高砂香料工業 の歴史

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創業 1920年
創業者 甲斐荘楠香
創業地 東京都千代田区有楽町
創業
1920年2月5日、東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会が開かれ、9日に資本金100万円で高砂香料が登記された。発起人は丸見屋のミツワ化学研究所を退いた甲斐荘楠香氏と岸喜鑑氏である。甲斐荘氏は1904年に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業し、南仏グラースで天然香料を、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料を学んで1914年に同研究所へ入っていた。大戦後に合成香料の輸入が戻って国産品が売れなくなり、事業縮小を決めた店主と対立して辞表を出した技術者たちが、そのまま会社を興した。株主は投資家ではなく学校関係の縁故に求め、社員は技術部15名に対し経理部4名だった。同年7月、本社を東京府荏原郡蒲田村へ移す。
決断
原料の産地を失うたびに、その原料を合成でつくり直してきた。出発点は台湾の樟脳副産油で、1927年4月の鈴木商店の倒産で年産約3,000トンの販売が自由になると、オゾン酸化法を用いて1928年にバニリン、1929年に台湾赤油のサフロールを原料とするヘリオトロピンを創製した。1935年5月に台北工場を開設し、1938年7月には本社まで台北へ移す。敗戦で台北工場を失うと、1947年3月に平塚の旧海軍相模工廠化学実験部を工場へ転用し、インドネシアから輸入したシトロネラ油へ原料を替えた。そのシトロネラ油も精油の高騰で使えなくなり、石油化学品のチモールを原料とする光学分割法へ移る。1970年代に石油危機で合成品の採算が崩れると、目的の異性体だけを選んで作る不斉合成の開発に入った。
現況
日本の営業利益5億円は、アジア1地域の10分の1にすぎない。2026年3月期の連結売上高は2,250億92百万円、営業利益は81億32百万円で、前期の153億41百万円から47.0%減った。地域別ではアジアが売上501億円・営業利益56億円、米州が555億円・9億円、欧州が423億円・8億円に対し、日本は売上769億円・営業利益5億円である。日本の利益が低下したのは、主要得意先の品質管理体制の高度化に対応し海外向け医薬品中間体の出荷を延期したためで、ファインケミカル部門の売上高は48.9%減の91億06百万円、営業損益は8億27百万円の損失に転じた。1954年の合成メントールで国内を押さえた平塚と磐田の工場は、現在は米国子会社向けに医薬品中間体を出す輸出拠点になっている。
競合
規模で並ぶ相手とは香料で競い、利益は香料でない製品から得た。1962年4月の香料輸入自由化の時点で、香料メーカー約30社のなかの占有率は約25%、合成香料だけなら約40%を占めた。1954年に日本で初めて成功した合成l-メントールは製法特許で国内占有率100%を握り、天然品を含む国内総需要の約3分の1を供給する。1971年時点の国内香料生産のシェアは36〜37%で、売上高と生産設備の両面で世界五指に数えられた。国内で市場を分け合う長谷川香料と重なるのは香料の部分だけで、野依良治氏らが開発したBINAPを配位子とするロジウム錯体は、l-メントールを経てカルバペネム系抗生物質の中間体へ延びた。香料のために磨いた触媒が、香料を買わない製薬会社という顧客を生んだ。
長期業績の推移 1950〜2026年
高砂香料工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 台湾の樟脳副産油に賭けた技術者集団の創業と戦時の転換 (1920年〜)

創業ストーリー(1)

ミツワ化学研究所を退いた香料技術者たちによる創業

第一次世界大戦が始まるまで、日本の香料需要は調合香料を輸入してそのまま付香に使う水準にとどまり、国産の合成香料を売り出しても買い手がつかなかった[1]。大戦で輸入が細ると国産香料の需要が急に活発になり、丸見屋店主の三輪善兵衛氏は1912年に設立したミツワ化学研究所を香料の研究と製造の場へ広げた[2]。甲斐荘楠香氏は1904年に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業し、1910年に教職を退いて自費で渡欧した[3]。南仏グラースで天然香料を、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料を学んだのち、1914年に香料課長兼農事課長として同研究所に入った[4]。甲斐荘楠香氏は芳油からリナリルアセテートを、黒文字油からクロモジオールを作り、戦争で入手困難になったラベンダー油とベルガモット油の代用として売り出した[5]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [1]第一次世界大戦前の国内香料需要は調合香料の輸入に依存し、国産合成香料には買い手がつかなかった
    • [2]三輪善兵衛が1912年にミツワ化学研究所を創立し、大戦による香料界の情勢一変を受けて香料事業へ進出した
    • [3]甲斐荘楠香は1904年7月に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業して大学に残り、1910年に教職を退いて香料研究のため自費で渡欧した
    • [4]南仏グラースで天然香料を学び、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料の研究に従事したのち、1914年にミツワ化学研究所の香料課長兼農事課長として迎えられた
    • [5]甲斐荘楠香は芳油からリナリルアセテート、黒文字油からクロモジオールを製造し、ラベンダー油・ベルガモット油の代用として売り出した

1918年11月に大戦が終わると合成香料の輸入が戻り、国産品は売れなくなった。三輪善兵衛氏はミツワ化学研究所の事業縮小を決め、それ以前から発明奨励案の採用や工業規則の制定、技師・技手の増給案を求めて店主と対立していた甲斐荘楠香氏と岸喜鑑氏に辞表の提出を迫った[6]。甲斐荘楠香氏は1919年7月25日、岸喜鑑氏は同月30日に辞表を出した[7]。岸喜鑑氏の調査課は課ごと廃止されて部下全員が解職された一方、甲斐荘楠香氏の香料課は残ったため、課長に殉じて退いた課員は自己都合の扱いとなり退職手当を受け取れなかった[8]。甲斐荘楠香氏は私財から1人50円から100円を贈り、若い技術者たちの当座の生活費に充てた[9]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [6]大戦終結で輸入合成香料が戻り、三輪善兵衛は研究所の事業縮小を決意、発明奨励案・工業規則・増給案をめぐって対立していた甲斐荘楠香と岸喜鑑に辞職願の提出を迫った
    • [7]甲斐荘楠香は1919年7月25日、岸喜鑑は同月30日に辞表を提出した
    • [8]調査課は廃止され部下全員が解職されて退職手当が出たが、香料課は存続したため殉じて退職した課員には手当が出なかった
    • [9]甲斐荘楠香は私財から1人50円から100円を贈って当座の手当とした

