三菱の銀行業は、1880年4月に東京・京橋霊岸島で開業した三菱為換店から始まった。前身は、郵便汽船三菱会社が1876年に大阪へ設けた為替局である。為替局は政府資金を元手に、回漕貨物を担保として荷主へ為替金を貸し、その見返りに積み荷を誘った。1880年に海運業から切り離された為換店は、荷為替に加えて預金と貸付を扱い、東京・深川で倉庫業も営んだ。岩崎家が銀行の名を持つ組織を得るのは1885年で、それまでは為替局と為換店が資金の供給役を担った。創業者で社長の岩崎彌太郎氏にとって、荷主への融通は船の荷を集める手立てであり、それを別組織にしたことで預金を受ける器ができたとみられる。
郵便汽船三菱会社は1885年5月、第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的な銀行業務に入った。同じ年の2月に創業者の岩崎彌太郎氏が死去し、副社長の岩崎彌之助氏が社長を継いでいた。彌之助氏はその後も第百十九国立銀行の経営にあたった。三菱為換店は、この引受けより前に廃止されていた。1886年3月に三菱社が設立され、1880年代後半には第百十九国立銀行の頭取に豊川良平氏が就任した。国立銀行は1876年の制度改正で設立が相次ぎ、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた。新たに国立銀行を起こせない以上、既存の1行を引き継ぐことが、銀行業へ戻る最も手近な道だったのだろう。
三菱合資会社は1895年、資本金500万円のうち100万円を割いて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を引き継いだ。合資会社は1893年に社長の岩崎久彌氏のもとで設立され、第百十九国立銀行の役職員は全員が合資会社の在籍となっていた。銀行部は東京・八重洲町の三菱第一号館で開業し、初代部長には豊川良平氏が就任した。国立銀行は1883年の条例改正で営業年限を開業から20年と定められ、1896年から1899年に122行が普通銀行へ転じた。銀行部は鉱山や造船など三菱の各事業の出納を受け持ち、資金も供給した。満期を前に業務を合資会社の内へ移したのは、国立銀行の看板を失った後の受け皿を先に整えるためと推察される。
三菱合資会社は1919年8月、銀行部を切り離して株式会社三菱銀行を設立し、同年10月1日に営業を始めた。合資会社は1917年10月に造船と製鉄、1918年4月に鉱業と商事を独立させ、自らは持株会社へ転じ始めていた。銀行部の資本金は1895年の発足時の100万円のままで、店舗も本店のほか9店にとどまっていた。一方で銀行部の預金は、1913年末の43,544千円から1918年末には224,754千円へ増えていた。合資会社の首脳部は、資本を大きく積み増して広く一般の信用を得なければ、大戦で膨らんだ資金需要に応えられないと判断した。新銀行の資本金5,000万円は合資会社と岩崎家が全額を引き受け、初代会長には合資会社社長の岩崎小彌太氏が就任した。
三菱銀行は1920年4月、ロンドンとニューヨークに支店を開設した。それまで銀行部は、三菱合資会社のロンドン支店と1917年開設のニューヨーク拠点を使い、関係会社の輸出入や送金の為替を扱っていた。株式会社としての発足を機に外国為替業務を大きく伸ばすため、自前の支店を置くことにした。支店には、海外情勢の把握や行員の養成、分系会社の便宜といった役割も持たせた。ニューヨーク支店は州法に基づく銀行ではなく預金を扱えなかったため、為替の事務に専念した。当初は三菱商事と同じビルの同じ階に入り、綿花や鉄、石油の輸出や生糸の輸入の為替を大量に扱ったという。外国為替の取扱高は国内の不況期にも伸び、主な取引先だった三菱商事の急拡大がその一因だった。
三菱銀行は1922年3月31日、東京・八重洲町に本店営業所を完成させ、同年5月に営業を始めた。建物は1916年5月の着工から5年10か月と380万円をかけ、信用の保持を銀行の基礎とみて堅牢さを第一の条件に設計された。1920年の反動で財界は大不況に陥り、その整理が済まないうちに1923年9月の関東大震災が起きた。震災では、東京に本店を置く銀行の多くが本店を焼失した。三菱銀行の本館は焼け残り、他行より早く預金の支払いに応じ、本店の金庫も被災した銀行に開放した。預金は1922年末の266,412千円から1923年末に307,326千円へ増えた。不況のさなかに預金が伸びたのは、焼け残った本館と支払いの早さが、預金者に見える形の信用になったからではないか。
