上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就任し、1929年6月に健康上の理由で辞めた。4代の長男にあたる5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没し、代わって商いを担ったのは、1891年に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に店へ入り、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となった人物だった。
倉橋重平氏が輸入研摩剤と出会ったのは、店へ入った1916年である。当時のバフ研摩に使う油脂性研摩剤――トリポリ、ライム、赤棒、青棒――は、組成も製法も分からないままアメリカとヨーロッパから運ばれてくる品だった。金剛砂は1クウォーター単位の木樽で届いたが粒度の不揃いが大きく、使う側の悩みの種になっていた。ライムは風化性が強いため貯蔵が利かず、半分ほど使えれば良いとされて不経済で、仕上げ用の青棒は高価で研摩の原価を押し上げた。店はそのころ、1915年ごろからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始めており、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入し、ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めていた。
明治後期にイギリスとアメリカから研摩剤とバフが持ち込まれたとき、日本側にあったのは足踏式のロクロに似た研摩機だけで、ベルトがけへ替わったのは大正末期である。素材も機械も輸入に依存するこの産業で、道修町の店が握っていたのは薬品の目利きと、めっき資材の直輸入で作った販路だった。販路は東へ伸び、1920年に東京・日本橋本銀町へ出張所を開設したが、1、2年後に移った本所区の建物は1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った。昭和の初めには神戸と岡山にも出張所を置いている。輸入品を並べる棚を持つ者が、その中身を自分で作る側へ回る条件は、この時点で揃っていた。
輸入品に依存し続けることはできないという判断から、倉橋重平氏は研摩剤の国産化に着手した。大阪東区の宮林ニッケル鍍金所社長・宮林操三氏の協力を得て、原料となるドロマイトとトリポリパウダーは米ロックウエルライム社から入手した。そして1918年にトリポリの国産化に成功し、大阪府堺に工場を設けて製造を始めた。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励した時期と重なる動きだった。1922年には医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り、めっき資材とゴム薬品に商いを絞っている。創業から74年続いた家業の本体を手放し、まだ市場の定まらない国産品へ経営資源を集中する判断だった。
国産化は製品だけでなく、その原料まで遡って進められた。トリポリの原料であるトリポリ粉は全面的に輸入していたが、国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山と鉱区を行脚し、岐阜県の山中で良質のものを見つけた。各地で採れるライムも試作記号A・Bを付けて比較試験にかけている。仕上げ用の青棒が高価で研摩の原価を押し上げていた問題には、1927年にグリーンルージュを安価に国産化する方法で応え、その製法は同年3月8日の出願を経て10月25日に特許第74097号として登録された。昭和の初めには原料まで含めた純国産化に到達し、6代長兵衞氏の名で取得した特許はこの時期だけで7件を数えた。
もう一つの主力マチレスが純国産で完成したのは、1936年に出願したドロマイトの特殊加工法が特許第127131号となったことによる。この製品は研摩の性能が主原料ドロマイトの質で大きく変わり、質の良い鉱石は外国産に頼るしかなかった。業界からは純国産品が求められていた。そこで良質の鉱石を全国で調べて探す一方、国内産ドロマイトの品質を上げる研究を長く重ねた。製品は3Bライムの名で売られ、品質は欧米品に優るものと認められて、研摩剤の代名詞と評されるまでになった。1929年の完成から特許出願まで7年、輸入品と同じものを作るのではなく、輸入品より良いものを国内の原料で作るところまで押し切った。
1930年11月、上村重平氏が6代長兵衞を襲名した。翌12月には資本総額26万円の匿名組合を設け、鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となる。そして1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し、初代社長には6代長兵衞氏が就任した。定款には営業品目と株式、役員が具体的に定められ、明治と大正を通じて受け継いできた家業を近代化する意図が置かれた。この12月3日が創立記念日となった。
株式会社としての第1期は1933年12月から翌年5月までの半年で、売上高は160万5,441円、利益は2万8,945円、部門は大阪メッキ、東京メッキ、ゴム部の3つに分かれていた。東京では1933年12月に浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には支店へ昇格させた。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化し、中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送った。1938年12月から1939年11月までの期の売上高は499万8,000円で、発足から5年半で3倍に達している。もっともこの伸びは、調達の側から会社を締め上げる統制の強まりと同じ時期に起きていた。
