箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式取得と西武との「箱根山戦争」
独占か共存か——箱根の観光需要をめぐる西武との攻防は、1968年の決着から半世紀を経てどう形を変えたか
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- 概要
- 1949年2月、大東急解体で再独立して間もない小田急電鉄が、箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式を取得して箱根観光の沿線基盤を一括して掌握した経営判断。西武グループとの間で1950年代から68年まで「箱根山戦争」と呼ばれるバス路線の縄張り争いに発展し、2025年には投資競争として再燃している。
- 背景
- 1948年6月の大東急解体で小田急は資本金1億円の新会社として再出発したが、箱根観光を担う沿線バス・鉄道会社の帰属は定まっていなかった。同じ地域では西武グループも勢力を伸ばしており、両者が同じ観光資源を挟んで向き合う位置関係が生まれつつあった。
- 内容
- 1949年2月の株式取得を皮切りに、小田急は銀座タクシー・箱根観光船・武蔵野乗合自動車・江ノ島鎌倉観光・国際観光と矢継ぎ早に出資を重ね、沿線バス・観光船・ホテルの一体経営を固めた。だが独占運行路線への西武系バスの乗り入れが火種となり、通行妨害を伴う「箱根山戦争」に発展した。
- 含意
- 対立は1968年ごろに決着し、両社は新宿方面と熱海・三島方面でエリアを分け合う「相互不可侵」に転じた。2003年の提携、2025年のインバウンド需要をめぐる投資競争と、同じ土俵での競争と協調は形を変えながら続いている。
「戦争」ではなく「競争」という距離感
この一連の経緯の核心は、1949年の株式取得が、単なる沿線資産の買い増しではなく、同じ観光地を狙う同業との縄張りをどう線引きするかという問いを70年以上抱え続けた点にある。バス路線の物理的な妨害にまで至った1950〜60年代の対立と、2025年の投資競争を並べると、規模も手段もまるで異なる。小田急は鉄道沿線からの誘客動線を軸に、西武は不動産の売却益を再投資に回すキャピタルリサイクル型の成長を軸に据えており、両社が同じ土俵で殴り合った時代とは競争の形そのものが変わっているとみることができる。
もっとも、1968年の決着以来続いてきた「相互不可侵」に近い共存が、投資の規模で優劣を競うこの先の5年間でどこまで保たれるかは、まだ見通せない。両社の社長がそろって「協調」「パートナー」と語る姿は、かつての対立の記憶があるからこそ強調される距離感ともとれる。インバウンド需要という新しいパイをめぐる競争が、観光地としての箱根の価値をともに高める方向に働くのか、それとも投資の重複や需要の奪い合いに転じるのか、2025年からの5年間の投資計画が実際にどう回収されるかが、次の判断材料になる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「無主」の空白から始まった再出発
1948年6月1日、陸上交通事業調整法に基づく戦時統合が解体され、小田急電鉄は資本金1億円の新会社として東京急行電鉄から分離した。戦前の小田原急行鉄道とは法人格の異なる別会社であり、京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立した。新宿から小田原・江ノ島へ至る鉄道路線は引き継いだが、沿線のバス網や観光施設を担う関連会社の資本系列は、大東急解体の混乱の中で定まっていなかった[1]。
戦時統合の性格は、当事者だった東急側の証言にも残る。東京急行電鉄専務の吉次利二は1966年の講演で、大東急が「太平洋戦争末期には現在の小田急、京浜急行、京王帝都とも合併して」東京の西南部一帯の輸送を担った経緯を振り返り、戦後は「集中排除の指令を受け」て各社が分離したと述べた。分離独立した4社は、それぞれ沿線の勢力圏を一から固め直す立場に置かれた[2]。
隣接する西武グループとの向き合い
再出発した小田急がまず固めるべき資産は、箱根観光の玄関口を担う沿線のバス・鉄道会社であった。箱根登山鉄道(現・小田急箱根)と神奈川中央乗合自動車(現・神奈川中央交通)は、小田原・箱根周辺のバスと登山電車を担う地元の中核事業者で、大東急解体の余波でどのグループにも属さないまま残されていた。この資産をどちらが押さえるかが、両陣営にとって最初の争点になった[3]。
