上村工業 の歴史

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創業 1848年
創業者 上村長兵衞
創業地 大阪・道修町(現・大阪市中央区)
創業 1969年1月に上村工業と名乗る会社の起点は1848年、大阪・道修町の薬種問屋街
1969年1月に上村工業と名乗る会社の起点は1848年、大阪・道修町の薬種問屋街に開いた讃岐屋長兵衞の店で、和漢薬種を扱い、2代の上村長兵衞氏のころからは地方の医者へ医薬品を卸す商いが中心となって、その形が大正期まで続いた。英カンニング社や米マンニング社からトリポリ・青棒を輸入するなど、めっき資材を自ら輸入する商いとゴム薬品の扱いが加わったのは1915年ごろである。6代の上村長兵衞氏は第1次大戦後の政府の国産奨励を受け、1918年にトリポリを国産化して堺に工場を新設した。医薬品部門は1922年に小西伊兵衞商店へ譲られ、残る商いはめっき資材とゴム薬品になった。1933年12月には資本金50万円の株式会社上村長兵衞商店が生まれた。
決断 薬品と機械と、液を管理する装置を一社に揃えてきた。1957年9月に本社へ薬品部を
薬品と機械と、液を管理する装置を一社に揃えてきた。1957年9月に本社へ薬品部を置き、めっき用化学品の製造を開始した。朝鮮戦争の特需で戦略物資のニッケルが高騰し、その代替として光沢ニッケルめっきが広まった局面である。1960年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作を始め、第1号を川崎航空機工業へ納めた。1968年7月には枚方へ中央研究所を建設して薬品の製造部門を移した。走査型電子顕微鏡とX線回折装置を備えた鉄筋3階建の研究所は、社内外から分不相応だという批判を受けている。1980年4月には無電解ニッケルの自動液管理装置ニムコンを仕上げた。不具合の原因が薬品か機械か液かを切り分けられる同業が他になかったことが、ハードディスク基板向けの無電解ニッケルめっき液で1996年度に国内シェア8割という位置を上村工業へ与えた。
現況 主力が入れ替わったのは、旧主力が縮んだからではない。2026年3月期の薬品売上5
主力が入れ替わったのは、旧主力が縮んだからではない。2026年3月期の薬品売上559億円のうち、ウェハー・パッケージ関連が445億円で79.6%を占める。ハードディスク関連は36億円・6.4%にとどまるが、金額では1996年度の33億円からほとんど動いていない。比率が下がったのは、生成AI用サーバー向けを中心に半導体パッケージ基板向けが伸びたためである。連結売上高917億円・営業利益213億円のうち、表面処理用資材が売上777億円・利益204億円を占める。旧世代の用途を切らずに新しい用途を積み増したことで、売上の85%を一つの事業に集めたまま営業利益率23.2%を達成した。
競合 機械の採算を落としてでも、薬品を売る側に立ってきた。2026年3月期も機械事業の
機械の採算を落としてでも、薬品を売る側に立ってきた。2026年3月期も機械事業の利益率10.3%は表面処理用資材の26.3%を下回る。半導体パッケージ基板では絶縁層のフィルムで味の素が世界シェア95%を占め、平坦化に使うCMP用のパッドは富士紡ホールディングスが持つ。上村工業が扱うのは、その絶縁層の上へ銅の配線を析出させるめっき薬品である。1985年以降は海外へ移る顧客を追って10か国へ拠点を開設したため、日本207億円に対し中国139億円・台湾137億円という地域構成は顧客の設備投資が決めている。
長期業績の推移 1934〜2026年
上村工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1848年〜 薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945)

1848年〜和漢薬種の店が金属の表面へ商いを移すまで

上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就任し、1929年6月に健康上の理由で辞めた。4代の長男にあたる5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没し、代わって商いを担ったのは、1891年に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に店へ入り、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となった人物だった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
    • [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
    • [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
    • [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
    • [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
    • [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
    • [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [7]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した

倉橋重平氏が輸入研摩剤と出会ったのは、店へ入った1916年である。当時のバフ研摩に使う油脂性研摩剤――トリポリ、ライム、赤棒、青棒――は、組成も製法も分からないままアメリカとヨーロッパから運ばれてくる品だった。金剛砂は1クウォーター単位の木樽で届いたが粒度の不揃いが大きく、使う側の悩みの種になっていた。ライムは風化性が強いため貯蔵が利かず、半分ほど使えれば良いとされて不経済で、仕上げ用の青棒は高価で研摩の原価を押し上げた。店はそのころ、1915年ごろからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始めており、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入し、ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めていた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [8]6代上村長兵衞が当時輸入されていた研摩剤と出会ったのは大正5年(1916)で、輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなかった
    • [9]大正末期〜昭和初期の研摩材料・研摩具・油脂性研摩剤(トリポリ、ライム、赤棒、青棒)はすべてアメリカ・ヨーロッパの製品で、その組成・製法とも全く未知の状況だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
    • [10]金剛砂(現在のエメリー粉)は1クウォーター(110〜112ポンド)単位の木樽で輸入され、#00台の粒度の不揃いが多く、需要家の悩みの一つだった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
    • [11]マチレス(ライム)は風化性が強く貯蔵に不便で、大体半分程度使えばよいとされ不経済だった。仕上げ用研摩剤の青棒は非常に高価で研摩コストを高めていた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [12]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
    • [13]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した。ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった

