小田急電鉄 の歴史

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創業 1923年
創業者 利光鶴松
創業地 東京都
創業
1923年5月、利光鶴松氏が資本金1,350万円で小田原急行鉄道を設立した。親会社は利光氏が1910年に設立した鬼怒川水力電気で、余剰電力を消費する大口需要として鉄道を構想したものである。1927年4月には新宿〜小田原間82.5kmを当時の日本最長の電気鉄道として一挙に開業したが、沿線の多くは無人の原野で、需要は構想に追いつかなかった。1929年4月に江ノ島線を開業し、1940年5月に帝都電鉄、1941年3月に鬼怒川水力電気を合併して小田急電鉄へ商号を変更した。1942年5月には東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との合併で東京急行電鉄となって社名が消え、1948年6月の分離で資本金1億円の小田急電鉄として再び発足した。
決断
1本の路線へ、54年かけてもう1組の線路を重ねた。1964年12月の都市計画決定で始めた代々木上原〜登戸の複々線化は用地買収の難航で長く足踏みし、1997年6月の喜多見〜和泉多摩川、2004年11月の世田谷代田〜喜多見、2013年3月の下北沢付近の地下化を経て、2018年3月に代々木上原〜登戸の約12kmで複々線運転が始まった。総事業費は約3,100億円。朝の通勤時間帯の列車本数は27本から36本へ増え、町田〜新宿の所要時間は49分から37分へ縮んだ。工事の重みを吸収したのは1961年設立の小田急百貨店と1964年設立の小田急不動産で、1997年5月にはその百貨店がバブル期の不採算投資を負の遺産と名指しして整理に着手している。半世紀を1本の路線に費やしたことが、新宿と箱根という両端へ投資を集める形を残した。
現況
不動産にもホテルにも寄らず、利益の過半は現在も鉄道から出る。2026年3月期の連結売上高は4,187億円、営業利益527億円、純利益374億円である。交通業が売上1,788億円・利益295億円、生活サービス業が売上1,551億円・利益77億円、不動産業が売上848億円・利益155億円で、3事業の利益合計526億円のうち56%を交通業が占める。設備投資も交通業510億円が不動産業216億円を上回る。2022年10月に小田急百貨店新宿店本館が営業を終え、2023年3月にホテルと隣接オフィスを計約1,300億円で売却した新宿駅西口の資産入替の資金は、2029年度竣工の複合ビルへ投じられた。老朽資産の売却益を次の投資へ充てる順序をとれたのは、鉄道が利益の過半を出し続けているからである。
競合
箱根では、76年前に取得した観光地で同じ相手と向き合い続けている。1949年2月、大東急の解体で再独立した小田急は箱根登山鉄道と神奈川中央乗合自動車の株式を取得し、バス・観光船・ホテルを一体で運営した。独占していた路線への西武系バスの乗り入れが火種となり、1950年代から1968年ごろまで通行妨害を伴う争いが続く。決着後は新宿方面と熱海・三島方面でエリアを分け合ったが、2024年4月に小田急箱根グループを再編し、2025年度から箱根エリアの再生へ総額150億円規模の投資を始めたことで、訪日客の需要をめぐる投資の競争として再燃した。沿線で線路の重なる私鉄を持たない小田急にとって、競争の焦点は路線ではなく箱根という一つの観光地に置かれている。
小田急電鉄:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 観光私鉄として開業し戦時統合で消えた小田急の名 (1923年〜)

