高砂香料工業:平塚工場への集約と合成メントールによる再建
1946年〜台北工場の喪失を埋めた旧海軍相模工廠の転用
1945年12月、高砂化学工業は連合国軍総司令部と大蔵省から在外会社としての指定管理を受けた。1938年7月に本社を台北工場へ移していたためで、内地の事業場だけが再開の許可を得て、空襲で焼けた東京工場の復旧に入った。台北工場は接収されたまま縁が切れ、台湾産の樟脳副産油を一手に払い下げられてきた実績は、内地産の原料には通用しなかった。復興は、疎開先の日高工場と札幌工場へ移していた装置の一部を回収し、派遣していた人員を戻すところから始まった。内地産の樟脳副産油については、病気で静養していた渡部慶之進氏に依頼して大蔵省筋へ働きかけ、平泉貞吉常務は再製樟脳との間にルートを開いた。シトロネラ油は結核治療薬ロジン酸を製造する名目で総司令部の許可を得て、インドネシアから約5トンを輸入した。
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 沿革
- [1]1945年12月、連合軍総司令部と大蔵省から在外会社として指定管理を受けた
- [2]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、在内地事業場は再開の許可を得て被災した東京工場を復旧した
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [3]台北工場は戦後接収されたまま縁が切れていた
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [4]戦前は台湾産の樟脳副産油の払下げを一手に受けていた関係で、内地産のものには実績がなかった
- [5]戦後の復興は東京工場の復旧から始まり、戦時中に疎開の意味もあって日高工場・札幌工場へ移設した装置の一部を回収し、派遣した人員も徐々に戻した
- [6]内地産樟脳副産油の入手のため、病気静養中であった渡部慶之進に依頼して大蔵省筋に働きかけ、平泉常務は再製樟脳株式会社との間にルートを開いた
- [7]結核治療薬のロジン酸を製造する名目でGHQの許可を得てインドネシアから約5トンのシトロネラ油を輸入し、これが戦後第1回の原料輸入となった
1946年のはじめ、元海軍大佐の鶴尾定雄氏から、平塚市にある旧海軍相模工廠化学実験部を工場として転用できるという話が、長瀬義治常務へ持ち込まれた。長瀬義治常務と鶴尾定雄氏は親戚の間柄だった。台北工場を失っていた高砂化学工業はこの話に心を動かしたが、社内の意見はまちまちで、最後は長瀬義治常務の裁決で開設に踏み切った。平塚工場の敷地は約3万9,600平方メートルで、爆撃の跡が残る荒れ地に主力工場3棟が並ぶだけだったが、その広さと形はすでに失っていた台北工場にほぼ重なっていた。そこへ至るまで、総司令部や関係官庁との交渉は方針が固まらないまま長引き、大蔵省国有財産部が一部の使用を認めたのは8月のことである。工場が開いたのは1947年3月8日で、初代工場長の鶴尾定雄氏のもと約50名が働き、ベンジルクロライド、サフロール、選鉱剤を主につくった。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [8]1946年のはじめ頃、元海軍大佐の鶴尾定雄から平塚市の旧海軍相模工廠化学実験部を高砂の工場として転用できると長瀬常務にもちこまれた
- [9]長瀬義治と鶴尾定雄は親戚の間柄であった
- [10]台北工場を失っていた高砂はこの話に大いに心を動かしたが、社内の意見はまちまちで、結局は長瀬常務の裁決で平塚工場の開設に踏み切った
- [11]約3万9,600平方メートルの敷地に主力工場3棟があるのみで、平塚工場の敷地の広さと形は失われた台北工場とほとんど同じであった
- [12]GHQおよび関係官庁との折衝はGHQの方針が定まらず難航したが、8月に一部使用が大蔵省国有財産部より認可された
- [14]初代工場長は鶴尾定雄、開場当時の従業員は工場長以下約50名で、当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 沿革
- [13]1947年3月8日に平塚工場が開設された
