1920年に中野友禮氏が発明した中野式隔膜電解法を製法に据えて設立された会社が起源。
終戦直後に国内で初めてDDTの大量生産を始め、1969年には殺菌剤「トップジン」と医薬品添加剤「NISSO HPC」の製造を始めた。祖業のソーダに加え、農薬と機能材料を主な収益源とする化学メーカーである。
日本曹達は1920年2月に資本金75万円で設立され、新潟県中頸城郡の信越線の二本木駅の前に工場を建てた。製法は専務の中野友禮氏が発明した中野式隔膜電解法で、同年6月から苛性ソーダと晒粉の生産に入った。中野友禮氏は1917年2月に静岡県江尻で同名の会社を興したものの、第一次世界大戦の休戦で銀行の融資が止まり、工場を閉じた。江尻の事業が順調だった時期には、二本木の日本電気亜鉛の経営も任され、塩素酸ソーダの製造で1年のうちに8分配当の会社へ立て直した。新潟の中央電気から1キロワット6厘の電力の提供を持ちかけられたことで、ソーダ会社の再建に踏み切った。先輩の鈴木寅彦氏が出資者を募り、鈴木寅彦氏を社長に、中野友禮氏を専務に置く体制で発足した。
電解でソーダを造ると塩素と水素が同時に出るうえ、塩素を吸収させる晒粉と合成塩酸は日本の高温多湿の夏に造りにくかった。1926年4月には二本木工場の隣で金属ナトリウムと過酸化ソーダを造っていた資本金100万円の日本電炉工業を合併した。日本曹達は水素を1926年から硬化油の原料に向け、塩素は1928年5月から液体塩素として売り出した。1931年の満州事変の後は軍の求めに応じて煙幕用の四塩化炭素を試作し、1932年2月に納入した。1931年にはエチレングリコールの研究と工場建設を命じ、1932年9月に国内初の工場を完成させた。副生する塩素の処理を製品開発に変えたことが、無機から有機化学へ進む足場になったとみられる。
日本曹達は1934年に富山県高岡市へ高岡工場を設け、ソーダの外に金属へ広げる拠点を持った。中野友禮氏は1932年ごろから非鉄金属全般の製造を構想し、1934年にはアルミニウムの製造研究を命じていた。高岡電灯の支配人兼営業部長の西泰蔵氏から余った電力を安く使える見込みを得て、小矢部川沿いの向野に約2万坪の用地を得た。建設資金は資材を含めて340万円で、同じ1934年5月には株式を公開して資本金を1000万円に増資していた。中古の機械を使うことの多かった従来と異なり、新品の機械で建てた工場は同年9月に水銀法の苛性ソーダと薬品で動き出した。1937年5月にはアルミニウムの製品を出し、1938年ごろからはアルミニウムを主体とする海軍指定工場となった。
日本曹達は1936年11月に資本金を1000万円から2500万円へ増資し、同時に中野友禮氏が2代目の社長に就任した。1935年12月の埼玉工場、1936年5月の富山県の岩瀬工場と工場の新設が続き、1000万円の資本では拡張の資金を賄えなくなっていた。増資を阻んだのは社長の鈴木寅彦氏の立場で、鈴木寅彦氏は東京瓦斯の社長を兼ね、衆議院に議席を持つ憲政会の有力者だった。政界の有力者を社長に置く会社として金融界から敬遠され、増資の見通しは立たなかった。中野友禮氏の友人の菅原通済氏は大阪の金融業者に新株の多くを引き受けさせ、鈴木寅彦氏に社長の退任を強く求めた。鈴木寅彦氏は1936年4月7日に辞任し、初代社長の後を中野友禮氏が継いだ。
社長に就任した中野友禮氏は1936年12月、海軍の要請を受けて航空燃料の添加剤である四エチル鉛の研究を二本木工場で始めた。原料と電力の自給を求めて、亜鉛鉱の葡萄鉱山と精錬用の炭鉱を傘下に置き、それらを統括する日曹鉱業を設けた。矢代川の水力7900キロワットに火力3600キロワットを加え、豊水期の余剰電力で合金鉄を造り、米子製鋼所と大島製鋼所も傘下に収めた。1937年ごろには資本金8000万円の日本曹達の下に直系会社15社を含む関係会社54社が並び、公称資本金の総額は4億3000万円に達した。中野友禮氏は、自身の企業群を一つの事業から自然に膨らんだものと説明した。副生物と原料を順にたどる経営の連鎖が、40余の傍系会社を抱える日曹コンツェルンを生んだのだろう。
日本曹達は1940年10月に資本金1億8000万円へ達した一方、同じ年に経営が行き詰まり、年末に中野友禮氏が社長を辞任した。資本金は1926年の日本電炉工業の合併以降、5回の増資と3回の傍系会社の合併で積み上げたものだった。1940年には陸海軍の指定で、二本木工場が航空機燃料の添加剤、高岡工場が高純度アルミニウムの生産に力を注いだ。1936年以降の数年で工場と傍系会社を急激に増やしたことが、行き詰まりの原因とされた。1968年刊行の企業の歴史も、1940年に積極主義が破綻し、その後は戦線を縮小して終戦を迎えたと記した。軍需に応える設備と傍系の取得を増資で賄い続けた資金の構造が、膨張の速さに耐えられなかったと推察される。
1941年2月に社長に就任した大和田悌二氏は、中野友禮氏が広げた傍系会社の多くを外し、日曹鉱業と九州曹達の2社だけを本体に合併した。この企業の大整備により、合併後の資本金は1億9400万円となった。本体に取り込んだ九州曹達は、1935年5月に設立した傍系のソーダ会社だった。もう1社の日曹鉱業は、亜鉛鉱を得る葡萄鉱山と精錬用の炭鉱を統括するために設けた系列会社だった。大和田悌二氏は日本曹達の3代目の社長で、戦後に6代目の社長も務めた。大和田悌二氏はソーダと鉱山という本業に近い2社だけを本体に残し、40余社に散らばった資本と管理を本体へ締め直したと考えられる。
空襲の被害は軽かったものの、1946年8月には二本木・高岡両工場の重要設備の一部が対日中間賠償計画の指定を受けた。日本曹達は一時存続を危ぶまれ、その後の計画の段階的な緩和でこの懸念は消えた。1948年の過度経済力集中排除法の指定が解除された後も、日本曹達は自らの方針で製鋼と石炭の部門、化学工場の一部を第二会社3社へ分離した。1949年12月の分離の後、本体は資本金5億8000万円で、東京、会津、高岡、二本木の4工場と亜鉛・鉛の2鉱業所で再出発した。終戦後は食糧増産に向けた農業薬品に力を入れ、国内で初めてDDTの大量生産を始めた。賠償と集中排除の圧力が、金属と製鋼を外してソーダと農薬を軸に出直す再編を促したと思われる。
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事実根拠:出所(日本曹達)