上村工業枚方への中央研究所の建設と、めっき用化学品製造部門の移転
売上33億円の会社に走査型電子顕微鏡は要るか——分不相応という批判を、上村晃史社長はなぜ押し切ったか
- 概要
- 1968年7月、上村工業が大阪府枚方市に枚方工場を竣工し、同じ敷地に中央研究所を設けた経営判断。めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すと同時に、鉄筋3階建・延べ2,188.86㎡の研究所を建て、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を導入した。上村晃史社長の就任1年目の着工にあたる。
- 背景
- 淀川工場が手狭になり周辺が大阪市の都市計画の対象となったため、上村工業は1961年6月に枚方の工場誘致用地17,420㎡を取得していた。1966年11月に6代上村長兵衞社長が、資本の自由化のもとでは絶対優位な価値ある製品を開発する以外に企業の存立は難しいと述べ、1967年5月に社長を継いだ上村晃史氏も就任のあいさつで自由化を空前の難局と呼んだ。
- 内容
- 1967年11月9日に地鎮祭を行い、大林組の施工で建設に入った。1968年6月に枚方工場と中央研究所がほぼ完成し、7月から製造を始めた。研摩剤工場と薬品工場は各1,219.48㎡、中央研究所は敷地789.62㎡・延べ2,188.86㎡の鉄筋3階建で、社史はこれを業界として世界で初めての研究所と記す。
- 含意
- 1968年11月期の売上高33億113万円に対して過大な投資であり、分不相応という批判を社内外から受けた。研究所からは1969年の西独バイエル社との無電解ニッケル技術提携、自社製品のニムデンとBELニッケル、1979年の複合めっきメタフロンが出た。1997年時点で社員330人の約3分の1が研究開発に携わった。
批判の合理と、誤算の所在
売上高33億円・純利益4,647万円の会社が、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を備えた延べ2,188㎡の建物を建てた。分不相応という批判が出たのは当然で、当時の数字だけを見れば批判した側が正しかった。上村晃史社長がそれを押し切れたのは、資本自由化という期限つきの外圧が、投資の可否を採算の問題から生存の問題へ置き換えたからだとみられる。上村長兵衞会長が受章の言葉で述べた認識を、社長就任の年に建物へ換えた判断だった。
ただ、投資が形になるまでの時間は長かった。1968年に着手した複合めっきメタフロンの完成は1979年7月で、11年を要した。社史が研究所の成果に数える1969年のバイエル社との提携も、実体は技術の導入であって自社開発ではない。批判した側の誤算は投資の額ではなく、めっきが薬品と機械と液管理装置を束ねて売る商売へ変わる速さを読めなかった点にある。基礎研究の装置を先に持ったことが、その変化に間に合う条件になっていた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
資本自由化を前にした社長交代
1966年11月3日、6代上村長兵衞社長は油脂性研摩剤の開発と産業界への貢献により勲三等瑞宝章を受けた。研究にたずさわって50余年という技術者の述懐は、しかし過去の回顧では終わらなかった。長兵衞社長は、資本の自由化を迎えて世界経済のなかで自己の事業を考えねばならなくなったとし、日本製品の国際競争力が問題となるなか、絶対優位な価値ある製品を開発する以外に企業の存立が困難な時代を迎えると述べた[1]。
7年寝かせた枚方の用地
枚方の土地は、研究所のために求めたものではなかった。淀川工場が手狭になったうえ、工場周辺が大阪市の都市計画の対象となったため、上村工業は移転先を探し、1961年6月に大阪府枚方市の工場誘致用地17,420.44㎡を取得した。枚方市のあっせんで地元から農地を買い、1962年10月に農地転用の許可を得て、1963年に造成を終えた。ところが淀川工場周辺の都市計画は当初の予定より遅れ、着工はしばらく見送られた[3]。
その7年のあいだに、会社の姿は変わった。売上高は1961年11月期の12億1,935万円から、1966年11月期には20億8,276万円へ伸びた。上村晃史氏が1953年11月に入社したときの第一印象は、番頭政治の体質が根強く残る古風な会社というものであり、近代経営へ体質を改めなければならないという使命感があった。1966年に定めた経営理念とウエムラスローガンは、その使命感が最初に形をとったものにあたる[4]。