在外会社の指定は資金の調達を縛った。1948年8月4日、高砂化学工業はその不便から抜けるために内地法人の高砂香料株式会社を設立し、資本金250万円で出発して10月末に500万円、12月には1,000万円まで積み増して平塚工場の運転資金に充てた。1949年8月に内地財産の整理を認める政令が出ると、高砂化学工業は1,000万円を受け取り、それを旧株主へ無償で配った。続いて1951年2月1日、資本金1,000万円で新しい高砂化学工業が生まれた。それまでの体制は、東京工場を高砂化学工業、平塚工場を高砂香料の生産部門とし、販売はどちらの分も高砂香料が受け持つ二本立てだった。その高砂香料は別会社でいる理由を失い、同年8月1日に新会社と対等に合併した。払込資本金は2,000万円となり、商号は高砂香料工業に改まった。経営陣は社長が平泉貞吉氏、専務が長瀬義治氏、常務が中西健次氏である。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [15]1948年8月4日、在外会社としての不便さから脱出するため内地法人の高砂香料株式会社を設立した
- [16]高砂香料株式会社は資本金250万円で出発し、10月末に500万円へ増資、12月にさらに倍額増資して1,000万円となり、平塚工場の運転資金にあてられた
- [17]1949年8月1日付の政令第291号により内地財産を整理して1,000万円を得て旧株主に無償分配し、1951年2月1日に資本金1,000万円で新高砂化学工業株式会社を設立した
- [18]高砂化学の東京工場に対し平塚工場は高砂香料の生産部門として運営され、両工場の販売部門の役割を高砂香料が担当した
- [20]1951年8月1日の対等合併時の役員は取締役社長平泉貞吉、専務取締役長瀬義治、常務取締役中西健次らであった
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 資本金の変遷
- [19]1951年、高砂香料株式会社を吸収合併して資本金2,000万円となり、商号を高砂香料工業株式会社に変更した
参考文献[1]-[20]
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 沿革
- [1]1945年12月、連合軍総司令部と大蔵省から在外会社として指定管理を受けた
- [2]1938年7月に本社を台北工場へ移設し、在内地事業場は再開の許可を得て被災した東京工場を復旧した
- [13]1947年3月8日に平塚工場が開設された
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [3]台北工場は戦後接収されたまま縁が切れていた
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [4]戦前は台湾産の樟脳副産油の払下げを一手に受けていた関係で、内地産のものには実績がなかった
- [5]戦後の復興は東京工場の復旧から始まり、戦時中に疎開の意味もあって日高工場・札幌工場へ移設した装置の一部を回収し、派遣した人員も徐々に戻した
- [6]内地産樟脳副産油の入手のため、病気静養中であった渡部慶之進に依頼して大蔵省筋に働きかけ、平泉常務は再製樟脳株式会社との間にルートを開いた
- [7]結核治療薬のロジン酸を製造する名目でGHQの許可を得てインドネシアから約5トンのシトロネラ油を輸入し、これが戦後第1回の原料輸入となった
- [8]1946年のはじめ頃、元海軍大佐の鶴尾定雄から平塚市の旧海軍相模工廠化学実験部を高砂の工場として転用できると長瀬常務にもちこまれた
- [9]長瀬義治と鶴尾定雄は親戚の間柄であった
- [10]台北工場を失っていた高砂はこの話に大いに心を動かしたが、社内の意見はまちまちで、結局は長瀬常務の裁決で平塚工場の開設に踏み切った
- [11]約3万9,600平方メートルの敷地に主力工場3棟があるのみで、平塚工場の敷地の広さと形は失われた台北工場とほとんど同じであった
- [12]GHQおよび関係官庁との折衝はGHQの方針が定まらず難航したが、8月に一部使用が大蔵省国有財産部より認可された
- [14]初代工場長は鶴尾定雄、開場当時の従業員は工場長以下約50名で、当時の主な製品はベンジルクロライド、ベンジルアセテート、オイレトール、サフロール、選鉱剤であった
- [15]1948年8月4日、在外会社としての不便さから脱出するため内地法人の高砂香料株式会社を設立した
- [16]高砂香料株式会社は資本金250万円で出発し、10月末に500万円へ増資、12月にさらに倍額増資して1,000万円となり、平塚工場の運転資金にあてられた