身の振り方を考えていた甲斐荘楠香氏に、岸喜鑑氏は香料会社の設立を勧め、株主を金儲け目当ての投資家ではなく香料事業を理解する学校関係の縁故に求める構想を示した[10]。2人は名簿を頼りに設立趣意書と目論見書を持って訪問先を回り、1920年2月5日、東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会を開いた。商号高砂香料株式会社の登記は9日、資本金は100万円で払込は25万円[11]。資金面を支えた佐伯四郎次氏が2か月で退いたあと、甲斐荘楠香氏が社長に就いた[12]。7月には本社を東京府荏原郡蒲田村へ移し[13]、経済恐慌で没落した中村水産研究所の敷地約9,000平方メートルを譲り受けた[14]。社員の配置は技術部15名に対し経理部4名で、部長も課も置かなかった[15]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [10]岸喜鑑が甲斐荘楠香に香料会社創立を勧め、株主を香料事業を理解する学校関係その他の縁故に求める設立構想を説明した
    • [11]1920年2月5日に東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会、2月9日に高砂香料株式会社の設立登記、資本金100万円・払込25万円
    • [12]資金面で世話になった佐伯四郎次が社長として出発したが2か月で退き、甲斐荘楠香が社長となった
    • [14]大戦後の経済恐慌で没落した中村水産研究所の一部約9,000平方メートル(2,720坪)を譲り受けた
    • [15]技術部15名、経理部4名の割合で、部長を置かず社長の下に技術部と経理部の2部だけを置く組織だった
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1920年7月、東京府荏原郡蒲田村に本社を移転した
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [1]第一次世界大戦前の国内香料需要は調合香料の輸入に依存し、国産合成香料には買い手がつかなかった
    • [2]三輪善兵衛が1912年にミツワ化学研究所を創立し、大戦による香料界の情勢一変を受けて香料事業へ進出した
    • [3]甲斐荘楠香は1904年7月に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業して大学に残り、1910年に教職を退いて香料研究のため自費で渡欧した
    • [4]南仏グラースで天然香料を学び、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料の研究に従事したのち、1914年にミツワ化学研究所の香料課長兼農事課長として迎えられた
    • [5]甲斐荘楠香は芳油からリナリルアセテート、黒文字油からクロモジオールを製造し、ラベンダー油・ベルガモット油の代用として売り出した
    • [6]大戦終結で輸入合成香料が戻り、三輪善兵衛は研究所の事業縮小を決意、発明奨励案・工業規則・増給案をめぐって対立していた甲斐荘楠香と岸喜鑑に辞職願の提出を迫った
    • [7]甲斐荘楠香は1919年7月25日、岸喜鑑は同月30日に辞表を提出した
    • [8]調査課は廃止され部下全員が解職されて退職手当が出たが、香料課は存続したため殉じて退職した課員には手当が出なかった
    • [9]甲斐荘楠香は私財から1人50円から100円を贈って当座の手当とした
    • [10]岸喜鑑が甲斐荘楠香に香料会社創立を勧め、株主を香料事業を理解する学校関係その他の縁故に求める設立構想を説明した
    • [11]1920年2月5日に東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会、2月9日に高砂香料株式会社の設立登記、資本金100万円・払込25万円
    • [12]資金面で世話になった佐伯四郎次が社長として出発したが2か月で退き、甲斐荘楠香が社長となった
    • [14]大戦後の経済恐慌で没落した中村水産研究所の一部約9,000平方メートル(2,720坪)を譲り受けた
    • [15]技術部15名、経理部4名の割合で、部長を置かず社長の下に技術部と経理部の2部だけを置く組織だった
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1920年7月、東京府荏原郡蒲田村に本社を移転した
創業ストーリー(2)

鈴木商店倒産で自由になった台湾樟脳副産油と台北工場

創業から樟脳は最大の課題であり続けた。日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功すると、天然樟脳は10年たたないうちに値段を5分の1へ下げて対抗した[16]。堀内利器氏は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟樹から樟脳を採るときに大量に出る樟脳油を高価な香料や薬品へ変えれば、天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると説いた[17]。ただし白油・赤油・藍色油に分かれる樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握り、高砂香料は原料に手が届かなかった[18]。金融恐慌をまともにかぶった鈴木商店が1927年4月4日に倒産すると、年産約3,000トンの副産油の販売が自由になった[19]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [16]日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功し、合成樟脳の市場投入から10年たたないうちに天然樟脳は値段を5分の1へ下げた
    • [17]堀内利器は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟脳油を原料に高価な香料や薬品を採れば天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると論じた
    • [18]樟脳油を蒸留して分ける白油・赤油・藍色油などの樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握っており、高砂香料は高度利用に手が出せなかった
    • [19]鈴木商店は金融恐慌で1927年4月4日に倒産し、樟脳副産油の販売が自由になった。当時の副産油の年間生産高は約3,000トン

高砂香料は商工省から工業研究奨励金を数回受け、これを元手に設備を広げてオゾン酸化法の研究に入った[20]。酸素を無声放電にさらす従来の方法では殺菌に使う程度の量しか得られないため、電圧を1万ボルト内外へ上げたうえで高周波を加え、ドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた酸化剤としての利用に踏み込んだ[21]。1928年に丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年には台湾の樟脳赤油から採ったサフロールを原料とするヘリオトロピンを創製し、外国製品と遜色のない品質を得た[22]。1929年にはスイスへアフロール3トンを輸出した[23]。1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒドとその誘導体の製造法で堀内利器氏と平泉貞吉氏に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された[24]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [20]商工省は高砂香料の樟脳副産油利用研究に対して数回にわたり奨励金を交付し、高砂香料はこれを基礎に設備を拡充してオゾン酸化法の研究に取り組んだ
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [21]従来の無声放電では殺菌用程度の量しかオゾンが得られず、電圧を1万ボルト内外に高めたうえ高周波を加える方式をドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた
    • [22]1928年にオゾン酸化法で丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年に台湾の樟脳赤油から得たサフロールを原料とするヘリオトロピンを製造し、外国製品と遜色のない品質を得た
    • [24]1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒド並びにその誘導体の製造法により堀内利器と平泉貞吉に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [23]1929年にスイスへアフロール3トンを輸出した

