東京三菱銀行 の歴史

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創業 1880年
創業者 岩崎彌太郎
創業地 東京
創業 1880年4月、岩崎彌太郎氏の郵便汽船三菱会社は、海運から切り離した三菱為換店を
1880年4月、岩崎彌太郎氏の郵便汽船三菱会社は、海運から切り離した三菱為換店を東京・京橋霊岸島に開業した。前身は1876年に大阪へ置いた為替局で、回漕貨物を担保に荷主へ為替金を貸し、見返りに積み荷を集めていた。為換店はほどなく廃止され、三菱は1885年に第百十九国立銀行の経営を引き受けて銀行業へ戻る。1895年に三菱合資会社が銀行部を新設してその業務を継ぎ、1919年8月には銀行部を分離して資本金5,000万円の株式会社三菱銀行を設立した。1948年10月に特定商号使用禁止令で千代田銀行と改称し、1953年7月に三菱銀行へ復している。
決断 国内の合併で取り損ねた規模を、海外の拠点で埋めてきた銀行である。1969年に田実
国内の合併で取り損ねた規模を、海外の拠点で埋めてきた銀行である。1969年に田実渉頭取が固めた第一銀行との合併構想は、第一銀行の元頭取井上薫氏らの反対で同じ年に白紙に戻った。そこで中村俊男頭取は国際化を重点に掲げ、1972年に初の海外現地法人・加州三菱銀行をロサンゼルスに設けた。1984年にはバンク・オブ・カリフォルニアを買収し、1989年には邦銀で初めてニューヨーク証券取引所へ上場している。それでも国際部門の利益は都銀上位5行で最下位の年が多かった。その結果、1996年4月に外国為替専門の東京銀行を合併して東京三菱銀行となり、国内の厚みと海外の網を1行に収めた。
現況 最後の5年間は、1999年の公的資金を申請せず、三菱グループの資本で金融危機をし
最後の5年間は、1999年の公的資金を申請せず、三菱グループの資本で金融危機をしのいだ。1997年9月中間期に約1兆1000億円の不良債権を引き当て、1999年春に大手行が資本注入を申請するなかで見送った。代わりに三菱グループ企業を引受先とする2442億円の増資と本店などの売却で、自己資本を約4000億円積み増している。2001年4月、三菱信託銀行・日本信託銀行と株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設立し、上場を終えた。持株会社は2005年にUFJホールディングスと合併して三菱UFJフィナンシャル・グループとなり、銀行も翌年UFJ銀行と合併し、2018年に三菱UFJ銀行へ改称した。
競合 都銀再編の最終局面で、首位行は組む相手を国内の銀行に見つけられなかった。1999
都銀再編の最終局面で、首位行は組む相手を国内の銀行に見つけられなかった。1999年に第一勧業・富士・日本興業の3行が統合し、同じ年に住友銀行とさくら銀行が合併することが決まると、残る東京三菱銀行と三和銀行の統合が取りざたされた。しかし岸曉頭取は規模より銀行の質と業務の速さを優先する考えで、三和との交渉はまとまらなかった。三和は2000年7月に東海銀行などとの統合で合意し、3グループが生まれれば首位の東京三菱は総資産で4位に下がる立場に置かれた。東京三菱は同業の銀行ではなくグループ内の信託2行を相手に選び、主導権を保ったまま商品の幅を広げる統合を組んだ。

第1章 1880年〜 三菱為換店と第百十九国立銀行の継承、合資会社銀行部から株式会社三菱銀行の独立

1880年〜海運の荷為替から分かれた三菱為換店と、第百十九国立銀行を継いだ合資会社銀行部

三菱の銀行業は、1880年4月に東京・京橋霊岸島で開業した三菱為換店から始まった。前身は、郵便汽船三菱会社が1876年に大阪へ設けた為替局である。為替局は政府資金を元手に、回漕貨物を担保として荷主へ為替金を貸し、その見返りに積み荷を誘った。1880年に海運業から切り離された為換店は、荷為替に加えて預金と貸付を扱い、東京・深川で倉庫業も営んだ。岩崎家が銀行の名を持つ組織を得るのは1885年で、それまでは為替局と為換店が資金の供給役を担った。創業者で社長の岩崎彌太郎氏にとって、荷主への融通は船の荷を集める手立てであり、それを別組織にしたことで預金を受ける器ができたとみられる。

  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [1]1880年4月 三菱為換店を東京京橋霊岸島浜町で開業。三菱における銀行業務の始まり
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [2]1876年6月 郵便汽船三菱会社が大阪に為替局を設置し荷為替の貸付を行う
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [3]為替局は郵便汽船三菱会社の内部に置かれ、政府資金を運営資金に回漕貨物を担保として荷主に為替金を融通し、積み荷の勧誘に努めた
    • [5]岩崎は1885年に第百十九国立銀行の経営に乗り出すまで銀行を持たず、為替局・三菱為換店が資金供給機関だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [4]1880年 三菱為換店を開設し普通銀行業務と倉庫業を兼営(倉庫業は東京深川・明治百年)