決断
工場移転に研究所を重ねる
1967年11月9日、枚方工場用地の一画で地鎮祭が行われ、上村晃史社長が鍬入れの儀に立った。工事は大林組が請け負い、約8カ月後の1968年6月に枚方工場と中央研究所がほぼ完成した。7月からは枚方工場での製造が始まり、めっき用化学品の製造部門が淀川工場から移った。研摩剤工場は1,219.48㎡と旧淀川工場の約2倍にあたり、同じ面積の薬品工場は内部の広さが淀川時代の約5倍になった[5][6]。
ここまでの経緯だけを見れば、中央研究所は手狭になった工場の移転に付いてきた付属設備とも読める。用地の取得も建設の動機も、もとは工場の移転にあった。しかし建物は鉄筋3階建で、敷地789.62㎡に対し延べ2,188.86㎡と、平家の研摩剤工場・薬品工場のいずれをも床面積で上回った。備えたのは走査型電子顕微鏡とX線回折装置で、どちらもめっき薬品の日々の製造には要らない、基礎研究のための装置である[7]。
分不相応という批判
上村晃史社長は後年、当時としては分不相応なものを作ったと社内外からかなり批判を受けたと認め、のちには規模的につり合うに至ったと振り返った。批判の側にも根拠はあった。研究所が完成した1968年11月期の売上高は33億113万円、純利益は4,647万円にとどまる。総資本は前期の16億5,856万円から24億441万円へ1年で45%膨らんでおり、収益の裏づけを欠いたまま資産が先に増えた[8][9]。
押し切れたのは、資本自由化への危機感を会長と社長が分け持っていたからだとみられる。上村長兵衞会長は受章の言葉で、絶対優位な製品以外に企業の存立は難しいと述べた。上村晃史社長は就任のあいさつで、同じ自由化を空前の難局と呼んだ。二人の言葉は、外資が入ってくる市場では価格でも規模でも勝てないという同じ読みに立つ。上村晃史社長は研究所の役割を、基礎を正しくしっかりやっておけばあとはいくらでも応用が利く、と説明した[10]。
結果
導入した技術と、自社で作った製品
1969年、上村工業は西独バイエル社と無電解ニッケルめっきの技術提携を結んだ。ホウ素化合物を還元剤とするニボジュール法で、浴の安定性が高く、硬度が950〜1250Hvまで上がるため耐摩耗性を求める部品に向いた。上村工業はこの技術をもとに、次亜リン酸ソーダを還元剤とする無電解ニッケルめっき法ニムデンを完成させ、ホウ素化合物系を改良したBELニッケルも自社で開発した[11]。
提携に頼らない開発も研究所から出た。複合めっきメタフロンの着手は1968年で、京都大学の渡辺信淳教授が研究していたフッ化黒鉛をめっき液に分散させる構想を、初代中央研究所所長の黒崎重彦氏が持ち込んだ。フッ化黒鉛は水にぬれにくく、めっき金属に共析させる分散助剤の開発が難航した。完成は10年余りのちの1979年7月で、1980年4月には無電解ニッケルの自動液管理装置ニムコンも仕上げた[12]。
30年後の陣容
1997年11月に大阪証券取引所二部へ上場した翌月、上村寛也社長は大阪での講演で自社を典型的な技術開発型の企業と説明した。1968年に枚方市へ設けた中央研究所の所員は80名で、東京・大阪・名古屋の各拠点にも営業技術担当者を10名ほどずつ置いた。社員総数330人のうち約3分の1が、何らかの形で研究開発に携わっていた。上場の場で示した自社像の中心には、製品でも工場でもなく研究の陣容が据えられた[13]。
その陣容は、アルミ製ハードディスク基板用の無電解ニッケルめっき液という主力製品を生んだ。1996年度の国内市場40億円に対し上村工業の販売は33億円で、シェアは80%に達した。同じ分野には十数社が参入したが、上村寛也社長は勝ち残った理由を、めっき薬品と機械と液管理装置の3つを同業で唯一手がけていた点に求めた。顧客にトラブルが起きたとき原因が液か機械か装置か切り分けにくく、3種を扱う同社への要望が増えたという理由づけである[14]。
- 上村工業 135年のあゆみ(上村工業, 1983年)
- 証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」(上村寛也社長講演、1997年12月11日)
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】