第1章 年〜年

高砂香料工業:台湾の樟脳副産油を原料とした高砂香料の創業

1920年〜ミツワ化学研究所を退いた香料技術者たちによる創業

甲斐荘楠香氏が京都帝国大学理工科純正化学科を出たのは1904年で、1910年には教職を辞し、費用を自ら負って欧州へ渡った。第一次世界大戦の前まで、日本の香料は海外で調合されたものを買い入れ、手を加えずに香り付けへ回すのが精一杯だった。国内で合成した香料を売りに出しても、引き取り手は現れなかった。大戦で輸入が細ると国産品を求める動きがにわかに強まり、丸見屋店主の三輪善兵衛氏は、1912年に立ち上げていたミツワ化学研究所に香料の研究と製造を担わせるようにした。南仏グラースで天然香料を、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料を学んだのち、1914年に香料課長兼農事課長として同研究所に入った。甲斐荘楠香氏は芳油からリナリルアセテートを、黒文字油からクロモジオールを作り、戦争で入手困難になったラベンダー油とベルガモット油の代用として売り出した。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [1]甲斐荘楠香は1904年7月に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業して大学に残り、1910年に教職を退いて香料研究のため自費で渡欧した
    • [2]第一次世界大戦前の国内香料需要は調合香料の輸入に依存し、国産合成香料には買い手がつかなかった
    • [3]三輪善兵衛が1912年にミツワ化学研究所を創立し、大戦による香料界の情勢一変を受けて香料事業へ進出した
    • [4]南仏グラースで天然香料を学び、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料の研究に従事したのち、1914年にミツワ化学研究所の香料課長兼農事課長として迎えられた
    • [5]甲斐荘楠香は芳油からリナリルアセテート、黒文字油からクロモジオールを製造し、ラベンダー油・ベルガモット油の代用として売り出した

1918年11月に大戦が終わると合成香料の輸入が戻り、国産品は売れなくなった。三輪善兵衛氏はミツワ化学研究所の事業縮小を決め、それ以前から発明奨励案の採用や工業規則の制定、技師・技手の増給案を求めて店主と対立していた甲斐荘楠香氏と岸喜鑑氏に辞表の提出を迫った。甲斐荘楠香氏は1919年7月25日、岸喜鑑氏は同月30日に辞表を出した。岸喜鑑氏の調査課は課ごと廃止されて部下全員が解職された一方、甲斐荘楠香氏の香料課は残ったため、課長に殉じて退いた課員は自己都合の扱いとなり退職手当を受け取れなかった。甲斐荘楠香氏は私財から1人50円から100円を贈り、若い技術者たちの当座の生活費に充てた。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [6]大戦終結で輸入合成香料が戻り、三輪善兵衛は研究所の事業縮小を決意、発明奨励案・工業規則・増給案をめぐって対立していた甲斐荘楠香と岸喜鑑に辞職願の提出を迫った
    • [7]甲斐荘楠香は1919年7月25日、岸喜鑑は同月30日に辞表を提出した
    • [8]調査課は廃止され部下全員が解職されて退職手当が出たが、香料課は存続したため殉じて退職した課員には手当が出なかった
    • [9]甲斐荘楠香は私財から1人50円から100円を贈って当座の手当とした