台湾専売局の一部の担当官は1929年から1932年にかけて、樟脳副産油加工の合理化として日本香料薬品との合併を勧めた。堀内利器氏は台湾に渡って庶務課長の渡部慶之進氏と会い、商事優先の日本香料薬品と技術優先の高砂香料では合併しても実効が上がらないと説き、1932年11月に勧告を退けた[25]。逆に渡部慶之進氏は台北への工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台北工場建設陳情書を提出した[26]。台湾電力から台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートルを買収し、1935年5月4日に開場式を行った[27]。払下げは1930年にリナリルアセテート原料の芳油が特価で始まり、台北工場の完成した1935年に副産油全部の払下げ契約へ広がった[28]。1938年7月には本社を台北工場へ移し、資本金を250万円へ増やした[29]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [25]1929年から1932年にかけて台湾専売局の一部担当官が日本香料薬品と高砂香料の合併を勧めたが、堀内利器が渡台して庶務課長の渡部慶之進と会談し、技術優先の高砂香料と商事優先の日本香料薬品の合併は合理化にならないとの結論を得て、1932年11月に合併話は終わった
    • [26]渡部慶之進が台湾での工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台湾専売局へ台北工場建設陳情書を提出し受理された
    • [27]台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートル(3,500坪)を台湾電力から買収し、1935年5月4日に台北工場の開場式を行った
    • [28]1930年にリナリルアセテート原料として芳油の特価払下げがあり、台北工場ができた1935年に副産油全部の払下げ契約が締結された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [29]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、資本金を250万円に増資した
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [16]日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功し、合成樟脳の市場投入から10年たたないうちに天然樟脳は値段を5分の1へ下げた
    • [17]堀内利器は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟脳油を原料に高価な香料や薬品を採れば天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると論じた
    • [18]樟脳油を蒸留して分ける白油・赤油・藍色油などの樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握っており、高砂香料は高度利用に手が出せなかった
    • [19]鈴木商店は金融恐慌で1927年4月4日に倒産し、樟脳副産油の販売が自由になった。当時の副産油の年間生産高は約3,000トン
    • [20]商工省は高砂香料の樟脳副産油利用研究に対して数回にわたり奨励金を交付し、高砂香料はこれを基礎に設備を拡充してオゾン酸化法の研究に取り組んだ
    • [25]1929年から1932年にかけて台湾専売局の一部担当官が日本香料薬品と高砂香料の合併を勧めたが、堀内利器が渡台して庶務課長の渡部慶之進と会談し、技術優先の高砂香料と商事優先の日本香料薬品の合併は合理化にならないとの結論を得て、1932年11月に合併話は終わった
    • [26]渡部慶之進が台湾での工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台湾専売局へ台北工場建設陳情書を提出し受理された
    • [27]台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートル(3,500坪)を台湾電力から買収し、1935年5月4日に台北工場の開場式を行った
    • [28]1930年にリナリルアセテート原料として芳油の特価払下げがあり、台北工場ができた1935年に副産油全部の払下げ契約が締結された
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [21]従来の無声放電では殺菌用程度の量しかオゾンが得られず、電圧を1万ボルト内外に高めたうえ高周波を加える方式をドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた
    • [22]1928年にオゾン酸化法で丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年に台湾の樟脳赤油から得たサフロールを原料とするヘリオトロピンを製造し、外国製品と遜色のない品質を得た
    • [24]1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒド並びにその誘導体の製造法により堀内利器と平泉貞吉に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [23]1929年にスイスへアフロール3トンを輸出した
    • [29]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、資本金を250万円に増資した
創業ストーリー(3)

香料から浮遊選鉱剤と軍需溶剤へ転じた高砂化学工業

日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令下の原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった[30]。1939年7月、社名を高砂化学工業へ改め[31]、果実エッセンス・選鉱剤・溶剤・工業薬品の製造を始めた[32]。主原料の樟脳副産油は変わらないまま、製品の出口だけを香料から工業薬品へ移している[33]。非鉄金属の増産で浮遊選鉱剤の需要が高まると、堀内利器氏は1937年に旭電化の技師とともに足尾銅山を訪ね、高砂浮鉱油と名付けた選鉱剤を生んだ[34]。原料には台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を使い、最盛期の生産は年間1,000トンに達した[35]。1941年9月、堀内利器氏は日本選鉱剤統制株式会社の社長に就いた[36]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [30]日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令による原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった
    • [32]社名変更にあわせて果実エッセンス、選鉱剤、溶剤、工業薬品などの製造を開始した
    • [33]主原料は変わらず、製品へのもってゆき方が香料から工業薬品系統へ移った
    • [34]非鉄金属増産で浮遊選鉱剤の需要が高まり、堀内利器は1937年に旭電化の鹿島技師とともに足尾銅山を訪れて技術を打ち合わせ、高砂浮鉱油と命名された浮遊選鉱剤が生まれた
    • [35]高砂浮鉱油は台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を原料とし、最盛時には年間1,000トンの生産となった
    • [36]堀内利器は1941年9月に日本選鉱剤統制株式会社の社長に就任した
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1939年7月、社名を高砂化学工業株式会社と改称した

