日本曹達 の歴史

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沿革

1920〜2023年 1920年に中野友禮氏が発明した中野式隔膜電解法を製法に据えて設立された会社が起源。終戦直後に国内で初めてDDTの大量生産を始め、1969年には殺菌剤「トップジン」と医薬品添加剤「NISSO HPC」の製造を始めた。祖業のソーダに加え、農薬と機能材料を主な収益源とする化学メーカーである。

沿革

1920年に中野友禮氏が発明した中野式隔膜電解法を製法に据えて設立された会社が起源。

終戦直後に国内で初めてDDTの大量生産を始め、1969年には殺菌剤「トップジン」と医薬品添加剤「NISSO HPC」の製造を始めた。祖業のソーダに加え、農薬と機能材料を主な収益源とする化学メーカーである。

1920年〜創業期中野友禮の日本曹達設立と二本木工場の操業

  1. カセイソーダと晒粉の製造を目的に中野友禮が日本曹達を設立
  2. 二本木工場(新潟県上越市)の操業を開始
  3. 高岡工場(富山県高岡市)の操業を開始
  4. 商事部門を分離して日曹商事を設立
日本曹達売上高

1949年〜安定成長期東証上場と大磯の生物研究所の開設

  1. 東京証券取引所に株式を上場
  2. 農薬研究の拠点として生物研究所(神奈川県大磯町)を開設
日本曹達売上高1968年3月期151億円

1969年〜転換期トップジンとNISSO HPCによる農薬・ファインケミカルへの転換

  1. 殺菌剤「トップジン」と医薬品添加剤「NISSO HPC」の製造を開始
  2. 合成樹脂加工部門として日曹化成を設立
  3. 水島製造所(岡山県倉敷市)の操業を開始
  4. 樹脂添加剤「NISSO-PB」の製造を開始
  5. ファインケミカル研究所(神奈川県小田原市)を開設
  6. プラント建設部門として日曹エンジニアリングを設立
  7. 機能製品研究所(千葉県市原市)を開設
  8. 生物研究所とファインケミカル研究所を統合して小田原研究所を開設
  9. 殺ダニ剤「ニッソラン」の製造を開始
  10. 殺菌剤「トリフミン」の製造を開始
  11. 新日曹化工を合併し東京工場として統合
  12. 飼料添加剤メチオニンの合弁会社 Novus International の設立に参画
  13. 東京工場を閉鎖
  14. 殺虫剤「モスピラン」の製造を開始
  15. 半導体フォトレジスト材料「VPポリマー」の製造を開始
  16. 抗菌薬原薬ファロペネムナトリウムの製造を開始
日本曹達売上高1985年3月期882億円

1999年〜転換期日曹油化工業の譲渡と大日本インキ・ゾエティスからの農薬事業取得

  1. 日曹化成を合併し千葉工場(千葉県市原市)として統合
  2. 石油化学部門の日曹油化工業の全株式を丸善石油化学に譲渡
  3. ブラジルの農薬会社 IHARABRAS S/A. INDUSTRIAS QUIMICAS の株式を追加取得
  4. 大日本インキ化学工業からアグリケミカル事業を譲受け農業化学品部門で営業を開始
  5. フランスの Alkaline S.A.S. の全株式を取得
  6. 欧州の農薬販売会社 Certis Europe B.V. の株式を追加取得
  7. ゾエティス・ジャパンからプラントヘルス事業を譲受け農業化学品部門で営業を開始
  8. 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行
  9. Alkaline S.A.S. の全株式を International Chemical Investors XVI S.A. に譲渡
日本曹達売上高2026年3月期1,521億円
長期業績の推移 1950〜2026年