身の振り方を考えていた甲斐荘楠香氏に、岸喜鑑氏は香料会社の設立を勧め、株主を金儲け目当ての投資家ではなく香料事業を理解する学校関係の縁故に求める構想を示した。2人は名簿を頼りに設立趣意書と目論見書を持って訪問先を回り、1920年2月5日、東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会を開いた。商号高砂香料株式会社の登記は9日、資本金は100万円で払込は25万円。資金面を支えた佐伯四郎次氏が2か月で退いたあと、甲斐荘楠香氏が社長に就任した。7月には本社を東京府荏原郡蒲田村へ移し、経済恐慌で没落した中村水産研究所の敷地約9,000平方メートルを譲り受けた。社員の配置は技術部15名に対し経理部4名で、部長も課も置かなかった。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [10]岸喜鑑が甲斐荘楠香に香料会社創立を勧め、株主を香料事業を理解する学校関係その他の縁故に求める設立構想を説明した
    • [11]1920年2月5日に東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会、2月9日に高砂香料株式会社の設立登記、資本金100万円・払込25万円
    • [12]資金面で世話になった佐伯四郎次が社長として出発したが2か月で退き、甲斐荘楠香が社長となった
    • [14]大戦後の経済恐慌で没落した中村水産研究所の一部約9,000平方メートル(2,720坪)を譲り受けた
    • [15]技術部15名、経理部4名の割合で、部長を置かず社長の下に技術部と経理部の2部だけを置く組織だった
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1920年7月、東京府荏原郡蒲田村に本社を移転した
参考文献[1]-[15]
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [1]甲斐荘楠香は1904年7月に京都帝国大学理工科純正化学科を卒業して大学に残り、1910年に教職を退いて香料研究のため自費で渡欧した
    • [2]第一次世界大戦前の国内香料需要は調合香料の輸入に依存し、国産合成香料には買い手がつかなかった
    • [3]三輪善兵衛が1912年にミツワ化学研究所を創立し、大戦による香料界の情勢一変を受けて香料事業へ進出した
    • [4]南仏グラースで天然香料を学び、スイス・ジュネーブのジボーダン香料製造所で合成香料の研究に従事したのち、1914年にミツワ化学研究所の香料課長兼農事課長として迎えられた
    • [5]甲斐荘楠香は芳油からリナリルアセテート、黒文字油からクロモジオールを製造し、ラベンダー油・ベルガモット油の代用として売り出した
    • [6]大戦終結で輸入合成香料が戻り、三輪善兵衛は研究所の事業縮小を決意、発明奨励案・工業規則・増給案をめぐって対立していた甲斐荘楠香と岸喜鑑に辞職願の提出を迫った
    • [7]甲斐荘楠香は1919年7月25日、岸喜鑑は同月30日に辞表を提出した
    • [8]調査課は廃止され部下全員が解職されて退職手当が出たが、香料課は存続したため殉じて退職した課員には手当が出なかった
    • [9]甲斐荘楠香は私財から1人50円から100円を贈って当座の手当とした
    • [10]岸喜鑑が甲斐荘楠香に香料会社創立を勧め、株主を香料事業を理解する学校関係その他の縁故に求める設立構想を説明した
    • [11]1920年2月5日に東京市京橋区宗十郎町の日本貿易協会で設立総会、2月9日に高砂香料株式会社の設立登記、資本金100万円・払込25万円
    • [12]資金面で世話になった佐伯四郎次が社長として出発したが2か月で退き、甲斐荘楠香が社長となった
    • [14]大戦後の経済恐慌で没落した中村水産研究所の一部約9,000平方メートル(2,720坪)を譲り受けた
    • [15]技術部15名、経理部4名の割合で、部長を置かず社長の下に技術部と経理部の2部だけを置く組織だった
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1920年7月、東京府荏原郡蒲田村に本社を移転した

1929年〜鈴木商店倒産で自由になった台湾樟脳副産油と台北工場

創業から樟脳は最大の課題であり続けた。日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功すると、天然樟脳は10年たたないうちに値段を5分の1へ下げて対抗した。樟樹から樟脳を採るときに大量に出る樟脳油を高価な香料や薬品へ変えれば、天然樟脳の値下がりを埋め合わせられる——堀内利器氏が1929年8月の"高砂香料時報"で示した見立てである。ただし白油・赤油・藍色油に分かれる樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握り、高砂香料は原料に手が届かなかった。金融恐慌をまともにかぶった鈴木商店が1927年4月4日に倒産すると、年産約3,000トンの副産油の販売が自由になった。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [16]日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功し、合成樟脳の市場投入から10年たたないうちに天然樟脳は値段を5分の1へ下げた
    • [17]堀内利器は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟脳油を原料に高価な香料や薬品を採れば天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると論じた
    • [18]樟脳油を蒸留して分ける白油・赤油・藍色油などの樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握っており、高砂香料は高度利用に手が出せなかった
    • [19]鈴木商店は金融恐慌で1927年4月4日に倒産し、樟脳副産油の販売が自由になった。当時の副産油の年間生産高は約3,000トン

