第一次世界大戦が始まるまで、日本の香料需要は調合香料を輸入してそのまま付香に使う水準にとどまり、国産の合成香料を売り出しても買い手がつかなかった[1]。大戦で輸入が細ると国産香料の需要が急に活発になり、丸見屋店主の三輪善兵衛氏は1912年に設立したミツワ化学研究所を香料の研究と製造の場へ広げた[2]。甲斐荘楠香氏は1904年に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業し、1910年に教職を退いて自費で渡欧した[3]。南仏グラースで天然香料を、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料を学んだのち、1914年に香料課長兼農事課長として同研究所に入った[4]。甲斐荘楠香氏は芳油からリナリルアセテートを、黒文字油からクロモジオールを作り、戦争で入手困難になったラベンダー油とベルガモット油の代用として売り出した[5]。
1918年11月に大戦が終わると合成香料の輸入が戻り、国産品は売れなくなった。三輪善兵衛氏はミツワ化学研究所の事業縮小を決め、それ以前から発明奨励案の採用や工業規則の制定、技師・技手の増給案を求めて店主と対立していた甲斐荘楠香氏と岸喜鑑氏に辞表の提出を迫った[6]。甲斐荘楠香氏は1919年7月25日、岸喜鑑氏は同月30日に辞表を出した[7]。岸喜鑑氏の調査課は課ごと廃止されて部下全員が解職された一方、甲斐荘楠香氏の香料課は残ったため、課長に殉じて退いた課員は自己都合の扱いとなり退職手当を受け取れなかった[8]。甲斐荘楠香氏は私財から1人50円から100円を贈り、若い技術者たちの当座の生活費に充てた[9]。
身の振り方を考えていた甲斐荘楠香氏に、岸喜鑑氏は香料会社の設立を勧め、株主を金儲け目当ての投資家ではなく香料事業を理解する学校関係の縁故に求める構想を示した[10]。2人は名簿を頼りに設立趣意書と目論見書を持って訪問先を回り、1920年2月5日、東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会を開いた。商号高砂香料株式会社の登記は9日、資本金は100万円で払込は25万円[11]。資金面を支えた佐伯四郎次氏が2か月で退いたあと、甲斐荘楠香氏が社長に就いた[12]。7月には本社を東京府荏原郡蒲田村へ移し[13]、経済恐慌で没落した中村水産研究所の敷地約9,000平方メートルを譲り受けた[14]。社員の配置は技術部15名に対し経理部4名で、部長も課も置かなかった[15]。
創業から樟脳は最大の課題であり続けた。日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功すると、天然樟脳は10年たたないうちに値段を5分の1へ下げて対抗した[16]。堀内利器氏は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟樹から樟脳を採るときに大量に出る樟脳油を高価な香料や薬品へ変えれば、天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると説いた[17]。ただし白油・赤油・藍色油に分かれる樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握り、高砂香料は原料に手が届かなかった[18]。金融恐慌をまともにかぶった鈴木商店が1927年4月4日に倒産すると、年産約3,000トンの副産油の販売が自由になった[19]。
高砂香料は商工省から工業研究奨励金を数回受け、これを元手に設備を広げてオゾン酸化法の研究に入った[20]。酸素を無声放電にさらす従来の方法では殺菌に使う程度の量しか得られないため、電圧を1万ボルト内外へ上げたうえで高周波を加え、ドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた酸化剤としての利用に踏み込んだ[21]。1928年に丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年には台湾の樟脳赤油から採ったサフロールを原料とするヘリオトロピンを創製し、外国製品と遜色のない品質を得た[22]。1929年にはスイスへアフロール3トンを輸出した[23]。1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒドとその誘導体の製造法で堀内利器氏と平泉貞吉氏に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された[24]。