明治後期にイギリスとアメリカから研摩剤とバフが持ち込まれたとき、日本側にあったのは足踏式のロクロに似た研摩機だけで、ベルトがけへ替わったのは大正末期である。素材も機械も輸入に依存するこの産業で、道修町の店が握っていたのは薬品の目利きと、めっき資材の直輸入で作った販路だった。販路は東へ伸び、1920年に東京・日本橋本銀町へ出張所を開設したが、1、2年後に移った本所区の建物は1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った。昭和の初めには神戸と岡山にも出張所を置いている。輸入品を並べる棚を持つ者が、その中身を自分で作る側へ回る条件は、この時点で揃っていた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [14]明治後期にイギリス・アメリカから研摩剤とともにバフ(鉄バフ、バラバフなど)が輸入されたが、当時のバフ研摩機は足踏式のロクロのようなものだった。大正末期〜昭和初期に足踏式からベルトがけになった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [15]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [16]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
    • [17]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
参考文献[1]-[17]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
    • [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
    • [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
    • [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
    • [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
    • [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
    • [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [7]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [8]6代上村長兵衞が当時輸入されていた研摩剤と出会ったのは大正5年(1916)で、輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなかった
    • [9]大正末期〜昭和初期の研摩材料・研摩具・油脂性研摩剤(トリポリ、ライム、赤棒、青棒)はすべてアメリカ・ヨーロッパの製品で、その組成・製法とも全く未知の状況だった
    • [14]明治後期にイギリス・アメリカから研摩剤とともにバフ(鉄バフ、バラバフなど)が輸入されたが、当時のバフ研摩機は足踏式のロクロのようなものだった。大正末期〜昭和初期に足踏式からベルトがけになった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
    • [10]金剛砂(現在のエメリー粉)は1クウォーター(110〜112ポンド)単位の木樽で輸入され、#00台の粒度の不揃いが多く、需要家の悩みの一つだった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
    • [11]マチレス(ライム)は風化性が強く貯蔵に不便で、大体半分程度使えばよいとされ不経済だった。仕上げ用研摩剤の青棒は非常に高価で研摩コストを高めていた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [12]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
    • [13]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した。ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
    • [15]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [16]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
    • [17]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)

1918年〜輸入品を一つずつ国産へ置き換えた15年

輸入品に依存し続けることはできないという判断から、倉橋重平氏は研摩剤の国産化に着手した。大阪東区の宮林ニッケル鍍金所社長・宮林操三氏の協力を得て、原料となるドロマイトとトリポリパウダーは米ロックウエルライム社から入手した。そして1918年にトリポリの国産化に成功し、大阪府堺に工場を設けて製造を始めた。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励した時期と重なる動きだった。1922年には医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り、めっき資材とゴム薬品に商いを絞っている。創業から74年続いた家業の本体を手放し、まだ市場の定まらない国産品へ経営資源を集中する判断だった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [18]輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなく、いつまでも輸入品に頼ることはできないと判断して国産化への意志を固めた
    • [19]宮林ニッケル鍍金所(現・宮林工業株式会社、大阪東区)社長 宮林操三氏の協力を得、米ロックウエルライム社の協力で原料(主としてドロマイト、トリポリパウダー)を入手して研究に着手した
    • [20]大正7年(1918)にトリポリの国産化に成功し、大阪堺に工場を作って製造を開始した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [21]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [22]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した

国産化は製品だけでなく、その原料まで遡って進められた。トリポリの原料であるトリポリ粉は全面的に輸入していたが、国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山と鉱区を行脚し、岐阜県の山中で良質のものを見つけた。各地で採れるライムも試作記号A・Bを付けて比較試験にかけている。仕上げ用の青棒が高価で研摩の原価を押し上げていた問題には、1927年にグリーンルージュを安価に国産化する方法で応え、その製法は同年3月8日の出願を経て10月25日に特許第74097号として登録された。昭和の初めには原料まで含めた純国産化に到達し、6代長兵衞氏の名で取得した特許はこの時期だけで7件を数えた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [23]昭和初期にはすべての原料も含めて純国産化に成功した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
    • [24]トリポリ原料のトリポリ粉は従来は全面的に輸入していたが、国産風化硅石による研究を志し、全国到る所の鉱山・鉱区を行脚して調査に赴き、岐阜県の山中で良質の風化硅石を発見した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
    • [25]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
    • [26]仕上げ用研摩剤の青棒が非常に高価で研摩コストを高めていたため、昭和2年(1927)特許第74097号にかかる発明により従来輸入していたグリンルージを極めて安価に国産化した。出願は昭和2年3月8日、特許は同年10月25日
    • [27]昭和初期には6代上村長兵衞の発明として特許第74097号(昭和2年)他6件の特許取得がみられる

もう一つの主力マチレスが純国産で完成したのは、1936年に出願したドロマイトの特殊加工法が特許第127131号となったことによる。この製品は研摩の性能が主原料ドロマイトの質で大きく変わり、質の良い鉱石は外国産に頼るしかなかった。業界からは純国産品が求められていた。そこで良質の鉱石を全国で調べて探す一方、国内産ドロマイトの品質を上げる研究を長く重ねた。製品は3Bライムの名で売られ、品質は欧米品に優るものと認められて、研摩剤の代名詞と評されるまでになった。1929年の完成から特許出願まで7年、輸入品と同じものを作るのではなく、輸入品より良いものを国内の原料で作るところまで押し切った。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
    • [28]昭和11年(1936)出願の特許第127131号にかかるドロマイトの特殊加工法を創案し、これによって純国産のマチレス(ライム)を完成した
    • [29]マチレス(ライム)の研摩性能は主要原料であるドロマイトの品質に大きく左右され、良質のドロマイト鉱石は外国産に頼る以外に方法がなかった
    • [30]業界の要望に応えて純国産品によるマチレスの完成を期し、良質のドロマイト鉱石を全国的に調査探索する一方、内地産ドロマイトの品質向上の研究に没頭した
    • [31]その品質は欧米品に優るものとして認められ、3Bライムとして名声を博し、研摩剤の代名詞として評価された
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
    • [32]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
参考文献[18]-[32]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
    • [18]輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなく、いつまでも輸入品に頼ることはできないと判断して国産化への意志を固めた
    • [19]宮林ニッケル鍍金所(現・宮林工業株式会社、大阪東区)社長 宮林操三氏の協力を得、米ロックウエルライム社の協力で原料(主としてドロマイト、トリポリパウダー)を入手して研究に着手した
    • [20]大正7年(1918)にトリポリの国産化に成功し、大阪堺に工場を作って製造を開始した
    • [23]昭和初期にはすべての原料も含めて純国産化に成功した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [21]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [22]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
    • [24]トリポリ原料のトリポリ粉は従来は全面的に輸入していたが、国産風化硅石による研究を志し、全国到る所の鉱山・鉱区を行脚して調査に赴き、岐阜県の山中で良質の風化硅石を発見した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
    • [25]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
    • [32]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
    • [26]仕上げ用研摩剤の青棒が非常に高価で研摩コストを高めていたため、昭和2年(1927)特許第74097号にかかる発明により従来輸入していたグリンルージを極めて安価に国産化した。出願は昭和2年3月8日、特許は同年10月25日
    • [27]昭和初期には6代上村長兵衞の発明として特許第74097号(昭和2年)他6件の特許取得がみられる
    • [28]昭和11年(1936)出願の特許第127131号にかかるドロマイトの特殊加工法を創案し、これによって純国産のマチレス(ライム)を完成した
    • [29]マチレス(ライム)の研摩性能は主要原料であるドロマイトの品質に大きく左右され、良質のドロマイト鉱石は外国産に頼る以外に方法がなかった
    • [30]業界の要望に応えて純国産品によるマチレスの完成を期し、良質のドロマイト鉱石を全国的に調査探索する一方、内地産ドロマイトの品質向上の研究に没頭した
    • [31]その品質は欧米品に優るものとして認められ、3Bライムとして名声を博し、研摩剤の代名詞として評価された