- [17]1949年8月1日付の政令第291号により内地財産を整理して1,000万円を得て旧株主に無償分配し、1951年2月1日に資本金1,000万円で新高砂化学工業株式会社を設立した
- [18]高砂化学の東京工場に対し平塚工場は高砂香料の生産部門として運営され、両工場の販売部門の役割を高砂香料が担当した
- [20]1951年8月1日の対等合併時の役員は取締役社長平泉貞吉、専務取締役長瀬義治、常務取締役中西健次らであった
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 資本金の変遷
- [19]1951年、高砂香料株式会社を吸収合併して資本金2,000万円となり、商号を高砂香料工業株式会社に変更した
1951年〜日本生命保険の救済融資が強いた非採算部門の整理
販売価格の下落は、1951年7月の休戦交渉入りで景気が沈静したことに始まる。それまでは朝鮮戦争の特需で、香料も盛んに買い進まれていた。同年後半には高値の時期に注文した輸入香料が届き始め、金融が詰まるなかで相場はその輸入原価より安くなった。香料全体の値下がりは平均2割に及び、タール系の合成香料は原料が高いため輸入品と勝負にならなかった。さらに、在外会社として猶予されていた管理期間5年分の税3,500万円が、新会社の発足と同時に課された。分割で納める了承は得たが、月に300万円の支払いは当時の高砂香料工業にとって重かった。1951年12月に倍額増資して資本金を4,000万円としても金融難からは逃れられず、1952年4月から給料の遅配が始まり、8月には分割支払いにまで追い込まれて年末まで続いた。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [21]朝鮮戦争の特需は香料にも活発な買い進みをおこしたが、1951年7月に休戦交渉が始まると景気は沈静し、香料の販売価格も下がった
- [22]高値のとき発注した輸入香料が1951年後半から入着し、金融難で市場相場がその輸入原価を割るようになった
- [23]香料関係は平均2割の値下がりとなり、タール系合成香料は原料高のため輸入香料に立ち向かうことができなかった
- [24]在外会社として納税を猶予されていたGHQ管理下5年間の利益に対する税金3,500万円が、新会社設立と同時に賦課された
- [25]分割払いの了解は取りつけたが、月額300万円は当時の高砂には大きな負担となった
- [26]1951年12月に倍額増資して資本金4,000万円としたが金融難から逃れられず、1952年4月から給料の遅配が始まり8月がピークで分割支払いにまで追い込まれ年末まで続いた
中西健次常務と日本生命保険を結んだのは、名古屋高商で1年上にあたる朝日物産の浅野常務と、その同級生で同社の東京財務部長だった人物との縁である。財務を受け持っていた同常務は金融難をしのぐ手立てとして同社に働きかけ、1951年5月に1,500万円を借り入れた。担保に差し入れたのは東京工場と平塚工場の工場財団である。東京工場の土地は3分の2が中江龍二氏のものだったので、この機に同氏から譲り受けた。だがこの融資は後ろ向きの救済に使われて資金として生きず、日本生命保険から非難され、責任を追及された。救済融資にあたって日本生命保険は、自らは設備資金だけを持ち運転資金は市中銀行から受けるべきだとして、単独での融資を拒んだ。三菱・大和・三和の各行と折衝した末、設備資金は日本生命保険、運転資金は三菱銀行を主として大和銀行が支える形に落ち着いた。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [27]中西常務の日本生命接近は、名古屋高商で1年先輩の朝日物産・浅野常務と、その同級生である日本生命の東京財務部長との人間関係によるものであった
- [28]金融難対策として財務担当の中西常務は日本生命に近づき、1951年5月に1,500万円の借入れに成功した
- [29]担保として東京工場・平塚工場の工場財団を設定し、東京工場の土地の3分の2は中江龍二の所有であったためこの際に譲り受けた
- [30]1951年5月の日本生命融資は後ろ向きの救済に使われ資金として積極的に生かされなかったため、日本生命から非難され責任を追及された
- [31]日本生命は救済融資の条件として設備資金のみに融資し運転資金は他の市中銀行から受けるべきであるとして、単独の融資を拒絶した