1927年3月に金融恐慌が起きて各地で取り付けが続くなか、会長の串田萬藏氏が率いる三菱銀行は営業を続け、同業銀行の救済に回った。神戸支店では一部で取り付けがあったが、行全体では恐慌を機に預金が増えた。預金は1926年末の3億2883万円から1928年末には5億6225万円に増え、その伸び率は一流銀行で首位だった。恐慌を境に、預金が大銀行へ寄る動きは全国ではっきりした。同じ2年間に貸出は2億2067万円から2億5738万円へ増えただけで、有価証券は1億3109万円から3億2467万円に膨らんだ。貸出先が増えないまま預金だけが積み上がったことが、資本の積み増しと他行の買収へ向かう下地になったとみられる。
1929年、三菱銀行は1924年から資本金の8割を出資して経営してきた森村銀行を買収した。同じ年に会長の串田萬藏氏のもとで資本金を倍の1億円に増やした。諸積立金が払込資本金を上回り、預金に比べて資本が小さくなりすぎていたためだった。この増資で三菱の一族が持っていた株式の一部を初めて公開し、公開した23万5000株には3倍を超す申し込みが集まった。1940年10月には、1936年から整理を担ってきた金原銀行を買収した。1942年4月には、1939年から経営に加わっていた東京中野銀行の業務を引き継いだ。2行の買収の狙いは、戦時の貯蓄増強のもとで一般の民間預金を取り込むことにあった。
1943年4月、三菱銀行は第百銀行を合併し、資本金1億3500万円、店舗177店、預金48億円の銀行になった。合併の直前、三菱の店は51支店・14出張所で、97支店・14出張所を持つ第百銀行のほうが店の数では多かった。1942年上半期の預金高では、三菱は7大銀行の5位、第百は7位に位置していた。この合併は、戦時の資金を国が一元的に動かすために銀行の統合を求めた当局の方針に沿うものだった。交渉は頭取の加藤武男氏と第百銀行頭取の関根善作氏が担い、双方が譲り合ってまとめた。合併で加わった112店は、1949年時点で千代田銀行の店舗のおよそ3分の2にあたった。
敗戦後に戦時補償が打ち切られると、軍需向けの貸出を抱えた金融機関は大きな損失を負った。1946年10月に施行された金融機関再建整備法のもとで、三菱銀行の確定損は約19億7400万円と算定された。この額は旧勘定資産の帳簿残高のほぼ3割にあたり、確定益で埋めても損失が残った。1948年3月の最終処理で、三菱銀行は資本金1億3500万円の93%を切り捨て、第二封鎖預金の一部も切り捨てて穴を埋めた。この間に公職追放で頭取の加藤武男氏や副頭取の関根善作氏が退き、高木健吉氏を経て1947年から千金良宗三郎氏が頭取に就任した。財閥解体の過程でも銀行は過度経済力集中排除法の適用を外れ、規模をほぼ保ったまま再建に入った。
1948年10月、頭取の千金良宗三郎氏のもとで、三菱銀行は行名を千代田銀行に改めた。財閥の名を商号に使うことを禁じた特定商号使用禁止令により、三菱の名もスリーダイヤの印も使えなくなったためだった。新しい行名は本店のある千代田区丸の内から取り、印には顧客・株主・従業員を表す3本の柱を据えた。同じころ安田銀行は富士銀行に、住友銀行は大阪銀行に名を改めた。行員は、かねての標語だった親切第一を添えて、三菱が千代田に変わったことを取引先に繰り返し伝えた。改称と同時に資本金を11億円へ増やし、このときの預金は332億円、店舗は161店だった。この増資で株式は預金者や従業員、地方の住民へ散らばり、資本の面でも大衆銀行としての性格が強まった。
1949年5月、千代田銀行は東京と大阪の証券取引所に株式を上場した。上場を控えた同年3月末の預金は444億円、貸出は321億円で、預金は富士銀行の502億円に次ぐ2位だった。前年10月からの半年間で預金は約108億円増えたが、貸出の増加は約51億円にとどまった。ただ株価は39〜40円にとどまり、前年の増資で株数が多くなりすぎたことが主な理由とされた。配当の再開も見通せず、その扱いはいったん棚上げになっていた。1953年までに、上場先は東京・大阪・京都・神戸・札幌の5市場に広がった。再建整備で資本の9割超を失った銀行にとって、上場は株主を広く募り、のちの増資に備える足場になったと考えられる。