1930年〜家業から企業への改組と、ニッケルが国家資材になった戦時

1930年11月、上村重平氏が6代長兵衞を襲名した。翌12月には資本総額26万円の匿名組合を設け、鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となる。そして1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し、初代社長には6代長兵衞氏が就任した。定款には営業品目と株式、役員が具体的に定められ、明治と大正を通じて受け継いできた家業を近代化する意図が置かれた。この12月3日が創立記念日となった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [33]6代長兵衞(旧姓 倉橋重平)は1930年11月に6代長兵衞を襲名した
    • [35]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [34]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
    • [36]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立、初代社長は6代長兵衞
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
    • [37]定款には匿名組合のものから具体的に営業品目、株式、役員などが定められ、明治・大正と受け継がれてきた家業を近代化させようというねらいがみられる
    • [38]12月3日を創立記念日として定めている

株式会社としての第1期は1933年12月から翌年5月までの半年で、売上高は160万5,441円、利益は2万8,945円、部門は大阪メッキ、東京メッキ、ゴム部の3つに分かれていた。東京では1933年12月に浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には支店へ昇格させた。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化し、中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送った。1938年12月から1939年11月までの期の売上高は499万8,000円で、発足から5年半で3倍に達している。もっともこの伸びは、調達の側から会社を締め上げる統制の強まりと同じ時期に起きていた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
    • [39]第1回決算書(昭和8年12月〜昭和9年5月)の当期売上高は1,605,441.98円、当期利益は28,945.46円。科目は大阪メッキ・東京メッキ・ゴム部の3部門に分かれて計上されている
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [40]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
    • [41]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [42]第11期(昭和13年12月〜昭和14年11月)の売上高は4,998千円。第1期(昭和8年12月〜昭和9年5月)は1,605千円で、1期から10期までは年2回決算

電気めっきに最大の消費量を持つニッケルは、輸入が困難になるにつれて国家の重要資材とされた。めっき資材の供給に当たる立場からこの情勢に対処するため、1939年に大阪府泉大津市板原へ約9,900平方メートルの泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。並行して大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借り、約500平方メートルの築港工場を設けた。ここではモネルメタルを原料に電解法で銅などの不純物を取り除き、粗ニッケルを泉大津へ運んで電気精錬している。輸入の途絶えた原料を、他の合金から取り出して作り直したことになる。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [43]戦争によってニッケルなどの輸入が次第に困難になり、電気めっきに最大の消費量をもつニッケルは国家の重要資材となった
    • [44]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、敷地約9,900平方メートル=300坪、事務所平家建て1棟・工場平家建て1棟、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
    • [45]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用、約500平方メートル=150坪の平家建て)
    • [46]築港工場ではモネルメタルを原料に、電解法で銅などの不純物を取り除いて粗ニッケルを作り、泉大津工場へ運んで電気精錬した