1941年3月、堀内利器専務は帝国人造絹絲・旭電化工業三井化学・台湾電力・日本カーバイトの出資を得て資本金500万円の台湾有機合成株式会社を設立し、専務取締役に就いた[37]。台湾の安い電力と石灰石からカーバイトを作り、アセチレンを経て航空燃料の原料であるブタノールを合成する計画で、工場用地は新竹市東勢の約43万平方メートル[38]。一方、創業を担った3人は4年余のあいだに相次いで欠けた。1937年4月18日に八木竹四郎常務が47歳で急逝し、1938年6月25日には甲斐荘楠香社長が59歳で世を去った[39]。1942年5月8日、南方経済調査団員として乗り込んだ太洋丸が東支那海で撃沈され、堀内利器専務も52歳で殉職した[40]。同年6月の株主総会以降、社長の席は空席のまま、平泉貞吉常務と阿部定雄常務の2名が会社を代表する合議制へ移った[41]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [37]1941年3月に資本金500万円の台湾有機合成株式会社が設立され、堀内利器が専務取締役に就任。帝国人造絹絲、旭電化、三井化学、台湾電力、日本カーバイトが協力出資者となった
    • [38]台湾の安い電力と台湾産石灰石からカーバイトをつくりブタノールを合成する計画で、航空燃料の原料であるブタノールなどを製造する工場用地として新竹市東勢に約43万平方メートル(13万坪)を取得した
    • [39]1937年4月18日に八木竹四郎常務が行年47歳で急逝し、1938年6月25日に甲斐荘楠香社長が行年59歳で逝去した
    • [40]1942年5月8日、南方経済調査団員として乗船した太洋丸が東支那海で敵潜水艦の雷撃を受け沈没し、堀内利器専務が行年52歳で殉職した
    • [41]1942年6月22日の第45回定時株主総会で役員異動を決議し、社長の席を空席のまま常務取締役平泉貞吉と常務取締役阿部定雄の2名がそれぞれ会社を代表する合議制をとった

1942年3月15日、高砂化学工業は東京支店と大阪支店を出張所へ縮小し、香料会社としての営業をほぼ止めた[42]。東京工場は飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要増を受けて1942年9月に軍監督工場、1943年10月には陸海軍共同管理工場に指定された[43]。フェニルエチルアルコールからは電波兵器向けの高周波絶縁材の原料となるスチレンモノマーを作り、オゾン発生装置を使ってロケットエンジン用酸化剤の過酸化水素濃厚液を試作した[44]。1945年2月9日には札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場を転用し、浮遊選鉱に欠かせないエチルザンセートの生産に入った[45]。同年4月15日の空襲で、蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建1棟を残して焼け落ちた[46]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [42]1942年3月15日に東京支店と大阪支店を縮小してそれぞれ出張所とし、香料会社としての営業活動はほとんど停止した
    • [43]東京工場で生産していた飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要が増え、1942年9月に東京工場が軍監督工場、1943年10月に陸海軍共同管理工場に指定された
    • [44]フェニルエチルアルコールから電波兵器用の高周波絶縁特性に優れるポリマーの原料となるスチレンモノマーを製造し、オゾン発生装置を利用してロケットエンジン用燃料酸化剤(過酸化水素の濃厚液)を試作した
    • [45]1945年2月9日、札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場が転用され、非鉄金属の浮遊選鉱に不可欠のエチルザンセートを生産する札幌工場が開場した
    • [46]1945年4月15日の空襲による爆撃と火災で蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建の工場1棟以外すべてが焼失し、機能を失った
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [30]日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令による原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった
    • [32]社名変更にあわせて果実エッセンス、選鉱剤、溶剤、工業薬品などの製造を開始した
    • [33]主原料は変わらず、製品へのもってゆき方が香料から工業薬品系統へ移った
    • [34]非鉄金属増産で浮遊選鉱剤の需要が高まり、堀内利器は1937年に旭電化の鹿島技師とともに足尾銅山を訪れて技術を打ち合わせ、高砂浮鉱油と命名された浮遊選鉱剤が生まれた
    • [35]高砂浮鉱油は台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を原料とし、最盛時には年間1,000トンの生産となった
    • [36]堀内利器は1941年9月に日本選鉱剤統制株式会社の社長に就任した
    • [37]1941年3月に資本金500万円の台湾有機合成株式会社が設立され、堀内利器が専務取締役に就任。帝国人造絹絲、旭電化、三井化学、台湾電力、日本カーバイトが協力出資者となった
    • [38]台湾の安い電力と台湾産石灰石からカーバイトをつくりブタノールを合成する計画で、航空燃料の原料であるブタノールなどを製造する工場用地として新竹市東勢に約43万平方メートル(13万坪)を取得した
    • [39]1937年4月18日に八木竹四郎常務が行年47歳で急逝し、1938年6月25日に甲斐荘楠香社長が行年59歳で逝去した
    • [40]1942年5月8日、南方経済調査団員として乗船した太洋丸が東支那海で敵潜水艦の雷撃を受け沈没し、堀内利器専務が行年52歳で殉職した
    • [41]1942年6月22日の第45回定時株主総会で役員異動を決議し、社長の席を空席のまま常務取締役平泉貞吉と常務取締役阿部定雄の2名がそれぞれ会社を代表する合議制をとった
    • [42]1942年3月15日に東京支店と大阪支店を縮小してそれぞれ出張所とし、香料会社としての営業活動はほとんど停止した
    • [43]東京工場で生産していた飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要が増え、1942年9月に東京工場が軍監督工場、1943年10月に陸海軍共同管理工場に指定された
    • [44]フェニルエチルアルコールから電波兵器用の高周波絶縁特性に優れるポリマーの原料となるスチレンモノマーを製造し、オゾン発生装置を利用してロケットエンジン用燃料酸化剤(過酸化水素の濃厚液)を試作した
    • [45]1945年2月9日、札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場が転用され、非鉄金属の浮遊選鉱に不可欠のエチルザンセートを生産する札幌工場が開場した
    • [46]1945年4月15日の空襲による爆撃と火災で蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建の工場1棟以外すべてが焼失し、機能を失った
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1939年7月、社名を高砂化学工業株式会社と改称した
創業ストーリー(4)

