日立化成 の歴史

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創業 1962年
創業者
創業地 東京都千代田区
創業
1962年10月、日立製作所の化学製品事業部を母体として日立化成工業が設立された。翌1963年4月に日立製作所の化学製品部門の営業資産を譲り受け、日立化工を吸収合併して営業を開始している。初代社長の藤久保三四郎は取扱商品の半分を毎年新製品へ入れ替えよと説き、医薬品・建設工事・住宅機器へ事業目的を広げた。その結果、1970年3月期には住宅機器が単体売上の25.1%を占め、本業の電気絶縁材料を上回る主力事業になっている。日立から切り出されて生まれながら、グループ他社への依存率を下げることを設立当初からの課題にした。
決断
不振が顕在化する前に、低収益事業の整理へ踏み切ってきた。1991年3月期に過去最高の3,147億円を売り上げながら、その決算をまとめる最中に経営企画部が翌期の赤字転落を報告し、これを受けて客観的な数値基準で低収益製品を選び、2年の期限を切って撤退した。売上高経常利益率は1992年3月期の1.1%から1998年3月期には4.7%へ戻り、証券アナリストからリストラの優等生と呼ばれた。同じ発想の延長で、2008年には独立初期を支えた住宅設備事業を独立系ファンドへ売却し、電子材料へ資源を集中させている。ただし切り出す側でいられたのはここまでで、次に売られる事業として日立が選んだのは日立化成そのものだった。
現況
日立化成という会社はもう存在せず、事業だけがレゾナックの中核として残っている。最終期となった2020年3月期の連結売上高は6,314億円、営業利益は231億円だった。内訳を見ると、半導体・配線板向けの機能材料が2,383億円の売上で307億円を稼ぐ一方、蓄電池や自動車部品を抱える先端部品・システムは3,931億円を売り上げて76億円の営業赤字である。稼ぐ事業と食う事業が同居したまま昭和電工のTOBで上場を廃止し、2023年1月に昭和電工と統合してレゾナックとなった。日立の一部門として生まれた材料メーカーは、化学再編の中核として引き継がれた。
競合
材料の技術では世界大手と対等に渡り合えたが、誰の傘下にいるかは自分で決められなかった。1997年、米デュポンは折半出資の合弁相手に日立化成を選び、それまで日本企業と結んだ14の合弁がいずれも国内限定だったのに対し、全世界の顧客を任せている。半導体の表面保護薬品で合弁会社は世界シェア15%を握り、開発期間が他メーカーの3分の2という速さが評価の理由だった。一方で株式の51.24%を握る日立製作所が親子上場を解体する方針の前に、独立経営を続ける余地は残らなかった。買収した昭和電工にとっては、市況商品への依存から脱する道がここで開けた。
日立化成:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2014年3月期2020年3月期
日立化成における経営の転換点(その1) Q なぜ1962年に日立製作所から分かれた日立化成は、日立向けに閉じず外部産業への材料メーカーとして自立できたのか
A 分離独立にあたり初代社長の藤久保三四郎氏が「取扱商品のうち、毎年半分は新製品に入れ替えろ」と訴え、化学品の合成技術を応用できる医薬品や住宅機器へ手を広げて日立グループ他社への依存率を下げたためである。1962年10月に日立化成工業が設立され、翌1963年4月に日立製作所の化学製品部門の営業資産を譲り受けて営業を開始した。1967年に医薬品と建設工事を、1968年に住宅機器を事業目的へ加え、1970年3月期には住宅機器が単体売上の25.1%を占めて電気絶縁材料の17.5%を上回る稼ぎ頭になっている。1970年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部へ、翌1971年8月に第一部へ上場し、日立ブランドを享受しつつ外販を主軸とする自立した材料メーカーとして体格を整えた。
日立化成における経営の転換点(その2) Q なぜ日立化成は1990年代前半に「リストラの優等生」と呼ばれる体質改善へ他社より早く踏み込めたのか
A 業績がまだ良いうちに次の危機を先取りしたからである。1991年3月期に過去最高の3147億円を売り上げ順風満帆に見えた決算をまとめる最中、経営企画部が「このままでは、来期は赤字に転落する」との報告書を役員へ届けた。1991年6月に社長へ就いた丹野毅氏は2年を期限に据え、過去3年の売上高伸び率が平均10%以下かつ損益率3%以下という数値基準で低収益製品を選別し、事業への思い入れではなく採算で判断できるよう、問題を指摘する部隊と実行する部隊を分けた。その後の1年で撤退・譲渡した不採算製品は14品目、約97億円の減収要因となったが、売上高経常利益率は1992年3月期の1.1%から1998年3月期に4.7%へ高まり、証券アナリストから「リストラクチャリングの優等生」と呼ばれた
日立化成における経営の転換点(その3) Q なぜ2020年に日立化成は昭和電工に買収され、58年続いた社名が消えたのか
A 資本の過半を握る親会社の方針に、上場子会社が抗しきれなかったからである。日立製作所は日立化成株式の51.24%を保有する親会社であり、2020年前後に上場子会社を相次いで売却して60年続いた親子上場の構造を解体していった。昭和電工は2019年12月18日、総額9,641億円のTOBで日立化成を完全子会社化すると発表し、2020年6月19日に日立化成は東証1部の上場を廃止した。同年10月に昭和電工マテリアルズへ商号を変更し、2023年1月には昭和電工と統合してレゾナックが発足したことで、1962年から続いた日立化成の名は消えた。

