日東電工 の歴史

更新: Author:

創業 1918年
創業者 稲村藤太郎
創業地 東京都大崎
創業
1918年10月、稲村藤太郎が東京・大崎で従業員14名の日東電気工業を設立した。第一次世界大戦で輸入が途絶えた電気絶縁材料の国産化が目的で、納入先は日立製作所など重電機メーカーに限られていた。その日立が1930年頃にワニスを内製化すると受注は急減し、日立製作所の全額出資を受け入れて存続する。1946年に本社を大阪府茨木市へ移し、1948年7月には財閥解体を進める制度の側から資本提携が解かれ、独立系の会社へ戻った。1962年8月に東京・大阪両証券取引所へ上場し、1988年9月に商号を日東電工へ改めた。
決断
売れている製品を自ら入れ替える比率を、社内の数値で縛ってきた。1961年2月、消費者向けの乾電池と磁気テープをマクセルとして分離独立させ日立製作所へ売却し、産業向け材料へ人と資金を絞った。1973年の石油危機で製造業に偏った販売構造が減収を招くと、土方三郎社長は1975年から新製品比率30%を掲げる三新活動を始めた。過去3年以内に発売した新製品が売上の30%以上を占めること、研究開発費を売上比で約5%に保つことを常設の規律とし、製造・販売・研究を横断する組織を置いている。顧客の内製化で一度受注を失った経験が、製品の入れ替えを景気任せにしない仕組みへ変わった。
現況
三つの事業のうち、利益の4分の3をオプトロニクスが生んでいる。2026年3月期の連結売上収益は1兆282億円、営業利益は1,836億円だった。オプトロニクスは売上5,246億円・利益1,499億円、インダストリアルテープは3,648億円・516億円、ヒューマンライフは1,372億円で50億円の損失である。ヒューマンライフには1976年に自社開発を始め1987年11月に米ハイドロノーティクスを買収して広げた分離膜と、2011年に買収した核酸医薬が入り、どちらも投資が先行している。地域別ではアジア・オセアニアが6,969億円で売上の68%を占め、日本は1,427億円にとどまる。
競合
世界で首位に立った製品から自ら退き、その製造技術を中国大手へ供与した。2017年11月、大型偏光板の製造技術を杭州錦江集団へ供与し、最長5年・技術料約150億円の契約で量産の場から順に離れた。価格の下がり続ける液晶テレビ向けでは、量を追うほど利幅が薄くなる。同じ素材大手でも信越化学は不況期にこそ増設して稼働率を保つ規律を選んでおり、量産品との向き合い方が正反対にある。日東電工が手元に残したのは、顧客の量産ラインごとに仕様の変わるハイエンドと、他社が追わない小さな市場である。
日東電工:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 絶縁ワニス国産化と日立傘下での再建から独立まで (1918年〜)

大戦景気と電気絶縁材料の国産化への挑戦

1918年10月、東京・大崎にあった絶縁材料の会社[1](日東商会製作所)を譲り受ける形で、資本金20万円の日東電気工業株式会社が設立された[2]。場所は東京・品川区大崎、従業員14名[3]。生産品目は電気絶縁用のワニスクロスとワニスペーパー[4]、すなわち絶縁布管紙類で、第一次世界大戦で欧州からの絶縁材料輸入が途絶えたことが設立の直接の動機だった。主要顧客は当時の重電機メーカーである日立製作所などであり、設立当初から日立との取引関係が会社の生命線である。大戦景気の最終期に、電気材料の国産化を狙う独立系企業が相次ぎ現れた。そのなかの一社が日東電気工業であり、欧州の輸入に頼れないという危機感が、国内に電気絶縁材料の製造基盤を築こうとする気運を生んだ時代だった。

  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1918年10月 日東電気工業㈱を設立(東京・大崎)。電気絶縁材料の会社(日東商会製作所)を譲り受け。電気絶縁材料の国産化が目的
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
    • [2]設立時の資本金20万円(大正7年10月 東京都品川区大崎にあった絶縁材料の会社を譲り受け資本金20万円で設立)
    • [3]設立地は東京・品川区大崎(大正7年10月 東京都品川区大崎にあった絶縁材料の会社を譲り受け設立)
    • [4]生産品目は電気絶縁用のワニスクロス・ワニスペーパー(絶縁布管紙類)。第一次大戦で欧州からの絶縁材料輸入が途絶えたことが設立動機

1920年代から1930年代にかけて、日東電工の経営は苦しい時期が続く。絶縁用ワニスには競合品が多く、1930年頃からは主要顧客だった日立製作所自身がワニスの内製化に動き出した。顧客が供給者に転じる構造変化は受注の急減を意味した。戦前の日東電工にとって、電気絶縁材料という狭い市場に依存する脆弱性が露わになった時期であり、単独での事業継続が困難な状況へ追い込まれる。特定顧客への過度な依存と単品製品の構造的な危うさは、当時の経営陣が身をもって学んだ教訓であり、後の多角化戦略の出発点となる経験として会社の記憶に残った。