一方、箱根の反対側にあたる熱海・三島方面からは、堤康次郎が率いる西武グループが駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道系の伊豆箱根バス)を通じてバス路線を伸ばしていた。同じ箱根の観光需要を、新宿側と熱海側の異なる玄関口から狙う位置関係が、この時点ですでに敷かれていたことになる[4]。
決断
株式取得による沿線基盤の一括掌握
1949年2月、小田急は神奈川中央乗合自動車と箱根登山鉄道の株式を取得し、沿線バス網と箱根観光の中核を一挙に押さえた。同年5月には神奈川中央乗合自動車が東京証券取引所に上場し、10月には銀座タクシー(現・小田急交通)を設立した。再独立からわずか1年余りで、鉄道本体の外に観光・輸送関連の系列会社群を築く判断であった[5]。
出資は単発では終わらなかった。1950年3月に箱根観光船(現・小田急箱根)を設立し、同年8月に武蔵野乗合自動車(現・小田急バス)の株式を取得、53年11月に江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)、54年9月に立川バス、55年3月に国際観光(現・小田急リゾーツ)の株式を相次いで取得した。数年のうちにバス・観光船・ホテルを束ねる沿線グループの骨格が固まった[6]。
直通運転と、バスをめぐる火種
沿線を固めると同時に、小田急は輸送の実効性でも先手を打った。1950年8月、小田原から箱根湯本までの区間で箱根登山鉄道線への直通運転を開始し、新宿から箱根湯本まで乗り換えなしで到達できる観光列車を実現した。株式取得による資本の掌握と、直通運転による輸送の一体化を組み合わせ、箱根観光の入り口を新宿側から一続きにする狙いであった[7]。
だが、同じ箱根で西武グループも動いた。小田急グループの箱根登山バスが独占的に運行していた路線に、西武グループの駿豆鉄道バスが乗り入れを試みたことが火種となり、対立が激化すると西武側は自社が建設した自動車専用道路で箱根登山バスの通行を物理的に阻止する強硬手段に出た。1950年代から60年代後半にかけて続いたこの縄張り争いは、のちに「箱根山戦争」と呼ばれることになる[8]。
結果
1968年の決着とすみ分けの定着
「箱根山戦争」は1968年ごろに終息し、以降両社は箱根の観光地を地理的に分け合う均衡へ転じた。小田急は新宿方面からのアクセスを担い、小田原・箱根湯本を経て箱根登山電車・箱根ロープウェイ・箱根海賊船へつながる「箱根ゴールデンコース」を形成し、西武は熱海・三島方面から伊豆箱根バス・駒ヶ岳ロープウェーを通じたルートを築いた。1950年代の縄張り争いは、路線ごとの担当地域を分ける形で沈静化した[9]。
この均衡は2003年12月まで大きく動かなかった。西武の堤義明会長と小田急の利光國夫会長が箱根での提携を発表し、小田急グループの高速バス路線を西武系の箱根園と小田急系の山のホテルまで延伸する第1弾の策を打ち出した。当時の記事は、箱根の年間観光客が1991年の約2250万人をピークに2000万人を割り込み、両グループとも集客の停滞に直面していたことを歩み寄りの理由に挙げている[10]。
2025年、投資による競争の再燃
2025年、両社は再び箱根に大型投資を打ち出した。小田急は2025年度から30年度にかけて観光事業へ600億円を投じ、観光関連の営業収益を24年度の789億円から30年度に1200億円へ引き上げる計画を掲げた。桃源台の「RETONA HAKONE」を25年12月に開業し、仙石原の「箱根ハイランドホテル」も27年度の改装開業を予定する。「観光についてはグループ内で明確な目標値がなかった」と同社経営戦略部の担当者は語り、定量目標を伴う戦略への転換を認めている[11]。
西武ホールディングスは、資産保有型ではなく不動産を売却し資金を再投資へ回す成長路線をとる。2025年2月に赤坂プリンスホテル跡地の複合施設「東京ガーデンテラス紀尾井町」を約4000億円で売却し、26〜27年度に「西武ファンド」を組成、35年度までに運用資産残高6000億円超を目指す。箱根でも駒ヶ岳ロープウェー展望広場を25年4月にリニューアルした。小田急の鈴木滋社長は「西武グループとも協調しながら事業を進めている」と語り、西武HDの西山隆一郎社長も「重要なパートナー」と応じている[12]。
- 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 1966年 第4巻第2号「東京急行電鉄の現状と将来」(東急電鉄専務・吉次利二講演録)
- 週刊東洋経済 2025年8月30日号「私鉄の逆襲 50年ぶりのバトル 小田急vs.西武 よみがえる『箱根山戦争』」
- 週刊東洋経済 2004年1月24日号「西武鉄道と小田急の連携で箱根は復活するか」(特集「復活せよ!国内旅行地域発の集客改革」内コラム)