西武鉄道:旧西武鉄道の合併とプリンスホテルの設立
宅地分譲とプリンスホテルによる輸送力増強の原資づくり
1945年〜旧西武鉄道の合併と商号の往復、上場による資本の整備
1945年9月、武蔵野鉄道は旧西武鉄道と食糧増産の2社を合併し、商号を西武農業鉄道株式会社へ改めた。資本金は5,174万8,000円に増え、高田馬場から本川越へ至る鉄道67.6キロメートルと軌道7.5キロメートルが加わって、東京都西北ブロックの交通網が一つになった。ところが翌1946年11月、会社は商号を西武鉄道へ戻している。のちに社長となる小島正治郎氏はこの改称について、合併したあとで被合併会社の社員にひけ目を感じさせないよう、あえて被合併会社の名を採ったのだと説明した。存続会社の名を捨てて消えた側の名を掲げる判断であり、合併後の人心をどう収めるかが商号の継続より優先された。
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [1]1945年9月に旧西武鉄道株式会社(現在の新宿線)を合併し、商号を西武農業鉄道株式会社へ変更した
- [4]1946年11月に商号を西武鉄道株式会社へ変更した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [2]1945年9月に西武鉄道と食糧増産の両社を合併して商号を西武農業鉄道へ改め、資本金を5,174万8,000円に増額した
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
- [3]合併した西武鉄道は高田馬場・本川越間ほかの鉄道67.6キロメートル、軌道7.5キロメートルを有し、この合併により東京都西北ブロックの交通網を統一した
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [5]小島正治郎西武鉄道社長は1966年の講演で、合併後に被合併会社の社員がひけ目を感じないようにするため被合併会社の名を採って西武鉄道と改称したと述べた
戦後の資本の整備は増資の連続で進んだ。1948年11月、企業再建整備令による増資で資本金は1億349万6,000円となり、翌1949年5月に東京証券取引所へ上場している。1952年10月に所沢製粉などを合併して1億998万6,000円、1954年9月には倍額増資で2億1,997万2,000円まで積み上げた。1951年以降に吸収した会社は日本畜産、西武食糧工業、所沢製粉、旭食糧工業、光和不動産、日本文化産業振興、豊島園の7社に及ぶ。農業と食糧を商号に掲げていた時期の名残が、この合併先の顔ぶれに残っていた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [6]1948年11月に企業再建整備令による増資を行い、資本金は1億349万6,000円となった
- [10]1951年以降に日本畜産、西武食糧工業、所沢製粉、旭食糧工業、光和不動産、日本文化産業振興、豊島園の7社を吸収合併した
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [7]1949年5月に東京証券取引所に上場した
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
- [8]1952年10月に所沢製粉等を合併して資本金1億998万6,000円となった
- [9]1954年9月に倍額増資を行い、資本金2億1,997万2,000円となった
路線の側では新宿への乗り入れが焦点になった。1952年3月に高田馬場・西武新宿間が開通して新宿線が都心へ届き、池袋線と新宿線という2本の幹線が揃う。1950年1月には西武園遊園地が開業し、多摩湖と狭山湖の湖畔に行楽地が置かれた。1955年3月期の一日平均運輸収入は551万円、乗客は一日平均38万3,517人、営業キロは150.7キロメートルで、関東の私鉄では二番目に長い路線を抱えるに至った。従業員は2,916名で、路線1キロメートルあたりの従業員数は私鉄各社のうち最も少なかった。
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [11]1952年3月に新宿線高田馬場・西武新宿間の営業を開始した
- [14]1950年1月に西武園遊園地が開業した
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
- [12]1952年3月に高田馬場・西武新宿間を開通させ、新宿に乗り入れた
- [13]営業路線は池袋線と新宿線の二線を幹線としていた
- [15]1955年3月期の一日平均運輸収入は551万円、乗客は一日平均38万3,517人、全営業キロは150.7キロメートルで関東第2位の長さであった
- [16]従業員数は2,916名で、鉄道のキロあたり従業員数は私鉄各社のうち最も少なかった
参考文献[1]-[16]
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [1]1945年9月に旧西武鉄道株式会社(現在の新宿線)を合併し、商号を西武農業鉄道株式会社へ変更した
