中野友禮
経歴1908〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1908年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 程ヶ谷曹達工場(のちの保土谷曹達) | 1915 | — | ||
| 1917 | 退任 | ||||
| 日本電炉工業(旧日本電気亜鉛) | 1918 | 経営参加 | |||
| 日本曹達 | 1920 | 創業 | |||
| 1936 | — | ||||
| 1940 | 退任 | ||||
| 研究 | 京都帝国大学理学部化学教室 | 1908 | 入所 | ||
| 1913 | 発明 |
創業ストーリー
創業ストーリー
中野友禮氏は1887年2月1日、福島県大沼郡川西村西方の神尾家の次男に生まれ、3歳で母の実家の中野家に養子として入った。会津中学校を出たのち家庭の事情で大学への進学をあきらめ、第一高等学校の中に置かれた臨時中等教員養成所に進んだ。1908年の卒業の際、所長を兼ねた新渡戸稲造氏から大日本製糖専務の磯村音介氏を紹介され、その学資で京都帝国大学理学部の化学教室に入った。電解法ソーダの研究者である吉川龜次郎教授の下で研究に打ち込み、1913年に中野式食塩電解法を完成させて特許を得た。
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)コラム「中野友禮の生い立ち」
- [1]中野友禮は明治20年(1887)2月1日福島県大沼郡川西村西方(現三島町西方)の神尾家の次男として生まれた。3歳の時母ウノの実家中野家に養子として迎えられた。旧制会津中学校を卒業したが、39年に実父の死などもあり家庭の事情で大学への進学を断念し、一高の中にあった臨時中等教員養成所に進んだ
- [2]中野友禮は明治20年(1887)2月1日福島県大沼郡川西村西方(現三島町西方)の神尾家の次男として生まれた。3歳の時母ウノの実家中野家に養子として迎えられた。旧制会津中学校を卒業したが、39年に実父の死などもあり家庭の事情で大学への進学を断念し、一高の中にあった臨時中等教員養成所に進んだ
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「創立までの経緯」・コラム「中野友禮の生い立ち」
- [3]明治41年(1908)の卒業と同時に、新渡戸稲造(一高校長で養成所の所長を兼任)の紹介により磯村音介(大日本製糖専務取締役)から学資の提供を受けて京都帝国大学理学部の化学研究室に入った。吉川龜次郎教授の指導のもとに電解法ソーダの研究に没頭し、大正2年に中野式食塩電解法を完成して特許を得た。退官する吉川教授とともに研究室を去り、磯村の誘いで上京、磯村の経営するKY舎(ガス灯カバーの製造会社)の工場敷地の一隅に研究室を設けて電解法の工業化研究を開始した。磯村は大正4年3月に程ヶ谷曹達工場を設立し、中野は技術出資の形で参加し技師長に就任した。同年9月にソーダ工場が完成し、日本における電解法カセイソーダ工業の企業化第1号であった
- [4]明治41年(1908)の卒業と同時に、新渡戸稲造(一高校長で養成所の所長を兼任)の紹介により磯村音介(大日本製糖専務取締役)から学資の提供を受けて京都帝国大学理学部の化学研究室に入った。吉川龜次郎教授の指導のもとに電解法ソーダの研究に没頭し、大正2年に中野式食塩電解法を完成して特許を得た。退官する吉川教授とともに研究室を去り、磯村の誘いで上京、磯村の経営するKY舎(ガス灯カバーの製造会社)の工場敷地の一隅に研究室を設けて電解法の工業化研究を開始した。磯村は大正4年3月に程ヶ谷曹達工場を設立し、中野は技術出資の形で参加し技師長に就任した。同年9月にソーダ工場が完成し、日本における電解法カセイソーダ工業の企業化第1号であった
