藤沢薬品工業トイレ用芳香剤ピコレットなど家庭用品20品目のライオンへの譲渡

細々とでも利益の出る部門を抱え続けるか、手放すか——薬価引き下げ下の資源配分

時期 1985年5月
意思決定者(推定) 藤澤友吉郎 社長
論点 低収益部門の切り離しと医薬品への資源集中
概要
1985年5月2日、藤沢薬品工業がトイレ用芳香剤「ピコレット」など家庭用品約20品目をライオンへ譲渡することで最終合意した経営判断。1984年度の売上高37億円の部門で、譲渡額は業界関係者の推定で10億円前後とされた。売買したのは商標を含む諸権利で、生産は10社近い下請けメーカーがそのまま担い、家庭用品部の社員は全員が社内の他部門へ移った。
背景
度重なる薬価の引き下げで営業利益は1980年3月期をピークに減り、1985年3月期には138億円とピーク時の約半分に落ちていた。次の新薬の発売は2〜3年先という見通しで、薬価改定の対象から外れる大衆薬の売上高も60億円と全体の4%弱にとどまり、利益の落ち込みを埋める材料を欠いていた。
内容
藤沢は1982年から経営コンサルタント会社を入れて事業の見直しに着手しており、収益率の低い家庭用品から手を引く判断に至った。主力のピコレットは1977年の発売直後に芳香剤市場の約50%を占めたが、1985年のシェアは11%まで下がり、残る製品もいずれも小粒であった。
含意
藤沢が譲渡の理由に挙げた集中先は大衆薬分野であったが、譲渡の半年後に決めたのは米ライフォメッドへの22.5%資本参加であり、1988年には西独クリンゲファルマを子会社にしている。手放して空いた資源が実際に向かったのは、国内の大衆薬ではなく欧米の医療用医薬品事業であった。
筆者の見解

10億円が語るもの

藤沢が受け取った額は、業界推定で10億円前後にすぎない。営業利益が138億円まで落ちた会社の穴を埋める金額ではなく、資金の手当てが目的でなかったことは、この一点からうかがえる。手放したのは、シェアが11%まで下がったピコレットを抱えて家庭用品市場で他社と競う立場そのものであった。会社が挙げた集中先は大衆薬であったが、半年後に決めたのは米ライフォメッドへの22.5%資本参加であり、空いた手が向かった先は欧米の医療用医薬品であったとみられる。

ただ、身軽になったから海外で伸びたとは言えない。フジサワスミスクラインは投入するはずの新薬候補のうち1品目しか製品化できず、販売網をゼロから作る壁に突き当たったままであった。ライフォメッドを選んだ理由も、新薬メーカーでは投資額が大きすぎるという消去法に近い。1961年から24年続いた非医薬品の商いを2カ月余りで畳んだ速さと、欧米で足場が固まるまでの遅さが、同じ経営の下に並んでいた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

薬価引き下げが削った利益

藤沢薬品工業の営業利益は、1980年3月期を頂点として減り続けた。原因は度重なる薬価の引き下げにあり、1985年3月期には138億円と、ピーク時の約半分まで落ちた。手元に売り出せる新薬はなく、次の発売は2〜3年先という見通しであった。利益の下げ止まる材料を欠いたまま、同社は事業の組み替えを迫られていた[1]

弱点は大衆薬にもあった。薬価改定の対象から外れる大衆薬は各社の貴重な収入源であったのに、藤沢のこの部門の売上高は60億円程度、全体の4%弱にすぎない。収益率の高い抗生物質へ開発と販売の力を寄せてきた分だけ、市販薬の側が手薄になっていた。医療用で稼ぐ構えが、薬価という一つの制度に業績を握られる形をつくっていた[2]

24年続いた非医薬品の商い

切り離しの対象となった家庭用品は、藤沢が長く抱えてきた部門であった。同社は1961年、食品の酸化防止剤エルビットの工業化に日本で初めて成功し、医薬品の外へ足を延ばしている。当時の売上構成を見ると、1961年3月期の半期で他社商品が12.4%、自社製品その他が5.7%を占め、薬効分類に収まらない商いが2割近くあった。1985年の譲渡は、この24年に区切りをつける決定であった[3][4]

もっとも、藤沢が家庭用品を自ら作っていたわけではない。売上の約半分を占めるピコレットは、樟脳を納めていた化学品メーカーの日本精化と1977年に共同開発した製品で、生産は日本精化が担い、藤沢は販売を受け持っていた。芳香剤のほかに排水管洗浄用のクリーナー「パイプマン」、食用油の処理剤「油っ固」などを並べ、家庭用品部の1984年度の売上高は37億円に達していた[5][6]