- [4]1946年11月に商号を西武鉄道株式会社へ変更した
- [7]1949年5月に東京証券取引所に上場した
- [11]1952年3月に新宿線高田馬場・西武新宿間の営業を開始した
- [14]1950年1月に西武園遊園地が開業した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [2]1945年9月に西武鉄道と食糧増産の両社を合併して商号を西武農業鉄道へ改め、資本金を5,174万8,000円に増額した
- [6]1948年11月に企業再建整備令による増資を行い、資本金は1億349万6,000円となった
- [10]1951年以降に日本畜産、西武食糧工業、所沢製粉、旭食糧工業、光和不動産、日本文化産業振興、豊島園の7社を吸収合併した
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
- [3]合併した西武鉄道は高田馬場・本川越間ほかの鉄道67.6キロメートル、軌道7.5キロメートルを有し、この合併により東京都西北ブロックの交通網を統一した
- [8]1952年10月に所沢製粉等を合併して資本金1億998万6,000円となった
- [9]1954年9月に倍額増資を行い、資本金2億1,997万2,000円となった
- [12]1952年3月に高田馬場・西武新宿間を開通させ、新宿に乗り入れた
- [13]営業路線は池袋線と新宿線の二線を幹線としていた
- [15]1955年3月期の一日平均運輸収入は551万円、乗客は一日平均38万3,517人、全営業キロは150.7キロメートルで関東第2位の長さであった
- [16]従業員数は2,916名で、鉄道のキロあたり従業員数は私鉄各社のうち最も少なかった
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [5]小島正治郎西武鉄道社長は1966年の講演で、合併後に被合併会社の社員がひけ目を感じないようにするため被合併会社の名を採って西武鉄道と改称したと述べた
1960年〜首都圏の人口流入がもたらした終わらない輸送力投資
1960年代の首都圏は、鉄道の輸送力が人口の伸びに追いつかない状態へ入った。東京・千葉・神奈川・埼玉の人口は1955年の1,500万人が1965年には2,100万人を超え、1960年から1965年にかけては東京よりも周辺3県の増加が比重を高めていた。1964年度には国鉄45億6,500万人、私鉄7社39億5,500万人、バス21億5,000万人と、合計でおよそ106億人が運ばれている。うち西武鉄道は3億5,000万人で、私鉄7社に対しておよそ10パーセントを占めた。輸送人員は1960年度の2億5,000万人が1965年度に3億7,500万人へ伸び、この調子なら1971年には5億4,000万人を運ばねばならない計算だった。池袋そのものも地下鉄の乗り入れで立地条件が急速によくなり、沿線の開発も大きく進んでいた。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [17]首都圏(東京・千葉・神奈川・埼玉)の人口は1955年1,500万人、1960年1,700万人、1965年2,100万人と推移した
- [18]1955年から1960年は東京の人口増加が中心であったが、1960年から1965年は神奈川・千葉・埼玉の周辺3県の人口増の比重が高まった
- [19]1964年度の輸送実績は国鉄45億6,500万人、私鉄7社39億5,500万人、バス21億5,000万人で合計約106億人であった
- [20]西武鉄道の輸送人員は約106億人のうち3億5,000万人で全体の約3パーセント、私鉄7社に対しては約10パーセントのシェアであった
- [21]西武鉄道の輸送人員は1960年度2億5,000万人、1965年度3億7,500万人で、同じ伸びが続けば1971年には5億4,000万人を輸送する必要があるとされた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [22]池袋の発展と地下鉄の乗り入れによって池袋線の立地条件は急速によくなり、沿線の開発も大幅に進んだ
増え続ける乗客をさばく手は、設備投資の連打しかなかった。会社は1961年度から1963年度の第一次輸送力増強計画に76億円、1964年度から1966年度の第二次計画に148億円を投じている。資金の使い道は単線の複線化が中心で、池袋線の所沢・飯能間、新宿線の所沢・本川越間の工事を急いだ。混雑する池袋駅には7億7,000万円をかけて改良を施し、信号の自動化や踏切の保安装置、電車基地の建設、変電所の増強も並行させた。私鉄として最初に10両連結を実施したのも西武鉄道で、そのために毎月4両、年間およそ50両の車両を造り続けた。並行して玉川上水・拝島間7.1キロメートルと吾野・西武秩父間19キロメートルの新線を進め、前者は1968年5月、後者は1969年10月に営業を始めた。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [23]輸送力増強は1961年度から1963年度の第一次計画で76億円、1964年度から1966年度の第二次計画で148億円を投入した
