日東電工日立製作所による全額出資の受け入れと、1948年の資本提携解消
顧客の傘下で生き延びるか、独立して自前の製品を探すか——11年の子会社期の終わり
- 概要
- 電気絶縁材料の主要顧客を失った日東電気工業が、1937年5月に日立製作所へ株式100%を渡して再建を託し、11年後の1948年7月に財閥解体に伴う日立の株式売却で資本提携を解消して独立系企業へ戻った経緯。空襲による本社工場の焼失と本拠の関西移転を挟む11年であった。
- 背景
- 1918年10月に東京・大崎で資本金20万円・従業員14名で設立された会社で、第一次大戦により途絶した電気絶縁材料の輸入を国産で置き換えるのが設立の動機であった。主要顧客は日立製作所などの重電機メーカーで、1930年に主要顧客を失い、同年に創業者の稲村藤太郎社長が逝去する。
- 内容
- 1937年5月、日立製作所が業務資本提携として株式100%を取得し、顧客が資本を入れる形で存続した。1941年12月にワニスペイント会社の茨木工場を買収して西日本へ進出、1945年5月の空襲で大崎の本社工場を失い、1946年7月に本社を茨木市へ移す。1948年7月に資本提携が解消された。
- 含意
- 独立に戻った会社は1951年4月に国内初のビニルテープの開発に成功し、絶縁材料の技術を戦後の高分子材料へ載せ替えて粘着テープの分野を開いた。日立との縁は資本から取引と競争へ移り、1961年には育てた乾電池・磁気テープ部門を日立へ売却する側に立つ。
制度が解いた縁の後に残るもの
1937年に株式の全部を顧客へ渡した時点で、この会社は取引先の内部に入った。11年後にその縁を解いたのは自社の意思ではなく、財閥解体という戦後の制度である。空襲で大崎を失って茨木の1工場だけになった会社が、独立と同時に手にしていたのは絶縁布管紙と絶縁塗料をつくる技術に限られていた。1951年の国内初のビニルテープは、その技術を石油化学の高分子材料へ載せ替えた最初の成果だとみられる。制度に押された独立が、自前の製品を探す動機として働いた面がある。
ただ、資本の縁が切れても取引と競争の縁は続いた。1961年には自社で育てた乾電池・磁気テープ部門を日立へ売り、旧親会社は消費者向け事業の引き受け手になる。1973年の講演で土方三郎副社長が日立化成と絶縁材料で完全に競合していると語ったように、かつて資本を受けた相手のグループと同じ市場で向き合う立場にも移っていた。独立とは所有関係が変わったことにすぎず、単品と単一顧客に依らない会社になるまでには、その後の十数年を要したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸入代替で生まれ、顧客の一社に依存した会社
1918年10月、東京・大崎にあった絶縁材料の会社を譲り受ける形で、資本金20万円・従業員14名の日東電気工業が設立された。初代社長は稲村藤太郎氏で、生産品目は電気絶縁用のワニスクロスとワニスペーパーである。第一次世界大戦により欧州からの絶縁材料の輸入が途絶えたため、これを国産で置き換えるのが設立の動機であった。主要顧客は日立製作所などの重電機メーカーで、販売先は電機業界に限られていた[1][2]。
単品と単一の販売先に依るこの構えは、1930年に行き詰まる。主要顧客を失い、同じ年に創業者の稲村藤太郎社長が逝去した。設立から12年の会社が、需要と経営者を同時に欠く状況に置かれた。1937年5月、日立製作所は業務資本提携による救済を決め、日東電気工業の株式100%を取得して完全子会社として再建にあたる。顧客が資本を入れることで、絶縁材料の供給元は残された[3]。
決断
戦時の1拠点体制と、1948年7月の提携解消
子会社となった11年のうち、後半は生産拠点をつなぐことに費えた。1941年12月にワニスペイント会社の茨木工場を買収して西日本へ進出し、東京・大崎に限られていた生産の場を関西へ広げる。1945年5月の空襲で大崎の本社工場を焼失し、この工場は後に売却され、生産は茨木工場のみで続けられた。1946年7月には本社を茨木市へ移し、関西を本拠とする会社になった[4]。
1948年7月、財閥解体に伴う日立製作所の株式売却によって資本提携が解消され、日東電気工業は日立グループを離れて独立系企業として再出発した。提携の解消は自社が持ち込んだ話ではなく、戦後の企業集団の整理という制度の側から縁が解かれた形である。手元に残ったのは茨木の1工場と、絶縁布管紙・絶縁塗料をつくる技術であった[5]。
結果
絶縁材料の技術を高分子へ載せ替える
独立の後、会社は絶縁材料の周りへ製品を広げた。従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に絶縁テープ類を加えて絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整え、1950年8月にはマクセル乾電池を手初めに録音機・録音テープへも入る。1951年4月には国内初のビニルテープの開発に成功し、絶縁テープからビニル粘着テープへ製品領域が広がった。単一の顧客に依らない品目を、独立の後に自前で揃え始めたことになる[6][7]。
技術の系譜は後年の当事者が説明している。浅田常夫常務取締役は1993年11月の講演で、各種の電気絶縁材料を生産するなかで培った技術を、戦後に発達した石油化学の産物である高分子材料へ応用し、新しい特性の絶縁材料やビニールテープをはじめとする機能性粘着テープ類を開発したと述べた。日立との関係も移り、1961年2月には育てた乾電池・磁気テープ部門をマクセル電気工業として日立へ売却する側に立つ。1973年10月の講演では、絶縁材料で日立化成と完全に競合し、電子材料でも競合していくとの見方が語られた[8][9][10]。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
- 証券アナリストジャーナル 1993年 第31巻第12号「日東電工」(浅田常夫 常務取締役 講演要旨)
- 日東電工 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】