在外会社の指定と旧海軍相模工廠を転用した平塚工場

高砂化学工業は本社を台北に置いていたため、GHQから在外会社の指定を受けた[47]。内地に残る蒲田の東京工場、和歌山県の日高工場、北海道の札幌工場を動かす事業再開の許可は1945年12月に下りたものの、以後5年余りにわたって在外会社としてGHQの管理下に置かれ、活動は著しく制約された[48]。東京工場は曽我商店の斡旋で日本曹達からサッカリン液を譲り受け、手持ちの原料で作ったストロベリー・エッセンスなどを加えた濃縮シロップを売り出し、甘味に飢えていた市場がこれを吸収した[49]。1946年5月期に470万円だった1期の売上高は、同年12月期に1,800万円、1947年9月期には2,900万円へ伸びた[50]。当時の従業員は約300名であった[51]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [47]本社が台北にあったためGHQから在外会社の指定を受けた
    • [48]蒲田の東京工場・日高工場・札幌工場の事業再開許可を1945年12月に得たが、以後5年余り在外会社としてGHQ管理下で活動が著しく制約された
    • [49]東京工場が曽我商店の斡旋で日本曹達のサッカリン液を譲り受け、手持ち原料のエッセンスを加えた濃縮シロップを製造販売した
    • [50]1946年5月期の1期売上高470万円が、同年12月期1,800万円、1947年9月期2,900万円へ増加した
    • [51]この頃の従業員数は約300名であった

生産を戻すには原料の確保が要る。樟脳副産油は戦前に台湾産の払い下げを一手に受けていた分だけ内地産の実績がなく、病気静養中の渡部慶之進氏に頼んで大蔵省筋へ働きかけ、平泉貞吉常務は交友関係から再製樟脳株式会社とのルートを開いた[52]。シトロネラ油は結核治療薬のロジン酸を製造する名目でGHQの許可を取り、インドネシアから約5トンを輸入した。これが戦後第1回の原料輸入となった[53]。戦時中に選鉱剤用として輸入され国内に散在していたシトロネラ油も回収した[54]。GHQの命でアビエス油を集荷し、約5トンを欧米へ輸出したのが戦後輸出の第1号である[55]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [52]内地産樟脳副産油の入手を渡部慶之進に依頼して大蔵省筋へ働きかけ、平泉常務が再製樟脳株式会社とのルートを開いた
    • [53]結核治療薬ロジン酸製造の名目でGHQの許可を得てインドネシアからシトロネラ油約5トンを輸入し、これが戦後第1回の原料輸入となった
    • [54]戦時中に選鉱剤用として輸入され国内に散在していたシトロネラ油を極力回収した
    • [55]GHQよりアビエス油の輸出を命ぜられ、約5トンを欧米へ輸出したのが戦後輸出の第1号である

1946年初め、元海軍大佐の鶴尾定雄氏が、平塚市の旧海軍相模工廠化学実験部を工場へ転用できると長瀬義治常務に持ち込んだ[56]。台北工場を失っていた高砂化学工業では社内の意見が分かれたが、長瀬義治常務の裁決で開設に踏み切った[57]。大蔵省国有財産部が敷地の一部使用を認可したのは1946年8月で、開設は1947年3月8日である[58]。約3万9,600平方メートルの敷地に主力工場3棟と試験室・倉庫・事務所が点在するだけの状態から、初代工場長の鶴尾定雄氏以下約50名で出発した[59]。当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった[60]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [56]1946年初め、元海軍大佐の鶴尾定雄が旧海軍相模工廠化学実験部の転用を長瀬義治常務に持ち込んだ
    • [57]社内の意見はまちまちだったが長瀬常務の裁決で平塚工場の開設に踏み切った
    • [58]1946年8月に大蔵省国有財産部が敷地の一部使用を認可し、1947年3月8日に平塚工場が開設された
    • [59]敷地約3万9,600平方メートルに主力工場3棟が建つのみで、開場当時の従業員は初代工場長の鶴尾定雄以下約50名であった
    • [60]開設当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [47]本社が台北にあったためGHQから在外会社の指定を受けた
    • [48]蒲田の東京工場・日高工場・札幌工場の事業再開許可を1945年12月に得たが、以後5年余り在外会社としてGHQ管理下で活動が著しく制約された
    • [49]東京工場が曽我商店の斡旋で日本曹達のサッカリン液を譲り受け、手持ち原料のエッセンスを加えた濃縮シロップを製造販売した
    • [50]1946年5月期の1期売上高470万円が、同年12月期1,800万円、1947年9月期2,900万円へ増加した
    • [51]この頃の従業員数は約300名であった
    • [52]内地産樟脳副産油の入手を渡部慶之進に依頼して大蔵省筋へ働きかけ、平泉常務が再製樟脳株式会社とのルートを開いた
    • [53]結核治療薬ロジン酸製造の名目でGHQの許可を得てインドネシアからシトロネラ油約5トンを輸入し、これが戦後第1回の原料輸入となった
    • [54]戦時中に選鉱剤用として輸入され国内に散在していたシトロネラ油を極力回収した
    • [55]GHQよりアビエス油の輸出を命ぜられ、約5トンを欧米へ輸出したのが戦後輸出の第1号である
    • [56]1946年初め、元海軍大佐の鶴尾定雄が旧海軍相模工廠化学実験部の転用を長瀬義治常務に持ち込んだ
    • [57]社内の意見はまちまちだったが長瀬常務の裁決で平塚工場の開設に踏み切った
    • [58]1946年8月に大蔵省国有財産部が敷地の一部使用を認可し、1947年3月8日に平塚工場が開設された
    • [59]敷地約3万9,600平方メートルに主力工場3棟が建つのみで、開場当時の従業員は初代工場長の鶴尾定雄以下約50名であった
    • [60]開設当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった
創業ストーリー(5)

未納税3,500万円と日本生命が付けた救済融資の条件

1948年8月4日、高砂化学工業は在外会社としての不便から抜けるため、資本金250万円で内地法人の高砂香料株式会社を設立し、10月末に500万円、12月に1,000万円へ増資して平塚工場の運転資金に充てた[61]。高砂化学工業の東京工場に対し、平塚工場は高砂香料の生産部門として運営され、両工場の販売は高砂香料が受け持った[62]。1949年8月の政令第291号により高砂化学工業は内地財産を整理して1,000万円を得、これを旧株主へ無償分配したうえで、1951年2月1日に資本金1,000万円の新高砂化学工業株式会社を設立した[63]。同社は同年、高砂香料株式会社と合併して払込資本金2,000万円となり[64]、商号を高砂香料工業株式会社に改めた[65]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [61]1948年8月4日に内地法人の高砂香料株式会社を資本金250万円で設立し、10月末に500万円、12月に1,000万円へ増資して平塚工場の運転資金に充てた
    • [62]高砂化学の東京工場に対し平塚工場を高砂香料の生産部門として運営し、両工場の販売部門を高砂香料が担当した
    • [63]1949年8月の政令第291号で高砂化学工業が内地財産を整理して得た1,000万円を旧株主へ無償分配し、1951年2月1日に資本金1,000万円の新高砂化学工業株式会社を設立した
    • [64]1951年8月1日、新高砂化学工業株式会社は高砂香料株式会社と対等合併し、払込資本金2,000万円となった
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]有価証券報告書【沿革】は1951年2月に高砂香料株式会社と高砂化学工業株式会社が合併し高砂香料工業株式会社に商号変更と記載する