電気めっきに最大の消費量を持つニッケルは、輸入が困難になるにつれて国家の重要資材とされた。めっき資材の供給に当たる立場からこの情勢に対処するため、1939年に大阪府泉大津市板原へ約9,900平方メートルの泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。並行して大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借り、約500平方メートルの築港工場を設けた。ここではモネルメタルを原料に電解法で銅などの不純物を取り除き、粗ニッケルを泉大津へ運んで電気精錬している。輸入の途絶えた原料を、他の合金から取り出して作り直したことになる。
1942年に取得した大阪市東淀川区西中島町の淀川工場は、金属ニッケルを増産する計画のもとにあった。ただ、そこで生産はせず、原料を置く倉庫代わりに使うにとどめた。西隣に国鉄宮原操車場があり、周りが田圃ばかりで爆撃の標的になりやすいとみたためである。1943年にはその原料も千船工場と四貫島倉庫へ分けて疎開させた。空襲は重なったが、1945年8月15日に終戦を迎えた時点で本社も工場も倉庫も東京支店も被災しておらず、人員は本社27人、工場14人、東京支店5人が残っていた。増産用に手に入れた設備を動かさずにおいたことが、戦後に再開する際の設備を残す結果になった。
事業の再開は同業のどこよりも早かった。戦時に借りていた築港工場を整理して閉じた1946年5月、同じ月に淀川工場で研摩剤の製造を始めている。設備は直径70センチの鉄鍋を4個並べ、レンガを積んだ炉で薪を直炊きし、パラフィンと松ヤニ、鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混ぜるものだった。吹きこぼれないよう、石炭箱の蓋を割った板切れで攪拌している。1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本、金額にして7万円から10万円である。原材料は千船工場と四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込み、昼間は停電して夜間に送電される電力事情のもとで、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった。
復興が進むにつれて足りなくなったのは、設備ではなく原料だった。主力の3Bライムは原料の一つである酸化アルミの入手が難しく、代わりに硅酸アルミや金剛砂を試したものの、硬すぎて用をなさなかった。1948年、自動車用プラグの焼き損ないが工場に山積みされて処分に困っているのを買い取り、粉砕して3Bライムの原料に回したところ、非常に良い結果を得た。取引はすべて現金で、九州から泊まりがけでリュックサックを背負って買いに来る者もいる売り手市場だった。1947年11月期の売上高は2,221万7,000円、翌1948年11月期は5,865万8,000円と、1年で2.6倍に伸びている。
東京支店は戦災を免れたものの、物資の欠乏と交通機関の麻痺で、売る商品そのものが本社から届かなかった。矢のように出荷を催促する支店へ、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示を返した。代表商品の3Bライムは月に100本から200本しか入荷せず、店頭に出すいとまもなく売れた。本社はこの商品に限って現金で売るよう命じており、立ち上がりの資金繰りを支えた。東京では山中研磨材工業所に委託生産したトリポリを「3山トリポリ」の名で売り、1950年には東京都北区東十条へ敷地60坪の東京工場を設けている。溶解釜と攪拌機が各2基、作業員3人、1日500本から600本という規模だった。運賃が製品の利を食う距離が、生産の分散を決めた。
1949年8月、大阪市阿倍野区万代に敷地578坪の住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた。木製のめっき槽は耐薬品のために内部へアスファルトを塗るか鉛板を張っていたので、これに代わる内張りと電気絶縁の材料にしようというねらいだった。製品は厚手の0.5ミリに重点を置いたが、めっきの分野では量に限りがあり、薄手0.3ミリのフィルムを風呂敷やテーブル掛け、雨合羽に仕立てて売った。一時はよく売れたものの、市中価格が不安定なうえ、雑貨の販売業者は営業基盤が弱く倒産がよく起こった。市場が狭く将来に期待が持てないと判断して拡大策は取らず、1963年2月に工場での生産を止めて倉庫に転じている。
1940年代後半の主力は、自社で作った品ではなく仕入れた品だった。そのころの主な取扱商品は、住友金属鉱山と日本鉱業から仕入れた硫酸ニッケル、日本曹達から仕入れたカ性ソーダと青化ソーダ、日本鉱業と三菱金属から仕入れた硫酸銅だった。光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛もこの時期の商材だった。なかでも青化第一銅は千葉の総房化学が開発した品で、当時東京都工業奨励館化学部技師だった理学博士・虎石成美氏がめっきへの効能を実証し、その裏書きを得て販売を始めた。最初に採用したのは市川市の福井電化工業であり、これを突破口に需要は従来の硫酸銅から青化第一銅へすっかり移った。月10トンから15トンを一手販売したが、本社では扱えず東京支店の独壇場になった。