業績

日本曹達:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2026年3月期

第1章 1920年〜 中野友禮の日本曹達設立と二本木工場の操業

1920年〜二本木で中野式電解から興した資本金75万円のソーダ会社と、余る塩素の使い道

日本曹達は1920年2月に資本金75万円で設立され、新潟県中頸城郡の信越線の二本木駅の前に工場を建てた。製法は専務の中野友禮氏が発明した中野式隔膜電解法で、同年6月から苛性ソーダと晒粉の生産に入った。中野友禮氏は1917年2月に静岡県江尻で同名の会社を興したものの、第一次世界大戦の休戦で銀行の融資が止まり、工場を閉じた。江尻の事業が順調だった時期には、二本木の日本電気亜鉛の経営も任され、塩素酸ソーダの製造で1年のうちに8分配当の会社へ立て直した。新潟の中央電気から1キロワット6厘の電力の提供を持ちかけられたことで、ソーダ会社の再建に踏み切った。先輩の鈴木寅彦氏が出資者を募り、鈴木寅彦氏を社長に、中野友禮氏を専務に置く体制で発足した。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [1]1920年2月、資本金75万円で設立。二本木駅前の工場で専務中野友礼の中野式隔膜電解法により同年6月から苛性ソーダ・晒粉を製造。初代社長は鈴木寅彦
    • [2]1920年2月、資本金75万円で設立。二本木駅前の工場で専務中野友礼の中野式隔膜電解法により同年6月から苛性ソーダ・晒粉を製造。初代社長は鈴木寅彦
    • [6]初代社長は鈴木寅彦、中野友礼は当時専務
  • 中野友礼伝(1967)「悲運の第一次日本曹達」
    • [3]1917年2月に静岡県江尻で第一次日本曹達を設立。欧州大戦の休戦で銀行融資が止まり製品も売れず工場閉鎖、富士水電に譲渡
  • 中野友礼伝(1967)「日本曹達ついに成立」
    • [4]日本電気亜鉛の経営を任され塩素酸曹達で1年で8分配当へ。中央電気から1kW6厘の電力提示を受け再建を決意、鈴木寅彦の呼びかけで出資者が揃い1920年2月に資本金75万円で成立
    • [5]日本電気亜鉛の経営を任され塩素酸曹達で1年で8分配当へ。中央電気から1kW6厘の電力提示を受け再建を決意、鈴木寅彦の呼びかけで出資者が揃い1920年2月に資本金75万円で成立

電解でソーダを造ると塩素と水素が同時に出るうえ、塩素を吸収させる晒粉と合成塩酸は日本の高温多湿の夏に造りにくかった。1926年4月には二本木工場の隣で金属ナトリウムと過酸化ソーダを造っていた資本金100万円の日本電炉工業を合併した。日本曹達は水素を1926年から硬化油の原料に向け、塩素は1928年5月から液体塩素として売り出した。1931年の満州事変の後は軍の求めに応じて煙幕用の四塩化炭素を試作し、1932年2月に納入した。1931年にはエチレングリコールの研究と工場建設を命じ、1932年9月に国内初の工場を完成させた。副生する塩素の処理を製品開発に変えたことが、無機から有機化学へ進む足場になったとみられる。

  • 中野友礼伝(1967)「塩素、水素利用工業への進出」
    • [7]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [9]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [10]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [11]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [8]1926年4月、二本木工場に隣接し金属ナトリウム・過酸化ソーダを製造する日本電炉工業(資本金100万円)を合併。大戦後の不況で電解ソーダ業界が半ば倒壊する中を切り抜けた
参考文献[1]-[11]
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [1]1920年2月、資本金75万円で設立。二本木駅前の工場で専務中野友礼の中野式隔膜電解法により同年6月から苛性ソーダ・晒粉を製造。初代社長は鈴木寅彦
    • [2]1920年2月、資本金75万円で設立。二本木駅前の工場で専務中野友礼の中野式隔膜電解法により同年6月から苛性ソーダ・晒粉を製造。初代社長は鈴木寅彦
    • [6]初代社長は鈴木寅彦、中野友礼は当時専務
    • [8]1926年4月、二本木工場に隣接し金属ナトリウム・過酸化ソーダを製造する日本電炉工業(資本金100万円)を合併。大戦後の不況で電解ソーダ業界が半ば倒壊する中を切り抜けた
  • 中野友礼伝(1967)「悲運の第一次日本曹達」
    • [3]1917年2月に静岡県江尻で第一次日本曹達を設立。欧州大戦の休戦で銀行融資が止まり製品も売れず工場閉鎖、富士水電に譲渡
  • 中野友礼伝(1967)「日本曹達ついに成立」
    • [4]日本電気亜鉛の経営を任され塩素酸曹達で1年で8分配当へ。中央電気から1kW6厘の電力提示を受け再建を決意、鈴木寅彦の呼びかけで出資者が揃い1920年2月に資本金75万円で成立
    • [5]日本電気亜鉛の経営を任され塩素酸曹達で1年で8分配当へ。中央電気から1kW6厘の電力提示を受け再建を決意、鈴木寅彦の呼びかけで出資者が揃い1920年2月に資本金75万円で成立
  • 中野友礼伝(1967)「塩素、水素利用工業への進出」
    • [7]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [9]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [10]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)
    • [11]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。晒粉・合成塩酸は夏季の製造が難しく塩素処理が悩み。1926年硬化油、1928年5月液体塩素、満州事変後に軍要請で四塩化炭素を1932年2月納入、1931年エチレングリコール着手・1932年9月工場完成(国内初)