無人の原野に82.5kmを通した観光私鉄

1923年5月に利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1350万円で設立した直後、関東大震災が建設計画を直撃した。それでも1927年4月に新宿から小田原までの82.5kmを全線一挙に開業し、当時の日本最長の電気鉄道となった。発起人の利光鶴松は起業目論見書で『最近、小田原・箱根〜東京の輸送はますます頻繁となり、国鉄がいかに輸送力を増強したとしても、この混雑を緩和するのは難しい』[引用元](起業目論見書 1923/02)と述べ、東海道本線の混雑緩和と所要時間短縮を訴えた。1929年4月には相模大野から片瀬江ノ島までの江ノ島線を開通させ、湘南海岸への行楽輸送に乗り出した。発起時の構想は箱根・湘南観光と東京近郊輸送の両取りにあった。 [1][2][3][4][5]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1923年5月 利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1,350万円で設立
    • [2]設立時資本金は1,350万円
    • [3]1927年4月 小田原線(新宿〜小田原)82.5kmを全線一挙開業・当時の日本最長の電気鉄道
    • [5]1929年4月 江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島)開通
  • 起業目論見書(1923年2月)
    • [4]利光鶴松の起業目論見書(1923/02)の引用

しかし沿線の多くは未開発の原野で、観光私鉄としての離陸は容易ではなかった。1926年6月のダイヤモンド誌は新宿から登戸までを除けば『大部分は無人の原野である』[引用元]と書き、阪急電鉄が1割2分の配当に達するまで20年を要した経過と引き比べた。実際1929年4月の読売新聞は『江ノ島線の開業によって資本金が増加したにも関わらず、収入は増加せず、いよいよ経営難に陥った』[引用元]と報じ、5分の配当も土地評価益でかろうじて捻出していた状況を伝えた。鉄道省への補助金追加申請と、世論の反発で頓挫した2割の運賃値上げ計画は、創業期の小田急が観光私鉄として描いた構想を、需要不足が押し戻した姿である。 [6][7]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1923年5月 利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1,350万円で設立
    • [2]設立時資本金は1,350万円
    • [3]1927年4月 小田原線(新宿〜小田原)82.5kmを全線一挙開業・当時の日本最長の電気鉄道
    • [5]1929年4月 江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島)開通
  • 起業目論見書(1923年2月)
    • [4]利光鶴松の起業目論見書(1923/02)の引用
    • [6]1926年6月ダイヤモンド誌『大部分は無人の原野である』の引用
  • 読売新聞(1929年4月12日)
    • [7]1929年4月12日読売新聞『江ノ島線の開業…いよいよ経営難に陥った』の引用

戦時統合と6年間にわたる小田急の名の空白

1939年5月のダイヤモンド誌は『運賃収入は、約180万円となり、前年同期と比べ33.3%の増収を記録した』[引用元]と報じ、座間付近への軍関係施設の進出を主因に挙げた。皮肉にも、創業期の経営難を脱したきっかけは沿線の軍需化だった。1940年5月に井の頭線を運営する帝都電鉄を合併し、1941年3月には鬼怒川水力電気との合併で社名を小田急電鉄に変更した。だが1942年5月、陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄に吸収された。京王・京急とともに東急の傘下に置かれた大東急体制の発足である。観光客を呼ぶための私鉄が、戦時の輸送統合のなかで首都圏西部の通勤輸送を担う巨大組織へと組み替えられ、独自経営の余地は奪われた。 [8][9][10][11]

    • [8]1939年5月ダイヤモンド誌『運賃収入は約180万円…前年同期比33.3%増収』の引用
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1940年5月 帝都電鉄(井の頭線)を合併
    • [10]1941年3月 鬼怒川水力電気と合併し社名を小田急電鉄に変更
    • [11]1942年5月 陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄(大東急)に統合