- [32]三菱・大和・三和の各行と折衝した結果、設備資金は日本生命、運転資金は三菱を主とし大和が積極的にバックアップする形で話がまとまった
人員整理は退職者の自発的な辞表による、という点まで日本生命保険は求めており、これを労働組合との団交を重ねて収めたのが中西健次常務だった。同社が救済融資の条件とした3点は、役員を更迭して簡素にする、収益を生まない部門を削る、確実な最低月商を決めて利益の出る管理方式にする、というものだった。責任は渡部慶之進氏が代表取締役会長として全面的に負い、長瀬義治専務も責任を取る形で再選されず、高砂香料工業を去った。合理化の目標は工場を平塚へ集め、蒲田に研究所と倉庫だけを残すことに置かれ、実際に日高工場は1952年10月に南海果工として切り離され、札幌工場は1953年6月に閉じて関西ペイントへ売られた。選鉱剤の販売は協和醗酵と共同で設立したフロス化学に移し、自社には製造だけを残した。月商5,000万円まで抑えた新体制で、1953年9月期は売上3億3,589万円・利益426万円を計上した。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [33]人員整理は被退職者の自発的な辞表の提出によることを求められ、中西常務が労働組合と何回も団交を重ねて解決した
- [36]札幌工場・日高工場を廃止して生産工場を平塚に集中し、蒲田は研究所と倉庫にすることが合理化の目標となった
- [37]日高工場は1952年10月に分離されて資本金1,500万円の南海果工株式会社となり、札幌工場は1953年6月に閉鎖のうえ関西ペイント株式会社へ売却された
- [38]選鉱剤は製造を高砂が受け持ち販売は別会社で行なうこととし、1953年7月23日に協和醗酵と共同でフロス化学株式会社を設立して高砂は選鉱剤の営業活動から手を引いた
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [34]日本生命が救済融資に踏み切るにあたり要求したのは、役員の更迭並びに簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を策定し利益を生み出す管理方式の3点であった
- [35]渡部慶之進が代表取締役会長となり会社を統轄して全責任を負い、長瀬専務は全責任を負って再選されず高砂を去った
- [39]非採算部分を排除し月商5,000万円まで押えた堅実な新体制のもと、1953年9月期決算は売上3億3,589万円・利益426万円となった
参考文献[21]-[39]
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- [21]朝鮮戦争の特需は香料にも活発な買い進みをおこしたが、1951年7月に休戦交渉が始まると景気は沈静し、香料の販売価格も下がった
- [22]高値のとき発注した輸入香料が1951年後半から入着し、金融難で市場相場がその輸入原価を割るようになった
- [23]香料関係は平均2割の値下がりとなり、タール系合成香料は原料高のため輸入香料に立ち向かうことができなかった
- [24]在外会社として納税を猶予されていたGHQ管理下5年間の利益に対する税金3,500万円が、新会社設立と同時に賦課された
- [25]分割払いの了解は取りつけたが、月額300万円は当時の高砂には大きな負担となった
- [26]1951年12月に倍額増資して資本金4,000万円としたが金融難から逃れられず、1952年4月から給料の遅配が始まり8月がピークで分割支払いにまで追い込まれ年末まで続いた
- [27]中西常務の日本生命接近は、名古屋高商で1年先輩の朝日物産・浅野常務と、その同級生である日本生命の東京財務部長との人間関係によるものであった
- [28]金融難対策として財務担当の中西常務は日本生命に近づき、1951年5月に1,500万円の借入れに成功した
- [29]担保として東京工場・平塚工場の工場財団を設定し、東京工場の土地の3分の2は中江龍二の所有であったためこの際に譲り受けた
- [30]1951年5月の日本生命融資は後ろ向きの救済に使われ資金として積極的に生かされなかったため、日本生命から非難され責任を追及された
- [31]日本生命は救済融資の条件として設備資金のみに融資し運転資金は他の市中銀行から受けるべきであるとして、単独の融資を拒絶した
