上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
- [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
- [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
- [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
- [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
- [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
- [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [7]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
- [8]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
- [9]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した
- [10]ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
- [13]1927年のグリーンルージュ国産化、1929年の3Bライム完成と、輸入品の国産化を研磨材の自製へ広げた
- [14]1927年にグリーンルージュを国産化し特許第74097号を取得した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7・技術編p.76
- [11]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
- [12]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した
- [52]1954年に就業規則を制定した。1963年に労働組合結成、1967年に労働協約締結
- [59]1963年に労働組合が結成され、1967年に労働協約を締結した
- [85]1967年5月19日に上村晃史が社長へ就任した(7代・1983年の社史刊行時点でも社長)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8・技術編p.77
- [15]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
- [16]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- [17]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
- [19]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- [18]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
- [22]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
- [25]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
- [20]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で設立、初代社長は6代長兵衞
- [21]株式会社の初代社長は6代上村長兵衞(旧姓 倉橋重平)
上村工業 有価証券報告書【沿革】
- [23]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
- [30]1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置した
- [35]1946年5月に淀川工場で研磨材の製造を再開した
- [44]1950年3月に東京都北区へ東京工場を設置し研磨材の製造を開始した
- [45]東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移転し、1970年2月に閉鎖された
- [49]1949年8月に大阪市阿倍野区へ住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始した
- [65]1957年9月にめっき用化学品の製造を開始した
- [70]1960年7月に名古屋市西区へ名古屋営業所を設置し、同年9月に機械事業部を設置して表面処理用機械の製作を開始した
- [71]「従来は、本社と東京支店で、市場を東西に大きく二分していたが、その中間に当たる地域を新たに名古屋営業所のテリトリーとし…三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県である。初代営業所長として上村晃史現社長が赴任し、当初のスタッフは8人であった」「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」
- [72]1960年9月に機械事業部を設置し、表面処理用機械の製作を開始した
- [75]1957年9月のめっき用化学品の製造開始と1960年9月の機械事業部設置により、薬品と機械の双方を自社で持つ体制になった
- [79]1963年9月にめっき加工技術の研究・実験を目的として三和防錆(のち サミックス)を設立した
- [90]東京工場は1970年2月に閉鎖された
- [93]1968年7月に枚方工場が竣工し、めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移転、同所に中央研究所を設置した