1944年5月には京王電気軌道も加わり、首都圏西部の私鉄網は1社に集約された。創業から19年で小田急の名は地図から消え、復活までさらに6年を要した。終戦後、空襲で甚大な被害を受けた旧小田急の路線復旧を一企業で賄う体力は東急にはなく、旧小田急従業員のあいだから分離独立を求める声が高まった。1948年6月1日に資本金1億円で再設立された小田急電鉄は、戦前の小田原急行鉄道とは法人格の異なる新会社として発足している。京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し、大東急は解体された。再独立直後の1949年2月には神奈川中央乗合自動車と箱根登山鉄道の株式を取得し、沿線バス網と箱根観光の中核を一挙に押さえた。同年5月の東京証券取引所上場と、銀座タクシー・箱根観光船・武蔵野乗合自動車・江ノ島鎌倉観光と続く出資が、戦後の小田急グループの骨格を形作った。 [12][13][14][15][16]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1944年5月 京王電気軌道も大東急に合併・首都圏西部私鉄が1社に集約
    • [14]1948年6月 京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し大東急が解体
    • [15]1949年2月 神奈川中央乗合自動車・箱根登山鉄道の株式取得
    • [16]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [13]1948年6月1日 資本金1億円で小田急電鉄を再設立・戦前の小田原急行鉄道とは別法人として発足
    • [8]1939年5月ダイヤモンド誌『運賃収入は約180万円…前年同期比33.3%増収』の引用
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1940年5月 帝都電鉄(井の頭線)を合併
    • [10]1941年3月 鬼怒川水力電気と合併し社名を小田急電鉄に変更
    • [11]1942年5月 陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄(大東急)に統合
    • [12]1944年5月 京王電気軌道も大東急に合併・首都圏西部私鉄が1社に集約
    • [14]1948年6月 京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し大東急が解体
    • [15]1949年2月 神奈川中央乗合自動車・箱根登山鉄道の株式取得
    • [16]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [13]1948年6月1日 資本金1億円で小田急電鉄を再設立・戦前の小田原急行鉄道とは別法人として発足

通勤線への転身と原価割れ定期の構造矛盾

小田急が観光線から通勤線へ性格を変えたのは1950年代後半である。1958年6月のダイヤモンド誌は『これまで当社は観光線という特色で好調を続けてきた。だが、今後は通勤線としての比重が次第に大きくなることが予想される』[引用元]と分析した。同記事は、定期収入が『社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている』[引用元]と書き、行楽客から得る定期外収入で原価割れ定期を補う収益構造を素描している。1958年9月の読売新聞『東京の素顔』は成城学園付近を高級住宅地として描き、戦後の沿線宅地化が進んでいた様子を伝えた。 [17][18][19]

    • [17]1958年6月ダイヤモンド誌『これまで当社は観光線…通勤線としての比重が次第に大きくなる』の引用
    • [18]同記事『社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている』の引用
  • 読売新聞(1958年9月)
    • [19]1958年9月読売新聞『東京の素顔』が成城学園付近を高級住宅地と描写

この通勤線化の流れに対応して、小田急は新宿ターミナルの商業集積に乗り出した。1961年6月に小田急百貨店を設立し、1962年11月に新宿店が営業を開始した。1964年12月には小田急不動産を設立して沿線の宅地分譲に本格参入、1966年11月に新宿駅西口駐車場・地下名店街、1967年11月に新宿西口駅ビルが相次いで完成した。社長の安藤楢六は1964年の対談で「小田急が開業したのは1927年ですが、神奈川県の裏街道を通っている関係から、長いこと苦しい経営を続けてきたのです。それが戦時中に、沿線に軍関係の施設ができたことがきっかけになって、住宅が増えるようになり、従来開けていなかった沿線が急速に開発されてきたのです」(広告 1964/07)と振り返り、通勤輸送を主軸に据える方向をした。 [20][21][22][23][24]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1961年6月 小田急百貨店を設立
    • [21]1962年11月 小田急百貨店新宿店が営業開始
    • [22]1964年12月 小田急不動産を設立
    • [23]1967年11月 新宿西口駅ビル完成
  • 広告(1964年7月)
    • [24]安藤楢六(社長)の1964年7月対談での回顧の引用
    • [17]1958年6月ダイヤモンド誌『これまで当社は観光線…通勤線としての比重が次第に大きくなる』の引用
    • [18]同記事『社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている』の引用
  • 読売新聞(1958年9月)
    • [19]1958年9月読売新聞『東京の素顔』が成城学園付近を高級住宅地と描写
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1961年6月 小田急百貨店を設立
    • [21]1962年11月 小田急百貨店新宿店が営業開始
    • [22]1964年12月 小田急不動産を設立
    • [23]1967年11月 新宿西口駅ビル完成
  • 広告(1964年7月)
    • [24]安藤楢六(社長)の1964年7月対談での回顧の引用

