1949年に始めたパチンコ機の製造販売が起源。
1991年に業界初のカラー液晶を採用した麻雀物語を発売し、2007年にパチスロ機のオリンピアを完全子会社化した。
PGMホールディングスを通じてゴルフ場も運営する遊技機メーカーである。
中島健吉氏は1949年8月、群馬県桐生市で個人事業の平和商会を創業し、パチンコ機の製造販売を始めた。中島健吉氏は学友の多くを学徒動員で戦地に送り出し、その多くを戦死で失った。中島健吉氏自身は召集を受ける前に終戦を迎え、何より尊いのは平和だという思いを強くした。敗戦の衝撃で気力を失った人々に小さな楽しみを与えていたのが、街のパチンコだった。中島健吉氏は後年の講演で、『私にはパチンコが平和の象徴のように思われ、パチンコ機を製造することとし』と創業の動機を振り返り、社名にも「平和」を掲げた。食料難のさなかに娯楽機械を選んだ判断は、収益の見込みより創業者の戦争体験に根ざしていたとみられる。
中島健吉氏は創業の時から研究開発に最も力を入れ、遊技客が欲しがる機械を作ることを経営の基本に据えた。業界の初期の機械は人が付いて動かす有人機で、のちに人の付かない無人機へ移った。さらに業界は玉の流れを自動で制御する自動補給の仕組みを開発し、店の手間を減らした。昭和30年代(1955〜1964年)には、平和が開発したコミックゲートやチューリップが登場し、業界の流行を生んだ。平和の前身の東和工業は1961年4月、パチンコ機に遊技球を戻す自動補給設備の販売を開始。これにより東和工業は、機械本体に加えて周辺の設備も店に納めるようになった。店の省力化に応える機構の改良を続けたことが、個人商店の機械が店に選ばれた理由と推察される。
中島健吉氏は1960年9月、有限会社コミック商会と平和物産株式会社を統合し、東和工業株式会社を設立。新会社の資本金は200万円で、業容の拡大に合わせた法人化だった。東和工業は設立と同時に東京と大阪に出張所を開設し、桐生の外に販売の拠点を設けた。1964年3月には仙台と北海道にも出張所を開設し、全国への販売網の拡大に着手した。東和工業は1964年4月に平和工業、1988年7月に株式会社平和へと商号を改めた。社名からみて、統合前の2社は機械の製造と販売を分けて担っていたのだろう。
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事実根拠:出所(平和)