- [98]1969年1月に商号を上村工業株式会社へ変更した
- [102]1968年3月に名古屋営業所を名古屋支店へ昇格させた
- [122]1975年5月に表面処理用機械の製造部門を枚方工場へ移し、同時に淀川工場を閉鎖した
- [141]1983年5月にデグサ社(ドイツ)と技術提携してアルミ真空蒸着加工技術「エラメットプロセス」を導入し、1984年3月に神奈川県相模原市へ相模原事業所を設置してアルミ真空蒸着加工を開始した
- [144]1985年12月に米国ロサンゼルス市でウエムラ・インターナショナル・コーポレーション、1986年2月に香港で合弁の上村旭光有限公司、1987年6月に台湾上村股份有限公司、1987年12月にタイでサムハイテックス、1988年3月に中国深圳市で南山上村旭光有限公司を設立した
- [145]1986年2月に香港で合弁の上村旭光有限公司、1987年6月に台湾上村股份有限公司、1987年12月にタイでサムハイテックス、1988年3月に中国深圳市で南山上村旭光有限公司を設立した
- [147]1990年2月の東京支社設置、1992年5月のシンガポール・同年12月の米国、1996年7月のマレーシアと拠点を増やした
- [148]1990年2月に東京支店を東京支社へ昇格、1991年6月にデメトロン社(ドイツ)へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与した
- [149]1992年5月にウエムラ・インターナショナル・シンガポール、1992年12月に米国で新会社ウエムラ・インターナショナル・コーポレーション、1996年7月にウエムラ・マレーシアを設立した
- [150]1993年5月に旧淀川工場敷地で上村ニッセイビルが竣工し、不動産賃貸業を開始した
- [151]1999年10月に相模原事業所を閉鎖した
- [155]1997年11月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した
- [173]2010年7月に韓国上村、2012年8月にウエムラ・インドネシアを設立した
- [174]2011年12月に台湾上村股份有限公司(存続会社)と台湾上村科技股份有限公司が合併した
- [175]2013年6月に新中央研究所が竣工、同年7月に東京証券取引所市場第二部へ上場、2022年4月にスタンダード市場へ移行、2019年12月に名古屋支店の新社屋が完成した
- [176]2013年7月に東京証券取引所と大阪証券取引所の統合に伴い東証市場第二部へ上場し、2022年4月の市場再編でスタンダード市場区分へ移行した
- [177]2019年12月に名古屋支店(名古屋市西区)の新社屋が完成した
- [195]2023年11月に新枚方機械工場が竣工し、2024年4月に株式会社サミックスを吸収合併して解散させた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10・巻末年表
- [24]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
- [26]戦争でニッケルなどの輸入が困難になり国家の重要資材とされたことが、泉大津工場を建設した契機だった
- [27]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用)。モネルメタルから電解で粗ニッケルを製造し泉大津へ送った。社史 p.14 は「この泉大津工場と並行して」とのみ書き、開設年を明示していない
- [28]建設の契機は「戦争によってニッケルなどの輸入が困難になり、ニッケルが国家の重要資材となった」ことにある
- [29]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、300坪、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
- [34]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
- [31]淀川工場は爆撃目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使用し、1943年に千船工場・四貫島倉庫へ原料を分散疎開させた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
- [32]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
- [33]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れ、陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
- [36]再開時の設備は直径70cmの鉄鍋4個・薪の直炊きで、1日にトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本、金額7〜10万円だった
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
- [37]停電のため「働く日は日曜を含め週4日ほど」だった
- [46]1948年に3Bライムの原料である酸化アルミの入手難を、自動車プラグの焼き損ないの粉砕で代替した
- [47]1948年に3Bライムの原料(酸化アルミ)の入手難を、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代替することで解決した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
- [38]1947年11月期の売上高は22,217千円