多摩ニュータウン乗り入れと膨張する設備投資

1964年12月には代々木上原から喜多見までの立体交差・複々線化が都市計画決定された。背景には朝ラッシュ時に250%を超える混雑率があり、ハード増強なしには通勤線への転身が成立しない事情があった。同年10月の読売新聞は東京都の多摩30万人住宅計画を報じ、京王・小田急・西武の乗り入れを前提に進められた経緯を伝えている(読売新聞 1964/10)。安藤楢六は1965年8月の取材に、東京都の多摩ニュータウン建設計画に対応して喜多見から稲城本町まで9.4kmの新線を計画しており、それを含めると約230億円の資金が要ると述べ、社内留保金だけで賄えず借入金や社債に依存する構造への懸念を示した。 [25][26][27]

  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [25]1964年12月 代々木上原〜喜多見の立体交差・複々線化が都市計画決定
  • 読売新聞(1964年10月)
    • [26]1964年10月読売新聞が東京都の多摩30万人住宅計画と京王・小田急・西武の乗り入れ前提を報道
  • 実業の世界(1965年8月)
    • [27]安藤楢六の1965年8月取材発言(喜多見分岐・稲城本町まで新線9.4km・約230億円)の引用

その懸念は1971年4月の読売新聞社説『大団地の建設と交通の先行投資』[引用元]に裏書きされる。京王・小田急のニュータウン乗り入れが『いまだに着工をみていない』[引用元]と批判され、私鉄側が低額用地・長期低利融資・特別料金制を求めて条件闘争を続けていた構図が示された。1974年6月に多摩線が新百合ヶ丘から小田急永山までで開通し、翌年4月に小田急多摩センター、1990年3月に唐木田まで延伸された。1981年4月の読売新聞朝刊は多摩ニュータウン10年を特集し、1.8万戸が並ぶ『東京一のベッドタウン』(読売新聞 1981/04)と評価した。1976年9月の町田駅ビル、1984年10月の新宿南口駅ビル、1989年8月の小田急西富士ゴルフ倶楽部、1992年11月の新百合ヶ丘ショッピングセンタービル、1996年10月の相模大野駅ビルと、沿線拠点の商業集積が連なった時期である。 [28][29][30][31]

  • 読売新聞(1971年4月)
    • [28]1971年4月読売新聞社説『大団地の建設と交通の先行投資』が乗り入れ未着工を批判『いまだに着工をみていない』
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1974年6月 多摩線(新百合ヶ丘〜小田急永山)開通
    • [30]1990年3月 多摩線が唐木田まで延伸
  • 読売新聞(1981年4月)
    • [31]1981年4月読売新聞朝刊が多摩ニュータウン10年を特集・1.8万戸『東京一のベッドタウン』
  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [25]1964年12月 代々木上原〜喜多見の立体交差・複々線化が都市計画決定
  • 読売新聞(1964年10月)
    • [26]1964年10月読売新聞が東京都の多摩30万人住宅計画と京王・小田急・西武の乗り入れ前提を報道
  • 実業の世界(1965年8月)
    • [27]安藤楢六の1965年8月取材発言(喜多見分岐・稲城本町まで新線9.4km・約230億円)の引用
  • 読売新聞(1971年4月)
    • [28]1971年4月読売新聞社説『大団地の建設と交通の先行投資』が乗り入れ未着工を批判『いまだに着工をみていない』
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1974年6月 多摩線(新百合ヶ丘〜小田急永山)開通
    • [30]1990年3月 多摩線が唐木田まで延伸
  • 読売新聞(1981年4月)
    • [31]1981年4月読売新聞朝刊が多摩ニュータウン10年を特集・1.8万戸『東京一のベッドタウン』