- [32]三菱・大和・三和の各行と折衝した結果、設備資金は日本生命、運転資金は三菱を主とし大和が積極的にバックアップする形で話がまとまった
- [33]人員整理は被退職者の自発的な辞表の提出によることを求められ、中西常務が労働組合と何回も団交を重ねて解決した
- [36]札幌工場・日高工場を廃止して生産工場を平塚に集中し、蒲田は研究所と倉庫にすることが合理化の目標となった
- [37]日高工場は1952年10月に分離されて資本金1,500万円の南海果工株式会社となり、札幌工場は1953年6月に閉鎖のうえ関西ペイント株式会社へ売却された
- [38]選鉱剤は製造を高砂が受け持ち販売は別会社で行なうこととし、1953年7月23日に協和醗酵と共同でフロス化学株式会社を設立して高砂は選鉱剤の営業活動から手を引いた
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [34]日本生命が救済融資に踏み切るにあたり要求したのは、役員の更迭並びに簡素化、非収益部門の削除、確実な最低月商を策定し利益を生み出す管理方式の3点であった
- [35]渡部慶之進が代表取締役会長となり会社を統轄して全責任を負い、長瀬専務は全責任を負って再選されず高砂を去った
- [39]非採算部分を排除し月商5,000万円まで押えた堅実な新体制のもと、1953年9月期決算は売上3億3,589万円・利益426万円となった
1954年〜合成l-メントールによる復調から株式上場へ
復調の導火線は合成l-メントールだった。d-シトロネラールからl-メントールが得られること自体は既知だが、副生する異性メントールを工業的に完全分離する技術が確立されず、天然品に対抗できる合成品は出遅れていた。平泉貞吉氏は京都帝大時代にメントール異性体を研究してイソメントンの単離証明に成功しており、恩師の長男である小松昭氏に製造研究を命じた。桂重雄研究所長のもとで完全分離の技術が確立され、1954年に国内初の合成メントールの製造へ届いた。ハッカは投機の対象とみられ、製造へ踏み切るまで役員会では激しい議論が交わされた。北海道産の天然ハッカは減産で輸入も許されず、価格は1キログラム1万円以上へ暴騰していた。1962年時点で合成品は製法特許に支えられて国内生産を独占し、天然品を含む国内需要の約3分の1を供給した。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [40]生産技術面で復調の導火線になったものの一つが合成l-メントール(合成ハッカ)の製造の成功であった
- [41]d-シトロネラールからl-メントールが得られることは既知であったが、副生する異性メントールの完全分離の工業的技術が確立されず、天然l-メントールに対抗できる工業的合成品は出遅れていた
- [42]平泉貞吉は京都帝大時代にメントール異性体の研究でイソメントンの単離証明に成功しており、故小松茂教授の長男である小松昭に合成メントールの製造研究を命じた
- [43]l-メントールの合成は桂重雄研究所長の下で小松昭らによって進められ、従来困難視されていた異性体の完全分離の技術が確立されて成功した。1954年にわが国で初めて合成メントールの製造に成功した
- [44]ハッカは投機の対象として一般には危険視されていたため、合成メントールの製造に踏み切るまで役員会でははげしい議論が行なわれた
- [45]北海道産の天然ハッカが減産で輸入も許されなかったため価格は暴騰し、1キログラム1万円以上の高値を呼んだ
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 事業の概要
- [46]メントール(薄荷)の合成品については製法特許をもち100%の占有率を有し、天然品も合わせた国内総需要量の約3分の1を同社が供給していた(1962年9月期)