- [66]1961年11月期の売上高は1,219,354千円。1947年11月期(22,217千円)の約55倍にあたる
- [123]売上高は1974年11月期 8,271,446千円 → 1975年11月期 6,362,534千円へ約23%減少、配当も30%から18%へ引き下げた
- [125]資料編「業績の推移」は 1976年11月期 8,803,448千円 → 1977年11月期 9,428,197千円 → 1978年11月期 8,928,311千円。オイルショック前の1974年11月期 8,271,446千円は1976年11月期に超えている
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17-18
- [39]戦後、大阪から東京へ商品を送ると運賃に利益を食われるため、6代長兵衞社長は東京での自給自足を指示した
- [40]「矢のように本社に出荷を催促すると、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示がきた」
- [41]運賃が利益を食うことを理由に、空き工場を借りてでも東京で生産せよという指示だった
- [42]6代長兵衞社長は「とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ」と指示した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.18
- [43]1950年ごろ東京で山中研磨材工業所に委託生産し「3山トリポリ」ブランドで販売した。東京独自の初製品にあたる
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23・巻末年表(昭和25年・26年欄)
- [48]1950年から総房化学と提携して良質の青化銅を扱い(月10〜15トン)、1951年に青化銅めっき用添加剤「ウエライト」を発売した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
- [50]「木製のめっき槽には…アスファルトを塗ったり…鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールのシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使おうというのが、この新規部門へ進出した目的であった」。本来のめっき用途は量が限られ、雑貨(ふろしき・雨かっぱ)へ広げると市況が不安定で販売業者の倒産が続いた
- [76]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止してビニール部門から撤退した
- [77]「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」と記す
- [78]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止しビニール部門から撤退した。「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20・巻末年表
- [51]1954年の就業規則制定、大卒採用の増加と離職を受けた学歴制度の廃止など、採用と処遇の制度を改めた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20
- [53]上村晃史の入社(1953年11月)の翌年に大卒を多く採ったが「案の定、皆辞めていく」ため、「思い切って学歴を廃止しようじゃないかと腹を決め、以来、当社は給与体系も一本で来ている」と述べている
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・巻末年表
- [54]上村晃史は1924年生まれ・三重県松阪市出身。1960年に名古屋営業所の初代所長、専務を経て社長になった
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表(昭和28年欄)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.36
- [56]上村晃史の入社時の第一印象は「まだ"番頭政治"の体質が根強く残っていて、実に古風な会社である」というもので、「近代経営へ何とか体質改善しなければならないという使命感があった。それが、その後の経営理念作成につながり」と書かれる。経営理念とウエムラスローガンの制定は1966年
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.36
- [57]1966年に経営理念とウエムラスローガンを制定した
- [86]1967年11月に第1次3カ年計画を策定(売上を3年で約70%増、年率18.5%)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.25
- [58]上村晃史は1960年に名古屋営業所の初代営業所長として赴任し、専務を経て社長になった
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23
- [60]1957年に本社へ薬品部を設置した。社史はこれを「商社的色彩からの脱皮」と位置づける
- [61]「普及のきっかけは、朝鮮戦争の特需ブームによって、戦略物資であるニッケルが高騰し、また、量的にも不足して深刻な事態になった」
- [62]ニッケルの高騰と不足から代替材料の開発と節約に目が向けられ、光沢ニッケルめっき法が普及した
- [63]光沢めっきはバフ研摩工程を省略できるため、量産時代の高速化に合致した