- [24]増強資金はまず単線の複線化に充てられ、池袋線は所沢・飯能間、新宿線は所沢・本川越間の工事を急いでいた
- [25]池袋駅の改良に7億7,000万円を投入し、ほかに信号の自動化、踏切の保安装置、電車基地の建設、変電所の増強に資金を充てた
- [26]西武鉄道は私鉄として最初に10両連結を実施し、そのため毎月4両、年間約50両の車両を製造していた
- [27]1966年時点で玉川上水から拝島までの7.1キロメートルが工事をほぼ終え、吾野から西武秩父までの19キロメートルを着工する計画であった
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [28]1968年5月に拝島線玉川上水・拝島間、1969年10月に西武秩父線吾野・西武秩父間の営業を開始した
投資の効果は数字に表れた。計画の実施前と比べ、輸送力は池袋線で48パーセント、新宿線で25パーセント増えている。池袋へ入る電車は1963年の160両が1966年には228両となり、池袋・椎名町間の輸送力は2万4,700人から3万6,000人へ広がった。1968年の時点で営業キロは159.8キロメートルに達し、関東の私鉄では二番目の長さを保っている。それでも人口増には追いつかず、1967年度からの第三次5カ年計画は私鉄大手14社で5,000億円、西武鉄道だけで470億円に達した。一般金融と同じ高い金利で借りては償却まで賄えないとして、会社は設備資金の金利を6.5パーセント以下に抑えることと日本開発銀行の融資枠の拡大を政府へ求めた。投資は路線が伸びるほど重くなり、鉄道単体では回収の見通しが立たなくなっていた。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [29]輸送力増強計画により輸送力は実施前と比べ池袋線で48パーセント、新宿線で25パーセント増加した
- [30]池袋線で池袋に入る電車は1963年の160両から1966年には228両に増えた
- [31]池袋・椎名町間の輸送力は2万4,700人から3万6,000人へ増加した
- [33]1967年度から1971年度の第三次5カ年計画では私鉄大手14社で5,000億円、西武鉄道だけで470億円の投下が必要とされた
- [34]私鉄側は設備資金の金利を6.5パーセント以下とすること、日本開発銀行の融資枠を3分の1から2分の1以上へ拡大することなどを政府へ要望していた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [32]1968年時点の全営業路線は159.8キロメートルで、関東の私鉄では第2位の長さであった
参考文献[17]-[34]
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [17]首都圏(東京・千葉・神奈川・埼玉)の人口は1955年1,500万人、1960年1,700万人、1965年2,100万人と推移した
- [18]1955年から1960年は東京の人口増加が中心であったが、1960年から1965年は神奈川・千葉・埼玉の周辺3県の人口増の比重が高まった
- [19]1964年度の輸送実績は国鉄45億6,500万人、私鉄7社39億5,500万人、バス21億5,000万人で合計約106億人であった
- [20]西武鉄道の輸送人員は約106億人のうち3億5,000万人で全体の約3パーセント、私鉄7社に対しては約10パーセントのシェアであった
- [21]西武鉄道の輸送人員は1960年度2億5,000万人、1965年度3億7,500万人で、同じ伸びが続けば1971年には5億4,000万人を輸送する必要があるとされた
- [23]輸送力増強は1961年度から1963年度の第一次計画で76億円、1964年度から1966年度の第二次計画で148億円を投入した
- [24]増強資金はまず単線の複線化に充てられ、池袋線は所沢・飯能間、新宿線は所沢・本川越間の工事を急いでいた
- [25]池袋駅の改良に7億7,000万円を投入し、ほかに信号の自動化、踏切の保安装置、電車基地の建設、変電所の増強に資金を充てた
- [26]西武鉄道は私鉄として最初に10両連結を実施し、そのため毎月4両、年間約50両の車両を製造していた
- [27]1966年時点で玉川上水から拝島までの7.1キロメートルが工事をほぼ終え、吾野から西武秩父までの19キロメートルを着工する計画であった
- [29]輸送力増強計画により輸送力は実施前と比べ池袋線で48パーセント、新宿線で25パーセント増加した
- [30]池袋線で池袋に入る電車は1963年の160両から1966年には228両に増えた
- [31]池袋・椎名町間の輸送力は2万4,700人から3万6,000人へ増加した