朝鮮戦争の特需は香料にも活発な買い進みを呼んだが、1951年7月に休戦交渉が始まると景気は沈静し、販売価格が下がった[66]。高値のときに発注した輸入香料が同年後半から入り、金融難のなかで市場相場が輸入原価を割った[67]。そこへ、GHQ管理下の5年間に旧高砂化学工業があげた利益への課税が、管理の解除と新会社設立に合わせて3,500万円賦課された[68]。分割払いの了解は取り付けたものの、月額300万円は当時の高砂香料工業にとって重い負担となった[69]。香料は平均2割の値下がりとなり、1951年12月に倍額増資して資本金を4,000万円としても金融難は解けず、1952年4月から給料の遅配が始まって、8月には分割支払いにまで追い込まれ、年末まで続いた[70]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [66]朝鮮戦争の特需で香料にも活発な買い進みが起きたが、1951年7月の休戦交渉開始で景気が沈静し香料の販売価格も下がった
    • [67]高値のとき発注した輸入香料が1951年後半から入り、金融難で市場相場が輸入原価を割った
    • [68]GHQ管理下の5年間に旧高砂化学工業があげた利益への税が、管理解除と新会社設立に伴い3,500万円賦課された
    • [69]分割払いの了解を得たが月額300万円は当時の高砂にとって大きな負担となった
    • [70]香料関係は平均2割の値下がりとなり、1951年12月の倍額増資で資本金4,000万円としても金融難は解けず、1952年4月から給料の遅配が始まり8月には分割支払いとなって年末まで続いた

中西健次常務は1951年5月に日本生命から1,500万円を借り入れ、東京工場と平塚工場に工場財団を設定していたが、この資金は後ろ向きの穴埋めに回り、日本生命から責任を問われた[71]。救済融資にあたって日本生命は設備資金だけを引き受け、運転資金は三菱銀行を主体とし大和銀行が支えた[72]。融資の条件は日本生命からの監査役受け入れ、人員整理、非採算部門の排除と不要施設の売却で、1953年2月頃に話がまとまった[73]。高砂香料工業は日高工場を1952年10月に分離して南海果工株式会社とし、1953年に札幌工場を閉鎖して関西ペイント株式会社へ売却、選鉱剤の販売は同年7月に協和醗酵と設立したフロス化学株式会社へ移した[74]。南海果工は和歌山県の農業協同組合連合会と折半出資で、蜜柑の濃縮果汁を日本で最初に商品化している[75]。生産は平塚へ集め、蒲田は研究所と倉庫に改めた[76]。長瀬義治専務は全責任を負い、1953年3月に退任した[77]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [71]財務担当の中西常務が1951年5月に日本生命から1,500万円を借り入れ、東京工場・平塚工場の工場財団を担保に設定したが、資金は後ろ向きの救済に使われ日本生命から非難された
    • [72]日本生命は設備資金のみに融資し、運転資金は三菱銀行を主とし大和銀行がバックアップする形でまとまった
    • [73]日本生命から監査役を入れること、人員を整理すること、非採算部門の排除と不要施設の売却を条件に1953年2月頃に話がついた
    • [74]日高工場を1952年10月に分離して南海果工株式会社とし、札幌工場は1953年に閉鎖して関西ペイントへ売却、選鉱剤の販売は1953年7月設立のフロス化学株式会社へ移した
    • [75]南海果工は高砂と和歌山県果実加工農業協同組合連合会の折半出資で設立され、蜜柑の果汁を濃縮することに成功した。わが国において最初にできた濃縮果汁である
    • [76]生産工場を平塚に集中し、蒲田は研究所と倉庫にすることが合理化の目標となった
    • [77]長瀬義治専務は全責任を負って再選されず、1953年3月に高砂を退いた
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
    • [61]1948年8月4日に内地法人の高砂香料株式会社を資本金250万円で設立し、10月末に500万円、12月に1,000万円へ増資して平塚工場の運転資金に充てた
    • [62]高砂化学の東京工場に対し平塚工場を高砂香料の生産部門として運営し、両工場の販売部門を高砂香料が担当した
    • [63]1949年8月の政令第291号で高砂化学工業が内地財産を整理して得た1,000万円を旧株主へ無償分配し、1951年2月1日に資本金1,000万円の新高砂化学工業株式会社を設立した
    • [64]1951年8月1日、新高砂化学工業株式会社は高砂香料株式会社と対等合併し、払込資本金2,000万円となった
    • [66]朝鮮戦争の特需で香料にも活発な買い進みが起きたが、1951年7月の休戦交渉開始で景気が沈静し香料の販売価格も下がった
    • [67]高値のとき発注した輸入香料が1951年後半から入り、金融難で市場相場が輸入原価を割った
    • [68]GHQ管理下の5年間に旧高砂化学工業があげた利益への税が、管理解除と新会社設立に伴い3,500万円賦課された
    • [69]分割払いの了解を得たが月額300万円は当時の高砂にとって大きな負担となった
    • [70]香料関係は平均2割の値下がりとなり、1951年12月の倍額増資で資本金4,000万円としても金融難は解けず、1952年4月から給料の遅配が始まり8月には分割支払いとなって年末まで続いた
    • [71]財務担当の中西常務が1951年5月に日本生命から1,500万円を借り入れ、東京工場・平塚工場の工場財団を担保に設定したが、資金は後ろ向きの救済に使われ日本生命から非難された
    • [72]日本生命は設備資金のみに融資し、運転資金は三菱銀行を主とし大和銀行がバックアップする形でまとまった
    • [73]日本生命から監査役を入れること、人員を整理すること、非採算部門の排除と不要施設の売却を条件に1953年2月頃に話がついた
    • [74]日高工場を1952年10月に分離して南海果工株式会社とし、札幌工場は1953年に閉鎖して関西ペイントへ売却、選鉱剤の販売は1953年7月設立のフロス化学株式会社へ移した
    • [75]南海果工は高砂と和歌山県果実加工農業協同組合連合会の折半出資で設立され、蜜柑の果汁を濃縮することに成功した。わが国において最初にできた濃縮果汁である
    • [76]生産工場を平塚に集中し、蒲田は研究所と倉庫にすることが合理化の目標となった
    • [77]長瀬義治専務は全責任を負って再選されず、1953年3月に高砂を退いた
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]有価証券報告書【沿革】は1951年2月に高砂香料株式会社と高砂化学工業株式会社が合併し高砂香料工業株式会社に商号変更と記載する
創業ストーリー(6)