- [64]「研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という"商社的色彩"であった当社が、この昭和32年を境により、当社の独自製品としての大きな柱が築かれることになった」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23-24
- [67]1958年のニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころの青化銅光沢剤アサヒカプナーと、薬品の自社開発を続けた
- [68]1958年にニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころに青化銅光沢剤アサヒカプナーを発売した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編p.80-81
- [69]1961年にサイザルバフ・バイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した(巻末年表 昭和36年欄)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.24
- [73]淀川工場内の機械工場(1960年9月着工、第二期完成は1961年1月目標)で作られた自動機第1号 CUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納入した。大手メーカー納入の第1号で、以後 松下電器・フタバ産業・新家工業へ広がった
- [74]川崎航空機工業への納入が大手メーカー納入の第1号で、その後この装置は松下電器産業・フタバ産業・新家工業にも採用された
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.28
- [80]三和防錆は三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山へ交代)との3社合弁。「社内、社外の反対の声の多い中で上村晃史社長(当時専務)は将来の経営拡大の信念を貫き」設立にこぎつけた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.31
- [81]1963年に英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結んだ(商標「ピロブライト」)。外国企業との提携の第1号にあたる
- [82]1963年の英アルブライト&ウィルソン社との販売提携が外国企業との提携の第1号にあたる
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)発刊ごあいさつ
- [83]「たまたま昭和38年当社の主力工場であった淀川工場が焼失し、倉庫に保管されていた諸資料は焼失し、焼け残りのわずかな資料をもとに、先輩諸氏の記憶に訴え、可能な限りの努力で歴史をたどりました」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.29
- [84]「淀川工場が手狭になったのに加え、工場周辺が大阪市の都市計画の対象となったので、工場移転を考えることになり、候補地を探した末、昭和36年(1961)6月、大阪府枚方市の工場誘致用地を取得した。…広さは17,420.44m2(5278.9坪)である」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39-41
- [87]1968年6月に新淀川工場(機械専門工場)が操業を始め、9月3日に創業120周年記念式典を開いた(出席500人)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.40
- [88]1968年に東京支店を台東区鳥越へ移転し、新潟出張所(燕市)を開設した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.30/有価証券報告書【沿革】
- [89]1968年11月に戸田の東京工場が火災に遭い製造を中止した。1970年2月に閉鎖
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.26-27
- [91]6代長兵衞は1961年12月12日に紫綬褒章、1966年11月3日に勲三等瑞宝章を受章し、1967年5月に社長を退いて会長となった
- [92]勲三等瑞宝章の受章にあたり「いよいよ資本の自由化を迎え、世界経済の中で自己の事業を考えねばならなくなりました。日本製品の国際的な競争力というものが問題となり、絶対優位な価値ある製品を開発すること以外、企業の存立は困難な時代を迎えようとしていることを自覚せねばならないと思います」と述べた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.38
- [94]中央研究所は鉄筋3階建・延2,188㎡で、走査型電子顕微鏡やX線回折装置を導入した
- [95]社史は研究所設立を「"世界に通用する技術、世界をリードする技術"に賭ける上村晃史社長の執念が、この研究所設立となって現れた」と書く
- [96]上村晃史社長は「当時としては、分不相応なものを作ったと、内外からかなり批判をうけたが、今日では規模的につり合うようになった」とふりかえっている
証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」(1997年12月11日講演)
- [97]1997年時点で中央研究所の所員は80名
- [139]上村工業はめっきの薬品・表面処理用機械・めっき液を制御する装置の3つを手掛けていた
- [143]「85年のプラザ合意以降、自動車、家電を中心とするお客様が次々に海外へ出て行かれたので、当社はその海外展開に付いていくことにし、米国、台湾、香港、中国、シンガポール、タイへ展開してきた」
