小田急百貨店の「負の遺産」整理と専門大店化による本業回帰

バブル期に広げた事業の後始末を、利光國夫社長はどう引き受けたか

更新:

時期 1997年5月
意思決定者 利光國夫 小田急百貨店社長・小田急電鉄専務
論点 百貨店事業の構造改革と本業回帰
概要
1994年に「専門大店」化へ転じた小田急百貨店は、1997年5月、小田急電鉄専務を兼ねる利光國夫が社長に就任し、バブル期に広げた東京オペラシティ事業などの不採算投資を「負の遺産」として整理する方針を打ち出した経営判断。
背景
バブル崩壊で高額品販売と法人需要に頼った百貨店経営が行き詰まる一方、小田急電鉄は東京・西新宿の複合施設「東京オペラシティ」事業で年間10億円を超す損失を2期連続で計上し、1996年秋には新宿駅南口に高島屋新宿店が開業して競争が一段と激しくなった。
内容
小田急百貨店は1994年前後から町田店・相模大野の新店で商品構成を絞り込む「専門大店」化を進め、1997年5月に就任した利光國夫社長は東京オペラシティ事業の見直しを3年以内に進める方針を掲げつつ、新宿店の婦人・紳士衣料強化などの全館リニューアルを進めた。
含意
小田急電鉄グループが、バブル期の多角化投資をみずから「負の遺産」と名指しして整理に着手した点に特徴がある。整理はすぐには実らず、2000年3月期には連結最終損益が赤字に転じるなど、後始末は数年にわたって尾を引いた。
筆者の見解

自己認定から始まった改革の重み

利光氏の発言で目を引くのは、不振の理由を「社員の営業力不足」ではなく「バブル期の投資や事業拡大などのこれまでの経営判断の失敗」に求めた点である。祖父・利光鶴松氏が興した会社を率いる立場でありながら、自社の経営判断そのものを誤りと認めるところから改革を始めた点に、1994年の「専門大店」化とは異なる重みがうかがえる。電鉄専務を兼務したまま百貨店社長を引き受けたのも、東京オペラシティという電鉄本体の懸案と百貨店改革を切り離さず、一人で両方に責任を負う構えを選んだためとみられる。

もっとも、負の遺産の整理は掛け声どおりには進まなかった。3年以内にメスを入れるとした利光氏の見通しに対し、連結決算は1998年3月期・1999年3月期と伸び悩み、2000年3月期には最終赤字を計上している。専門大店化と負の遺産処理という二つの手を同時に打った1990年代の小田急百貨店の経験は、電鉄系百貨店が沿線という強みだけでは競争を勝ち抜けず、バブル期に広げた事業の後始末に長い時間を要したことを示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

沿線3店舗の百貨店とバブル期投資の重荷

小田急百貨店は1961年6月の設立以来、新宿駅前の新宿店(1962年11月開業)を中心に、町田店(1976年)、藤沢店(1985年)を加えた3店舗で沿線の百貨店事業を担ってきた。1993年3月には多摩センター駅前に「多摩カリヨン館」を開業し、相模大野駅ビルの新築にあわせて新店を計画するなど、バブル崩壊後もなお出店を続けていた[1]

その裏で、小田急電鉄は多角化の一環として東京・西新宿の複合施設「東京オペラシティ」事業にも参画していた。新国立劇場と高層オフィスビルなどからなるこの事業は、バブル期に描いた収支計画がオフィス不況で大きく狂い、年間10億円を超える損失を2期連続で計上する重荷になっていた[2]

高島屋新宿店の開業と沿線競合の激化

百貨店業界全体も、バブル崩壊で経営の前提を失っていた。消費者は「高いものを買った」ことを誇示する消費行動から、「安く買った」ことを自慢する行動へと価値観を変え、高コスト体質の百貨店はこの変化に対応できずにいた。電鉄系百貨店最大手の東急百貨店も1992年4月に町田店新館を、1993年4月には神奈川県に青葉台店を開業し、沿線の陣取り合戦は一段と激しくなっていた[3]

