京浜急行電鉄 の歴史

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創業 1898年
創業者 立川勇次郎
創業地 神奈川県川崎
創業
1898年2月、立川勇次郎氏らが川崎大師への参詣輸送を目的に、資本金9万8千円で大師電気鉄道を設立した。1899年1月に六郷橋〜大師間で関東初の電車営業を始めたが、参詣需要だけでは伸びしろが乏しく、開業3カ月後の同年4月には商号を京浜電気鉄道へ改め、東京と横浜を結ぶ都市間鉄道へ組み替えた。1905年12月に品川〜神奈川間を全通させ、1941年11月には三浦半島に路線を持つ湘南電気鉄道と湘南半島自動車を合併して、東京から三浦半島までを一社で運営する体制を整えた。1942年5月、陸上交通事業調整法による戦時統合で東京横浜電鉄へ合併されて東京急行電鉄となり、京浜の社名は一度消える。1948年6月、資本金1億円の京浜急行電鉄として分離独立した。
決断
東京と横浜を結ぶ本線の値打ちを、羽田空港へ入る支線が追い越した。1993年に天空橋まで延ばして東京モノレールと接続したが乗り換えが残り、1998年11月に天空橋〜羽田空港間を開通させてターミナルビルへ直通した。2010年10月には羽田空港国際線ターミナル駅を開設し、2012年10月に京急蒲田駅の連続立体交差事業を終えて本線と空港線の上下交差を解消し、空港方面の運行本数を増やした。並行して2003年10月に自動車事業を京浜急行バスへ承継して76年続いた鉄道とバスの一体運営を分離し、2019年9月には本社を東京都港区から横浜市へ移した。空港へ延ばした支線が、東京〜三浦半島の沿線輸送に代わる需要源になった。
現況
利益の6割は鉄道が出し、投資の資金は品川の土地が出している。2026年3月期の連結売上高は3,041億円、営業利益335億円、純利益274億円である。交通事業が売上1,205億円・利益186億円、流通事業が837億円・21億円、不動産事業が451億円・46億円、レジャー・サービス事業が309億円・55億円で、4事業の利益合計310億円のうち60%を交通事業が占める。2024年3月期には品川駅西口の土地持分の一部をトヨタ自動車へ譲渡して特別利益956億円を計上し、2029年度開業予定の複合ビルの資金に充てた。同期には久里浜線の複線化を凍結し、減損損失101億円を計上している。沿線で線路を増やす投資を取りやめたことが、品川の3地区へ資本を集中させる形を残した。
競合
争う相手は沿線の私鉄ではなく、含み益を数える投資家である。京急は品川駅周辺に鉄道と一体の不動産を抱えるが、賃貸等不動産の含み益は簿価計上のため株価に映らず、2024年11月時点の株価純資産倍率は0.91倍にとどまった。2024年10月以降、旧村上ファンド系の投資会社が京急株を取得し、2025年2月に5.11%、7月には9.14%まで保有を高めた。京急は第20次総合経営計画を2025年5月に改め、配当性向40%程度を目安に自己株式取得を機動的に行う方針を掲げて、2025年度に100億円を取得した。市場では規模の似た京成電鉄との経営統合を予測する見方も浮上している。羽田で乗客を争った相手ではなく、品川の含み益の扱いを問う投資家が、総合経営計画の書き直しを促した。
京浜急行電鉄:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 川崎大師参詣鉄道から大東急統合までの50年 (1898年〜)

関東初の電車営業を始めた大師参詣鉄道

1898年2月、川崎大師への参詣輸送を目的とする大師電気鉄道株式会社が資本金9万8千円で設立された[1]。創業者の立川勇次郎氏らは[2]、参詣需要を狙う短距離鉄道として企画し、1899年1月に六郷橋〜大師間で営業を開始した[3]。これは関東で最初の電車営業であり、京浜地区における電気鉄道[4]の第1号として記録された。営業区間はわずか数キロにとどまったが、宗教的集客地への参詣輸送という具体的な需要を起点に事業を立ち上げた点で、創業の発想は明確だった。原田一之氏は2023年の母校講演で[5]、わずか2kmの路線ながら京急が戦略として仕掛けた大師詣が後の初詣として定着した経緯を説明している。

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1898年2月 大師電気鉄道株式会社を設立(資本金9万8千円)
    • [3]1899年1月 六郷橋〜大師間で営業開始(関東初の電車営業・京浜地区第1号)
    • [4]関東で最初の電車営業(京浜地区における電気鉄道の第1号)
    • [2]創業者は立川勇次郎(大師電気鉄道を設立し代表に就任)
  • タウンニュース(2023年3月31日)
    • [5]原田一之氏(京急会長)が2023年の母校講演で大師詣→初詣定着の経緯を説明