1957年に完成させた粉末香料「高砂ミクロン」は、液状の香料を乳化したうえで被膜剤に包み、乾かして粉にする製法で、粉末インスタント・ジュースの急激な需要を取り込んだ。合成香料だけでは足りなかった需要の幅を、この製品が補った。濃縮果汁をわが国で初めてつくったのは日高工場から分かれた南海果工で、これが清涼飲料への道を開いた。1962年、平塚工場に大型のスプレードライヤー5台が据えられた。販路では名古屋出張所が4年ばかりで約10倍へ伸び、1960年6月に支店へ格上げされた。粉末ジュースが興った中京は、こうして戦後最初に固めた地盤となった。同年12月にはニューヨークとパリに駐在所を置き、パリには調合香料研究室を併せて主任調香師ピエール・カルノー氏を迎えた。1962年9月期の販売は食品香料33%、合成香料19%、調合香料12%で、販売先は約1,200社に及んだ。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [47]粉末香料は液体の香料を乳化させ被膜剤でコーティングし乾燥粉末化したもので「高砂ミクロン」と名付けられ、粉末インスタント・ジュースが大衆の好みに合って爆発的な需要を生んだ。1957年の新粉末香料「高砂ミクロン」の製造の成功が高砂発展の一つの原動力になった
- [49]1952年10月に日高工場を分離して設立された南海果工が夏蜜柑・温州蜜柑の果汁の濃縮に成功し、わが国において最初にできた濃縮果汁となった
- [50]1962年には平塚工場に大型のスプレードライヤーが5台設置され、諸外国に例を見ないもので外国人の参観者を驚嘆させた
- [51]名古屋出張所は4年ばかりの間に売上を約10倍に伸ばして1960年6月に支店へ昇格した。戦後まず大きく地盤が確保されたのは中京地区で、粉末香料の大きな需要先である粉末インスタント・ジュースの勃興が中京地区であったためである
- [52]1960年12月にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに駐在所を開設し、パリ駐在所には調合香料研究室を併置してアントワンシリスの主任調香師ピエール・カルノーを迎えた
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 事業の概要
- [48]1962年9月期の販売実績は食品香料33%、合成香料19%、調合香料12%、仕入商品の販売31%、その他5%で、合成香料は販売の2割弱にとどまっていた
- [53]販売先は日本専売公社、花王石鹸、森永製菓、雪印乳業、キリンビール、資生堂、武田食品工業など約1,200社に及んだ
1963年1月4日、高砂香料工業は東京証券取引所第2部へ上場した。株式公開は香料会社として日本で最初、世界でも3番目とされた。中西健次社長は同年度の支所長会議で、1965年度に月商7億円・従業員700人・利益率7%を目指す「スリーセブン」を掲げ、月商は第31期に達した。1968年11月、手狭になった平塚を受ける磐田工場が竣工し、12月の半額増資で資本金は11億2,500万円となった。1969年8月に東証第1部へ昇格し、1971年9月の増資で資本金18億円、大阪・名古屋にも上場した。年2回決算の1971年3月期の売上高は94億1,200万円に達した。増資手取の大半は磐田工場へ向かい、価格の振れる植物性原料から石油化学系原料への転換に充てられた。原料の相場に収益を握られない体をつくることが、次の課題として残った。
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [54]1963年1月4日、香料業界で初めて東京証券取引所第2部市場(化学部門)に上場した
- [56]1963年度の支所長会議で中西社長は1965年度に月平均売上7億円・従業員700人・経常利益率7%を掲げる「スリーセブン」を打ち出し、第31期(1965年10月〜1966年3月)の純売上高42億3,000万円で月平均7億円の目標を達成した
- [57]平塚工場が手狭になったため磐田に土地を求め、1968年11月21日に磐田工場の竣工式が挙行された。同年12月1日の半額増資で新資本金11億2,500万円となり、増資資金は平塚工場の増設、磐田工場の建設、綜合研究所の新築にあてられた
- [58]1969年8月1日から東京証券取引所第1部市場へ昇格上場が承認され、1971年9月30日の半額増資と大阪・名古屋市場への公募により新資本金18億円となって10月1日から大阪・名古屋両証券取引所第1部市場に上場した
- 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」
- [55]香料会社の株式公開は日本では当社が初めてであり、世界でも三番目であった
- 週刊日本経済 1971年10月7日号
- [59]決算期は3月31日と9月30日の年2回で、1971年3月期の業績は売上高94億1,200万円、税引純益2億6,100万円であった