千代田銀行は1950年4月、アメリカ銀行などとコルレス契約を結び、海外との為替取引を戦後に再び始めた。1952年10月にはニューヨーク支店を開設した。ニューヨークには1920年にも支店を置いており、戦後の海外店網はこの支店の再開から立て直しが始まった。1949年の外国部では、為替レートの決定を受けて外国為替の実務を立ち上げることが課題になっていた。同じ年の時点で、貿易手形の取扱高は東京銀行や帝国銀行に届かず、富士や三和と並ぶ水準だった。同じ記事は、三菱商事の解体で生まれた200余りの新会社からの貿易手形の持ち込みを見込んでいた。旧三菱系の商社が貿易を広げるのに備え、決済の拠点を海外に持っておく必要があったのだろう。
1953年7月、千代田銀行は行名を三菱銀行に戻した。1952年の講和条約の発効で特定商号使用禁止令が効力を失い、三菱の名を再び名乗れるようになっていた。千代田の名は海外で知られておらず、ニューヨーク支店を開設したあとの取引で不便と不利が目立ち、国内でも同様の事情があった。1952年8月には三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も相次いで現れていた。行名の復帰に先立つ1953年4月、千代田銀行は資本金を27億5000万円へ増やした。同年3月末の預金は1597億円に達しており、増資後の資本金は国内の普通銀行で最大だった。グループの各社が三菱の名に戻るなかで、中核の銀行だけが別の名を名乗り続ける理由は薄れていたものと思われる。
財閥本社が消えたあと、三菱銀行はグループで興す新事業の世話役を務め、各社を結ぶ位置に立った。元頭取の加藤武男氏は1955年の時点で、銀行を中心とする三菱の再結集を否定していなかったという。同じころ三菱商事は資本金を6億5千万円から25億円へ増やし、8億7,500万円分を縁故割当とした。1955年3月末の預金総額は2,338億円、貸出総額は1,801億円、店舗は157ヵ店であった。後年、中村俊男氏は、重化学工業の多い系列企業への貸付が預金として戻り、資金が効率よく回ったと振り返った。持株会社に代わって系列の資金と株式をつなぐ結節点になったことが、この時期の銀行の拠り所だったとみられる。
頭取の宇佐美洵氏は1964年12月、在任3年1カ月で日本銀行総裁に転じた。同月17日、蔵相の田中角栄氏から電話で総裁就任を求められ、その日に後任の頭取を田実渉氏に託した。民間からの起用は戦後初めてで、財界には大蔵省と日銀の出身者が続く総裁人事への反発から、民間人を求める声が強かったという。宇佐美氏は全国銀行協会連合会の会長として、通産省主導の特振法案に官僚統制の恐れがあるとして反対し、骨抜きにしていた。行員には、日銀に移る以上は三菱とはっきり縁を切ると告げて銀行を去った。頭取を中央銀行の長に送り出したことで、三菱銀行は金融界の中心とみなされる度合いを強めたと推察される。
1969年1月、頭取の田実渉氏と第一銀行頭取の長谷川重三郎氏の間で、両行の合併の方向が固まったことが表面化した。都市銀行の再編は、業務提携から合併の段階へ進むとの見通しが示された。両頭取の会見では、自由化に備えて企業が国際化するには規模の利益の追求が要り、銀行も同じだという考えが示された。相手には異種の金融機関の方が利点は大きいとされる中で、気心の知れた第一銀行を選んだという説明もあった。ただ、取締役に話したのは会見の前日が初めてで、行内の意思統一はまだできていなかった。規模を一度に取ることを急いだ分、相手行の内部の合意づくりが後回しになったのだろう。
第一銀行との合併構想は、同行の元頭取井上薫氏らの反対で1969年のうちに流れた。井上氏は構想を実質的な吸収合併とみて反対し、戦時中の三井銀行との合併で第一系の支店長が4年で84名から62名へ減った経験を挙げた。取引先も、三菱グループと競合する企業が多く、合併後に三菱色に塗りつぶされると懸念した。報道のあと長谷川氏ら数人の役員が辞任し、第一銀行は1971年3月に日本勧業銀行との対等合併を発表した。後年、田実氏は『私が合併をいちばんはじめに試みて、結局失敗したけれども、しかしあれは第一勧銀となって実を結んだ』と語った。相手を選ぶ際に、相手行の人事と取引先の利害を読み切れなかったことが構想の限界だったと考えられる。