開業からわずか3カ月後の1899年4月、商号を京浜電気鉄道株式会社に変更し[6]、川崎・横浜・東京方面への事業領域拡張を見据えた体制に踏み切った。短距離の参詣鉄道として始まった事業は、沿線都市への延伸を前提とする都市間鉄道へと早期に方向を転換させた格好で、社名変更は経営方針の転換を対外的に示す位置にあった。京浜間という用語が示すとおり、東京と横浜を結ぶ輸送路線の主軸を目指す構想が、創業翌年の社名にすでに織り込まれていた。1905年12月には品川〜神奈川間の全通を実現し[7]、京浜間を直結する電気鉄道網が完成した。

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1899年4月 商号を京浜電気鉄道株式会社に変更
    • [7]1905年12月 品川〜神奈川間が全通
  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1898年2月 大師電気鉄道株式会社を設立(資本金9万8千円)
    • [3]1899年1月 六郷橋〜大師間で営業開始(関東初の電車営業・京浜地区第1号)
    • [4]関東で最初の電車営業(京浜地区における電気鉄道の第1号)
    • [6]1899年4月 商号を京浜電気鉄道株式会社に変更
    • [7]1905年12月 品川〜神奈川間が全通
    • [2]創業者は立川勇次郎(大師電気鉄道を設立し代表に就任)
  • タウンニュース(2023年3月31日)
    • [5]原田一之氏(京急会長)が2023年の母校講演で大師詣→初詣定着の経緯を説明

京浜直結と湘南電鉄合併で三浦半島まで貫通

1905年の品川〜神奈川間全通により、京浜電気鉄道は東京〜横浜輸送[8]の主軸の一角を占めた。続く1925年12月、三浦半島の鉄道整備を目的に湘南電気鉄道株式会社が資本金1,200万円で設立され[9]、1930年4月には黄金町〜浦賀間と金沢八景〜湘南逗子間が開通した[10]。湘南電鉄は別資本の独立会社として発足したが、京浜電鉄との接続を視野に置く路線設計をとり、1933年4月に品川〜浦賀間の電車直通運転を相互に開始した。京浜・湘南の2社が直通運転を通じて事実上一体の輸送圏を形成し、三浦半島南端までの都市間鉄道ネットワークの原型が1933年に整った[11]

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1905年 品川〜神奈川間全通(東京〜横浜輸送の主軸)
    • [9]1925年12月 湘南電気鉄道株式会社を設立(資本金1,200万円)
    • [10]1930年4月 黄金町〜浦賀間・金沢八景〜湘南逗子間が開通
    • [11]1933年4月 京浜・湘南電鉄が品川〜浦賀間で電車直通運転を相互開始

1941年11月、京浜電鉄は湘南電気鉄道と湘南半島自動車を合併し[12]、三浦半島の鉄道とバス事業を一つの経営体に統合した。湘南電鉄ブランドはここで消滅し、京浜電鉄が東京〜三浦半島の輸送圏を一社で握る体制が完成した。鉄道とバスを束ねる輸送網と、沿線開発を前提とする土地基盤を、戦時下に入る直前のタイミングで揃えた格好にあたる。1927年8月にはすでに一般乗合旅客自動車運送事業[13]を始めており、鉄道と並走するバス事業への多角化も1920年代後半から積み上げていた。よって戦前期の京浜電鉄は、参詣鉄道の出発点から40年余で東京〜三浦半島の総合輸送会社へと事業領域を拡張した。

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1941年11月 京浜電鉄が湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併
    • [13]1927年8月 一般乗合旅客自動車運送事業を開始(バス事業参入)
  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1905年 品川〜神奈川間全通(東京〜横浜輸送の主軸)
    • [9]1925年12月 湘南電気鉄道株式会社を設立(資本金1,200万円)
    • [10]1930年4月 黄金町〜浦賀間・金沢八景〜湘南逗子間が開通
    • [11]1933年4月 京浜・湘南電鉄が品川〜浦賀間で電車直通運転を相互開始
    • [12]1941年11月 京浜電鉄が湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併
    • [13]1927年8月 一般乗合旅客自動車運送事業を開始(バス事業参入)