1932年〜高岡工場と2500万円の増資で社長に立った中野友禮氏と、40余社の日曹コンツェルン

日本曹達は1934年に富山県高岡市へ高岡工場を設け、ソーダの外に金属へ広げる拠点を持った。中野友禮氏は1932年ごろから非鉄金属全般の製造を構想し、1934年にはアルミニウムの製造研究を命じていた。高岡電灯の支配人兼営業部長の西泰蔵氏から余った電力を安く使える見込みを得て、小矢部川沿いの向野に約2万坪の用地を得た。建設資金は資材を含めて340万円で、同じ1934年5月には株式を公開して資本金を1000万円に増資していた。中古の機械を使うことの多かった従来と異なり、新品の機械で建てた工場は同年9月に水銀法の苛性ソーダと薬品で動き出した。1937年5月にはアルミニウムの製品を出し、1938年ごろからはアルミニウムを主体とする海軍指定工場となった。

  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
    • [12]1934年、富山県高岡市に高岡工場を設置
  • 中野友礼伝(1967)「アルミニュームへの関心と意欲」
    • [13]1932年ごろから非鉄金属全般の製造計画を構想。1934年に戸田忠良にアルミニウムの製造研究を命じる
  • 中野友礼伝(1967)「高岡工場の新設成る」
    • [14]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [15]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [16]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [17]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場

日本曹達は1936年11月に資本金を1000万円から2500万円へ増資し、同時に中野友禮氏が2代目の社長に就任した。1935年12月の埼玉工場、1936年5月の富山県の岩瀬工場と工場の新設が続き、1000万円の資本では拡張の資金を賄えなくなっていた。増資を阻んだのは社長の鈴木寅彦氏の立場で、鈴木寅彦氏は東京瓦斯の社長を兼ね、衆議院に議席を持つ憲政会の有力者だった。政界の有力者を社長に置く会社として金融界から敬遠され、増資の見通しは立たなかった。中野友禮氏の友人の菅原通済氏は大阪の金融業者に新株の多くを引き受けさせ、鈴木寅彦氏に社長の退任を強く求めた。鈴木寅彦氏は1936年4月7日に辞任し、初代社長の後を中野友禮氏が継いだ。

  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
    • [18]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [19]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [20]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [21]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [22]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [23]1936年に中野が初代社長鈴木寅彦の後を継いで社長に就任

社長に就任した中野友禮氏は1936年12月、海軍の要請を受けて航空燃料の添加剤である四エチル鉛の研究を二本木工場で始めた。原料と電力の自給を求めて、亜鉛鉱の葡萄鉱山と精錬用の炭鉱を傘下に置き、それらを統括する日曹鉱業を設けた。矢代川の水力7900キロワットに火力3600キロワットを加え、豊水期の余剰電力で合金鉄を造り、米子製鋼所と大島製鋼所も傘下に収めた。1937年ごろには資本金8000万円の日本曹達の下に直系会社15社を含む関係会社54社が並び、公称資本金の総額は4億3000万円に達した。中野友禮氏は、自身の企業群を一つの事業から自然に膨らんだものと説明した。副生物と原料を順にたどる経営の連鎖が、40余の傍系会社を抱える日曹コンツェルンを生んだのだろう。