吉川教授の退官とともに研究室を離れた中野友禮氏は、磯村氏の誘いで上京し、磯村氏が営むガス灯カバー工場の一隅で電解法の工業化研究に取りかかった。第1次世界大戦でドイツなどからの化学製品の輸入が途絶え、国内では化学工業を興す機運が高まっていた。1915年3月に磯村氏が程ヶ谷曹達工場を設けると、技術を出資して技師長に就任し、同年9月に国内で最初の電解法カセイソーダの企業化を果たした。28歳で常務取締役に推されたが、経営の実権は持たず、磯村氏らとの意見の違いから1917年に同社を去った。
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「創立までの経緯」・コラム「中野友禮の生い立ち」
- [5]明治41年(1908)の卒業と同時に、新渡戸稲造(一高校長で養成所の所長を兼任)の紹介により磯村音介(大日本製糖専務取締役)から学資の提供を受けて京都帝国大学理学部の化学研究室に入った。吉川龜次郎教授の指導のもとに電解法ソーダの研究に没頭し、大正2年に中野式食塩電解法を完成して特許を得た。退官する吉川教授とともに研究室を去り、磯村の誘いで上京、磯村の経営するKY舎(ガス灯カバーの製造会社)の工場敷地の一隅に研究室を設けて電解法の工業化研究を開始した。磯村は大正4年3月に程ヶ谷曹達工場を設立し、中野は技術出資の形で参加し技師長に就任した。同年9月にソーダ工場が完成し、日本における電解法カセイソーダ工業の企業化第1号であった
- [7]明治41年(1908)の卒業と同時に、新渡戸稲造(一高校長で養成所の所長を兼任)の紹介により磯村音介(大日本製糖専務取締役)から学資の提供を受けて京都帝国大学理学部の化学研究室に入った。吉川龜次郎教授の指導のもとに電解法ソーダの研究に没頭し、大正2年に中野式食塩電解法を完成して特許を得た。退官する吉川教授とともに研究室を去り、磯村の誘いで上京、磯村の経営するKY舎(ガス灯カバーの製造会社)の工場敷地の一隅に研究室を設けて電解法の工業化研究を開始した。磯村は大正4年3月に程ヶ谷曹達工場を設立し、中野は技術出資の形で参加し技師長に就任した。同年9月にソーダ工場が完成し、日本における電解法カセイソーダ工業の企業化第1号であった
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「日本曹達株式会社の誕生」
- [6]第1次世界大戦により、主としてドイツに依存していたソーダ製品、染料製品などの化学製品の輸入が途絶したため、化学工業勃興の機運が高まってきた
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「創立までの経緯」
- [8]中野友禮は好業績の功により28歳で常務取締役に推されたが、常務とはいえ雇われ技術者にすぎず、磯村らとの意見の対立から大正6年に同社を辞した。その後、静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦を共同出資者として日本曹達(第一次日本曹達)を設立した。事業は順調に展開するかにみえたが7年末に大戦が終結し、製品の売行きが止まり銀行融資も停止されて工場拡張代金の支払いすら不能となった。大正7年12月、中野友禮と鈴木寅彦は新潟県中郷村で亜鉛事業を営む日本電気亜鉛から経営立て直しを依頼され、同社を日本電炉工業と改称して再建に乗り出した
次に目指したのは、自らが経営する電解法ソーダ会社だった。静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦氏を共同出資者として第一次の日本曹達を設け、好況のなかで工場の拡張を進めた。ところが1918年末の大戦の終結で製品の売れ行きと銀行の融資が止まり、拡張の代金も払えなくなった。中野友禮氏は一般株主に損を負わせないよう、払込済みの株を額面で買い取って富士水電に引き取らせ、会社は富士水電の曹達部に姿を変えた。
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「創立までの経緯」