高砂香料は商工省から工業研究奨励金を数回受け、これを元手に設備を広げてオゾン酸化法の研究に入った。酸素を無声放電にさらす従来の方法では殺菌に使う程度の量しか得られないため、電圧を1万ボルト内外へ上げたうえで高周波を加え、ドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた酸化剤としての利用に着手した。1928年に丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年には台湾の樟脳赤油から採ったサフロールを原料とするヘリオトロピンを創製し、外国製品と遜色のない品質を得た。1929年にはスイスへアフロール3トンを輸出した。1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒドとその誘導体の製造法で堀内利器氏と平泉貞吉氏に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [20]商工省は高砂香料の樟脳副産油利用研究に対して数回にわたり奨励金を交付し、高砂香料はこれを基礎に設備を拡充してオゾン酸化法の研究に取り組んだ
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [21]従来の無声放電では殺菌用程度の量しかオゾンが得られず、電圧を1万ボルト内外に高めたうえ高周波を加える方式をドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた
    • [22]1928年にオゾン酸化法で丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年に台湾の樟脳赤油から得たサフロールを原料とするヘリオトロピンを製造し、外国製品と遜色のない品質を得た
    • [24]1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒド並びにその誘導体の製造法により堀内利器と平泉貞吉に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [23]1929年にスイスへアフロール3トンを輸出した

台湾専売局の一部の担当官は1929年から1932年にかけて、樟脳副産油加工の合理化として日本香料薬品との合併を勧めた。堀内利器氏は台湾に渡って庶務課長の渡部慶之進氏と会い、商事優先の日本香料薬品と技術優先の高砂香料では合併しても実効が上がらないと説き、1932年11月に勧告を退けた。逆に渡部慶之進氏は台北への工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台北工場建設陳情書を提出した。台湾電力から台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートルを買収し、1935年5月4日に開場式を行った。払下げは1930年にリナリルアセテート原料の芳油が特価で始まり、台北工場の完成した1935年に副産油全部の払下げ契約へ広がった。1938年7月には本社を台北工場へ移し、資本金を250万円へ増やした。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [25]1929年から1932年にかけて台湾専売局の一部担当官が日本香料薬品と高砂香料の合併を勧めたが、堀内利器が渡台して庶務課長の渡部慶之進と会談し、技術優先の高砂香料と商事優先の日本香料薬品の合併は合理化にならないとの結論を得て、1932年11月に合併話は終わった
    • [26]渡部慶之進が台湾での工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台湾専売局へ台北工場建設陳情書を提出し受理された
    • [27]台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートル(3,500坪)を台湾電力から買収し、1935年5月4日に台北工場の開場式を行った
    • [28]1930年にリナリルアセテート原料として芳油の特価払下げがあり、台北工場ができた1935年に副産油全部の払下げ契約が締結された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [29]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、資本金を250万円に増資した
参考文献[16]-[29]
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [16]日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国となったが、ドイツが合成樟脳の工業生産に成功し、合成樟脳の市場投入から10年たたないうちに天然樟脳は値段を5分の1へ下げた
    • [17]堀内利器は1929年8月の『高砂香料時報』で、樟脳油を原料に高価な香料や薬品を採れば天然樟脳の値下がりを埋め合わせられると論じた
    • [18]樟脳油を蒸留して分ける白油・赤油・藍色油などの樟脳副産油は1927年まで神戸の鈴木商店が一手に握っており、高砂香料は高度利用に手が出せなかった
    • [19]鈴木商店は金融恐慌で1927年4月4日に倒産し、樟脳副産油の販売が自由になった。当時の副産油の年間生産高は約3,000トン
    • [20]商工省は高砂香料の樟脳副産油利用研究に対して数回にわたり奨励金を交付し、高砂香料はこれを基礎に設備を拡充してオゾン酸化法の研究に取り組んだ
    • [25]1929年から1932年にかけて台湾専売局の一部担当官が日本香料薬品と高砂香料の合併を勧めたが、堀内利器が渡台して庶務課長の渡部慶之進と会談し、技術優先の高砂香料と商事優先の日本香料薬品の合併は合理化にならないとの結論を得て、1932年11月に合併話は終わった
    • [26]渡部慶之進が台湾での工場建設を持ちかけ、高砂香料は1934年3月に台湾専売局へ台北工場建設陳情書を提出し受理された
    • [27]台北市大安字竜安坡の約11,550平方メートル(3,500坪)を台湾電力から買収し、1935年5月4日に台北工場の開場式を行った
    • [28]1930年にリナリルアセテート原料として芳油の特価払下げがあり、台北工場ができた1935年に副産油全部の払下げ契約が締結された
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
    • [21]従来の無声放電では殺菌用程度の量しかオゾンが得られず、電圧を1万ボルト内外に高めたうえ高周波を加える方式をドイツ・ハンブルクのバニリンファブリクが工業化していた
    • [22]1928年にオゾン酸化法で丁字油のオイゲノールを原料とするバニリンを、1929年に台湾の樟脳赤油から得たサフロールを原料とするヘリオトロピンを製造し、外国製品と遜色のない品質を得た
    • [24]1932年9月、プロトカテキュイック・アルデヒド並びにその誘導体の製造法により堀内利器と平泉貞吉に帝国発明協会から恩賜発明奨励金600円が交付された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」
    • [23]1929年にスイスへアフロール3トンを輸出した
    • [29]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、資本金を250万円に増資した