アメリカで光沢めっきが使えるようになったのは1937年から1938年ごろで、日本には終戦後の1947年から1948年ごろに入ってきたが、実際に広まるのはさらに10年後、1955年以降である。1950年に朝鮮動乱が始まり戦略物資のニッケルが値上がりして量も不足すると、代わりの材料やニッケルの節約に関心が集まり、光沢ニッケルめっき法がにわかに注目された。この方法なら、研摩工程で失われるニッケルを節約でき、バフ研摩の工程自体も要らなくなる。めっき浴の質が変わり光沢効果が進んでバフ加工が省かれることは、研摩材料を売る側からすれば需要を削られることでもあった。
薬品の取り扱いは1940年代からあったが、めっき技術の研究に本腰を入れ、光沢剤をはじめとする薬品類を自ら開発し始めたのは1957年である。この年、本社に薬品部が置かれ、9月にはめっき用化学品の製造にも入った。のちに青化銅めっきに使う光沢剤アサヒカプナーと光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発してどちらも成功し、開発品にはすべてアサヒ印を付けた。1957年は、仕入品ではない自社製品が稼ぎ手として育ち始める境目になった。バフ研摩を不要にする技術に使う薬品を自社で作ることは、祖業の需要を減らす側に自分から立つことでもあった。
機械工場の建設は1960年9月、淀川工場の敷地内で始まり、広さは990平方メートルだった。同じ9月、道修町の本社では機械を受け持つ技術第二課が動き出し、自動めっき機械やバレルから付帯設備までを含むめっき設備全般の企画と設計を担った。この工場が最初に出した全自動の銅・ニッケル・クロムめっき装置CUF-2型と全自動亜鉛めっき装置CUF-1型の2機種は、大手メーカー向けの納入第1号として川崎航空機工業に入った。その後は松下電器産業、フタバ産業、新家工業も装置を採用し、大型プラントの商談が相次ぐようになった。時期としては、手作業だっためっきが半自動、さらに全自動へと移り、省人化と省力化が進んだころにあたる。
1960年7月、名古屋市西区西菊井町に敷地約2,000平方メートルの名古屋営業所を開設した。本社と東京支店で東西に二分していた市場の中間を受け持たせ、三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県を担当させている。初代所長には後に7代社長となる上村晃史氏が赴任し、当初のスタッフは8人、4年から5年の赤字を覚悟したところ初年度から黒字を計上した。1963年9月には三菱商事、東邦ダイカストとの共同出資で三和防錆を設立し、製品を世に送り出す前に実験を行う工場とした。同じ年には英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結び、これが外国企業との提携第1号となった。売上高は1955年11月期の3億8,107万円から1966年11月期の20億8,300万円へ伸びた。
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|---|---|---|---|---|
| 1848〜1945年薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945) | 上村長兵衞 | 研磨材と工業用化学品を扱う上村長兵衞商店を設立 | ★★★ | |
| 上村長兵衞 | 東京市浅草区(現・東京都台東区)に東京営業所を設置 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京営業所を東京支店に昇格 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 大阪市東淀川区(現・淀川区)に淀川工場を設置 | ★ | ||
| 1946〜1966年鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ(1946〜1966) | 上村長兵衞 | 淀川工場で研磨材の製造を再開 | ★★ | |
| 上村長兵衞 | 大阪市阿倍野区に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始 | ★★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京都北区に東京工場を設置し研磨材の製造を開始 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 本社に薬品部を置いての、自社での薬品づくりへの踏み出し 1957年、株式会社上村長兵衞商店が本社に薬品部を設け、同年9月にめっき用化学品の製造を開始した経営判断。それまで自社製品は研摩剤だけで、めっき薬品は他社から仕入れて売っていた。6代の上村長兵衞社長のもとで、研摩剤に次ぐ二本目の自社製品の柱を立てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村長兵衞 | 名古屋市西区に名古屋営業所を設置 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始 | ★★★ | ||
| 上村長兵衞 | めっき加工技術の研究を目的に三和防錆(のちサミックス)を設立 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京工場を埼玉県戸田市に移転 | ★ | ||
| 1967〜1988年研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる(1967〜1988) | 上村晃史 | 名古屋営業所を名古屋支店に昇格 | ★ | |