三菱銀行は1968年9月にオンライン・システムを動かし始めた。同じ年の預金量は1兆8,000億円台、店舗は182店で富士銀行に次ぐ2位だったが、大衆化路線には乗り遅れた感があるとされた。銀行は1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニーと提携した預金で個人客の取り込みを図っていた。オンライン化の3年後の1971年には、オンラインで結んだ現金引出機を業界で初めて置いた。1972年には家計預金を一つにまとめる総合口座を出し、1973年10月に東京事務センターを新設した。系列企業との取引で伸びた銀行が、機械化を足場に個人客の窓口を広げ、大衆化の遅れを縮めようとしたと思われる。
中村俊男氏は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに国際化を掲げた。1971年4月の支店長会議では、『国際業務は都市銀行の主要業務として、今後真剣に取り組んでいかねばならない』と訴えた。これは外国為替にとどまらず、海外での貸出や証券取引など国際金融業務へ参入する意味を持っていた。1952年のニューヨーク支店再開から20年を経た1972年1月、初の海外現地法人として加州三菱銀行をロサンゼルスに設けた。同年5月には、欧米の代表的な銀行で構成するオライオン・グループに加わった。国内の合併で規模を取れなかった分、海外に拠点を持つことで成長の余地を探ったと読める。
三菱銀行は1980年に創業100年を迎え、記念事業の一環として7月に地上24階の新本館を落成させた。頭取の山田春氏は100年で培った特色に信用を挙げ、金融恐慌で預け入れ客が引出し客を上回った経緯をその裏づけとした。二世紀目の経営の基本には、健全性と効率化を据えた。戦前は財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化を続けた結果、中小企業向け貸出の比率がおよそ50%に達したとも説いた。ところが翌年には、その信用の伝統がかえって一般の預金者を遠ざける要素になったとされた。信用を拠り所とする姿勢は、法人取引では強みでも、個人取引を広げる場面では働きにくかったようだ。
1981年3月期の三菱銀行の経常利益(有価証券関係の損益を除く)は231億円で、1年前に11億円だった住友銀行との差が170億円に開いた。格差の半分は国際部門から生じ、個人預金でも住友に抜かれて上位4行の最下位に下がった。国内の産業金融を主流とし、貸出と審査に人材を注いできた結果、国際部門が手薄になったという。中村氏も後年、海外へ出る企業への融資では都市銀行は受け身にならざるをえないと振り返った。銀行は1981年7月13日、機能別の組織を三菱系大企業・中堅中小企業・国際の3本部へ切り替えた。系列の信用に支えられた取引の型が、自由化の局面では収益の伸びを抑える側に回ったと推測される。
三菱銀行は1984年6月、米国西海岸で最も古い銀行とされるバンク・オブ・カリフォルニアを買収した。頭取は山田春氏で、1972年1月に設けた現地法人の加州三菱銀行とは別に、既存の銀行の買収を選んだ。当時の三菱銀行は、1979年度ごろまで並んでいた富士・住友の両行に経常利益で差をつけられ、三和銀行にも迫られていた。行内で「青年将校」と呼ばれた若手・中堅行員は、守りの堅さだけでは他の都銀に追いつけないとみていた。この買収でも、彼らが主軸になって動いたという。買収時に20店まで縮んでいたバンク・オブ・カリフォルニアは、1987年には年約3000万ドルの利益を出すまでに持ち直した。
1986年6月に頭取に就任した伊夫伎一雄氏は、就任の翌月に都銀で初めて中途採用の求人広告を出した。8月末までに560人が応募し、システム部門を中心に30人近くを採った。同年10月には組織を組み替え、M&Aの仲介を担う情報開発本部と、都銀で初めてその名を冠した証券本部を新設した。下敷きは、副頭取時代の伊夫伎氏が率いた検討会が1986年3月にまとめた自由化への対応策で、組織案は専務の若井恒雄氏のチームが詰めた。リスクを避ける体質から、国際業務関係の利益は都銀上位5行で最下位に甘んじる年が多かった。首位の住友とは200億円前後の開きがあり、手堅さが収益の伸びを抑えていた。