1939年〜香料から浮遊選鉱剤と軍需溶剤へ転じた高砂化学工業

日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令下の原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった。1939年7月、社名を高砂化学工業へ改め、果実エッセンス・選鉱剤・溶剤・工業薬品の製造を開始した。主原料の樟脳副産油は変わらないまま、製品の出口だけを香料から工業薬品へ移している。非鉄金属の増産で浮遊選鉱剤の需要が高まると、堀内利器氏は1937年に旭電化の技師とともに足尾銅山を訪ね、高砂浮鉱油と名付けた選鉱剤を生んだ。原料には台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を使い、最盛期の生産は年間1,000トンに達した。1941年9月、堀内利器氏は日本選鉱剤統制株式会社の社長に就任した。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [30]日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令による原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった
    • [32]社名変更にあわせて果実エッセンス、選鉱剤、溶剤、工業薬品などの製造を開始した
    • [33]主原料は変わらず、製品へのもってゆき方が香料から工業薬品系統へ移った
    • [34]非鉄金属増産で浮遊選鉱剤の需要が高まり、堀内利器は1937年に旭電化の鹿島技師とともに足尾銅山を訪れて技術を打ち合わせ、高砂浮鉱油と命名された浮遊選鉱剤が生まれた
    • [35]高砂浮鉱油は台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を原料とし、最盛時には年間1,000トンの生産となった
    • [36]堀内利器は1941年9月に日本選鉱剤統制株式会社の社長に就任した
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1939年7月、社名を高砂化学工業株式会社と改称した