- [9]中野友禮は好業績の功により28歳で常務取締役に推されたが、常務とはいえ雇われ技術者にすぎず、磯村らとの意見の対立から大正6年に同社を辞した。その後、静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦を共同出資者として日本曹達(第一次日本曹達)を設立した。事業は順調に展開するかにみえたが7年末に大戦が終結し、製品の売行きが止まり銀行融資も停止されて工場拡張代金の支払いすら不能となった。大正7年12月、中野友禮と鈴木寅彦は新潟県中郷村で亜鉛事業を営む日本電気亜鉛から経営立て直しを依頼され、同社を日本電炉工業と改称して再建に乗り出した
- [10]中野友禮は好業績の功により28歳で常務取締役に推されたが、常務とはいえ雇われ技術者にすぎず、磯村らとの意見の対立から大正6年に同社を辞した。その後、静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦を共同出資者として日本曹達(第一次日本曹達)を設立した。事業は順調に展開するかにみえたが7年末に大戦が終結し、製品の売行きが止まり銀行融資も停止されて工場拡張代金の支払いすら不能となった。大正7年12月、中野友禮と鈴木寅彦は新潟県中郷村で亜鉛事業を営む日本電気亜鉛から経営立て直しを依頼され、同社を日本電炉工業と改称して再建に乗り出した
- 中野友礼伝(中野友礼伝記刊行会, 1967年)「悲運の第一次日本曹達」
- [11]一般株主に迷惑をかけるわけにはいかないとして、中野は五十円払込の株を全部パーで買い取って富士水電へ持参し、富士水電がこれを買い取った。第一次日本曹達は富士水電の曹達部となった
1918年12月、中野友禮氏と鈴木寅彦氏は新潟県中郷村の日本電気亜鉛から経営の立て直しを頼まれ、同社を日本電炉工業と改めた。経営の実務を一任された中野友禮氏は塩素酸曹達の製造を新たに始め、毎月1万円の欠損を出していた会社を1年で8分配当ができるまでに戻した。そのころ新潟の中央電気から1キロワット6厘で電力を使わないかと持ちかけられ、ソーダ会社の再建に向けた検討に入った。1919年11月、同郷の先輩で仲人でもある鈴木寅彦氏とともに発起人となり、中野式隔膜電解法でカセイソーダと晒粉を造る会社の設立準備に入った。
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「創立までの経緯」
- [12]中野友禮は好業績の功により28歳で常務取締役に推されたが、常務とはいえ雇われ技術者にすぎず、磯村らとの意見の対立から大正6年に同社を辞した。その後、静岡県江尻町で富士水電と鈴木寅彦を共同出資者として日本曹達(第一次日本曹達)を設立した。事業は順調に展開するかにみえたが7年末に大戦が終結し、製品の売行きが止まり銀行融資も停止されて工場拡張代金の支払いすら不能となった。大正7年12月、中野友禮と鈴木寅彦は新潟県中郷村で亜鉛事業を営む日本電気亜鉛から経営立て直しを依頼され、同社を日本電炉工業と改称して再建に乗り出した
- 中野友礼伝(中野友礼伝記刊行会, 1967年)「日本曹達ついに成立」
- [13]中野は日本電気亜鉛の経営に参画する条件として経営実務のいっさいを一任されることを求めた。毎月一万円ずつの欠損がつづいたため新たに塩素酸曹達の製造をはじめ、僅か一年で八分配当ができるところまで漕ぎつけた。新潟の中央電気の国友専務から一キロワット六厘で電気を使わないかと持ちかけられ、日本曹達の再建を真剣に考えるようになった
- [14]中野は日本電気亜鉛の経営に参画する条件として経営実務のいっさいを一任されることを求めた。毎月一万円ずつの欠損がつづいたため新たに塩素酸曹達の製造をはじめ、僅か一年で八分配当ができるところまで漕ぎつけた。新潟の中央電気の国友専務から一キロワット六厘で電気を使わないかと持ちかけられ、日本曹達の再建を真剣に考えるようになった
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「日本曹達株式会社の誕生」