- [33]1967年度から1971年度の第三次5カ年計画では私鉄大手14社で5,000億円、西武鉄道だけで470億円の投下が必要とされた
- [34]私鉄側は設備資金の金利を6.5パーセント以下とすること、日本開発銀行の融資枠を3分の1から2分の1以上へ拡大することなどを政府へ要望していた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [22]池袋の発展と地下鉄の乗り入れによって池袋線の立地条件は急速によくなり、沿線の開発も大幅に進んだ
- [32]1968年時点の全営業路線は159.8キロメートルで、関東の私鉄では第2位の長さであった
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [28]1968年5月に拝島線玉川上水・拝島間、1969年10月に西武秩父線吾野・西武秩父間の営業を開始した
1955年〜宅地分譲とプリンスホテルが担った収益の補完
鉄道の投資を支えたのは不動産だった。運賃改正で黒字にはなっても賃上げや材料費の上昇ですぐ吸収されるため、付帯事業で補わなければ立ち行かないというのが会社の認識だった。宅地分譲の売上は1963年度25億円、1964年度40億円、1965年度34億円で推移している。売り方は明確で、戦前には100坪以下の区画がなかったものを60坪単位へ縮め、坪当たり3万円から4万円、総額200万円程度で給与所得者にも買える値にした。購入時に3分の1を払い残りを銀行融資で15年の割賦にできる仕組みを添え、住宅地相談室を設けて希望者の相談に応じている。造成で得た黒字はそのまま輸送力増強の資金へ回す方針で、1968年の部門別事業収入は鉄道が4割前後、残りを旅館業と不動産賃貸業、不動産売買業がほぼ等分していた。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [35]運賃改正で鉄道事業が黒字になってもベースアップや材料費の上昇ですぐ吸収されるため、鉄道会社は付帯事業で補わなければやっていけないと小島正治郎社長は述べた
- [36]宅地分譲の売上は1963年度25億円、1964年度40億円、1965年度34億円であった
- [37]戦前は100坪以下の分譲区画がなかったが、1966年時点では60坪を単位とし、坪当たり3万円から4万円、総額200万円程度で買えるようにしていた
- [38]分譲地は購入時に3分の1を支払い残りを銀行融資による15年の割賦とし、住宅地相談室を設けて希望者の相談に応じていた
- [39]宅地造成による黒字は輸送力増強のための資金へ回す方針であった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [40]1968年時点の部門別事業収入は鉄道が4割前後で、旅館業・不動産賃貸業・不動産売買業がほぼ4分していた
観光事業、とりわけホテルは土地開発の足がかりとして始まった。当初は小規模で、戦後に宮家の邸宅が手放されたのを譲り受け、遊ばせておくのはもったいないとしてホテルへ転用したことが、鉄道会社の一部門として育つ大きな原因になった。1955年10月に赤坂プリンスホテル、1964年8月には東京プリンスホテルが開業する。東京プリンスは東京オリンピックに際してホテルが足りないという要請に応じ、日本開発銀行の融資を付けて建てた510室のホテルで、同時通訳の設備を備えたことから国際会議の受注が集まった。1965年に日本で開かれた48件の国際会議のうちプリンス系が17件を受け、1966年には41件中35件と8割を超えている。
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [41]ホテル事業を始めた動機は、土地の開発のために足がかりが必要だったことにあった
- [42]戦後に宮家の邸宅が手放された際にこれを譲り受け、遊ばせておくのはもったいないとしてホテルに利用したことが、鉄道会社の一部門として発展した大きな原因となった
- [45]東京プリンスホテルは東京オリンピックに際してホテル不足への要請に応じ、日本開発銀行の融資を受けて建てた510室のホテルで、国際会議に必要な同時翻訳装置を完備していた
- [46]1965年に日本で開催された48件の国際会議のうちプリンス系が17件を受注し、1966年は41件のうち35件を受注した
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [43]1955年10月に赤坂プリンスホテルが開業した
- [44]1964年8月に東京プリンスホテルが開業した
1964年4月、堤康次郎氏が急逝した。あとを継いで西武鉄道の社長に就いたのは、康次郎氏と40年近く苦楽を共にした長女の婿、小島正治郎氏である。傘下70余社に及ぶ西武の企業集団は、以後この小島氏を中心に運営された。麻布の本邸で開かれていた火曜会は康次郎氏の死後も続き、国土計画社長の堤義明氏、西武百貨店社長の堤清二氏、小島氏のほか西武化学社長と西武鉄道専務、操未亡人が加わって重要事項を検討したという。売上は1963年3月期の111億円が1972年3月期には435億円へ伸び、資本金は1968年時点で48億1,449万600円、従業員は6,043名を数えた。鉄道・不動産・観光の三本柱は康次郎氏の死後も動かず、次の世代が受け継いだのは事業の形そのものだった。
