日立化成好況期に着手した低収益製品の選別と不採算製品からの撤退
過去最高の売上を計上した期に、丹野毅社長はなぜ製品の絞り込みを始めたか
- 概要
- 1991年6月に社長へ就任した丹野毅氏は、産業界にまだバブル景気の余熱が残るなかで低収益製品の見直しに着手した。過去3年間の売上高伸び率が平均10%以下で、かつ損益率が3%以下という数値基準を設け、該当する製品をすべて見直しの対象に据えた。1992年から1993年にかけて延べ42品目を選び出し、うち14品目の生産打ち切りや関連会社への譲渡に踏み切った。
- 背景
- 1980年代半ばからの多角化には採算を度外視した投資も混じり、固定費は2年間で150億円ふくらんで870億円に達していた。1991年3月期は過去最高の3147億円を売り上げたが、その決算をまとめる最中に、経営企画部が来期の赤字転落を役員へ報告していた。
- 内容
- 低収益製品小委員会を設け、経理の専門家である山田進啓常務を委員長に据えて、選別基準づくりから対応策の立案までを担わせた。注文設計型の欧風システムキッチンや衛星放送用の平面アンテナは生産を打ち切り、ガス給湯器はOEM調達へ、FWパイプは子会社へ移した。一方、赤字続きの合併浄化槽は残した。
- 含意
- 1992年3月期に1.1%まで落ちた売上高経常利益率は1998年3月期に4.7%へ戻り、日立化成工業は証券アナリストから「リストラクチャリングの優等生」と呼ばれた。ただし対象は売上の10%前後の製品群にとどまり、事業単位の入れ替えは2000年代以降へ持ち越された。
好況のうちに線を引くということ
バブル崩壊を先読みした先見の明、という評し方は、この判断を単純にしすぎる。1991年3月期の売上は過去最高の3147億円で、丹野毅社長が動いた根拠は景気の予測ではなく、2年間で150億円ふくらんで870億円に達した固定費と、経営企画部が出した来期赤字転落の見通しであった。外の環境が悪くなる前に社内の計数が異変を告げ、その報告を好況のさなかに額面どおり受け取ったところに、この決断の核心があるとみることができる。
もっとも、改革の射程は広くなかった。俎上に載った42の製品群は当時の売上高の10%前後にすぎず、事業部門ごと畳む選択はこの時点では取られていない。住宅設備機器を事業ごと手放すには2008年まで要した。それでも、欧風システムキッチンや平面アンテナを打ち切る一方、赤字続きの合併浄化槽は残して小型化で稼ぎ頭に変えている。切る基準を数字で示し、残す判断も同じ基準の上で下したことに、後年の事業入れ替えへつながる型がうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
多角化がふくらませた固定費
日立化成工業は1962年10月に設立され、翌1963年4月に日立製作所の化学製品部門の営業資産を譲り受けて営業を始めた。初代社長の藤久保三四郎氏は「取扱商品のうち、毎年半分は新製品に入れ替えろ」と社内に訴え、化学品の合成技術を応用できる医薬品や住宅機器へ商品を広げてきた。1980年代半ばには電子部品材料やバイオテクノロジー関連にも手を伸ばし、扱う品目は増え続けていた[1][2]。
その多角化には、採算を度外視した投資も混じっていた。1991年3月期までの2年間だけで、人件費や設備投資を合わせた固定費は150億円ふくらんで870億円に達し、財務体質は悪化しはじめていた。翌1992年3月期にも人件費の上昇と減価償却費の増加が見込まれ、放置すればさらに100億円近く積み上がる見通しにあった。1990年8月の湾岸戦争で原油価格が高騰し、ドル高も重なって石油関連製品の調達コストは上がろうとしていた[3][4]。
過去最高の決算とともに届いた報告書
1991年3月期、日立化成工業は過去最高となる3147億円を売り上げ、経常利益も過去3番目の81億円を確保した。はた目には経営は順風満帆に見えた。ところが決算をとりまとめる作業の最中に、経営企画部から役員のもとへ「このままでは、来期は赤字に転落する」という報告書が届く。売上の記録を更新したその期に、危機を先に告げたのは市場ではなく社内の計数部門であった[5]。
当時の産業界は、まだバブル景気の余熱のなかにあった。事業からの撤退は日本企業にとって「経営の失敗」と同義の言葉として受け取られ、うまくいかない事業も抱え続けるのが通例であった。業績が悪化してもいない時期に製品を絞り込むという発想は、当時の相場観からは外れていた。景気の先行きに楽観が残るころから不採算製品の撤退を決め、設備投資や人件費の削減に踏み切った点で、日立化成工業の動きは同業他社に先んじていた[6][7]。
決断
2年で断行するという期限