1942年に取得した大阪市東淀川区西中島町の淀川工場は、金属ニッケルを増産する計画のもとにあった。ただ、そこで生産はせず、原料を置く倉庫代わりに使うにとどめた。西隣に国鉄宮原操車場があり、周りが田圃ばかりで爆撃の標的になりやすいとみたためである。1943年にはその原料も千船工場と四貫島倉庫へ分けて疎開させた。空襲は重なったが、1945年8月15日に終戦を迎えた時点で本社も工場も倉庫も東京支店も被災しておらず、人員は本社27人、工場14人、東京支店5人が残っていた。増産用に手に入れた設備を動かさずにおいたことが、戦後に再開する際の設備を残す結果になった。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1942年に大阪市東淀川区西中島町へ淀川工場を取得し、金属ニッケルの増産を行う計画だった。有報【沿革】は1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
    • [48]淀川工場は西側に国鉄宮原操車場があり周囲がいずれも田圃で爆撃の目標になりやすいとして、生産は行わず倉庫代わりに原料を置いた
    • [49]1943年に千船工場(大阪市西淀川区)・四貫島倉庫(同此花区)へ原料を分散疎開させた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
    • [50]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
    • [51]終戦時の陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
参考文献[33]-[51]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [33]6代長兵衞(旧姓 倉橋重平)は1930年11月に6代長兵衞を襲名した
    • [35]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [34]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
    • [36]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立、初代社長は6代長兵衞
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
    • [37]定款には匿名組合のものから具体的に営業品目、株式、役員などが定められ、明治・大正と受け継がれてきた家業を近代化させようというねらいがみられる
    • [38]12月3日を創立記念日として定めている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
    • [39]第1回決算書(昭和8年12月〜昭和9年5月)の当期売上高は1,605,441.98円、当期利益は28,945.46円。科目は大阪メッキ・東京メッキ・ゴム部の3部門に分かれて計上されている
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [40]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
    • [47]1942年に大阪市東淀川区西中島町へ淀川工場を取得し、金属ニッケルの増産を行う計画だった。有報【沿革】は1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
    • [41]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [42]第11期(昭和13年12月〜昭和14年11月)の売上高は4,998千円。第1期(昭和8年12月〜昭和9年5月)は1,605千円で、1期から10期までは年2回決算
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [43]戦争によってニッケルなどの輸入が次第に困難になり、電気めっきに最大の消費量をもつニッケルは国家の重要資材となった
    • [44]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、敷地約9,900平方メートル=300坪、事務所平家建て1棟・工場平家建て1棟、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
    • [45]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用、約500平方メートル=150坪の平家建て)
    • [46]築港工場ではモネルメタルを原料に、電解法で銅などの不純物を取り除いて粗ニッケルを作り、泉大津工場へ運んで電気精錬した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
    • [48]淀川工場は西側に国鉄宮原操車場があり周囲がいずれも田圃で爆撃の目標になりやすいとして、生産は行わず倉庫代わりに原料を置いた
    • [49]1943年に千船工場(大阪市西淀川区)・四貫島倉庫(同此花区)へ原料を分散疎開させた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
    • [50]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
    • [51]終戦時の陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった

第2章 1946年〜 鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ(1946〜1966)

1946年〜鉄鍋四個の再開と、モノ不足が作った売り手市場

事業の再開は同業のどこよりも早かった。戦時に借りていた築港工場を整理して閉じた1946年5月、同じ月に淀川工場で研摩剤の製造を始めている。設備は直径70センチの鉄鍋を4個並べ、レンガを積んだ炉で薪を直炊きし、パラフィンと松ヤニ、鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混ぜるものだった。吹きこぼれないよう、石炭箱の蓋を割った板切れで攪拌している。1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本、金額にして7万円から10万円である。原材料は千船工場と四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込み、昼間は停電して夜間に送電される電力事情のもとで、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [52]戦後の事業再開は同業のどこよりも早かった
    • [57]原材料は千船工場・四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込んだ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [53]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖し、同じ1946年5月に淀川工場でトリポリ、エメリー棒、グローカスといった研摩剤の製造を開始した。有報【沿革】も1946年5月の淀川工場での研磨材製造再開を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [54]再開時の生産設備は直径70センチの鉄鍋4個を並べ、レンガを積み上げた炉で薪を直炊きし、パラフィン・松ヤニ・鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混入するものだった
    • [55]吹きこぼれないように火の加減をみながら、石炭箱のふたを割った板切れで攪拌した
    • [56]1日の生産量はトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本で、金額にして7〜10万円程度だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [58]当時は電力事情・原料事情が極端に悪く、昼間は停電・夜間に送電という状態で、1週間のうち働く日は日曜日を含めて4日ほどしかなかった

復興が進むにつれて足りなくなったのは、設備ではなく原料だった。主力の3Bライムは原料の一つである酸化アルミの入手が難しく、代わりに硅酸アルミや金剛砂を試したものの、硬すぎて用をなさなかった。1948年、自動車用プラグの焼き損ないが工場に山積みされて処分に困っているのを買い取り、粉砕して3Bライムの原料に回したところ、非常に良い結果を得た。取引はすべて現金で、九州から泊まりがけでリュックサックを背負って買いに来る者もいる売り手市場だった。1947年11月期の売上高は2,221万7,000円、翌1948年11月期は5,865万8,000円と、1年で2.6倍に伸びている。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [59]戦後は材料も不足がちで、入手するためにヤミ買いを行うなど苦心した
    • [60]代表商品である3Bライムの原料の一つである酸化アルミの入手が困難で代替材料の研究に苦労した。硅酸アルミ、金剛砂を試みに使ってみたが、硬いので使えなかった
    • [61]1948年に自動車のプラグの焼き損ないを粉砕して再利用する解決策を得た。A社のプラグ工場には焼き損ないのプラグが山積みされ処分に困っており、それを買い取って3Bライムの原料としたところ非常に良い結果を得た
    • [62]取り引きはすべて現金で、九州方面からリュックサックを背負って泊まりがけで買いにくる者もいる売り手市場だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [63]1947年11月期(第19期)の売上高は22,217千円、1948年11月期(第20期)は58,658千円