台湾専売局の一部の担当官は1929年から1932年にかけて、樟脳副産油加工の合理化として日本香料薬品との合併を勧めた。堀内利器氏は台湾に渡って庶務課長の渡部慶之進氏と会い、商事優先の日本香料薬品と技術優先の高砂香料では合併しても実効が上がらないと説き、1932年11月に勧告を退けた[25]。逆に渡部慶之進氏は台北への工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台北工場建設陳情書を提出した[26]。台湾電力から台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートルを買収し、1935年5月4日に開場式を行った[27]。払下げは1930年にリナリルアセテート原料の芳油が特価で始まり、台北工場の完成した1935年に副産油全部の払下げ契約へ広がった[28]。1938年7月には本社を台北工場へ移し、資本金を250万円へ増やした[29]。
日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令下の原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった[30]。1939年7月、社名を高砂化学工業へ改め[31]、果実エッセンス・選鉱剤・溶剤・工業薬品の製造を始めた[32]。主原料の樟脳副産油は変わらないまま、製品の出口だけを香料から工業薬品へ移している[33]。非鉄金属の増産で浮遊選鉱剤の需要が高まると、堀内利器氏は1937年に旭電化の技師とともに足尾銅山を訪ね、高砂浮鉱油と名付けた選鉱剤を生んだ[34]。原料には台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を使い、最盛期の生産は年間1,000トンに達した[35]。1941年9月、堀内利器氏は日本選鉱剤統制株式会社の社長に就いた[36]。
1941年3月、堀内利器専務は帝国人造絹絲・旭電化工業・三井化学・台湾電力・日本カーバイトの出資を得て資本金500万円の台湾有機合成株式会社を設立し、専務取締役に就いた[37]。台湾の安い電力と石灰石からカーバイトを作り、アセチレンを経て航空燃料の原料であるブタノールを合成する計画で、工場用地は新竹市東勢の約43万平方メートル[38]。一方、創業を担った3人は4年余のあいだに相次いで欠けた。1937年4月18日に八木竹四郎常務が47歳で急逝し、1938年6月25日には甲斐荘楠香社長が59歳で世を去った[39]。1942年5月8日、南方経済調査団員として乗り込んだ太洋丸が東支那海で撃沈され、堀内利器専務も52歳で殉職した[40]。同年6月の株主総会以降、社長の席は空席のまま、平泉貞吉常務と阿部定雄常務の2名が会社を代表する合議制へ移った[41]。
1942年3月15日、高砂化学工業は東京支店と大阪支店を出張所へ縮小し、香料会社としての営業をほぼ止めた[42]。東京工場は飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要増を受けて1942年9月に軍監督工場、1943年10月には陸海軍共同管理工場に指定された[43]。フェニルエチルアルコールからは電波兵器向けの高周波絶縁材の原料となるスチレンモノマーを作り、オゾン発生装置を使ってロケットエンジン用酸化剤の過酸化水素濃厚液を試作した[44]。1945年2月9日には札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場を転用し、浮遊選鉱に欠かせないエチルザンセートの生産に入った[45]。同年4月15日の空襲で、蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建1棟を残して焼け落ちた[46]。
高砂化学工業は本社を台北に置いていたため、GHQから在外会社の指定を受けた[47]。内地に残る蒲田の東京工場、和歌山県の日高工場、北海道の札幌工場を動かす事業再開の許可は1945年12月に下りたものの、以後5年余りにわたって在外会社としてGHQの管理下に置かれ、活動は著しく制約された[48]。東京工場は曽我商店の斡旋で日本曹達からサッカリン液を譲り受け、手持ちの原料で作ったストロベリー・エッセンスなどを加えた濃縮シロップを売り出し、甘味に飢えていた市場がこれを吸収した[49]。1946年5月期に470万円だった1期の売上高は、同年12月期に1,800万円、1947年9月期には2,900万円へ伸びた[50]。当時の従業員は約300名であった[51]。
生産を戻すには原料の確保が要る。樟脳副産油は戦前に台湾産の払い下げを一手に受けていた分だけ内地産の実績がなく、病気静養中の渡部慶之進氏に頼んで大蔵省筋へ働きかけ、平泉貞吉常務は交友関係から再製樟脳株式会社とのルートを開いた[52]。シトロネラ油は結核治療薬のロジン酸を製造する名目でGHQの許可を取り、インドネシアから約5トンを輸入した。これが戦後第1回の原料輸入となった[53]。戦時中に選鉱剤用として輸入され国内に散在していたシトロネラ油も回収した[54]。GHQの命でアビエス油を集荷し、約5トンを欧米へ輸出したのが戦後輸出の第1号である[55]。
