉄道は3億5,000万人で、私鉄7社に対しておよそ10パーセントを占めた。輸送人員は1960年度の2億5,000万人が1965年度に3億7,500万人へ伸び、この調子なら1971年には5億4,000万人を運ばねばならない計算だった。池袋そのものも地下鉄の乗り入れで立地条件が急速によくなり、沿線の開発も大きく進んでいた。
増え続ける乗客をさばく手は、設備投資の連打しかなかった。会社は1961年度から1963年度の第一次輸送力増強計画に76億円、1964年度から1966年度の第二次計画に148億円を投じている。資金の使い道は単線の複線化が中心で、池袋線の所沢・飯能間、新宿線の所沢・本川越間の工事を急いだ。混雑する池袋駅には7億7,000万円をかけて改良を施し、信号の自動化や踏切の保安装置、電車基地の建設、変電所の増強も並行させた。私鉄として最初に10両連結を実施したのも西武鉄道で、そのために毎月4両、年間およそ50両の車両を造り続けた。並行して玉川上水・拝島間7.1キロメートルと吾野・西武秩父間19キロメートルの新線を進め、前者は1968年5月、後者は1969年10月に営業を始めた。
投資の効果は数字に表れた。計画の実施前と比べ、輸送力は池袋線で48パーセント、新宿線で25パーセント増えている。池袋へ入る電車は1963年の160両が1966年には228両となり、池袋・椎名町間の輸送力は2万4,700人から3万6,000人へ広がった。1968年の時点で営業キロは159.8キロメートルに達し、関東の私鉄では二番目の長さを保っている。それでも人口増には追いつかず、1967年度からの第三次5カ年計画は私鉄大手14社で5,000億円、西武鉄道だけで470億円に達した。一般金融と同じ高い金利で借りては償却まで賄えないとして、会社は設備資金の金利を6.5パーセント以下に抑えることと日本開発銀行の融資枠の拡大を政府へ求めた。投資は路線が伸びるほど重くなり、鉄道単体では回収の見通しが立たなくなっていた。
鉄道の投資を支えたのは不動産だった。運賃改正で黒字にはなっても賃上げや材料費の上昇ですぐ吸収されるため、付帯事業で補わなければ立ち行かないというのが会社の認識だった。宅地分譲の売上は1963年度25億円、1964年度40億円、1965年度34億円で推移している。売り方は明確で、戦前には100坪以下の区画がなかったものを60坪単位へ縮め、坪当たり3万円から4万円、総額200万円程度で給与所得者にも買える値にした。購入時に3分の1を払い残りを銀行融資で15年の割賦にできる仕組みを添え、住宅地相談室を設けて希望者の相談に応じている。造成で得た黒字はそのまま輸送力増強の資金へ回す方針で、1968年の部門別事業収入は鉄道が4割前後、残りを旅館業と不動産賃貸業、不動産売買業がほぼ等分していた。
観光事業、とりわけホテルは土地開発の足がかりとして始まった。当初は小規模で、戦後に宮家の邸宅が手放されたのを譲り受け、遊ばせておくのはもったいないとしてホテルへ転用したことが、鉄道会社の一部門として育つ大きな原因になった。1955年10月に赤坂プリンスホテル、1964年8月には東京プリンスホテルが開業する。東京プリンスは東京オリンピックに際してホテルが足りないという要請に応じ、日本開発銀行の融資を付けて建てた510室のホテルで、同時通訳の設備を備えたことから国際会議の受注が集まった。1965年に日本で開かれた48件の国際会議のうちプリンス系が17件を受け、1966年には41件中35件と8割を超えている。
1964年4月、堤康次郎氏が急逝した。あとを継いで西武鉄道の社長に就いたのは、康次郎氏と40年近く苦楽を共にした長女の婿、小島正治郎氏である。傘下70余社に及ぶ西武の企業集団は、以後この小島氏を中心に運営された。麻布の本邸で開かれていた火曜会は康次郎氏の死後も続き、国土計画社長の堤義明氏、西武百貨店社長の堤清二氏、小島氏のほか西武化学社長と西武鉄道専務、操未亡人が加わって重要事項を検討したという。売上は1963年3月期の111億円が1972年3月期には435億円へ伸び、資本金は1968年時点で48億1,449万600円、従業員は6,043名を数えた。鉄道・不動産・観光の三本柱は康次郎氏の死後も動かず、次の世代が受け継いだのは事業の形そのものだった。
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事実根拠:出所(西武鉄道)