- [146]「現在、為替変動の影響を受けない地域完結型の営業展開をするよう努力している」
- [156]上村寛也社長の講演は1997年12月11日に大阪で行われた
- [157]アルミディスク用無電解ニッケルめっき液の国内市場は1996年度で40億円、うち同社の販売金額は33億円でシェア80%だった
- [158]無電解ニッケルめっき液の国内市場は約100億円で、うちハードディスク用が約40%を占めた
- [159]シェアは研磨剤市場30億円の約22%、表面処理用薬品・めっき用化学薬品市場550億円の約20%、機械と制御装置市場240億円の17%だった
- [160]「ハードディスクのめっき処理に参入したのは当社以外にも十数社ある」
- [161]「ハードディスクのめっき処理に参入したのは当社以外にも十数社あるが、当社が勝ち残ったのは同業者の中で当社だけがめっきの薬品、機械およびめっき液を制御する装置の3つを手掛けていたことであると考えている」
- [162]「情報通信分野のお客様にトラブルが発生したとき、その原因がめっき液なのか、表面処理用機械なのか、液管理装置なのかが分かりにくくなってきたので、当社がこの3種を取り扱っているため、当社へのご要望が増えてきたと見ているが、それも最近の5〜6年でようやく認められるようになった」
- [164]「社員総数330人の、約1/3が何らかの形で研究開発に携わっている」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.43
- [99]「当社も、当初は商店であったが、大正8年からは、メーカーに脱皮しており、昭和30年を境に、めっき資材の総合メーカーとして大きく飛躍してくる」
- [100]「創業以来親しまれてきた『上村長兵衛商店』の社名も企業の実態とそぐわなくなってきたのである」。社名変更と同時に社章も制定した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.37
- [101]「地鎮祭から約8カ月後の昭和43年6月に、枚方工場及び中央研究所がほぼ完成し7月からは枚方工場での製造を開始した」。竣工式は9月3日の創業120周年記念式典と兼催
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39・p.45
- [103]1967年に仏フラッパーズ社、1969年に西独バイエル社と技術提携を結び、外部の技術を導入した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39
- [104]1967年に仏フラッパーズ社とプログラム制御全自動めっき装置の技術提携を結んだ
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.45
- [105]1969年に西独バイエル社と無電解ニッケルの技術提携(ニボジュール法)を結び、のち自社開発の「ニムデン」「BELニッケル」へ展開した
- [106]西独バイエル社から導入した無電解ニッケル技術(ニボジュール法)は、のち自社開発の「ニムデン」「BELニッケル」へ展開した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.44・巻末年表
- [107]1969年に初の「輸出貢献企業」表彰を受けた。プリント基板めっき分野への進出は、巻末年表では昭和45年(1970年)の項目に置かれる
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.44
- [108]1970年5月にFACOM230-10を導入(1971年 230-15、1978年 FACOM-V、同年12月に自動ラック倉庫とインライン化)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47
- [109]昭和40年代後半にめっき関連業界は毒劇物の取扱いで規制が厳しくなり、1971年に公害防止機器部を設置してイオン交換樹脂法による廃水処理を採った
- [127]1972年10月にフィリピンでAlliance Abrasive社を設立し、1973年7月に現地生産を開始した。技術輸出の第1号
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47・技術編p.206
- [110]1971年に公害防止機器部を設置(機械系7・化学系6・業務3の計16人)。オルガノと技術提携しイオン交換樹脂法を採用した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.56
- [111]1976年3月に英アルブライト社から三価クロムめっき「アレクラ3」を導入した(六価クロム対策)
- [112]六価クロムによる公害への対策として、英アルブライト&ウィルソン社が開発した三価クロムめっき法を導入した
- [132]1979年6月に技術面の打ち合わせとPC'79の調査のため機械事業部から2名を派遣し、「これによりマイクロプレート社との詳細な打ち合わせ、及び技術習得を終え、販売契約の運びとなり」と書かれる。プリント基板端子めっき装置の第1号は田代電化工業、以後 日立製作所・沖電線
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.60
- [113]1974年に神東塗料と電着塗装の共同研究に着手し、1982年に「ニューペイトン法」へ至った
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.55
- [114]1973年に米エレクトログロー社と電解研摩法の技術提携を結び、神鋼ファウドラへサブライセンスを与えた
- [115]「昭和50年(1975)米国のマクダーミッド社と銅のエッチング剤について特許の実施権契約及びノウハウ供与の契約を結んだ。これは、電子回路用(プリント配線基板)の銅のアルカリエッチング剤で、当社の商標はアルファイン」