1946年初め、元海軍大佐の鶴尾定雄氏が、平塚市の旧海軍相模工廠化学実験部を工場へ転用できると長瀬義治常務に持ち込んだ[56]。台北工場を失っていた高砂化学工業では社内の意見が分かれたが、長瀬義治常務の裁決で開設に踏み切った[57]。大蔵省国有財産部が敷地の一部使用を認可したのは1946年8月で、開設は1947年3月8日である[58]。約3万9,600平方メートルの敷地に主力工場3棟と試験室・倉庫・事務所が点在するだけの状態から、初代工場長の鶴尾定雄氏以下約50名で出発した[59]。当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった[60]。
1948年8月4日、高砂化学工業は在外会社としての不便から抜けるため、資本金250万円で内地法人の高砂香料株式会社を設立し、10月末に500万円、12月に1,000万円へ増資して平塚工場の運転資金に充てた[61]。高砂化学工業の東京工場に対し、平塚工場は高砂香料の生産部門として運営され、両工場の販売は高砂香料が受け持った[62]。1949年8月の政令第291号により高砂化学工業は内地財産を整理して1,000万円を得、これを旧株主へ無償分配したうえで、1951年2月1日に資本金1,000万円の新高砂化学工業株式会社を設立した[63]。同社は同年、高砂香料株式会社と合併して払込資本金2,000万円となり[64]、商号を高砂香料工業株式会社に改めた[65]。
朝鮮戦争の特需は香料にも活発な買い進みを呼んだが、1951年7月に休戦交渉が始まると景気は沈静し、販売価格が下がった[66]。高値のときに発注した輸入香料が同年後半から入り、金融難のなかで市場相場が輸入原価を割った[67]。そこへ、GHQ管理下の5年間に旧高砂化学工業があげた利益への課税が、管理の解除と新会社設立に合わせて3,500万円賦課された[68]。分割払いの了解は取り付けたものの、月額300万円は当時の高砂香料工業にとって重い負担となった[69]。香料は平均2割の値下がりとなり、1951年12月に倍額増資して資本金を4,000万円としても金融難は解けず、1952年4月から給料の遅配が始まって、8月には分割支払いにまで追い込まれ、年末まで続いた[70]。
中西健次常務は1951年5月に日本生命から1,500万円を借り入れ、東京工場と平塚工場に工場財団を設定していたが、この資金は後ろ向きの穴埋めに回り、日本生命から責任を問われた[71]。救済融資にあたって日本生命は設備資金だけを引き受け、運転資金は三菱銀行を主体とし大和銀行が支えた[72]。融資の条件は日本生命からの監査役受け入れ、人員整理、非採算部門の排除と不要施設の売却で、1953年2月頃に話がまとまった[73]。高砂香料工業は日高工場を1952年10月に分離して南海果工株式会社とし、1953年に札幌工場を閉鎖して関西ペイント株式会社へ売却、選鉱剤の販売は同年7月に協和醗酵と設立したフロス化学株式会社へ移した[74]。南海果工は和歌山県の農業協同組合連合会と折半出資で、蜜柑の濃縮果汁を日本で最初に商品化している[75]。生産は平塚へ集め、蒲田は研究所と倉庫に改めた[76]。長瀬義治専務は全責任を負い、1953年3月に退任した[77]。
日本生命が救済融資で求めたのは、役員の更迭と簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を定めて利益を生む管理方式の3点であった[78]。1953年、渡部慶之進氏が代表取締役会長として会社を統轄して財務管理を分掌し、平泉貞吉社長は技術を、中西健次氏は本人の希望で営業を受け持った[79]。非採算部分を外して月商5,000万円に抑えた計画は予定を上回り、1953年9月期は売上高3億3,589万円・利益426万円、1954年3月期は売上高3億8,045万円・利益613万円となった[80]。1955年から1960年にかけて売上高は年率平均12%で伸び、1956年11月に福岡出張所、1957年4月に名古屋出張所を開いた[81]。香料の輸入が自由化された1962年4月の時点で、過去8年間の年間平均成長率は30〜40%、香料メーカー約30社のなかで高砂香料工業の占有率は約25%、合成香料だけなら約40%であった[82]。
合成l-メントールと粉末香料が復調を引っ張った[83]。l-メントールの工業化を阻んでいたのは副生する異性メントールの分離であったが、桂重雄研究所長のもとで小松昭氏らが完全分離の技術を確立し、1954年に日本で初めて合成メントールの製造に成功した[84]。ハッカは投機の対象として危険視され、着手の可否をめぐって役員会では激しい議論が交わされた[85]。ブラジルの製脳業者が競争相手への割安なメントン供給を止めようとしているとの情報をニューヨーク滞在中の中西健次専務がつかみ、原料をシトロネラ油へ移した[86]。1968年頃のシトロネラ油の使用は年間1,300トン近くまで増えた[87]。合成メントールは製法特許を持って国内占有率100%を握り、天然品を含めた国内総需要量の約3分の1を高砂香料工業が供給した[88]。1957年には粉末香料『高砂ミクロン』が完成し、1962年に平塚工場へ大型のスプレードライヤーが5台入った[89]。