  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1918年10月 日東電気工業㈱を設立(東京・大崎)。電気絶縁材料の会社(日東商会製作所)を譲り受け。電気絶縁材料の国産化が目的
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
    • [2]設立時の資本金20万円(大正7年10月 東京都品川区大崎にあった絶縁材料の会社を譲り受け資本金20万円で設立)
    • [3]設立地は東京・品川区大崎(大正7年10月 東京都品川区大崎にあった絶縁材料の会社を譲り受け設立)
    • [4]生産品目は電気絶縁用のワニスクロス・ワニスペーパー(絶縁布管紙類)。第一次大戦で欧州からの絶縁材料輸入が途絶えたことが設立動機

日立製作所の100%子会社化と戦時統合体制

主要顧客を失った日東電工に対し、1937年5月、日立製作所は業務資本提携による救済[5]を決定する。日立が日東電工株式の100%を取得して完全子会社化し[6]、経営再建に乗り出した。顧客だった日立が資本を入れることで、ワニスの内製化方針と日東電工の存続が両立となる。設立から20年足らずで独立系メーカーから顧客の子会社へ転身した事例であり、電気絶縁材料という単品依存事業の宿命的な脆さを端的に示している。1941年12月にはワニスペイント会社(水谷ワニスペイント)の茨木工場を買収して西日本に進出し[7]、同社の茨木工場を日東電工の茨木工場として取得した。東京・大崎に限られていた生産拠点を関西へ広げる布石であり、戦時経済下で原材料や労働力が統制されるなか、日立グループの一員として生産体制を維持する構造が固まった時期である。

  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1937年5月 日立製作所が日東電工株式の100%を取得し完全子会社化(業務資本提携による救済・再建)
    • [6]日立が日東電工株式の100%を取得して完全子会社化
    • [7]1941年12月 ワニスペイント会社(水谷ワニスペイント)の茨木工場を買収して西日本に進出(茨木工場を取得)

戦時中、日立傘下の日東電工は電気絶縁材料の重要供給元として生産を続けた。1945年5月の空襲で本社のあった東京・大崎工場を焼失し(焼失した工場は後に売却された)、生産は大阪・茨木工場のみで続行する1拠点体制に集約される[8]。戦後、1946年7月に本社を茨木市に移転し[9]、関西を本拠とする会社となった。財閥解体の影響で日立との資本提携が解消され、日東電工は日立グループから離れて独立系企業として再出発する。戦前に陥った顧客依存の脆弱性を克服するという課題は、この独立とともに経営の背骨として意識される形で残された。戦争と空襲と財閥解体という三重の激動を経て、関西を拠点とする独立系の電気絶縁材料メーカーとして歩み直す構えが整う時期である。

  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1945年5月 空襲で東京・大崎の本社工場を焼失(焼失工場は後に売却)し、生産は大阪・茨木工場のみで続行する1拠点体制に集約
    • [9]1946年7月 本社を茨木市に移転
  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1937年5月 日立製作所が日東電工株式の100%を取得し完全子会社化(業務資本提携による救済・再建)
    • [6]日立が日東電工株式の100%を取得して完全子会社化
    • [7]1941年12月 ワニスペイント会社(水谷ワニスペイント)の茨木工場を買収して西日本に進出(茨木工場を取得)
    • [8]1945年5月 空襲で東京・大崎の本社工場を焼失(焼失工場は後に売却)し、生産は大阪・茨木工場のみで続行する1拠点体制に集約
    • [9]1946年7月 本社を茨木市に移転

復興期のビニルテープ開拓と粘着技術の立ち上がり

戦後の復興期、独立を回復した日東電工は従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に加えて絶縁テープ類にも進出し、絶縁材料の総合メーカーとしての体制[10]を整えた。1950年8月にはマクセル乾電池を手初めに乾電池の製造を開始し、続いて録音機・録音テープ[11]へと展開して、戦後の消費者向け事業へ参入した。1951年4月には国内初のビニルテープ開発に成功し[12]、絶縁テープからビニル粘着テープへと製品領域が広がる。後年の収益基盤となる粘着技術がこの時期に芽吹き、電気絶縁材料の専業メーカーから多様な粘着製品を扱う会社へと転換する流れを生んだ。終戦直後の物資不足と技術基盤の脆弱さのなかで、既存技術を応用した新しい製品ラインを自前で育てようとする姿勢が色濃く現れた時期である。

  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
    • [10]戦後復興期に従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に加えて絶縁テープ類に進出し、絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整えた
  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1950年8月 マクセル乾電池を手初めに乾電池の製造を開始し、録音機・録音テープへ展開(BtoC参入)
    • [12]1951年4月 国内初のビニルテープ開発に成功

1957年6月にはブラックテープの製造を開始し[13]、テープ事業への本格進出を果たす。戦前期の絶縁ワニスクロスという単品依存構造から抜け出すための多角化が進み、電気絶縁材料と粘着テープの二本柱を持つ会社へと転換した。戦後の民需拡大期に乾電池・磁気テープ・ビニルテープといった新製品の販路開拓は決して容易ではなかったが、粘着技術を軸に産業向け・消費者向けの両面で事業の幅を広げようとする姿勢は、後の三新活動につながる開発文化の出発点となる。絶縁材料という電気関連の狭い領域から、粘着という汎用性の高い基盤技術を使った多用途展開へと、会社の自己認識そのものが少しずつ変わった時期でもある。