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日立化成の沿革1962〜2020年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1962〜1985年日立製作所の化学部門から分離独立した材料メーカーの出発日立化成工業を設立★★
日立製作所の化学製品部門の営業資産を譲受★★
営業を開始
松戸工場の粉末冶金部門を分離独立させ、日立粉末冶金を設立
東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
新神戸電機の株式の過半数を取得★★
茨城研究所、下館研究所を新設
五井工場を新設
事業目的に「環境設備機器の製造・販売」を追加
下館第二工場を新設
事業目的に「電子材料・電子部品の製造・販売」を追加★★
下館第二工場を五所宮工場に名称変更
1986〜2007年電子材料への主力転換とリストラ優等生としての体質改善南結城工場、筑波開発研究所を新設
日立粉末冶金が東京証券取引所市場第二部に上場
好況期に着手した低収益製品の選別と不採算製品からの撤退

1991年6月に社長へ就任した丹野毅氏は、産業界にまだバブル景気の余熱が残るなかで低収益製品の見直しに着手した。過去3年間の売上高伸び率が平均10%以下で、かつ損益率が3%以下という数値基準を設け、該当する製品をすべて見直しの対象に据えた。1992年から1993年にかけて延べ42品目を選び出し、うち14品目の生産打ち切りや関連会社への譲渡に踏み切った。

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桜川工場を山崎工場に、南結城工場を下館工場に、五所宮工場を結城工場に統合
日立粉末冶金が東京証券取引所市場第一部に上場
事業部、工場・営業部門を工業材料事業本部・住機環境事業本部の二事業本部に再編
総合研究所を発足
日立エーアイシーを完全子会社化
住宅機器・環境設備部門を会社分割により完全子会社の日立ハウステックとして分社★★
長瀬寧次委員会等設置会社に移行
長瀬寧次日立ハウステック株式のニューホライズンキャピタルへの譲渡と住宅設備事業からの撤退

2007年12月21日、日立化成工業は完全子会社の日立ハウステック発行済株式の約93%を、ニューホライズンキャピタルが運営する投資事業組合の出資するNH合同会社へ譲渡する契約を結び、2008年1月15日に実施した。独立初期を支えた住宅機器・環境設備事業をグループから切り離し、電子材料と機能性材料へ経営資源を集める判断であった。

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2008〜2015年住宅事業の切り離しと世界シェアトップ材料への集中長瀬寧次日立粉末冶金を完全子会社化
田中一行日東電工より半導体用封止材事業を譲受
田中一行日立化成に商号変更
2016〜2020年検査不正と親会社の脱製造業改革、昭和電工による幕引き丸山寿蓄電池メーカーのFIAMM Energy Technology S.p.A.を子会社化
丸山寿協和メデックスを子会社化
丸山寿昭和電工による9,640億円のTOBでの完全子会社化と東証1部上場廃止

2019年12月18日、昭和電工が、日立製作所が約51%を握る上場子会社・日立化成を、1株4,630円・総額最大9,640億円のTOBで完全子会社化すると発表した。日立が進めた上場子会社再編の一環で、日立化成は日立グループ『御三家』の一角から化学専業の傘下へ移り、2020年6月に東証1部の上場を廃止した。日本の化学業界で過去最大のM&Aとなった。

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丸山寿昭和電工の子会社に★★
出典・参考
  • 有価証券報告書【沿革】

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