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小田急電鉄の沿革1923〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1923〜1949年観光私鉄として開業し戦時統合で消えた小田急の名小田原急行鉄道を設立
小田原線(新宿〜小田原間)開通
江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島間)開通
帝都電鉄を合併★★
鬼怒川水力電気と合併し小田急電鉄に商号変更★★
東京横浜電鉄・京浜電気鉄道と合併し東京急行電鉄に商号変更★★
京王電気軌道を合併
東京急行電鉄から分離し小田急電鉄を再設立★★
安藤楢六箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式取得と西武との「箱根山戦争」

1949年2月、大東急解体で再独立して間もない小田急電鉄が、箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式を取得して箱根観光の沿線基盤を一括して掌握した経営判断。西武グループとの間で1950年代から68年まで『箱根山戦争』と呼ばれるバス路線の縄張り争いに発展し、2025年には投資競争として再燃している。

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★★★
安藤楢六東京証券取引所に上場
1950〜1995年通勤線への転身を支えた新宿ターミナル商業安藤楢六箱根登山線への乗入れを開始
安藤楢六国鉄御殿場線への乗入れを開始
安藤楢六小田急百貨店を設立★★
安藤楢六小田急百貨店新宿店が営業開始
安藤楢六小田急不動産を設立
安藤楢六向ヶ丘遊園モノレール線開通
安藤楢六新宿西口駅ビルが竣工
広田宗多摩線開通(新百合ヶ丘〜小田急永山間)
広田宗地下鉄千代田線との相互直通運転開始
利光達三多摩線延伸(小田急多摩センター〜唐木田間)開通
1996〜2019年54年と3100億円を要した複々線化事業の完成滝上隆司小田急百貨店の「負の遺産」整理と専門大店化による本業回帰

1994年に『専門大店』化へ転じた小田急百貨店は、1997年5月、小田急電鉄専務を兼ねる利光國夫が社長に就任し、バブル期に広げた東京オペラシティ事業などの不採算投資を『負の遺産』として整理する方針を打ち出した経営判断。

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★★★
滝上隆司負の遺産の整理に着手★★
北中誠複々線化工事第1期完成(喜多見〜和泉多摩川間)
松田利之複々線化工事第2期完成(世田谷代田〜喜多見間)
大須賀賴彦千代田線との特急車両直通運転を開始
山木利満山木利満氏が取締役社長に就任
山木利満在来線地下化(東北沢〜世田谷代田間)
星野晃司星野晃司氏が取締役社長に就任
星野晃司半世紀を貫いた複々線化投資——1964年都市計画決定から2018年全面完成まで

1964年12月、東京都の都市計画決定を受けて小田急電鉄が着手した代々木上原〜喜多見間の複々線化事業は、用地買収の難航と巨額の資金負担により完成までに54年を要し、2018年3月、総事業費約3,100億円をかけて全区間の複々線運転が始まった経営判断。

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★★★
星野晃司江ノ島電鉄を株式交換により完全子会社化
星野晃司小田急SCディベロップメントを設立し商業施設運営事業を会社分割
星野晃司初の経常赤字・純損失を計上★★
星野晃司新宿駅西口の資産入替と1,300億円再開発

小田急電鉄は、2018年3月に完成させた複々線化事業の次の課題として、新宿駅西口の大型再開発に着手した。コロナ禍で収益が急落するなか、ハイアットリージェンシー東京と隣接オフィスビルを2023年3月に計約1,300億円で売却し、その資金を東急不動産・東京メトロと組む2029年度竣工予定の高さ約260メートル・地上48階建て複合ビルの投資に回した。本稿の時点で再開発は建設の途中にある。

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★★★
鈴木滋鈴木滋氏が取締役社長に就任
出典・参考

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