| 上村晃史 | めっき用化学品製造部門の移転を伴う研究開発拠点の集約 1968年7月、上村工業が大阪府枚方市に枚方工場を竣工し、同じ敷地に中央研究所を新設した経営判断。めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すと同時に、鉄筋3階建・延べ2,188.86㎡の研究所を建設し、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を導入した。上村晃史社長の就任1年目の着工にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村晃史 | 商号を上村工業に変更 | ★ | ||
| 上村晃史 | 東京工場を閉鎖 | ★ | ||
| 上村晃史 | 西独デグサ社と販売提携し金めっき浴を発売 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 表面処理用機械の製造を枚方工場へ移し淀川工場を閉鎖 | ★ | ||
| 上村晃史 | デグサ社と技術提携しアルミ真空蒸着加工技術を導入 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 神奈川県相模原市に相模原事業所を設置 | ★ | ||
| 上村晃史 | 顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築 1985年のプラザ合意を境に自動車・家電の顧客が生産を海外へ移したのに対し、上村工業が国内にとどまらず顧客の移転先へ会社を設立し続けた経営判断。1985年12月の米国子会社を皮切りに、2012年のインドネシアまでに拠点は10か国へ広がった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村晃史 | 香港に合弁で上村旭光有限公司を設立 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 台湾に合弁で台湾上村股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | タイに合弁でサムハイテックス(現・ウエムラ・タイランド)を設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | 中国深圳市に合弁で南山上村旭光有限公司を設立 | ★ | ||
| 1989〜2026年ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える(1989〜2026) | 上村晃史 | 東京支店を東京支社に昇格 | ★ | |
| 上村晃史 | 独デメトロン社へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与 | ★ | ||
| 上村晃史 | シンガポールにウエムラ・インターナショナル・シンガポールを設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | 米国にウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを新設 | ★ | ||
| 上村晃史 | 旧淀川工場跡に上村ニッセイビルが竣工し不動産賃貸業を開始 | ★ | ||
| 上村晃史 | 岐阜県土岐市にユーテックを設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | マレーシアにウエムラ・マレーシアを設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 上村寛也氏が代表取締役社長に就任 | ★★ | ||
| 上村寛也 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 上村寛也 | 相模原事業所を閉鎖 | ★ | ||
| 上村寛也 | ユーテックの清算が結了 | ★ | ||
| 上村寛也 | 中国上海市に上村化学(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 台湾に台湾上村科技股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 中国深圳市龍崗区に上村工業(深圳)有限公司の新工場が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 東京支社を東京都台東区から中央区へ移転 | ★ | ||
| 上村寛也 | 大韓民国京畿道に韓国上村を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 台湾上村股份有限公司が台湾上村科技股份有限公司を吸収合併 | ★ | ||
| 上村寛也 | インドネシアにウエムラ・インドネシアを設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 枚方市に新中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 取引所統合に伴い東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 上村寛也 | 名古屋支店の新社屋が完成 | ★ | ||
| 上村寛也 | 市場再編に伴い東京証券取引所スタンダード市場へ移行 | ★ | ||
| 上村寛也 | 枚方市に新機械工場が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 子会社サミックスを吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(上村工業)