- [60]1971年の増資手取額9億5,625万円は挙げて設備投資に振り向けられ、磐田工場増設に12億9,100万円を配分した。植物性原料は価格が不安定で5、6年周期の悪循環を繰り返すため、この悪条件を克服するべく石油化学製品からの出発原料に変えて合成薄荷の量産をはかる磐田工場の増設計画が実施された
参考文献[40]-[60]
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- [40]生産技術面で復調の導火線になったものの一つが合成l-メントール(合成ハッカ)の製造の成功であった
- [41]d-シトロネラールからl-メントールが得られることは既知であったが、副生する異性メントールの完全分離の工業的技術が確立されず、天然l-メントールに対抗できる工業的合成品は出遅れていた
- [42]平泉貞吉は京都帝大時代にメントール異性体の研究でイソメントンの単離証明に成功しており、故小松茂教授の長男である小松昭に合成メントールの製造研究を命じた
- [43]l-メントールの合成は桂重雄研究所長の下で小松昭らによって進められ、従来困難視されていた異性体の完全分離の技術が確立されて成功した。1954年にわが国で初めて合成メントールの製造に成功した
- [44]ハッカは投機の対象として一般には危険視されていたため、合成メントールの製造に踏み切るまで役員会でははげしい議論が行なわれた
- [45]北海道産の天然ハッカが減産で輸入も許されなかったため価格は暴騰し、1キログラム1万円以上の高値を呼んだ
- [47]粉末香料は液体の香料を乳化させ被膜剤でコーティングし乾燥粉末化したもので「高砂ミクロン」と名付けられ、粉末インスタント・ジュースが大衆の好みに合って爆発的な需要を生んだ。1957年の新粉末香料「高砂ミクロン」の製造の成功が高砂発展の一つの原動力になった
- [49]1952年10月に日高工場を分離して設立された南海果工が夏蜜柑・温州蜜柑の果汁の濃縮に成功し、わが国において最初にできた濃縮果汁となった
- [50]1962年には平塚工場に大型のスプレードライヤーが5台設置され、諸外国に例を見ないもので外国人の参観者を驚嘆させた
- [51]名古屋出張所は4年ばかりの間に売上を約10倍に伸ばして1960年6月に支店へ昇格した。戦後まず大きく地盤が確保されたのは中京地区で、粉末香料の大きな需要先である粉末インスタント・ジュースの勃興が中京地区であったためである
- [52]1960年12月にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに駐在所を開設し、パリ駐在所には調合香料研究室を併置してアントワンシリスの主任調香師ピエール・カルノーを迎えた
- [54]1963年1月4日、香料業界で初めて東京証券取引所第2部市場(化学部門)に上場した
- [56]1963年度の支所長会議で中西社長は1965年度に月平均売上7億円・従業員700人・経常利益率7%を掲げる「スリーセブン」を打ち出し、第31期(1965年10月〜1966年3月)の純売上高42億3,000万円で月平均7億円の目標を達成した
- [57]平塚工場が手狭になったため磐田に土地を求め、1968年11月21日に磐田工場の竣工式が挙行された。同年12月1日の半額増資で新資本金11億2,500万円となり、増資資金は平塚工場の増設、磐田工場の建設、綜合研究所の新築にあてられた
- [58]1969年8月1日から東京証券取引所第1部市場へ昇格上場が承認され、1971年9月30日の半額増資と大阪・名古屋市場への公募により新資本金18億円となって10月1日から大阪・名古屋両証券取引所第1部市場に上場した
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 事業の概要
- [46]メントール(薄荷)の合成品については製法特許をもち100%の占有率を有し、天然品も合わせた国内総需要量の約3分の1を同社が供給していた(1962年9月期)
- [48]1962年9月期の販売実績は食品香料33%、合成香料19%、調合香料12%、仕入商品の販売31%、その他5%で、合成香料は販売の2割弱にとどまっていた
- [53]販売先は日本専売公社、花王石鹸、森永製菓、雪印乳業、キリンビール、資生堂、武田食品工業など約1,200社に及んだ
- 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」