1941年3月、堀内利器専務は帝国人造絹絲・旭電化工業・三井化学・台湾電力・日本カーバイトの出資を得て資本金500万円の台湾有機合成株式会社を設立し、専務取締役に就任した。台湾の安い電力と石灰石からカーバイトを作り、アセチレンを経て航空燃料の原料であるブタノールを合成する計画で、工場用地は新竹市東勢の約43万平方メートル。一方、創業を担った3人は4年余のあいだに相次いで欠けた。1937年4月18日に八木竹四郎常務が47歳で急逝し、1938年6月25日には甲斐荘楠香社長が59歳で世を去った。1942年5月8日、南方経済調査団員として乗り込んだ太洋丸が東支那海で撃沈され、堀内利器専務も52歳で殉職した。同年6月の株主総会以降、社長の席は空席のまま、平泉貞吉常務と阿部定雄常務の2名が会社を代表する合議制へ移った。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [37]1941年3月に資本金500万円の台湾有機合成株式会社が設立され、堀内利器が専務取締役に就任。帝国人造絹絲、旭電化、三井化学、台湾電力、日本カーバイトが協力出資者となった
    • [38]台湾の安い電力と台湾産石灰石からカーバイトをつくりブタノールを合成する計画で、航空燃料の原料であるブタノールなどを製造する工場用地として新竹市東勢に約43万平方メートル(13万坪)を取得した
    • [39]1937年4月18日に八木竹四郎常務が行年47歳で急逝し、1938年6月25日に甲斐荘楠香社長が行年59歳で逝去した
    • [40]1942年5月8日、南方経済調査団員として乗船した太洋丸が東支那海で敵潜水艦の雷撃を受け沈没し、堀内利器専務が行年52歳で殉職した
    • [41]1942年6月22日の第45回定時株主総会で役員異動を決議し、社長の席を空席のまま常務取締役平泉貞吉と常務取締役阿部定雄の2名がそれぞれ会社を代表する合議制をとった

1942年3月15日、高砂化学工業は東京支店と大阪支店を出張所へ縮小し、香料会社としての営業をほぼ止めた。東京工場は飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要増を受けて1942年9月に軍監督工場、1943年10月には陸海軍共同管理工場に指定された。フェニルエチルアルコールからは電波兵器向けの高周波絶縁材の原料となるスチレンモノマーを作り、オゾン発生装置を使ってロケットエンジン用酸化剤の過酸化水素濃厚液を試作した。1945年2月9日には札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場を転用し、浮遊選鉱に欠かせないエチルザンセートの生産に入った。同年4月15日の空襲で、蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建1棟を残して焼け落ちた。