東京支店は戦災を免れたものの、物資の欠乏と交通機関の麻痺で、売る商品そのものが本社から届かなかった。矢のように出荷を催促する支店へ、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示を返した。代表商品の3Bライムは月に100本から200本しか入荷せず、店頭に出すいとまもなく売れた。本社はこの商品に限って現金で売るよう命じており、立ち上がりの資金繰りを支えた。東京では山中研磨材工業所に委託生産したトリポリを「3山トリポリ」の名で売り、1950年には東京都北区東十条へ敷地60坪の東京工場を設けている。溶解釜と攪拌機が各2基、作業員3人、1日500本から600本という規模だった。運賃が製品の利を食う距離が、生産の分散を決めた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
    • [64]東京支店は戦災を免れたものの、終戦による社会の混乱、極度の物資欠乏、食糧難、交通機関のマヒなどで、商売をしようにも肝心の商品が本社からなかなか届かなかった
    • [65]東京支店が矢のように本社へ出荷を催促すると、6代長兵衞社長から東京での自給自足を求める指示が返ってきた
    • [66]代表商品の3Bライムは月に100〜200本しか入荷がなく、店頭へ出すいとまもなく売れてしまう状態だった
    • [67]本社から3Bライムについては「現金で売るように」と特に指示があり、戦後の立ち上がりに資金面で貢献した
    • [68]東京ではまずトリポリの製造を考え、山中研磨材工業所に委託生産したものを「3山トリポリ」のブランドで販売した。東京工場ができるまでの短い期間の、初めての東京独自の製品だった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1950年に東京都北区東十条へ東京工場を設置(敷地198平方メートル=60坪、木造平家1棟132平方メートル、生産設備は溶解釜・攪拌機が各2基、作業員3人、生産能力は1日500〜600本)。有報【沿革】は1950年3月に東京工場を設置し研磨材の製造を開始と記す
参考文献[52]-[69]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [52]戦後の事業再開は同業のどこよりも早かった
    • [57]原材料は千船工場・四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込んだ
    • [59]戦後は材料も不足がちで、入手するためにヤミ買いを行うなど苦心した
    • [60]代表商品である3Bライムの原料の一つである酸化アルミの入手が困難で代替材料の研究に苦労した。硅酸アルミ、金剛砂を試みに使ってみたが、硬いので使えなかった
    • [61]1948年に自動車のプラグの焼き損ないを粉砕して再利用する解決策を得た。A社のプラグ工場には焼き損ないのプラグが山積みされ処分に困っており、それを買い取って3Bライムの原料としたところ非常に良い結果を得た
    • [62]取り引きはすべて現金で、九州方面からリュックサックを背負って泊まりがけで買いにくる者もいる売り手市場だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [53]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖し、同じ1946年5月に淀川工場でトリポリ、エメリー棒、グローカスといった研摩剤の製造を開始した。有報【沿革】も1946年5月の淀川工場での研磨材製造再開を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [54]再開時の生産設備は直径70センチの鉄鍋4個を並べ、レンガを積み上げた炉で薪を直炊きし、パラフィン・松ヤニ・鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混入するものだった
    • [55]吹きこぼれないように火の加減をみながら、石炭箱のふたを割った板切れで攪拌した
    • [56]1日の生産量はトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本で、金額にして7〜10万円程度だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [58]当時は電力事情・原料事情が極端に悪く、昼間は停電・夜間に送電という状態で、1週間のうち働く日は日曜日を含めて4日ほどしかなかった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [63]1947年11月期(第19期)の売上高は22,217千円、1948年11月期(第20期)は58,658千円
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
    • [64]東京支店は戦災を免れたものの、終戦による社会の混乱、極度の物資欠乏、食糧難、交通機関のマヒなどで、商売をしようにも肝心の商品が本社からなかなか届かなかった
    • [65]東京支店が矢のように本社へ出荷を催促すると、6代長兵衞社長から東京での自給自足を求める指示が返ってきた
    • [66]代表商品の3Bライムは月に100〜200本しか入荷がなく、店頭へ出すいとまもなく売れてしまう状態だった
    • [67]本社から3Bライムについては「現金で売るように」と特に指示があり、戦後の立ち上がりに資金面で貢献した
    • [68]東京ではまずトリポリの製造を考え、山中研磨材工業所に委託生産したものを「3山トリポリ」のブランドで販売した。東京工場ができるまでの短い期間の、初めての東京独自の製品だった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1950年に東京都北区東十条へ東京工場を設置(敷地198平方メートル=60坪、木造平家1棟132平方メートル、生産設備は溶解釜・攪拌機が各2基、作業員3人、生産能力は1日500〜600本)。有報【沿革】は1950年3月に東京工場を設置し研磨材の製造を開始と記す

1949年〜仕入れた商品で伸びた十年と、研摩を減らす技術

1949年8月、大阪市阿倍野区万代に敷地578坪の住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた。木製のめっき槽は耐薬品のために内部へアスファルトを塗るか鉛板を張っていたので、これに代わる内張りと電気絶縁の材料にしようというねらいだった。製品は厚手の0.5ミリに重点を置いたが、めっきの分野では量に限りがあり、薄手0.3ミリのフィルムを風呂敷やテーブル掛け、雨合羽に仕立てて売った。一時はよく売れたものの、市中価格が不安定なうえ、雑貨の販売業者は営業基盤が弱く倒産がよく起こった。市場が狭く将来に期待が持てないと判断して拡大策は取らず、1963年2月に工場での生産を止めて倉庫に転じている。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1949年8月に大阪市阿倍野区万代1丁目へ住吉工場を設置(敷地1,908平方メートル=578坪、平家・木造建)。所在は阿倍野区だが住吉区に近いので住吉工場と呼ばれた。有報【沿革】は1949年8月に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
    • [71]木製のめっき槽は耐薬品のために内部にアスファルトを塗ったり鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使うのが新規部門へ進出した目的だった
    • [72]製品は厚手のシート(0.5ミリ)に重点を置いたが、当初の目的としためっきの分野では量的に限りがあるので、薄手のフィルム(0.3ミリ)も製造し、ふろしき、テーブル掛けなどの雑貨や雨かっぱにして販売した
    • [73]一時はよく売れたが、フィルム・シートの市中価格が不安定であるのに加え、雑貨関係は販売業者の営業基盤が弱く、よく倒産が起こった
    • [74]シートに関しては市場が狭く将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず、1963年2月に工場生産を停止し、以後1978年まで倉庫として利用した