決断

2カ月余りで固めた譲渡

話が動いたのは1985年3月初めであった。藤沢の経営戦略立案に加わっていた大手経営コンサルタント会社のトップが、ライオンの小林敦社長を訪ねる。当初はある企業が家庭用品部門を売りたがっているという漠然とした話で、聞き込むうちに藤沢だと分かったと小林社長は振り返っている。ライオンは調査と並行して担当者どうしの交渉に入り、4月初めには売買の基本合意に達した[7]

5月2日、小林社長が大阪・道修町の藤沢薬品本社に藤澤友吉郎社長を訪ね、最終合意を確認した。最初の接触から2カ月余りの決着で、交渉は終始ライオンが主導している。藤沢が受け取った金額を両社とも明かさなかったが、業界関係者は10億円前後と推定した。取引は他社にも持ち込まれており、5年程度で元がとれると読んだライオンがまとめ上げた[8]

何を渡し、何を残したか

譲渡の対象は商標を含む諸権利であった。生産は10社近い下請けメーカーが引き続き担うため、ライオンは設備を新たに入れる必要がない。家庭用品部の社員は全員が藤沢の他部門へまわされ、ライオンに引き取る義務は生じなかった。従業員と生産設備を切り離して商品だけを売る形にしたので、品質検査と消費者イメージ調査に問題がないと出た時点で、買い手は決断できた[9][10]

藤沢は1982年からコンサルタント会社の力を借りて経営の見直しに入っており、家庭用品からの撤退はその延長にあった。収益率の低い部門から手を引き、大衆薬分野へ経営資源を集中させる方が得策だ、というのが同社の説明である。主力のピコレットは1977年の発売直後こそ芳香剤市場の約50%を独占したが、1985年のシェアは11%まで下がっていた。残る製品も小粒で、人と資金を注ぐ道は全社の資源配分から見て選びにくかった[11][12]

結果

買い手の計算と、当時の相場観

ライオンにとって、この買い物は長期計画の一部であった。同社は1984年に売上高2,600億円・経常利益73億円を、創立100周年の1991年までに5,000億円・200億円へ引き上げる「アタック100」を掲げ、外部からの事業・製品導入を担う枠を計画に組み込んでいた。ピコレットの取得は、西独ヘンケルとの技術提携に続くその第二弾にあたる。宮川太一郎専務は、家庭用品専業メーカーの強さを加えれば立派に生まれ変わるはずだと述べている[13][14]

当時の日本では、売却をぎりぎりまで延ばして事業を持ちこたえるのが普通で、細々とでも利益の出る部門を手放す例はまれであった。ライオンの側もこの取引を特上の買い物と受け止めている。「アタック100」を始めてから銀行や証券会社が持ち込む案件は、倒産寸前など事業として難のあるものがほとんどであった。藤沢の譲渡が異例に映ったのは、この相場観の裏返しである[15]

切り離した後に資金が向かった先

大衆薬への集中という説明とは別に、藤沢が実際に資金を投じた先は欧米であった。譲渡の半年後にあたる1985年11月、同社は米国の後発医薬品メーカー、ライフォメッドに22.5%の資本参加を決めている。新薬メーカーが相手では当時の状況で投資額が大きすぎる、というのが後発品の会社を選んだ理由であった。1988年4月には西独クリンゲファルマの出資比率を74%へ引き上げ、欧州の足場を子会社として固めている[16][17]

欧米での道のりは平坦ではなかった。1981年に米スミスクラインと折半出資で設立したフジサワスミスクラインには、日本で研究開発の段階にあった新薬候補を投入する構想があったが、実際に持ち込んで製品化できたのは1品目にとどまった。扱う製品が一つでは販売員も増やせず、合弁で相手からノウハウを得ながらゼロから販売網を作るやり方は壁に突き当たっている。家庭用品の譲渡で得た10億円前後は、この投資を賄える規模ではなかった[18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1985年9月16日号「ライオン、何を狙う? 藤沢薬品の家庭用品事業とり込み」
  • 日経ビジネス 2001年2月12日号「藤沢薬品工業『失敗を良い薬に』収穫期迎える海外拠点」
  • 日経ビジネス 1988年6月13日号「日本企業の海外M&A一覧」
  • 株式会社年鑑 昭和37年版「藤沢薬品工業」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「藤沢薬品工業」

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