戦時統合 ── 大東急への吸収と京急ブランドの消滅

1942年5月、戦時統合の国策のもと、京浜電気鉄道[14]は小田急電鉄とともに東京横浜電鉄に合併され、商号は東京急行電鉄に変更された。国は陸上交通事業調整法に基づく路線整理を進めており、関東私鉄の集約は政策的に決められた経路を辿った。京浜電鉄が44年間積み上げた京浜〜三浦半島の輸送圏は、大東急の一部門として吸収され、京急ブランドはここで一度消滅した。同社の経営判断ではなく、戦時下の交通統制が会社の存立そのものを変えた経緯にあたる。立川勇次郎氏らによる創業期の独立会社としての歴史は、戦時統合で一区切[15]りとなった。

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1942年5月 京浜電気鉄道が東京横浜電鉄に合併され東京急行電鉄に商号変更(戦時統合)
    • [15]立川勇次郎ら創業期の独立会社としての歴史が戦時統合で一区切り

戦時期の大東急は、東京・神奈川・静岡東部にまたがる広域鉄道網を一社で運営する巨大私鉄となり、京浜・湘南・小田原・京王・井の頭の各路線を傘下に置いた。戦後の鉄道事業は、戦時下の路線統合で組織が肥大化した結果、地域ごとの経営判断と財務の透明性に課題を残した。戦時統合は短期的には資源集中と運行効率化に寄与した一方、戦後の社会構造のなかで分割再独立の必要性が早期に浮上した。京浜電鉄の旧経営陣も、戦時統合下で大東急の一部門として運営に関与しながら、戦後の再独立を視野に置いた準備を進めた。よって1948年6月の分離独立は[16]、戦時統合の解消というより、戦前期の独立経営への復帰という性格を持つ出来事だった。

  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1948年6月 大東急から分離独立
  • 京浜急行電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1942年5月 京浜電気鉄道が東京横浜電鉄に合併され東京急行電鉄に商号変更(戦時統合)
    • [16]1948年6月 大東急から分離独立
    • [15]立川勇次郎ら創業期の独立会社としての歴史が戦時統合で一区切り

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京浜急行電鉄の沿革1898〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1898〜1947年川崎大師参詣鉄道から大東急統合までの50年大師電気鉄道創立
六郷橋〜大師間営業開始
商号を京浜電気鉄道に変更
品川〜神奈川間全通
湘南電気鉄道創立
一般乗合旅客自動車運送事業に参入★★
湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併★★
東京急行電鉄に合併し東京急行電鉄に商号変更★★
1948〜2002年大東急からの分離独立と羽田乗入による収益構造変質京浜急行電鉄として再独立★★
東京証券取引所に株式上場
大森水上レクリェーションを子会社化
川崎鶴見臨港バスを子会社化
京浜百貨店を子会社化
京急興業を設立
京急油壺マリンパークを開業
品川〜泉岳寺間開通により都心乗入を開始★★
ホテルパシフィック東京を開業
三浦海岸〜三崎口間開通
京急第1ビル(ウィング高輪)を開業
京急百貨店を設立
横須賀リサーチパーク(YRP)分譲開始
上大岡京急ビル・京急百貨店を開業
長野京急カントリークラブを開業
天空橋〜羽田空港間開通により空港ターミナル乗入開始★★
2003〜2024年バス分社化からコロナ直撃と品川開発への賭け京浜急行バスを設立
自動車事業を京浜急行バスに承継し完全分社化を実施★★
石渡恒夫ユニオネックスを子会社化
石渡恒夫ホテルパシフィック東京を閉館
石渡恒夫羽田空港国際線ターミナル駅を開業
石渡恒夫SHINAGAWA GOOSを開業
石渡恒夫京急蒲田駅付近連続立体交差事業 全乗車区間の上下線高架化が完了
原田一之本社を移転
原田一之SHINAGAWA GOOSを閉館
原田一之京急油壺マリンパークを閉館★★
川俣幸宏京急アセットマネジメントを設立
川俣幸宏旧村上ファンド系による株式取得と不動産含み益をめぐる株主圧力への対応

2024年末以降、アクティビストとして知られる旧村上ファンド系の投資会社が京浜急行電鉄(京急)の株式を取得し、2025年2月には保有比率5.11%の大量保有報告が公表された。品川駅周辺に抱える膨大な不動産の含み益と、株価純資産倍率(PBR)1倍割れという資本効率の甘さを突かれた形で、旧村上ファンド系は保有を9%超まで買い増した。京急は特定株主への言及を避けつつ、総合経営計画のアップデートと自己株式取得で資本政策の見直しに動いたが、本稿の時点で事態は決着していない。

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出典・参考

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