1991年6月、丹野毅氏が社長に就任した。「いま手を打たなければ、この会社はひどいことになる」。丹野社長は社員に危機感の共有を訴えるとともに、不採算製品の整理と、製品開発に直接結びつかない基礎研究の一時凍結に即座に着手した。1年で400人にのぼる本社従業員の削減を含む一連の策も、就任と同時に宣言している。好況の余熱が残る時期の、先回りした縮小であった[8]。
方針には期限がついていた。「今後2年をメドとしてリストラを一気に断行する」。時間をかけては社員へのカンフル剤としての効果が薄れ、何より改革を好まない勢力に反撃の猶予を与えかねないとみたためである。社長就任1年目の1992年3月期は、湾岸戦争の影響が予想ほど大きくなかったことにも助けられ、経常利益33億円と前期比59%の減益ながら赤字転落は免れた。それでも丹野社長は予定どおり絞り込みに着手した[9][10]。
だれの目にも分かる線引き
絞り込みには周到な仕掛けを用意した。まず、どの製品を対象とするかの基準を数字で示した。「過去3年間の売上高伸び率が平均10%以下」で、かつ「損益率が3%以下」のものを低収益製品と位置づけ、該当する製品はすべて見直しの対象に据えた。損益率は同社が用いた指標で、売上高経常利益率に近い概念である。3%という線は、当時の同社の売上高経常利益率が3%前後、製造業平均が5%前後だったことから引かれた[11]。
基準を数字で示したのは、選別を社員が納得できる形で進めるためであった。業績がさほど悪くないなかで製品を絞れば、関係する部署の従業員が「思い切った対策に拒絶反応を示す恐れがあった」と丹野社長は振り返っている。経理の専門家である山田進啓常務を委員長とする「低収益製品小委員会」を設け、思い入れではなく採算で判断できる人選を敷いた。実行面では、現場を知り尽くした宮嶋弘専務を各事業部を束ねる事業本部長に据えた[12][13]。
結果
何を打ち切り、何を残したか
低収益製品小委員会は1992年に25品目、1993年に33品目、一部重複を除いて延べ42品目を選び出した。赤字解消のめどが立たないとして生産を打ち切ったのは、注文設計型の欧風システムキッチン、衛星放送用の平面アンテナ、小型カメラ用の配線盤などである。家庭用風呂釜に使うガス給湯器は一部を除いて専業メーカーからのOEM供給に切り替え、化学プラント用の配管に使うFWパイプは子会社の日立化成モールドへ移した[14][15]。
撤退や関連会社への譲渡に至った不採算製品は、その後の1年間で家庭向けの衛星放送用平面アンテナなど14品目にのぼり、約97億円の減収要因となった。一方、いったん対象リストに載せながら生産を続けた製品もある。長年赤字を出してきた合併浄化槽は「見直しの対象リストに挙がった途端、担当者の目の色が変わった」と丹野社長が語るとおり、高性能の小型浄化槽の開発に相次いで成功し、住宅関連機器のなかで稼ぎ頭の一つに育った[16][17]。
戻った利益率と、限られた射程
効果は決算に表れた。1993年3月期は前期比10%の減収ながら、経常利益が前期の2.2倍に伸びた。翌1994年3月期は人件費と減価償却費をさらに55億円削ったものの、自動車・家電メーカーの減産で売上高が約286億円落ち込み、経常利益は20%減の59億円にとどまる。丹野社長は有価証券や不動産の売却で数字をかさ上げする道を取らず、社内に見えた慢心を戒めるため、自然体のまま減益を受け入れた[18][19]。
小委員会が俎上に載せた42の製品群は、当時の売上高の10%前後を占めるにすぎない。事業部門ごと畳んだのではなく製品単位の選別にとどまった点で、改革の射程は限られていた。それでも1992年3月期に1.1%まで落ちた売上高経常利益率は1998年3月期に4.7%へ戻り、1996年末の米診断薬会社の買収、1997年8月の米デュポンとの合弁設立と攻めの投資が続いた[20]。
製品単位で始まった選別は、後に事業単位の入れ替えへと引き継がれた。独立の初期に会社を支えたプラスチック浴槽や家庭用浄化槽といった住宅設備機器は、国内の住宅市場が頭打ちになるなかで分社を経て、2008年に外部への株式売却で手放されている。中核をなした分野でも時代に合わせて中身を入れ替えるという型は、1990年代前半に製品の粒度で先に試されていた[21]。
- 日経ビジネス 1997年11月10日号「日立化成工業 デュポンが惚れた機動力 縦割り打破し新製品速く」
- 日経ビジネス 1998年7月20日号「上手な事業撤退 日立化成工業 リストラに聖域なし、客観基準で納得させる」
- 週刊東洋経済 2013年1月25日号「これが『日立』の生きる道 素材 日立化成 自主独立、絶妙な距離」
- 日立化成工業 有価証券報告書【沿革】