  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
    • [24]1936年12月、海軍燃料廠の要請で二本木工場がラビトン(四エチル鉛)の研究に着手
  • 中野友礼伝(1967)「日曹コンツェルンの成立」
    • [25]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
    • [26]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
    • [28]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
  • 会社銀行八十年史(1955)「戦時経済への移行期の会社」
    • [27]1937年ごろ資本金8000万円(払込4163万円)の日本曹達の下に直系15社・関係会社54社、公称資本金総額4億3000万円
参考文献[12]-[28]
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
    • [12]1934年、富山県高岡市に高岡工場を設置
  • 中野友礼伝(1967)「アルミニュームへの関心と意欲」
    • [13]1932年ごろから非鉄金属全般の製造計画を構想。1934年に戸田忠良にアルミニウムの製造研究を命じる
  • 中野友礼伝(1967)「高岡工場の新設成る」
    • [14]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [15]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [16]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
    • [17]高岡電灯の西泰蔵の協力で向野に約2万坪を取得。建設資金340万円。1934年5月株式公開・資本金1000万円に増資。1934年9月水銀法苛性曹達で操業、1937年5月アルミ製品、1938年ごろからアルミ主体の海軍指定工場
  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
    • [18]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [19]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [20]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [21]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [22]資本金1000万円では拡大に追いつかず増資が必要。社長鈴木寅彦は東京瓦斯社長・衆議院議員・憲政会の実力者で金融界に敬遠された。菅原通済が大阪の金融業竹中に株を持たせ鈴木に退陣を求め、1936年4月7日鈴木辞任、11月に資本金2500万円へ増資し中野友禮が社長就任
    • [24]1936年12月、海軍燃料廠の要請で二本木工場がラビトン(四エチル鉛)の研究に着手
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [23]1936年に中野が初代社長鈴木寅彦の後を継いで社長に就任
  • 中野友礼伝(1967)「日曹コンツェルンの成立」
    • [25]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
    • [26]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
    • [28]亜鉛鉱確保のため葡萄鉱山、精錬用に炭礦、統括に日曹鉱業。矢代川水力7900kW+火力3600kW、豊水期の余剰電力で合金鉄、米子製鋼所・大島製鋼所を傘下に。中野は自然発生的な膨張と説明
  • 会社銀行八十年史(1955)「戦時経済への移行期の会社」
    • [27]1937年ごろ資本金8000万円(払込4163万円)の日本曹達の下に直系15社・関係会社54社、公称資本金総額4億3000万円

1940年〜大和田悌二氏が傍系を切り離した1億9400万円の再編と、賠償指定を受けた二本木・高岡

日本曹達は1940年10月に資本金1億8000万円へ達した一方、同じ年に経営が行き詰まり、年末に中野友禮氏が社長を辞任した。資本金は1926年の日本電炉工業の合併以降、5回の増資と3回の傍系会社の合併で積み上げたものだった。1940年には陸海軍の指定で、二本木工場が航空機燃料の添加剤、高岡工場が高純度アルミニウムの生産に力を注いだ。1936年以降の数年で工場と傍系会社を急激に増やしたことが、行き詰まりの原因とされた。1968年刊行の企業の歴史も、1940年に積極主義が破綻し、その後は戦線を縮小して終戦を迎えたと記した。軍需に応える設備と傍系の取得を増資で賄い続けた資金の構造が、膨張の速さに耐えられなかったと推察される。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [29]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [30]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [31]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [32]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
    • [33]1940年に積極主義が破綻し戦線を縮小、終戦を迎えた

1941年2月に社長に就任した大和田悌二氏は、中野友禮氏が広げた傍系会社の多くを外し、日曹鉱業と九州曹達の2社だけを本体に合併した。この企業の大整備により、合併後の資本金は1億9400万円となった。本体に取り込んだ九州曹達は、1935年5月に設立した傍系のソーダ会社だった。もう1社の日曹鉱業は、亜鉛鉱を得る葡萄鉱山と精錬用の炭鉱を統括するために設けた系列会社だった。大和田悌二氏は日本曹達の3代目の社長で、戦後に6代目の社長も務めた。大和田悌二氏はソーダと鉱山という本業に近い2社だけを本体に残し、40余社に散らばった資本と管理を本体へ締め直したと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [34]1941年2月大和田悌二が社長に就任し企業の大整備に着手、傍系会社の大部分を切り離し九州曹達と日曹鉱業を合併、資本金1億9400万円
    • [35]1941年2月大和田悌二が社長に就任し企業の大整備に着手、傍系会社の大部分を切り離し九州曹達と日曹鉱業を合併、資本金1億9400万円
  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
    • [36]1935年5月に傍系の九州曹達株式会社を設立
  • 中野友礼伝(1967)「日曹コンツェルンの成立」
    • [37]葡萄鉱山と炭礦を統括する系列会社として日曹鉱業が生まれた
  • 日本曹達70年史(1992)「初代社長鈴木寅彦」
    • [38]歴代社長:初代鈴木寅彦、2代中野友禮、3代・6代大和田悌二