  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1957年6月 ブラックテープの製造を開始しテープ事業へ本格進出
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
    • [10]戦後復興期に従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に加えて絶縁テープ類に進出し、絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整えた
  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1950年8月 マクセル乾電池を手初めに乾電池の製造を開始し、録音機・録音テープへ展開(BtoC参入)
    • [12]1951年4月 国内初のビニルテープ開発に成功
    • [13]1957年6月 ブラックテープの製造を開始しテープ事業へ本格進出

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

日東電工の沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1949年絶縁ワニス国産化と日立傘下での再建から独立まで日東電気工業を東京・大崎で設立★★
日立製作所と資本業務提携★★
水谷ワニスペイントを買収、茨木工場を取得
空襲で東京・大崎工場(本社)を焼失
本社を移転
日立製作所による全額出資の受け入れと、1948年の資本提携解消

電気絶縁材料の主要顧客を失った日東電気工業が、1937年5月に日立製作所へ株式100%を渡して再建を託し、11年後の1948年7月に財閥解体に伴う日立の株式売却で資本提携を解消して独立系企業へ戻った経緯。空襲による本社工場の焼失と本拠の関西移転を挟む11年であった。

詳細を読む
★★★
1950〜2006年BtoB特化とマクセル分離・三新活動の自己規律化の時代乾電池の製造を開始、マクセルブランドで展開★★
ビニルテープの開発に成功
ブラックテープの製造を開始
テープ事業に参入
乾電池・磁気テープ部門のマクセルとしての分離独立と、日立製作所への売却

1961年2月、日東電気工業は乾電池・磁気テープなどの消費者向け部門をマクセル電気工業として分離独立させ、かつて自社を傘下に置いた日立製作所へ売却した判断。絶縁材料と粘着テープの専門メーカーへ戻る選択で、翌1962年の豊橋工場の建設と株式上場が続いた。

詳細を読む
★★★
豊橋事業所操業
東京・大阪両証券取引所に株式上場
半導体封止材料に参入★★
Nitto Denko America, Inc.を設立
フレキシブル回路基板の製造開始
新製品比率30%を常設の規律とした三新活動

1975年前後、日東電気工業の土方三郎社長が、過去3年以内に発売した新製品が売上の30%以上を占めることを目標に掲げ、研究開発費を売上高対比で約5%に保つ三新活動を経営の常設の規律に据えた判断。1977年には製・販・研を横断するSPG(セールス・プロモーション・グループ)を設け、新製品を生み続ける仕組みを組織に組み込んだ。

詳細を読む
★★★
液晶表示用偏光フィルムの製造開始★★
高分子分離膜の製造開始
新規事業として電子・医療・防食・膜の4領域に注力方針★★
Nitto Denko (Singapore) Pte. Ltd.を設立
経皮吸収型テープ製剤の製造開始★★
滋賀事業所を操業、高分子分離膜の専門工場
高分子分離膜への参入と、米ハイドロノーティクスの買収

1987年11月、日東電気工業は米ハイドロノーティクスを買収し、1976年4月に製造を始めた高分子分離膜を海外の販路ごと引き受ける形で水処理の事業に据えた。粘着と絶縁で培った高分子技術を、電気と関わりのない水の分野へ持ち出した投資であった。

詳細を読む
★★★
商号を日東電気工業より日東電工へ変更
Nitto Denko (Shanghai Songjiang)を設立
尾道事業所を操業、液晶表示関連材料の専門工場
Korea Nitto Optical Co., Ltd.を設立
竹本正道Taiwan Nitto Opticalを設立
竹本正道Shanghai Nitto Opticalを設立
竹本正道本社機能を移転
2007〜2024年液晶偏光板依存からの離脱とポートフォリオ転換柳楽幸雄柳楽幸雄氏が取締役社長に就任
柳楽幸雄リーマンショックで営業利益が138億円へ急落
柳楽幸雄Avecia Biotechnologyを買収
髙﨑秀雄髙﨑秀雄氏が取締役社長に就任
髙﨑秀雄ブリストル・マイヤーズスクイブと臓器線維症治療薬のグローバル独占ライセンス契約
髙﨑秀雄大型偏光板技術の杭州錦江集団への供与と、ボリュームゾーンからの離脱

2017年11月、日東電工は杭州錦江集団および関連各社と大型偏光板の技術提携契約を結び、世界シェア首位級の主力製品の製造技術を中国の大手へ供与した。価格競争の側へ落ちた大型パネル向けから順次退き、高付加価値の領域へ資源を移す判断であった。

詳細を読む
★★★
髙﨑秀雄売上収益8,574億円・営業利益1,257億円で過去最高
髙﨑秀雄東京証券取引所プライム市場に移行
髙﨑秀雄Bend Labs, Inc.を買収
髙﨑秀雄Mondi plcのパーソナルケア事業を買収
赤木達哉連結売上収益が初の1兆円超え
出典・参考
  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項

免責事項およびポリシー