- 政経人 1967年「小島正治郎(西武鉄道社長)論」(池田忠雄)
- [47]一代で70余社からなる西武の企業集団を築いた堤康次郎は1964年4月に急逝した
- [48]小島正治郎は堤康次郎と40年近く苦楽を共にした女婿(長女の婿)であった
- [49]堤康次郎の死後、傘下70余社の西武企業集団は小島正治郎を中心に運営された
- [50]麻布の本邸で開かれていた火曜会は堤康次郎の死後も続き、堤義明(国土計画社長)、堤清二(西武百貨店社長)、小島正治郎のほか森田重郎(西武化学社長)、宮内厳(西武鉄道専務)、操未亡人が参加して重要事項を検討していた
- 会社年鑑 1967年版・1976年版(半期合算)
- [51]西武鉄道の売上高は1963年3月期111億円、1972年3月期435億円であった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [52]1968年時点の資本金は48億1,449万600円、従業員は6,043名であった
参考文献[35]-[52]
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- [35]運賃改正で鉄道事業が黒字になってもベースアップや材料費の上昇ですぐ吸収されるため、鉄道会社は付帯事業で補わなければやっていけないと小島正治郎社長は述べた
- [36]宅地分譲の売上は1963年度25億円、1964年度40億円、1965年度34億円であった
- [37]戦前は100坪以下の分譲区画がなかったが、1966年時点では60坪を単位とし、坪当たり3万円から4万円、総額200万円程度で買えるようにしていた
- [38]分譲地は購入時に3分の1を支払い残りを銀行融資による15年の割賦とし、住宅地相談室を設けて希望者の相談に応じていた
- [39]宅地造成による黒字は輸送力増強のための資金へ回す方針であった
- [41]ホテル事業を始めた動機は、土地の開発のために足がかりが必要だったことにあった
- [42]戦後に宮家の邸宅が手放された際にこれを譲り受け、遊ばせておくのはもったいないとしてホテルに利用したことが、鉄道会社の一部門として発展した大きな原因となった
- [45]東京プリンスホテルは東京オリンピックに際してホテル不足への要請に応じ、日本開発銀行の融資を受けて建てた510室のホテルで、国際会議に必要な同時翻訳装置を完備していた
- [46]1965年に日本で開催された48件の国際会議のうちプリンス系が17件を受注し、1966年は41件のうち35件を受注した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- [40]1968年時点の部門別事業収入は鉄道が4割前後で、旅館業・不動産賃貸業・不動産売買業がほぼ4分していた
- [52]1968年時点の資本金は48億1,449万600円、従業員は6,043名であった
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- [43]1955年10月に赤坂プリンスホテルが開業した
- [44]1964年8月に東京プリンスホテルが開業した
- 政経人 1967年「小島正治郎(西武鉄道社長)論」(池田忠雄)
- [47]一代で70余社からなる西武の企業集団を築いた堤康次郎は1964年4月に急逝した
- [48]小島正治郎は堤康次郎と40年近く苦楽を共にした女婿(長女の婿)であった
- [49]堤康次郎の死後、傘下70余社の西武企業集団は小島正治郎を中心に運営された
- [50]麻布の本邸で開かれていた火曜会は堤康次郎の死後も続き、堤義明(国土計画社長)、堤清二(西武百貨店社長)、小島正治郎のほか森田重郎(西武化学社長)、宮内厳(西武鉄道専務)、操未亡人が参加して重要事項を検討していた
- 会社年鑑 1967年版・1976年版(半期合算)
- [51]西武鉄道の売上高は1963年3月期111億円、1972年3月期435億円であった
筆者考察
1966年の西武鉄道は、鉄道で稼いだ金を鉄道へ返しきれない会社だった。輸送人員は1960年度の2億5,000万人が5年で3億7,500万人へ増え、これを運ぶために第一次で76億円、第二次で148億円を投じている。それでも1967年度からの5カ年では単独で470億円が要ると見込まれた。運賃改正で黒字が出ても賃上げと材料費がすぐ食う構造で、小島正治郎社長が設備資金の金利を6.5パーセント以下にすることと開銀融資枠の拡大を政府へ求めたのは、鉄道事業の収益では設備の償却まで届かないと認めた発言にほかならない。首都圏の人口増は会社の努力とは無関係に進み、需要が増えるほど資金繰りは苦しくなった。