空襲の被害は軽かったものの、1946年8月には二本木・高岡両工場の重要設備の一部が対日中間賠償計画の指定を受けた。日本曹達は一時存続を危ぶまれ、その後の計画の段階的な緩和でこの懸念は消えた。1948年の過度経済力集中排除法の指定が解除された後も、日本曹達は自らの方針で製鋼と石炭の部門、化学工場の一部を第二会社3社へ分離した。1949年12月の分離の後、本体は資本金5億8000万円で、東京、会津、高岡、二本木の4工場と亜鉛・鉛の2鉱業所で再出発した。終戦後は食糧増産に向けた農業薬品に力を入れ、国内で初めてDDTの大量生産を始めた。賠償と集中排除の圧力が、金属と製鋼を外してソーダと農薬を軸に出直す再編を促したと思われる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [39]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [40]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [41]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [43]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
    • [42]1949年、集中排除法により資本金5億8000万円で新発足、4工場と2鉱業所で再出発
参考文献[29]-[43]
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
    • [29]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [30]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [31]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [32]1940年10月資本金1億8000万円(1926年以降5回の増資と3回の傍系合併)。1940年に陸海軍指定で二本木は航空機用燃料添加剤、高岡は高純度アルミ。膨脹が急激すぎ1940年に行詰り、年末に中野辞任
    • [34]1941年2月大和田悌二が社長に就任し企業の大整備に着手、傍系会社の大部分を切り離し九州曹達と日曹鉱業を合併、資本金1億9400万円
    • [35]1941年2月大和田悌二が社長に就任し企業の大整備に着手、傍系会社の大部分を切り離し九州曹達と日曹鉱業を合併、資本金1億9400万円
    • [39]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [40]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [41]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
    • [43]空襲被害は軽微。1946年8月二本木・高岡の一部重要設備が対日中間賠償計画の指定、後に緩和。1948年集中排除法指定・後に解除、1949年12月に自発的に化学工場の一部・石炭部門・製鋼工場全部を分離し第二会社3社。終戦後に食糧政策の一端として国内初のDDT大量生産
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
    • [33]1940年に積極主義が破綻し戦線を縮小、終戦を迎えた
    • [42]1949年、集中排除法により資本金5億8000万円で新発足、4工場と2鉱業所で再出発
  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
    • [36]1935年5月に傍系の九州曹達株式会社を設立
  • 中野友礼伝(1967)「日曹コンツェルンの成立」
    • [37]葡萄鉱山と炭礦を統括する系列会社として日曹鉱業が生まれた
  • 日本曹達70年史(1992)「初代社長鈴木寅彦」
    • [38]歴代社長:初代鈴木寅彦、2代中野友禮、3代・6代大和田悌二

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出典・参考 11件
出典・参考
  • 日本曹達70年史(1992)「初代社長鈴木寅彦」
  • 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
  • 会社銀行八十年史(1955)「戦時経済への移行期の会社」
  • 企業の歴史(明治百年・1968)「日本曹達」
  • 中野友礼伝(1967)「悲運の第一次日本曹達」
  • 中野友礼伝(1967)「日本曹達ついに成立」
  • 中野友礼伝(1967)「塩素、水素利用工業への進出」
  • 中野友礼伝(1967)「アルミニュームへの関心と意欲」
  • 中野友礼伝(1967)「高岡工場の新設成る」
  • 中野友礼伝(1967)「日曹の社長となる」
  • 中野友礼伝(1967)「日曹コンツェルンの成立」

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