合成l-メントールと高砂ミクロンで取り戻した収益

日本生命が救済融資で求めたのは、役員の更迭と簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を定めて利益を生む管理方式の3点であった[78]。1953年、渡部慶之進氏が代表取締役会長として会社を統轄して財務管理を分掌し、平泉貞吉社長は技術を、中西健次氏は本人の希望で営業を受け持った[79]。非採算部分を外して月商5,000万円に抑えた計画は予定を上回り、1953年9月期は売上高3億3,589万円・利益426万円、1954年3月期は売上高3億8,045万円・利益613万円となった[80]。1955年から1960年にかけて売上高は年率平均12%で伸び、1956年11月に福岡出張所、1957年4月に名古屋出張所を開いた[81]。香料の輸入が自由化された1962年4月の時点で、過去8年間の年間平均成長率は30〜40%、香料メーカー約30社のなかで高砂香料工業の占有率は約25%、合成香料だけなら約40%であった[82]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
    • [78]日本生命が救済融資で要求したのは役員の更迭並びに簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を策定し利益を生み出す管理方式の3点である
    • [79]渡部慶之進が代表取締役会長として会社を統轄し財務管理を分掌、平泉社長は技術を分掌、中西は本人の希望で営業部長に就任した
    • [80]非採算部分を排除し月商5,000万円に抑えた計画の結果、1953年9月期は売上3億3,589万円・利益426万円、1954年3月期は売上3億8,045万円・利益613万円となった
    • [81]1955年から1960年にかけての売上高は年率平均12%で伸び、1956年11月に福岡出張所、1957年4月に名古屋出張所を開設した
  • 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」
    • [82]香料は1962年4月に自由化。香料メーカーは全国で約30社、1962年度の生産は200億円が予想され、そのなかで高砂香料工業の占有率は約25%、合成香料だけだと約40%。過去8年間の年間平均成長率は30〜40%

合成l-メントールと粉末香料が復調を引っ張った[83]。l-メントールの工業化を阻んでいたのは副生する異性メントールの分離であったが、桂重雄研究所長のもとで小松昭氏らが完全分離の技術を確立し、1954年に日本で初めて合成メントールの製造に成功した[84]。ハッカは投機の対象として危険視され、着手の可否をめぐって役員会では激しい議論が交わされた[85]。ブラジルの製脳業者が競争相手への割安なメントン供給を止めようとしているとの情報をニューヨーク滞在中の中西健次専務がつかみ、原料をシトロネラ油へ移した[86]。1968年頃のシトロネラ油の使用は年間1,300トン近くまで増えた[87]。合成メントールは製法特許を持って国内占有率100%を握り、天然品を含めた国内総需要量の約3分の1を高砂香料工業が供給した[88]。1957年には粉末香料『高砂ミクロン』が完成し、1962年に平塚工場へ大型のスプレードライヤーが5台入った[89]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
    • [83]生産技術面で復調の導火線になったのは合成l-メントールと粉末香料である
    • [84]l-メントール工業化の課題は副生する異性メントールの分離であり、桂重雄研究所長のもとで小松昭らが分離技術を確立し1954年に日本で初めて合成メントールの製造に成功した
    • [85]ハッカは投機の対象として危険視されており、合成メントールの製造に踏み切るまで役員会で激しい議論が行なわれた
    • [86]ブラジルの製脳業者が高砂への割安なメントン供給を止めようとしている情報をニューヨーク滞在中の中西がつかみ、原料をシトロネラ油へ多様化した
    • [87]1968年頃にはシトロネラの使用が年間1,300トン近くとなった
    • [89]粉末香料「高砂ミクロン」は1957年に製造に成功し、需要期の1962年に平塚工場へ大型スプレードライヤー5台を設置した
  • 証券 1963年15巻2号
    • [88]メントール(薄荷)の合成品については製法特許をもち100%の占有率を有し、天然品をも合わせた国内総需要量の約3分の1を同社で供給している

1961年5月31日、平泉貞吉社長が取締役会長へ退き、中西健次専務が代表取締役社長に就任した。甲斐荘楠香初代社長から数えて5代目で、事務系からは初めての社長となった[90]。1963年1月4日、高砂香料工業は香料会社として日本で初めて東京証券取引所第2部に上場した[91]。上場時の資本金は3億2,500万円、従業員は543名、販売先は日本専売公社花王石鹸森永製菓雪印乳業キリンビール資生堂など約1,200社に及んだ[92]。1968年11月に静岡県磐田郡豊田村の磐田工場が竣工し、1969年8月には東証第1部へ昇格、1970年2月9日には大田区体育館で創業50周年記念式典を開いた[93]。1970年3月時点の筆頭株主は日本生命の180万株で、三菱銀行が96万8,000株で3位に入った[94]。L-ドーパ需要の終息と円切り上げで合成香料が低迷し、1972年3月期の税引利益金は1億9,033万円へ落ちた[95]