- [116]「昭和50年(1975)西独デグサ社と貴金属めっきに関する販売提携を行った。…この販売に関しては、東京支店にデグサチームを組んで全国に販売を行っている」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.50
- [117]1972年4月に着工し1973年8月に完成した枚方工場の増設で、排水処理棟321.80㎡・倉庫棟1,135.84㎡・機械工場棟1,109.78㎡を建てた
- [118]増設の理由の一つとして「淀川工場は、その立地条件から見て今後長期にわたり、機械工場としての操業は難しいと思われるので、その時になってあわてないよう、いつでも移転できるよう、今から準備し、機械工場予定の棟を新築する」と書かれる
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.51
- [119]1973年10月のオイルショックの影響は設備投資には半年ほど遅れて現れ、しかも長引いた
- [120]1975年に機械事業部は仕事がほとんどない状態になった
- [121]「機械事業部は、昭和50年は仕事がほとんどない状態となった。この時をとらえ、既に工場建設を終え、準備を整えてあった枚方工場への移転を開始した。移転に伴い、陣容に関しては、どんな情勢になっても対応できるような人員にしようということで、極端に切りつめた」
- [124]「この時の業績の悪化は、その後のよい教訓となり、機械事業部発展のための見直しを行い……」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47・p.56-57
- [126]1972年のフィリピンAlliance Abrasive社設立、1977年の韓国鍍金材料工業への光沢剤製造技術の供与と、技術を輸出した
- [128]フィリピンのAlliance Abrasive社設立が技術輸出の第1号で、韓国鍍金材料工業への供与は第2号にあたる
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.56-57
- [129]1977年に韓国鍍金材料工業へ光沢剤の製造技術を輸出(通産省認可11月23日)、1979年6月には機械製造技術も供与した
- [130]1979年6月に韓国鍍金材料工業へめっき機械の製造技術も供与した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.51・p.60
- [131]1977年にコンピュータ制御ロボットUPCSをトヨタ自動車へ納入し、日本航空・日本電気が続いた
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.57
- [133]1981年に西独ラングバイン社と表面処理に関する技術交流契約を結び、無電解ニッケル「ニムデン」を輸出、サテンニッケルプロセスを導入して「パールブライト」として商品化した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.61
- [134]複合めっき「メタフロン」の開発着手は1968年で、完成まで10年余を要した
- [135]1979年7月に複合めっき「メタフロン」が完成した(1968年着手・10年余)
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.61-62
- [136]1980年4月にニムコン(無電解ニッケル自動液管理装置)が完成し、第1号機を福井電化工業へ納入した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.62
- [137]1982年5月に高速流動研摩機「スピンマックス」を開発した
- [138]1982年8月のニムコンⅡは東洋電波へ納入し、実稼働第1号は富士電機製造の松本工場だった
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.63
- [140]「アメリカのFCC(連邦通信委員会)では、昭和58年(1983)10月からディジタル機器が発生する電磁波障害(EMI)に対する規制を実施した。コンピュータ機器のほとんどが規制の対象となっており、電波に対して透明なプラスチック・ハウジングには、電磁波シールド処理が必要になった」
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.57-58
- [142]「昭和56年(1981)11月の組織改革で、これまで順調に推移してきた海外事業部の業績を更に推進することと、現地ユーザーに対しての一層の行き届いたアフターサービスを行うために、香港と台湾に駐在所を設け、駐在員を派遣することを決めた」。赴任は翌1982年2月
上村工業 有価証券報告書【役員の状況】
- [152]上村寛也は1980年4月入社、1988年2月に取締役、1991年10月に代表取締役専務、1995年6月に代表取締役副社長、1997年1月に代表取締役社長へ就任した
- [153]上村寛也は1997年1月に代表取締役社長へ就任した
上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5/有価証券報告書【沿革】
- [154]1848年の創業から149年、1933年12月の株式会社設立から64年を経て1997年11月の上場に至った
証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」(1997年12月11日質疑応答)
- [163]連結セグメント情報で機械部門は1997年3月期に268百万円の営業損失を計上した。「機械は薬品販売のツールであると位置付けている。戦略的に受注するケースもある」