1940年代後半の主力は、自社で作った品ではなく仕入れた品だった。そのころの主な取扱商品は、住友金属鉱山と日本鉱業から仕入れた硫酸ニッケル、日本曹達から仕入れたカ性ソーダと青化ソーダ、日本鉱業と三菱金属から仕入れた硫酸銅だった。光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛もこの時期の商材だった。なかでも青化第一銅は千葉の総房化学が開発した品で、当時東京都工業奨励館化学部技師だった理学博士・虎石成美氏がめっきへの効能を実証し、その裏書きを得て販売を始めた。最初に採用したのは市川市の福井電化工業であり、これを突破口に需要は従来の硫酸銅から青化第一銅へすっかり移った。月10トンから15トンを一手販売したが、本社では扱えず東京支店の独壇場になった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [75]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」の会社だった
    • [77]昭和20年代の大ヒット商品は光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛だった
    • [78]青化第一銅は千葉の総房化学(後に日本冶金工業に吸収合併)で開発されたといわれ、理学博士 虎石成美(当時 東京都工業奨励館化学部技師)がめっきに優れた効能があることを実証し、その「お墨つき」を得て販売を開始した
    • [79]青化第一銅を最初に採用したのは業界の雄といわれた福井電化工業(市川市)で、これを突破口に広がり、従来の硫酸銅から青化第一銅へ需要がすっかり変わった
    • [80]総房化学のものを一手販売(月10〜15トン)したが、本社で扱えず東京支店の独壇場となった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [76]戦後の取り扱い商品は硫酸ニッケル(住友金属鉱山、日本鉱業)、カ性ソーダ(日本曹達)、青化ソーダ(同)、硫酸銅(日本鉱業、三菱金属)などを主力としていた

アメリカで光沢めっきが使えるようになったのは1937年から1938年ごろで、日本には終戦後の1947年から1948年ごろに入ってきたが、実際に広まるのはさらに10年後、1955年以降である。1950年に朝鮮動乱が始まり戦略物資のニッケルが値上がりして量も不足すると、代わりの材料やニッケルの節約に関心が集まり、光沢ニッケルめっき法がにわかに注目された。この方法なら、研摩工程で失われるニッケルを節約でき、バフ研摩の工程自体も要らなくなる。めっき浴の質が変わり光沢効果が進んでバフ加工が省かれることは、研摩材料を売る側からすれば需要を削られることでもあった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [81]光沢めっきが実用化されたのは昭和12、13年ごろのアメリカで、この技術が日本に導入されたのは終戦後の昭和22、23年ごろ、実際に普及するようになったのはそれより10年後の昭和30年以降である
    • [82]朝鮮戦争の特需ブームによって戦略物資であるニッケルが高騰し、量的にも不足して深刻な事態になった
    • [83]ニッケルの代替材料の開発やニッケルの節約に目が向けられ、にわかに光沢ニッケルめっき法がクローズアップした
    • [84]光沢ニッケルめっきの採用により研摩工程で消耗するニッケルが相当量節約され、同時にバフ研摩の工程が省略される
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
    • [85]めっき工程中のニッケル・クロムめっき浴、銅めっき浴の質的変化と光沢効果の進歩によりバフ加工が省略された
参考文献[70]-[85]
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1949年8月に大阪市阿倍野区万代1丁目へ住吉工場を設置(敷地1,908平方メートル=578坪、平家・木造建)。所在は阿倍野区だが住吉区に近いので住吉工場と呼ばれた。有報【沿革】は1949年8月に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
    • [71]木製のめっき槽は耐薬品のために内部にアスファルトを塗ったり鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使うのが新規部門へ進出した目的だった
    • [72]製品は厚手のシート(0.5ミリ)に重点を置いたが、当初の目的としためっきの分野では量的に限りがあるので、薄手のフィルム(0.3ミリ)も製造し、ふろしき、テーブル掛けなどの雑貨や雨かっぱにして販売した
    • [73]一時はよく売れたが、フィルム・シートの市中価格が不安定であるのに加え、雑貨関係は販売業者の営業基盤が弱く、よく倒産が起こった
    • [74]シートに関しては市場が狭く将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず、1963年2月に工場生産を停止し、以後1978年まで倉庫として利用した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [75]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」の会社だった
    • [77]昭和20年代の大ヒット商品は光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛だった
    • [78]青化第一銅は千葉の総房化学(後に日本冶金工業に吸収合併)で開発されたといわれ、理学博士 虎石成美(当時 東京都工業奨励館化学部技師)がめっきに優れた効能があることを実証し、その「お墨つき」を得て販売を開始した
    • [79]青化第一銅を最初に採用したのは業界の雄といわれた福井電化工業(市川市)で、これを突破口に広がり、従来の硫酸銅から青化第一銅へ需要がすっかり変わった
    • [80]総房化学のものを一手販売(月10〜15トン)したが、本社で扱えず東京支店の独壇場となった
    • [81]光沢めっきが実用化されたのは昭和12、13年ごろのアメリカで、この技術が日本に導入されたのは終戦後の昭和22、23年ごろ、実際に普及するようになったのはそれより10年後の昭和30年以降である
    • [82]朝鮮戦争の特需ブームによって戦略物資であるニッケルが高騰し、量的にも不足して深刻な事態になった
    • [83]ニッケルの代替材料の開発やニッケルの節約に目が向けられ、にわかに光沢ニッケルめっき法がクローズアップした
    • [84]光沢ニッケルめっきの採用により研摩工程で消耗するニッケルが相当量節約され、同時にバフ研摩の工程が省略される
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [76]戦後の取り扱い商品は硫酸ニッケル(住友金属鉱山、日本鉱業)、カ性ソーダ(日本曹達)、青化ソーダ(同)、硫酸銅(日本鉱業、三菱金属)などを主力としていた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
    • [85]めっき工程中のニッケル・クロムめっき浴、銅めっき浴の質的変化と光沢効果の進歩によりバフ加工が省略された