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
    • [90]1961年5月31日の取締役会で平泉貞吉社長が取締役会長、中西健次専務が代表取締役社長に就任し、甲斐荘楠香初代社長から5代目にあたる初の事務系社長となった
    • [91]1963年1月4日に香料業界で初めて東京証券取引所第2部(化学部門)に上場した
    • [93]1968年11月21日に磐田工場(静岡県磐田郡豊田村)の竣工式を挙行、1969年8月1日から東証第1部へ昇格上場し、1970年2月9日に大田区体育館で創業50周年記念式典を挙行した
    • [95]L-ドーパ・ブームの終息と円切り上げによる輸出採算悪化で合成香料が低迷し、1972年3月期の税引利益金は1億9,033万円となった
  • 証券 1963年15巻2号
    • [92]上場時の資本金325,000千円、従業員543名(1962年9月30日現在)、販売先は日本専売公社・花王石鹸・森永製菓・雪印乳業・キリンビール・資生堂・武田食品工業など約1,200社
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [94]1970年3月時点の大株主は日本生命180万株、中江産業112万5,000株、三菱銀行96万8,000株
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
    • [78]日本生命が救済融資で要求したのは役員の更迭並びに簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を策定し利益を生み出す管理方式の3点である
    • [79]渡部慶之進が代表取締役会長として会社を統轄し財務管理を分掌、平泉社長は技術を分掌、中西は本人の希望で営業部長に就任した
    • [80]非採算部分を排除し月商5,000万円に抑えた計画の結果、1953年9月期は売上3億3,589万円・利益426万円、1954年3月期は売上3億8,045万円・利益613万円となった
    • [81]1955年から1960年にかけての売上高は年率平均12%で伸び、1956年11月に福岡出張所、1957年4月に名古屋出張所を開設した
    • [83]生産技術面で復調の導火線になったのは合成l-メントールと粉末香料である
    • [84]l-メントール工業化の課題は副生する異性メントールの分離であり、桂重雄研究所長のもとで小松昭らが分離技術を確立し1954年に日本で初めて合成メントールの製造に成功した
    • [85]ハッカは投機の対象として危険視されており、合成メントールの製造に踏み切るまで役員会で激しい議論が行なわれた
    • [86]ブラジルの製脳業者が高砂への割安なメントン供給を止めようとしている情報をニューヨーク滞在中の中西がつかみ、原料をシトロネラ油へ多様化した
    • [87]1968年頃にはシトロネラの使用が年間1,300トン近くとなった
    • [89]粉末香料「高砂ミクロン」は1957年に製造に成功し、需要期の1962年に平塚工場へ大型スプレードライヤー5台を設置した
    • [90]1961年5月31日の取締役会で平泉貞吉社長が取締役会長、中西健次専務が代表取締役社長に就任し、甲斐荘楠香初代社長から5代目にあたる初の事務系社長となった
    • [91]1963年1月4日に香料業界で初めて東京証券取引所第2部(化学部門)に上場した
    • [93]1968年11月21日に磐田工場(静岡県磐田郡豊田村)の竣工式を挙行、1969年8月1日から東証第1部へ昇格上場し、1970年2月9日に大田区体育館で創業50周年記念式典を挙行した
    • [95]L-ドーパ・ブームの終息と円切り上げによる輸出採算悪化で合成香料が低迷し、1972年3月期の税引利益金は1億9,033万円となった
  • 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」
    • [82]香料は1962年4月に自由化。香料メーカーは全国で約30社、1962年度の生産は200億円が予想され、そのなかで高砂香料工業の占有率は約25%、合成香料だけだと約40%。過去8年間の年間平均成長率は30〜40%
  • 証券 1963年15巻2号
    • [88]メントール(薄荷)の合成品については製法特許をもち100%の占有率を有し、天然品をも合わせた国内総需要量の約3分の1を同社で供給している
    • [92]上場時の資本金325,000千円、従業員543名(1962年9月30日現在)、販売先は日本専売公社・花王石鹸・森永製菓・雪印乳業・キリンビール・資生堂・武田食品工業など約1,200社
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [94]1970年3月時点の大株主は日本生命180万株、中江産業112万5,000株、三菱銀行96万8,000株

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沿革年表 1920〜2025年

高砂香料工業の沿革1920〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1920〜1945年台湾の樟脳副産油に賭けた技術者集団の創業と戦時の転換高砂香料を設立し香料の製造販売を開始★★
本社を移転
台北工場を開設
高砂化学工業に商号変更★★
1946〜1972年日本生命の融資と平塚工場への集約で立て直した戦後の再建平塚工場が竣工★★
販売会社の高砂香料を設立
高砂香料を吸収合併★★★
高砂香料工業に商号変更★★
東京証券取引所市場第二部に上場
Takasago USA, Inc.を設立★★
磐田工場が竣工★★
東京証券取引所市場第一部に指定替え
磐田工場にl-メントール製造設備が完成★★★
1973〜2000年石油危機で細ったメントールを不斉合成に切り替えた磐田工場Takasago Far East Co Pte. Ltd.を設立
Takasago Europe Perfumery Laboratory S.A.R.L.を設立
鹿島工場が竣工★★
磐田工場で不斉合成によるl-メントールの製造を開始★★★
Aceites Esenciales Y Derivados, S.A.の株式を取得★★
Takasago Europe G.m.b.H.を設立
磐田工場で医薬品中間体の製造を開始★★
平塚工場敷地内に総合研究所が竣工★★
上海高砂鑑臣香料有限公司を子会社化★★
2001〜2026年ノーベル化学賞の触媒技術と三原工場が支える日米欧亜の4極体制取締役の野依良治氏がノーベル化学賞を受賞★★
高砂香料(広州)有限公司を設立
Wessel Fragrances, Inc.から事業を譲受★★
Takasago Fragrancias E Aromas Ltda.が新事業所を開設
藤原久也平塚工場のフレーバー製造棟で火災が発生★★
桝村聡三原工場が竣工★★★
桝村聡Centre Ingredient Technology, Inc.を完全子会社化★★
桝村聡Takasago International (India) Pvt. Ltd.が新工場を竣工
桝村聡PT. Takasago International Indonesiaが新工場を竣工
桝村聡創業100周年
桝村聡プライム市場に移行
桝村聡高砂香料(張家港)有限公司を設立
出典・参考 9件
出典・参考
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 証券 1963年15巻2号
  • 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」

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