上村工業 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
- [165]連結売上高は2002年3月期 23,405百万円 → 2008年3月期 57,304百万円で2.45倍。1997年12月の講演で示された1998年3月期の連結見通しは33,016百万円だった
- [166]連結売上高は2002年3月期 23,405百万円 → 2008年3月期 57,304百万円
- [167]連結売上高は2008年3月期57,304百万円から2009年3月期43,329百万円、2010年3月期32,306百万円へ減少した
- [168]連結売上高は2009年3月期 43,329百万円、2010年3月期 32,306百万円。2008年3月期のピーク比で約44%減
- [169]連結経常利益は2007年3月期 7,934百万円 → 2010年3月期 4,298百万円
- [172]2011年3月期の連結売上高は39,930百万円
- [184]連結売上高は2021年3月期55,947百万円、2022年3月期72,303百万円、2023年3月期85,749百万円と増加した
上村工業 有価証券報告書【業績等の概要】(2010年3月期)
- [170]「当社グループの主たるユーザーである電子部品業界においても在庫調整や設備投資の抑制があったことの影響を受け、当社グループを取り巻く市場環境は厳しいものとなりました」(2010年3月期)
上村工業「2026年3月期 決算説明資料」(2026年5月13日)
- [171]2002年4月に上村化学(上海)有限公司、2003年10月に台湾上村科技股份有限公司を設立、2006年11月に中国深圳市龍崗区で上村工業(深圳)有限公司の新工場が竣工した
- [181]無電解ニッケルめっき(高リンタイプ)はアルミ磁気ディスクメーカー向け、無電解ニッケル/金・ニッケル/パラジウム/金は基板パッケージメーカーと半導体メーカー向けで、薬品売上はウェハー・パッケージ関連79.6%に対しハードディスク関連6.4%
- [186]2026年3月期の連結売上高は91,784百万円、営業利益21,327百万円、当期純利益13,946百万円
- [187]2026年3月期の当期純利益は13,946百万円
- [188]「主力の半導体パッケージ基板向けのめっき薬品の需要は、生成AI用サーバー向けを中心に好調に推移しました」
- [189]「売上高は前連結会計年度を下回りましたが、付加価値の高い半導体ウェハー用めっき装置の販売により、セグメント利益は前連結会計年度を上回りました」
- [190]2026年3月期の薬品売上は55,870百万円。内訳はWafer & PKG関連 44,497百万円(79.6%)、HDD関連 3,564百万円(6.4%)、汎用無電解Ni関連 4,283百万円(7.7%)
- [192]2026年3月期の地域別薬品売上は日本206.8億円、中国138.5億円、台湾137.0億円、北米22.6億円、ASEAN22.5億円、韓国31.0億円
- [193]2026年3月期の事業セグメント別売上は表面処理用資材 77,661百万円、表面処理用機械 8,406百万円、めっき加工 4,838百万円、不動産賃貸 860百万円
- [194]2023年11月の新枚方機械工場の竣工に続き、枚方工場では旧管理棟を解体して新排水処理棟を建設する計画がある
- [196]枚方工場の新排水処理棟は投資予定額 約8.5億円(旧管理棟解体1.8億円・排水処理棟4.0億円・排水処理設備2.7億円)、完成予定は2028年8月、CO2排出量を年間約160t・工場全体の約20%削減する計画
- [197]新排水処理設備は昇温工程を不要とし、CO2排出量を年間約160t・工場全体の約20%削減する計画
- [199]2027年3月期の予想は売上高95,840百万円、営業利益20,330百万円、経常利益20,890百万円、当期純利益14,530百万円
上村工業「2022年3月期決算説明会補足情報について」(2022年6月16日)
- [178]2022年3月期のめっき薬品売上のうちFC-BGA関連は4割程度、IGBT関連は1割程度を占めた
- [179]「めっき薬品の売上高のうち、FC-BGA 関連は 4 割程度、IGBT 関連は 1 割程度と認識しております」
- [180]FC-BGA は Flip Chip-Ball Grid Array、IGBT は Insulated Gate Bipolar Transistor の略
- [182]「同一製品でも顧客側で異なる基板向けに使用される場合があり、弊社では正確な用途別の売上高を把握することは難しい」
- [183]「今期(2023 年 3 月期)につきましては、FC-BGA 関連は 2 割程度、IGBT 関連は 2 割程度の増加を見込んでおります」
上村工業 有価証券報告書 連結損益計算書
- [185]連結売上高は2021年3月期 55,947百万円 → 2022年3月期 72,303百万円 → 2023年3月期 85,749百万円
証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」(1997年12月11日講演)/上村工業「2026年3月期 決算説明資料」(2026年5月13日)
- [191]1996年度のアルミディスク用無電解ニッケルめっき液の販売金額は33億円。2026年3月期のハードディスク関連薬品売上は3,564百万円で、金額はほぼ横ばい。薬品売上55,870百万円に占める比率が6.4%へ下がったのはウェハー・パッケージ関連が44,497百万円へ伸びたため
上村工業 有価証券報告書【大株主の状況】
- [198]2026年3月期末の筆頭株主は浪花殖産株式会社で持株比率28.29%。上村寛也は1995年5月に同社の代表取締役社長へ就任している(【役員の状況】)