1961年5月31日、平泉貞吉社長が取締役会長へ退き、中西健次専務が代表取締役社長に就任した。甲斐荘楠香初代社長から数えて5代目で、事務系からは初めての社長となった[90]。1963年1月4日、高砂香料工業は香料会社として日本で初めて東京証券取引所第2部に上場した[91]。上場時の資本金は3億2,500万円、従業員は543名、販売先は日本専売公社・花王石鹸・森永製菓・雪印乳業・キリンビール・資生堂など約1,200社に及んだ[92]。1968年11月に静岡県磐田郡豊田村の磐田工場が竣工し、1969年8月には東証第1部へ昇格、1970年2月9日には大田区体育館で創業50周年記念式典を開いた[93]。1970年3月時点の筆頭株主は日本生命の180万株で、三菱銀行が96万8,000株で3位に入った[94]。L-ドーパ需要の終息と円切り上げで合成香料が低迷し、1972年3月期の税引利益金は1億9,033万円へ落ちた[95]。
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|---|---|---|---|---|
| 1920〜1945年台湾の樟脳副産油に賭けた技術者集団の創業と戦時の転換 | 高砂香料を設立し香料の製造販売を開始 | ★★ | ||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 台北工場を開設 | ★ | |||
| 高砂化学工業に商号変更 | ★★ | |||
| 1946〜1972年日本生命の融資と平塚工場への集約で立て直した戦後の再建 | 平塚工場が竣工 | ★★ | ||
| 販売会社の高砂香料を設立 | ★ | |||
| 高砂香料を吸収合併 | ★★★ | |||
| 高砂香料工業に商号変更 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| Takasago USA, Inc.を設立 | ★★ | |||
| 磐田工場が竣工 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 磐田工場にl-メントール製造設備が完成 | ★★★ | |||
| 1973〜2000年石油危機で細ったメントールを不斉合成に切り替えた磐田工場 | Takasago Far East Co Pte. Ltd.を設立 | ★ | ||
| Takasago Europe Perfumery Laboratory S.A.R.L.を設立 | ★ | |||
| 鹿島工場が竣工 | ★★ | |||
| 磐田工場で不斉合成によるl-メントールの製造を開始 | ★★★ | |||
| Aceites Esenciales Y Derivados, S.A.の株式を取得 | ★★ | |||
| Takasago Europe G.m.b.H.を設立 | ★ | |||
| 磐田工場で医薬品中間体の製造を開始 | ★★ | |||
| 平塚工場敷地内に総合研究所が竣工 | ★★ | |||
| 上海高砂鑑臣香料有限公司を子会社化 | ★★ | |||
| 2001〜2026年ノーベル化学賞の触媒技術と三原工場が支える日米欧亜の4極体制 | 取締役の野依良治氏がノーベル化学賞を受賞 | ★★ | ||
| 高砂香料(広州)有限公司を設立 | ★ | |||
| Wessel Fragrances, Inc.から事業を譲受 | ★★ | |||
| Takasago Fragrancias E Aromas Ltda.が新事業所を開設 | ★ | |||
| 藤原久也 | 平塚工場のフレーバー製造棟で火災が発生 | ★★ | ||
| 桝村聡 | 三原工場が竣工 | ★★★ | ||
| 桝村聡 | Centre Ingredient Technology, Inc.を完全子会社化 | ★★ | ||
| 桝村聡 | Takasago International (India) Pvt. Ltd.が新工場を竣工 | ★ | ||
| 桝村聡 | PT. Takasago International Indonesiaが新工場を竣工 | ★ | ||
| 桝村聡 | 創業100周年 | ★ | ||
| 桝村聡 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 桝村聡 | 高砂香料(張家港)有限公司を設立 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(高砂香料工業)