三菱銀行は1988年10月にロンドン、1989年2月にスイス3取引所とパリに株式を上場した。続けて1989年9月19日、邦銀で初めてニューヨーク証券取引所に上場した。SECへ出す年次報告書は子会社をすべて連結して米国基準で3年分を作り直すもので、準備に8カ月と2〜3億円を要した。資金調達だけなら欧州で足りるという声が上位都銀の首脳から出るほど、米国の開示は重かった。企画部は上場を、都銀決算の透明度を高める作戦の一環と位置づけていた。旧来の営業利益で4位だった三菱は、新しい経理基準の業務利益で1988年度を試算すると2200億円で住友に次ぐ2位に上がった。
業務純益が前期比3割近く減った1990年6月に頭取に就任した若井恒雄氏は、1992年4月から全国銀行協会連合会の会長を務めた。三菱銀行の不良債権は、大蔵省の基準では2000億円ほどだが、米国SECの基準では6500億円ほどになるという。若井氏は、公表を渋ることこそがかえって信用不安を招くとみて、1993年3月を目標に開示を進める方針を示した。ただし問題のある金融機関の救済策を先に整えることを条件とした。1993年9月末の破綻先・延滞債権は計5945億円で、半年で920億円増えていた。三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権の比率が最も低く、1995年3月期に一掃する計画を立てた。
三菱銀行は1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資を引き受けて株式の68%を取得し、子会社にした。同じ月には証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設けた。常務の谷野剛氏は1994年1月、大企業・中堅企業の直接金融の需要に応えるため、証券子会社の設立を重要な戦略と位置づけていた。前年の設立では都銀に認可が下りておらず、当初は債券業務から始め、株式業務へ広げる計画だった。すでに1986年には、三菱グループ企業向けの貸出が国内貸出の5%台と、10年前の半分以下に低下していた。大企業が銀行借入から離れるなか、信託と証券の子会社は、その取引を銀行の外で取り戻す器と見込まれていたと推察される。
三菱銀行は1995年3月に東京銀行との合併を決め、1996年4月に東京三菱銀行が生まれた。両行を組み合わせる案は、数年前から話題にのぼっていた。東京銀行は海外で強いが国内で弱く、三菱銀行は国内に厚みを持つ一方で海外が薄いという、互いを補う関係にあったためである。合併では三菱銀行を存続会社とし、比率を1対0.8と定めた。若井恒雄氏が会長となり、頭取の座には東京銀行頭取だった高垣佑氏が就任した。高垣氏は合併を5年、10年先の尺度で捉えるべきだとし、両行は国際競争力に優れた銀行づくりと、将来の持株会社化までを視野に置いた。特定の企業集団に属さず外国為替を専門とする東京銀行は、上場する2100社のうち約6割を取引先に持っていた。系列の枠を越えたこの取引網を取り込み、国内の薄さを埋めることが狙いだったとみられる。
東京三菱銀行が1996年4月1日に発足する前日、米国ではケミカルとチェース・マンハッタンが合併した。新しいチェースは従業員の約16%にあたる1万2000人程度の削減策をすぐに示した。これに対し東京三菱は、3年で2000人を減らす案を非公式に匂わせるにとどめ、新しい長期計画の開始も1997年4月へ持ち越した。4つある副頭取の席は旧三菱と旧東京で2つずつ分け合い、旧三菱側は頭取のたすき掛けを続けない意向を示していた。人員の計画が固まったのは1999年で、行員を合併前の2万115人から2000年度末までに1万7000人へ減らすとした。対等を掲げた合併だっただけに、両行の均衡を保つ人事が人員削減の速さより先に立ったのだろう。