- [55]香料会社の株式公開は日本では当社が初めてであり、世界でも三番目であった
- 週刊日本経済 1971年10月7日号
- [59]決算期は3月31日と9月30日の年2回で、1971年3月期の業績は売上高94億1,200万円、税引純益2億6,100万円であった
- [60]1971年の増資手取額9億5,625万円は挙げて設備投資に振り向けられ、磐田工場増設に12億9,100万円を配分した。植物性原料は価格が不安定で5、6年周期の悪循環を繰り返すため、この悪条件を克服するべく石油化学製品からの出発原料に変えて合成薄荷の量産をはかる磐田工場の増設計画が実施された
筆者考察
戦後の高砂香料工業を決めたのは、何を作るかではなく、どこまで手放すかだった。台北の工場と樟脳副産油の払下げを同時に失った会社に残ったのは、空襲で焼けた蒲田と、旧海軍が置いていった平塚の空き工場だけである。そこへ朝鮮戦争の反動と、在外会社として繰り延べられていた税3,500万円が重なり、1952年には給料が遅配になった。日本生命保険が救済融資の条件に挙げたのは、増産でも新製品でもなく、役員の更迭・非収益部門の削除・最低月商の策定という3つだった。札幌工場を売り、日高工場を切り離し、選鉱剤の販売から手を引いて、会社は平塚の一点まで縮んだ。
縮んだことが、次に伸びる条件になった。工場を1つに寄せた高砂香料工業は、限られた設備資金を蒸留塔と合成設備へまとめて投じられるようになり、1954年に異性体の完全分離を克服した合成l-メントールを国内で初めて量産する。天然ハッカが減産で1キログラム1万円を超えるなか、投機の対象とみられて役員会が割れた製品が、そのまま主力になった。粉末香料と濃縮果汁が食品という新しい出口を開き、1963年には香料会社として世界で3番目の株式公開に届く。資本金は救済融資の年の2,000万円から、1971年には18億円へ動いた。手放した数だけ、残したものへ資本が集まる会社になっていた。
- 出所は証券(新規上場会社紹介)1963年1月号の資本金の変遷と、高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編。
1946年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | ブラジル・パラ州トメアスーに高砂アマゾン香料研究所を開設(1963/04)パリに調合香料研究所を開設(1963/04) |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 100 | n/a | n/a | 3 | 3.0% | パリにTakasago S.A.R.L. Parisを設立(1966/04) |
| 1968年03月期 | 単体 | 112 | +12.0% | n/a | 3 | 2.7% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 123 | +9.8% | n/a | 4 | 3.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 150 | +22.0% | n/a | 4 | 2.7% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 186 | +24.0% | 10 | 5 | 2.7% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 198 | +6.5% | 8 | 4 | 2.0% | n/a |
出所:会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
7件
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「第2伸展期」
- 高砂香料50年史(高砂香料工業、1973年)沿革編「戦後復興期」
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 沿革
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 資本金の変遷
- 証券(新規上場会社紹介)1963年1月号 事業の概要
- 週刊日本経済 1971年10月7日号
- 証券投資リポート 1962年「合成・食品香料の総合メーカー高砂香料工業」