1957年〜商社的色彩を脱し、薬品と機械を柱に加える

薬品の取り扱いは1940年代からあったが、めっき技術の研究に本腰を入れ、光沢剤をはじめとする薬品類を自ら開発し始めたのは1957年である。この年、本社に薬品部が置かれ、9月にはめっき用化学品の製造にも入った。のちに青化銅めっきに使う光沢剤アサヒカプナーと光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発してどちらも成功し、開発品にはすべてアサヒ印を付けた。1957年は、仕入品ではない自社製品が稼ぎ手として育ち始める境目になった。バフ研摩を不要にする技術に使う薬品を自社で作ることは、祖業の需要を減らす側に自分から立つことでもあった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [86]薬品については1940年代から取り扱っていたが、本格的にめっき技術の研究を進め光沢剤など薬品類の開発に取り組んだのは1957年に本社に薬品部を設けてからである
    • [87]1957年に本社に薬品部を設置した
    • [89]青化銅めっき用の光沢剤アサヒカプナー、光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発して成功を収めた
    • [90]開発された製品のトレードマークにはすべてアサヒ印を付している
    • [91]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」であった会社が、1957年を境に独自製品としての大きな柱を築くことになった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [88]有報【沿革】は1957年9月にめっき用化学品の製造を開始と記す

機械工場の建設は1960年9月、淀川工場の敷地内で始まり、広さは990平方メートルだった。同じ9月、道修町の本社では機械を受け持つ技術第二課が動き出し、自動めっき機械やバレルから付帯設備までを含むめっき設備全般の企画と設計を担った。この工場が最初に出した全自動の銅・ニッケル・クロムめっき装置CUF-2型と全自動亜鉛めっき装置CUF-1型の2機種は、大手メーカー向けの納入第1号として川崎航空機工業に入った。その後は松下電器産業、フタバ産業、新家工業も装置を採用し、大型プラントの商談が相次ぐようになった。時期としては、手作業だっためっきが半自動、さらに全自動へと移り、省人化と省力化が進んだころにあたる。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1960年9月より淀川工場内に990平方メートル(300坪)の機械工場を着工した。有報【沿革】は1960年9月に機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
    • [93]1960年に道修町本社へ技術第二課を設置し、機械担当として自動めっき機械をはじめバレル、その他付帯設備に至る各種めっき設備の企画設計を業務とし、9月より業務を開始した
    • [94]新装なった機械工場でうぶ声をあげたのはCUF-2型(全自動 銅-ニッケル-クロムめっき装置)およびCUF-1型(全自動亜鉛めっき装置)だった
    • [95]CUF-2型とCUF-1型は川崎航空機工業(現 川崎重工業)に納入され、大手メーカーへの納入第1号となった
    • [96]この装置がその後、松下電器産業、フタバ産業、新家工業にも採用され、この実績から大型プラントの引き合いが活発になった
    • [97]それまで手作業で行われていためっきの作業が高度成長を契機に徐々に半自動から全自動へ移り、省人化・省力化の方向へ進んだ

1960年7月、名古屋市西区西菊井町に敷地約2,000平方メートルの名古屋営業所を開設した。本社と東京支店で東西に二分していた市場の中間を受け持たせ、三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県を担当させている。初代所長には後に7代社長となる上村晃史氏が赴任し、当初のスタッフは8人、4年から5年の赤字を覚悟したところ初年度から黒字を計上した。1963年9月には三菱商事、東邦ダイカストとの共同出資で三和防錆を設立し、製品を世に送り出す前に実験を行う工場とした。同じ年には英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結び、これが外国企業との提携第1号となった。売上高は1955年11月期の3億8,107万円から1966年11月期の20億8,300万円へ伸びた。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [98]1960年7月に名古屋市西区西菊井町へ名古屋営業所を開設した(敷地約2,000平方メートル=600坪、鉄筋3階建、建坪1,240平方メートル)。有報【沿革】も1960年7月の名古屋営業所設置を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
    • [99]従来は本社と東京支店で市場を東西に二分していたが、その中間に当たる地域を名古屋営業所のテリトリーとし、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を担当させた
    • [100]初代営業所長として上村晃史(のちの7代社長)が赴任し、当初のスタッフは8人だった。上村晃史は「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」と振り返っている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
    • [101]1963年9月に大阪府守口市梶町へ、上村工業・三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山に交代)の3社共同出資で三和防錆株式会社を設立した。製品を開発して世に送り出すまでに実験を行う工場と位置づけられた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉
    • [102]1963年に英国のアルブライト&ウィルソン社(本社ロンドン)とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を行った。外国企業との提携第1号で、「ピロブライト」の商標で販売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [103]1955年11月期(第27期)の売上高は381,071千円、1966年11月期の売上高は20.83億円
参考文献[86]-[103]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [86]薬品については1940年代から取り扱っていたが、本格的にめっき技術の研究を進め光沢剤など薬品類の開発に取り組んだのは1957年に本社に薬品部を設けてからである
    • [87]1957年に本社に薬品部を設置した
    • [89]青化銅めっき用の光沢剤アサヒカプナー、光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発して成功を収めた
    • [90]開発された製品のトレードマークにはすべてアサヒ印を付している
    • [91]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」であった会社が、1957年を境に独自製品としての大きな柱を築くことになった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [88]有報【沿革】は1957年9月にめっき用化学品の製造を開始と記す
    • [92]1960年9月より淀川工場内に990平方メートル(300坪)の機械工場を着工した。有報【沿革】は1960年9月に機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始と記す
    • [98]1960年7月に名古屋市西区西菊井町へ名古屋営業所を開設した(敷地約2,000平方メートル=600坪、鉄筋3階建、建坪1,240平方メートル)。有報【沿革】も1960年7月の名古屋営業所設置を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
    • [93]1960年に道修町本社へ技術第二課を設置し、機械担当として自動めっき機械をはじめバレル、その他付帯設備に至る各種めっき設備の企画設計を業務とし、9月より業務を開始した
    • [94]新装なった機械工場でうぶ声をあげたのはCUF-2型(全自動 銅-ニッケル-クロムめっき装置)およびCUF-1型(全自動亜鉛めっき装置)だった
    • [95]CUF-2型とCUF-1型は川崎航空機工業(現 川崎重工業)に納入され、大手メーカーへの納入第1号となった
    • [96]この装置がその後、松下電器産業、フタバ産業、新家工業にも採用され、この実績から大型プラントの引き合いが活発になった
    • [97]それまで手作業で行われていためっきの作業が高度成長を契機に徐々に半自動から全自動へ移り、省人化・省力化の方向へ進んだ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
    • [99]従来は本社と東京支店で市場を東西に二分していたが、その中間に当たる地域を名古屋営業所のテリトリーとし、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を担当させた
    • [100]初代営業所長として上村晃史(のちの7代社長)が赴任し、当初のスタッフは8人だった。上村晃史は「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」と振り返っている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
    • [101]1963年9月に大阪府守口市梶町へ、上村工業・三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山に交代)の3社共同出資で三和防錆株式会社を設立した。製品を開発して世に送り出すまでに実験を行う工場と位置づけられた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉
    • [102]1963年に英国のアルブライト&ウィルソン社(本社ロンドン)とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を行った。外国企業との提携第1号で、「ピロブライト」の商標で販売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [103]1955年11月期(第27期)の売上高は381,071千円、1966年11月期の売上高は20.83億円