- [15]大正8年11月、中野友禮と同郷の先輩で仲人でもある衆議院議員の鈴木寅彦らが創立発起人となり、中野の発明による中野式隔膜電解法を用いてカセイソーダ、晒粉などを製造することを目的に設立準備に着手した。大正9年2月1日の創立総会で資本金75万円をもって設立され、社長に鈴木寅彦、専務取締役に中野友禮が選任された。このとき中野は32歳。創立の年の3月に株価が大暴落し反動恐慌に陥った時期で、中野の経営哲学「仕事は不況の時に始めよ。技術者は不況の時に採用せよ」を地でいった創立であった
1920年2月1日の創立総会で日本曹達は資本金75万円で発足し、社長に鈴木寅彦氏、専務取締役に32歳の中野友禮氏が就任した。創立は大戦後の反動恐慌に入る時期と重なり、中野友禮氏が唱えた「仕事は不況の時に始めよ」を体現する発足だった。二本木工場は6月末に完成したものの、電力を送る越後電気の故障で第1期は生産に入れず、薬品の売買の仲介で収益を得るにとどまった。
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章「日本曹達株式会社の誕生」
- [16]大正8年11月、中野友禮と同郷の先輩で仲人でもある衆議院議員の鈴木寅彦らが創立発起人となり、中野の発明による中野式隔膜電解法を用いてカセイソーダ、晒粉などを製造することを目的に設立準備に着手した。大正9年2月1日の創立総会で資本金75万円をもって設立され、社長に鈴木寅彦、専務取締役に中野友禮が選任された。このとき中野は32歳。創立の年の3月に株価が大暴落し反動恐慌に陥った時期で、中野の経営哲学「仕事は不況の時に始めよ。技術者は不況の時に採用せよ」を地でいった創立であった
- [17]大正8年11月、中野友禮と同郷の先輩で仲人でもある衆議院議員の鈴木寅彦らが創立発起人となり、中野の発明による中野式隔膜電解法を用いてカセイソーダ、晒粉などを製造することを目的に設立準備に着手した。大正9年2月1日の創立総会で資本金75万円をもって設立され、社長に鈴木寅彦、専務取締役に中野友禮が選任された。このとき中野は32歳。創立の年の3月に株価が大暴落し反動恐慌に陥った時期で、中野の経営哲学「仕事は不況の時に始めよ。技術者は不況の時に採用せよ」を地でいった創立であった
- [18]二本木工場は積雪や資材の入荷遅延で予定より遅れて6月末に完成した。電力供給先の越後電気のトラブルがあり、創立第1期(大正9年2月1日から6月30日)には生産開始に至らず、化学薬品の売買仲介で収益を上げたにすぎなかった
その後、1926年4月に隣の日本電炉工業を合併し、電解で同時に出る塩素と水素を液体塩素や硬化油の原料に回して製品を広げた。1936年に鈴木寅彦氏が退くと、中野友禮氏は資本金を2500万円に増やすと同時に2代目の社長に就任した。傍系の会社を急速に増やした日曹コンツェルンは1940年に行き詰まり、中野友禮氏は同年末に社長を辞任した。
- 会社銀行八十年史(1955)「日本曹達」
- [19]1926年4月、二本木工場に隣接し金属ナトリウム・過酸化ソーダを製造する日本電炉工業(資本金100万円)を合併した
- [22]1926年以降の増資と傍系合併で1940年10月に資本金1億8000万円となったが、膨脹が急激すぎて1940年に行詰り、年末に中野が社長を辞任した
- 中野友礼伝(中野友礼伝記刊行会, 1967年)「塩素、水素利用工業への進出」
- [20]電解で苛性曹達と塩素・水素が同時に出る。水素は1926年から硬化油に、塩素は1928年5月から液体塩素として売り出した
- 中野友礼伝(中野友礼伝記刊行会, 1967年)「日曹の社長となる」
- [21]1936年4月7日に社長の鈴木寅彦が辞任し、11月に資本金を2500万円へ増資し、同時に中野友禮が社長に就任した
参考文献2件
参考文献
- 日本曹達70年史(日本曹達, 1992年)第1章 日本曹達の創業期・コラム「中野友禮の生い立ち」
- 中野友礼伝(中野友礼伝記刊行会, 1967年)
事実根拠:出所(日本曹達)