  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [42]1942年3月15日に東京支店と大阪支店を縮小してそれぞれ出張所とし、香料会社としての営業活動はほとんど停止した
    • [43]東京工場で生産していた飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要が増え、1942年9月に東京工場が軍監督工場、1943年10月に陸海軍共同管理工場に指定された
    • [44]フェニルエチルアルコールから電波兵器用の高周波絶縁特性に優れるポリマーの原料となるスチレンモノマーを製造し、オゾン発生装置を利用してロケットエンジン用燃料酸化剤(過酸化水素の濃厚液)を試作した
    • [45]1945年2月9日、札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場が転用され、非鉄金属の浮遊選鉱に不可欠のエチルザンセートを生産する札幌工場が開場した
    • [46]1945年4月15日の空襲による爆撃と火災で蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建の工場1棟以外すべてが焼失し、機能を失った
参考文献[30]-[46]
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
    • [30]日華事変が長期化するなか、増資を願い出ても物資統制令による原料配給を願い出ても、高砂香料という社名では話が進まなかった
    • [32]社名変更にあわせて果実エッセンス、選鉱剤、溶剤、工業薬品などの製造を開始した
    • [33]主原料は変わらず、製品へのもってゆき方が香料から工業薬品系統へ移った
    • [34]非鉄金属増産で浮遊選鉱剤の需要が高まり、堀内利器は1937年に旭電化の鹿島技師とともに足尾銅山を訪れて技術を打ち合わせ、高砂浮鉱油と命名された浮遊選鉱剤が生まれた
    • [35]高砂浮鉱油は台湾の樟脳とジャワのシトロネラ油を原料とし、最盛時には年間1,000トンの生産となった
    • [36]堀内利器は1941年9月に日本選鉱剤統制株式会社の社長に就任した
    • [37]1941年3月に資本金500万円の台湾有機合成株式会社が設立され、堀内利器が専務取締役に就任。帝国人造絹絲、旭電化、三井化学、台湾電力、日本カーバイトが協力出資者となった
    • [38]台湾の安い電力と台湾産石灰石からカーバイトをつくりブタノールを合成する計画で、航空燃料の原料であるブタノールなどを製造する工場用地として新竹市東勢に約43万平方メートル(13万坪)を取得した
    • [39]1937年4月18日に八木竹四郎常務が行年47歳で急逝し、1938年6月25日に甲斐荘楠香社長が行年59歳で逝去した
    • [40]1942年5月8日、南方経済調査団員として乗船した太洋丸が東支那海で敵潜水艦の雷撃を受け沈没し、堀内利器専務が行年52歳で殉職した
    • [41]1942年6月22日の第45回定時株主総会で役員異動を決議し、社長の席を空席のまま常務取締役平泉貞吉と常務取締役阿部定雄の2名がそれぞれ会社を代表する合議制をとった
    • [42]1942年3月15日に東京支店と大阪支店を縮小してそれぞれ出張所とし、香料会社としての営業活動はほとんど停止した
    • [43]東京工場で生産していた飛行機用塗料溶剤ベンジルアルコールの需要が増え、1942年9月に東京工場が軍監督工場、1943年10月に陸海軍共同管理工場に指定された
    • [44]フェニルエチルアルコールから電波兵器用の高周波絶縁特性に優れるポリマーの原料となるスチレンモノマーを製造し、オゾン発生装置を利用してロケットエンジン用燃料酸化剤(過酸化水素の濃厚液)を試作した
    • [45]1945年2月9日、札幌市外琴似町の矢沢薄荷工場が転用され、非鉄金属の浮遊選鉱に不可欠のエチルザンセートを生産する札幌工場が開場した
    • [46]1945年4月15日の空襲による爆撃と火災で蒲田の東京工場は鉄筋コンクリート2階建の工場1棟以外すべてが焼失し、機能を失った
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1939年7月、社名を高砂化学工業株式会社と改称した

筆者考察

高砂香料の最初の25年を決めたのは、技術ではなく原料を握る側に立てたかどうかである。甲斐荘楠香氏と岸喜鑑氏がミツワ化学研究所を退いて起こした会社は、技術部15名に対し経理部4名という偏った配置で出発した。だが合成の腕だけでは売る品にならない。日清戦争で台湾の樟樹を得た日本は世界唯一の樟脳国になったが、ドイツが合成樟脳を工業化すると天然樟脳は10年たたずに値を5分の1へ落とす。その樟脳を採るときに大量に出る副産油を高価な香料へ変えるという構想が形になったのは、1927年に鈴木商店が倒産して年産約3,000トンの副産油の販売が自由になったからだった。会社の外で起きた破綻が、原料に手の届かなかった技術者集団へ入口を渡したのである。

原料を握ることは、同時に台湾へ縛られることでもあった。1935年に台北工場を開き、1938年には本社まで台北へ移して、副産油全部の払下げ契約を得る。原料と生産と本社が一つの島に集まった形は、平時には効率がよく、戦時には逃げ場がない。1932年に台湾専売局が勧めた日本香料薬品との合併を、商事優先の相手とでは実効が上がらないとして退けたのも、技術で立つ筋を通した判断だった。高砂化学工業への改称も、浮遊選鉱剤や航空機用溶剤への転換も、樟脳副産油という同じ入口の先で出口だけを差し替える動きだった。創業を担った3人が4年余のあいだに相次いで欠け、1945年4月の空襲で蒲田の東京工場が焼け落ちたとき、残されたのは原料も生産も本社も台湾へ預けたままの会社だった。

出典・参考

4件
出典・参考
  • 高砂香料工業 有価証券報告書【沿革】
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「創成期」
  • 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第1伸展期」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「高砂香料工業」

免責事項およびポリシー