新製品比率30%を常設の規律とした三新活動

1975年実施

顧客産業の景気に揺れる素材メーカーは、なぜ「新製品比率30%」を自らに課したか

時期 1975
意思決定者 土方三郎(社長)
論点 事業構造と経営の自己規律
概要
1975年前後、日東電気工業の土方三郎社長が、過去3年以内に発売した新製品が売上の30%以上を占めることを目標に掲げ、研究開発費を売上高対比で約5%に保つ三新活動を経営の常設の規律に据えた判断。1977年には製・販・研を横断するSPG(セールス・プロモーション・グループ)を設け、新製品を生み続ける仕組みを組織に組み込んだ。
背景
電気絶縁材料から粘着テープ、半導体封止材料、偏光フィルム、高分子分離膜、医療材料へと高分子合成技術を軸に多角化してきたが、販売先が製造業に偏り、景気変動に売上が揺れる弱さを抱えていた。1973年の石油危機のあと売上は伸び悩み、1978年3月期は前期比6%の減収に沈んだ。
内容
「新製品開発こそ生きる道」という土方社長の哲学のもと、新製品比率30%と研究開発費約5%を数値の規律として掲げた。1977年4月には販売・製造・開発・研究から10〜20人を選ぶSPGを19組編成し、年功序列やラインの壁を離れて市場のニーズと技術を結ぶ。1978年には電子・防食・医療・膜の4領域を成長分野に定めた。
含意
1980年3月期の新製品比率は30.1%に達し、以後もおおむね30%前後を保った。売上高経常利益率は10%を超え、優良中堅としての高収益体質を築く。新陳代謝を経営の基本動作に組み込むこの規律は、後年のニッチトップ戦略や液晶偏光板事業へと連なる骨格となった。
筆者の見解

数値を自らに課すという規律

この判断の特徴は、財務の危機に追われた縮小ではなく、新製品を生み続ける仕組みを経営の常設の規律として制度化した点にある。石油危機で製造業向けの売上が揺れたとき、土方三郎氏は人員や事業の削減ではなく、過去3年以内の新製品が売上の30%を占めるという数値目標と、売上の約5%を研究開発に充てる約束を自らに課した。SPGという横断組織は、その規律を開発と販売の現場で日々回すための装置だった。景気に業績を委ねない体質を、外の需要ではなく内の開発力で作ろうとした。

30%という数値をあえて自らに課す規律は、その後の日東電工に長く残った。1988年の社名変更は、電気絶縁材料の専業から機能材料企業への変わりようを表す。1975年に量産を始めた偏光フィルムは、三十年を経て液晶偏光板として世界シェア首位級の主力事業に育った。業界トップクラスの顧客に密着し、価格競争を避けてニッチでトップを取る後年の戦略も、新陳代謝を怠らないこの規律の延長にある。数値の自己規律が事業の新旧交代をどこまで支えるか——三新活動は、その問いに半世紀の一つの答えを残した。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

高分子技術を軸とする多角化

日東電気工業は1918年、東京・大崎の絶縁材料会社を譲り受けて生まれ、電気絶縁のワニスクロスや絶縁テープを主力に育った素材メーカーである。戦後は粘着テープへ幅を広げ、1965年に半導体封止材料、1973年6月に米サンダース社と提携したフレキシブル回路基板、1975年4月に液晶表示用の偏光フィルムへと、高分子合成技術を核に製品の輪を広げてきた。テープだけでも約200種類を数え、販売先は電機からプラント、建設にまで及んだ[1][2]

製造業偏重の弱さと三新運動の頭打ち

ただ、販売先が製造業に偏っていたため、景気の波が売上を揺らした。1973年の石油危機のあと、日東電気工業の売上は伸び悩み、1978年3月期は前期比6%の減収に沈む。当時、工場と営業のやり取りは月一度の製販会議にとどまり、そこでは受注の多寡と工場の稼働率が報告されるだけで、顧客の本当のニーズを掘り起こす議論は乏しかった。多角化を重ねても、外の景気に業績を委ねる弱さは残っていた[3]

新製品を生み続ける発想そのものは古い。日東電気工業は1950年代後半から、新製品開発・新規用途開拓・新需要創造の三つをめざす「三新運動」を販売促進の運動として続けてきた。石油危機のあと売上が伸び悩むと、この運動が改めて呼び起こされる。新製品比率はいったん1975年に急上昇したものの、その後は伸び悩んで頭打ちになった。掛け声だけでは新陳代謝が続かないという反省が、より強い規律を求める議論へつながった[4]

決断

「新製品開発こそ生きる道」── 30%と5%の規律

1975年前後、土方三郎社長は新製品づくりを経営の常設の規律に据えた。過去3年以内に発売した新製品が売上の30%以上を占めることを目標に掲げ、研究開発費を売上高対比で約5%に保つ方針を定める。土方は「新製品開発こそ生きる道」と語り、設立当初は中小企業だった会社が競争を勝ち抜くには新製品を生み続けるほかない、と繰り返した。景気に左右されない成長を、外の需要ではなく自社の開発力に求める規律だった[5][6]

SPG ── 製・販・研を横断する仕掛け

規律を掛け声で終わらせないため、日東電気工業は1977年4月、SPG(セールス・プロモーション・グループ)と呼ぶ横断組織を設けた。販売、工場の製造技術、製品開発、テーマによっては技術研究所から10〜20人を選び、接合材料や自動車といった市場ごとにチームを組む。1980年には19組を数えた。月に一度は顔を合わせ、営業がつかんだ顧客の要望を製造と開発へ伝え、開発は技術の新しいタネを営業へ返す。市場のニーズと自社の技術を、速く細かく結ぶための仕掛けだった[7]

SPGは年功序列やラインの壁を離れて組まれた。リーダーは役職ではなく、その市場に最も詳しく、最も多くの課題を抱える職場の代表が務める。精密塗工のチームでは営業課長がリーダー、工場の部長がサブリーダーに就いた。土方は「組織は作らない、固定化しない」を信念とし、朝令暮改になっても硬直するよりよいと言い切る。SPG19組が関わる製品は売上の約9割を占め、新製品を生む主戦力になった[8]

結果

新製品比率30%の定着と4領域への集中

規律は数字に表れた。1980年3月期の新製品比率は30.1%に達し、過去にさかのぼってもおおむね30%前後を保つ。同期の売上高は747億円と前年比23%増、売上高経常利益率は10.82%に乗り、優良中堅としての高収益体質を築いた。日東電気工業は次の目標を売上1000億円企業に置き、電子部品材料・防食材料・医療衛生材料・膜の4領域をとくに伸ばす分野と定めて、ほぼ無条件で設備投資を認めた。この4領域は、以後の事業構成の骨格となる[9][10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1980年7月28日号「日東電気工業 技術深耕が生んだ『新製品比率30%』」
  • 日東電工 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
  • 日東電工 pl_long(会社年鑑1976年版)