この構図は小田急の沿線でも同じであった。1996年秋には新宿駅南口に高島屋新宿店が開業を控え、消費税率引き上げ後の消費低迷とも重なって、小田急百貨店を取り巻く競争は一段と厳しさを増していった。小田急町田店では周辺への紳士服チェーンや玩具量販店の進出が相次ぎ、1994年3月のリニューアルで紳士服売り場を19%、玩具売り場を46%減らし、婦人服・雑貨を増やして得意分野で勝負する構成を探っていた[4][5]

決断

「専門大店」化という第一段階の答え(1994年)

電鉄系百貨店各社は、東京・日本橋に代表される「日本橋型」の総合百貨店から脱し、沿線住民のニーズを掘り下げて商品を絞り込む「八王子・相模原型」の「専門大店」へ転じる動きを強めていた。小田急百貨店もこの流れに沿い、相模大野駅ビルの新築を機に、旧来型の総合デパートである町田店との違いを打ち出す新店計画を進めた[6]

小田急百貨店の笠間氏(店舗開発部長)は、相模大野店の戦略を「町田店は旧来型の総合デパートメントストア、相模大野は地域のニーズを的確に反映し商品を絞った専門大店にして、町田店との違いを打ち出したい」と説明し、「デイリー、カジュアル、コンビニエント」をキーワードに、休日需要よりも日々の必需品の品ぞろえを優先する構成を掲げた[7]

利光國夫氏の社長就任と「負の遺産」の名指し(1997年)

1997年5月、小田急電鉄で常務・専務として関連事業を歴任してきた利光國夫氏が、電鉄専務を兼務したまま小田急百貨店社長に就任した。就任にあたり利光氏は「いま、経営が厳しい状況にあるのは社員の営業力が足りないからではない。バブル期の投資や事業拡大など、これまでの経営判断の失敗によるものだ。私の役目は社員が百貨店業に専念できるように、不採算事業などの"負の遺産"を整理することにある」と明言し、自社の判断の誤りを認めるところから改革に着手した[8]

利光氏が電鉄専務を兼務したままにしたのは、最大の懸案である東京オペラシティ事業の見直しでグループ全体の協力を取り付けるためであった。「今年度末には不採算事業の見直しプランを練り上げ、来年度中に実行に移す。少なくとも3年以内に、見切りをつけるべき部分にメスを入れる」と述べ、負の遺産の整理に数年単位の工程を区切った[9]

結果

新宿店の全館リニューアルと一進一退の業績

本業改革の手始めとして、小田急百貨店は新宿店の全館リニューアルを1997年秋から翌春にかけて進め、伊勢丹新宿店に劣っていた10~20代の若年層向けに婦人・紳士衣料を強化した。利光氏は改装後に「カップルや親子連れが目立つようになった」と手応えを語り、「新宿駅の上という便利さを生かしながら、ファッション性が高く、特色のある百貨店にしていきたい」と方向を語った[10]

もっとも、"負の遺産"の整理は数字にすぐ表れなかった。小田急電鉄の連結経常利益は1997年3月期の211億円から1998年3月期は128億円へ落ち込み、1999年3月期も142億円にとどまった。2000年3月期には経常利益が236億円まで回復した一方、当期純利益は36億円の赤字に転じており、東京オペラシティなど不採算事業の後始末は、利光氏の宣言から数年にわたって尾を引いた[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1994年11月28日号「京王・小田急 電鉄系百貨店サバイバル戦略 地域密着,商品絞り『専門大店』化 ターゲットは団塊ジュニア」
  • 日経ビジネス 1997年12月22日号「利光國夫氏[小田急百貨店]登場 本業強化に向け、"負の遺産"に大ナタ」
  • 小田急電鉄 会社年鑑(連結)