頭取の岸曉氏は1998年、全国銀行協会連合会の会長として金融危機への対応に当たった。東京三菱でも大蔵省の金融検査官への接待が明るみに出たが、岸氏は公的資金を注入する金融2法の実施を控えて会長を続けた。行内では公務員への接待を全面的に禁じ、用件は日中に聞きに行くよう改めた。1997年9月中間期には約1兆1000億円の不良債権を引き当てており、体力には余裕があった。1999年春、大手行が公的資金を申請するなかで、東京三菱は自助努力を促すのが法の趣旨だとして申請を見送った。代わりに三菱グループ企業を引受先とする2442億円の増資と、本店などの売却で自己資本を約4000億円積み増した。
1999年に興銀・第一勧業・富士の3行統合と住友・さくらの合併が決まると、残る東京三菱と三和銀行の統合が取りざたされた。頭取の岸曉氏は、規模を追うより銀行の質と業務の速さを高めるという考えを周囲に示していた。三和銀行との交渉はまとまらず、三和は2000年7月に東海銀行などとの統合で合意した。3グループが生まれると、首位だった東京三菱は総資産で4位に下がる立場にあった。東京三菱は2000年4月に三菱信託・日本信託と統合で合意し、2001年4月の株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設けて上場を終えた。業態の垣根を越えるグループ内の信託と組めば、主導権を手放さずに商品の幅を広げられると判断したと考えられる。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/mitsubishi-bank/company.json https://the-shashi.com/api/mitsubishi-bank/history.json | 時代 | 年月 | 頭取 | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1880〜1926年三菱為換店と第百十九国立銀行の継承、合資会社銀行部から株式会社三菱銀行の独立 | 為替局を分離して三菱為換店を開設 | ★★ | ||
| 第百十九国立銀行の経営を継承 | ★★ | |||
| 銀行部を新設 | ★★ | |||
| 三菱銀行を設立 | ★★ | |||
| ロンドン支店を開設 | ★ | |||
| ニューヨーク支店を開設 | ★ | |||
| 1927〜1953年金融恐慌での預金流入と第百銀行の合併、千代田銀行への改称と行名の復帰 | 三菱信託を設立 | ★ | ||
| 金融恐慌下で同業銀行の救済に応需 | ★★ | |||
| 第百銀行と合併 | ★★ | |||
| 千代田銀行に商号変更 | ★ | |||
| 東京・大阪の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| ニューヨーク支店を再開 | ★ | |||
| 千代田銀行が三菱銀行に商号変更 | ★ | |||
| 1954〜1983年第一銀行との合併構想の白紙化と加州三菱銀行、オンライン化と業績の低迷 | 日本共同証券の設立に参加 | ★ | ||
| オンラインシステムを稼働 | ★ | |||
| 第一銀行との合併構想が白紙化 | ★★ | |||
| 加州三菱銀行を設立 | ★★ | |||
| 1984〜2001年バンク・オブ・カリフォルニア買収とニューヨーク上場、東京銀行との合併と三菱東京FGの設立 | バンク・オブ・カリフォルニアを子会社化 | ★★ | ||
| 商業銀行を設立 | ★ | |||
| ロンドン証券取引所に上場 | ★ | |||
| スイス3取引所・パリに上場 | ★ | |||
| ニューヨーク証券取引所に上場 | ★ | |||
| 日本信託銀行を子会社化 | ★ | |||
| 二行の合併で発足した新銀行への一本化(1996年成立) 1996年4月1日、財閥系の三菱銀行と外国為替専門の東京銀行が合併し、東京三菱銀行が発足した。総資産は約72兆円に達し、当時世界最大の銀行となった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三和銀行との経営統合交渉が不成立 | ★★ | |||
| 株式移転により三菱東京フィナンシャル・グループを設立し上場廃止 | ★★ |
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事実根拠:出所(東京三菱銀行)