第3章 1967-1988 (気が向いたら執筆します!) 研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる(1967〜1988)

第4章 1989-2026 (気が向いたら執筆します!) ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える(1989〜2026)

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歴史年表 1933〜2024年

上村工業の沿革1933〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1848〜1945年薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945)上村長兵衞研磨材と工業用化学品を扱う上村長兵衞商店を設立★★★
上村長兵衞東京市浅草区(現・東京都台東区)に東京営業所を設置★
上村長兵衞東京営業所を東京支店に昇格★
上村長兵衞大阪市東淀川区(現・淀川区)に淀川工場を設置★
1946〜1966年鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ(1946〜1966)上村長兵衞淀川工場で研磨材の製造を再開★★
上村長兵衞大阪市阿倍野区に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始★★
上村長兵衞東京都北区に東京工場を設置し研磨材の製造を開始★
上村長兵衞本社に薬品部を置いての、自社での薬品づくりへの踏み出し

1957年、株式会社上村長兵衞商店が本社に薬品部を設け、同年9月にめっき用化学品の製造を開始した経営判断。それまで自社製品は研摩剤だけで、めっき薬品は他社から仕入れて売っていた。6代の上村長兵衞社長のもとで、研摩剤に次ぐ二本目の自社製品の柱を立てた。

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★★★
上村長兵衞名古屋市西区に名古屋営業所を設置★
上村長兵衞機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始★★★
上村長兵衞めっき加工技術の研究を目的に三和防錆(のちサミックス)を設立★
上村長兵衞東京工場を埼玉県戸田市に移転★
1967〜1988年研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる(1967〜1988)上村晃史名古屋営業所を名古屋支店に昇格★
上村晃史めっき用化学品製造部門の移転を伴う研究開発拠点の集約

1968年7月、上村工業が大阪府枚方市に枚方工場を竣工し、同じ敷地に中央研究所を新設した経営判断。めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すと同時に、鉄筋3階建・延べ2,188.86㎡の研究所を建設し、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を導入した。上村晃史社長の就任1年目の着工にあたる。

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★★★
上村晃史商号を上村工業に変更★
上村晃史東京工場を閉鎖★
上村晃史西独デグサ社と販売提携し金めっき浴を発売★★
上村晃史表面処理用機械の製造を枚方工場へ移し淀川工場を閉鎖★
上村晃史デグサ社と技術提携しアルミ真空蒸着加工技術を導入★★
上村晃史神奈川県相模原市に相模原事業所を設置★
上村晃史顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築

1985年のプラザ合意を境に自動車・家電の顧客が生産を海外へ移したのに対し、上村工業が国内にとどまらず顧客の移転先へ会社を設立し続けた経営判断。1985年12月の米国子会社を皮切りに、2012年のインドネシアまでに拠点は10か国へ広がった。

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★★★
上村晃史香港に合弁で上村旭光有限公司を設立★★
上村晃史台湾に合弁で台湾上村股份有限公司を設立★
上村晃史タイに合弁でサムハイテックス(現・ウエムラ・タイランド)を設立★
上村晃史中国深圳市に合弁で南山上村旭光有限公司を設立★
1989〜2026年ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える(1989〜2026)上村晃史東京支店を東京支社に昇格★
上村晃史独デメトロン社へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与★
上村晃史シンガポールにウエムラ・インターナショナル・シンガポールを設立★
上村晃史米国にウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを新設★
上村晃史旧淀川工場跡に上村ニッセイビルが竣工し不動産賃貸業を開始★
上村晃史岐阜県土岐市にユーテックを設立★
上村晃史マレーシアにウエムラ・マレーシアを設立★
上村寛也上村寛也氏が代表取締役社長に就任★★
上村寛也大阪証券取引所市場第二部に上場★
上村寛也相模原事業所を閉鎖★
上村寛也ユーテックの清算が結了★
上村寛也中国上海市に上村化学(上海)有限公司を設立★
上村寛也台湾に台湾上村科技股份有限公司を設立★
上村寛也中国深圳市龍崗区に上村工業(深圳)有限公司の新工場が竣工★
上村寛也東京支社を東京都台東区から中央区へ移転★
上村寛也大韓民国京畿道に韓国上村を設立★
上村寛也台湾上村股份有限公司が台湾上村科技股份有限公司を吸収合併★
上村寛也インドネシアにウエムラ・インドネシアを設立★
上村寛也枚方市に新中央研究所が竣工★
上村寛也取引所統合に伴い東京証券取引所市場第二部に上場★
上村寛也名古屋支店の新社屋が完成★
上村寛也市場再編に伴い東京証券取引所スタンダード市場へ移行★
上村寛也枚方市に新機械工場が竣工★
上村寛也子会社サミックスを吸収合併★
出典・参考 29件
出典・参考
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉

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