不足を埋めたのが、堤康次郎氏の残した土地とホテルである。宅地分譲は1963年度に25億円、1964年度に40億円を売り、その黒字はそのまま輸送力増強へ回された。ホテルも土地開発の足がかりとして始めたもので、戦後に手放された宮家の邸宅を転用したところから育ち、1964年開業の東京プリンスは同時通訳の設備を備えて国際会議の8割を集めるに至る。1968年の部門別事業収入は鉄道が4割前後、残りを旅館業と不動産が等分した。鉄道が客を集め、その客が住む土地と泊まる部屋で利益を取る。三本柱とはこの順序のことで、鉄道は最大の事業でありながら最大の稼ぎ手ではなかった。
- 第三次は1966年時点の所要見込み額。
- 出所は証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号「西武鉄道の現状と将来」(小島正治郎)。
1945年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 23 | n/a | 1 | n/a | ▲1 | ▲4.3% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 32 | +39.1% | 2 | n/a | 1 | 3.1% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 33 | +3.1% | 3 | n/a | 1 | 3.0% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 41 | n/a | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 42 | +2.4% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 46 | +9.5% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 58 | +26.1% | 12 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 76 | +31.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 83 | +9.2% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 111 | +33.7% | n/a | n/a | 7 | 6.3% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 130 | +17.1% | n/a | n/a | 7 | 5.4% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 174 | +33.8% | n/a | n/a | 6 | 3.4% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 190 | +9.2% | n/a | n/a | 7 | 3.7% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 236 | +24.2% | n/a | n/a | 9 | 3.8% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 273 | +15.7% | n/a | n/a | 11 | 4.0% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 287 | +5.1% | n/a | n/a | 13 | 4.5% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 344 | +19.9% | n/a | n/a | 15 | 4.4% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 426 | +23.8% | n/a | 30 | 17 | 4.0% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 435 | +2.1% | n/a | 33 | 20 | 4.6% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
6件
- 西武鉄道株式会社 有価証券報告書 第155期(2006年6月28日提出)第一部 企業情報 第1 企業の概況 2 沿革
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 11 電気鉄道「西武鉄道」の項
- 会社年鑑 1967年版・1976年版(半期合算)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「西武鉄道」の項
- 証券アナリストジャーナル 1966年4巻12号(小島正治郎)
- 政経人 1967年「小島正治郎(西武鉄道社長)論」(池田忠雄)