郵便汽船三菱会社は1885年5月、第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的な銀行業務に入った。同じ年の2月に創業者の岩崎彌太郎氏が死去し、副社長の岩崎彌之助氏が社長を継いでいた。彌之助氏はその後も第百十九国立銀行の経営にあたった。三菱為換店は、この引受けより前に廃止されていた。1886年3月に三菱社が設立され、1880年代後半には第百十九国立銀行の頭取に豊川良平氏が就任した。国立銀行は1876年の制度改正で設立が相次ぎ、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた。新たに国立銀行を起こせない以上、既存の1行を引き継ぐことが、銀行業へ戻る最も手近な道だったのだろう。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [6]1885年5月 郵便汽船三菱会社が第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的銀行業務に乗り出す
  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [7]1885年2月 岩崎弥太郎社長が死去し岩崎弥之助副社長が社長に就任、同年5月に第百十九国立銀行の経営を継承
    • [8]二代社長岩崎弥之助の略歴に第百十九国立銀行を経営とある
    • [10]1886年3月 三菱社設立
    • [11]1886年3月の三菱社設立から1889年の憲法発布までの間に、豊川良平が第百十九国立銀行の頭取に就任(年表)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [9]三菱為替店はその後廃止され、1885年5月に第百十九国立銀行の経営を引き受けた
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [12]1876年の制度改正で国立銀行設立ブームとなり、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に以後の設立を禁じた

三菱合資会社は1895年、資本金500万円のうち100万円を割いて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を引き継いだ。合資会社は1893年に社長の岩崎久彌氏のもとで設立され、第百十九国立銀行の役職員は全員が合資会社の在籍となっていた。銀行部は東京・八重洲町の三菱第一号館で開業し、初代部長には豊川良平氏が就任した。国立銀行は1883年の条例改正で営業年限を開業から20年と定められ、1896年から1899年に122行が普通銀行へ転じた。銀行部は鉱山や造船など三菱の各事業の出納を受け持ち、資金も供給した。満期を前に業務を合資会社の内へ移したのは、国立銀行の看板を失った後の受け皿を先に整えるためと推察される。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [13]1895年 三菱合資会社が資本金500万円のうち100万円をさいて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を継承
  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [14]1893年 三菱合資会社設立(資本金500万円・社長岩崎久弥)、第百十九国立銀行の役職員全員が三菱合資の在籍となる
    • [15]三菱合資会社銀行部が三菱第一号館(麹町区八重洲町)で開業、豊川良平が初代銀行部長となる
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [16]1883年の国立銀行条例改正で営業年限を開業免状下付から20年とし、1896〜1899年に122行が普通銀行に転換
    • [17]三菱合資の銀行部は合資会社の内部組織として鉱山・造船など各事業の出納方と資金の供給者を兼ねた(『三菱銀行史』の記述)
参考文献[1]-[17]
  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [1]1880年4月 三菱為換店を東京京橋霊岸島浜町で開業。三菱における銀行業務の始まり
    • [7]1885年2月 岩崎弥太郎社長が死去し岩崎弥之助副社長が社長に就任、同年5月に第百十九国立銀行の経営を継承
    • [8]二代社長岩崎弥之助の略歴に第百十九国立銀行を経営とある
    • [10]1886年3月 三菱社設立
    • [11]1886年3月の三菱社設立から1889年の憲法発布までの間に、豊川良平が第百十九国立銀行の頭取に就任(年表)
    • [14]1893年 三菱合資会社設立(資本金500万円・社長岩崎久弥)、第百十九国立銀行の役職員全員が三菱合資の在籍となる
    • [15]三菱合資会社銀行部が三菱第一号館(麹町区八重洲町)で開業、豊川良平が初代銀行部長となる
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [2]1876年6月 郵便汽船三菱会社が大阪に為替局を設置し荷為替の貸付を行う
    • [9]三菱為替店はその後廃止され、1885年5月に第百十九国立銀行の経営を引き受けた
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [3]為替局は郵便汽船三菱会社の内部に置かれ、政府資金を運営資金に回漕貨物を担保として荷主に為替金を融通し、積み荷の勧誘に努めた
    • [5]岩崎は1885年に第百十九国立銀行の経営に乗り出すまで銀行を持たず、為替局・三菱為換店が資金供給機関だった
    • [12]1876年の制度改正で国立銀行設立ブームとなり、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に以後の設立を禁じた
    • [16]1883年の国立銀行条例改正で営業年限を開業免状下付から20年とし、1896〜1899年に122行が普通銀行に転換
    • [17]三菱合資の銀行部は合資会社の内部組織として鉱山・造船など各事業の出納方と資金の供給者を兼ねた(『三菱銀行史』の記述)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [4]1880年 三菱為換店を開設し普通銀行業務と倉庫業を兼営(倉庫業は東京深川・明治百年)
    • [6]1885年5月 郵便汽船三菱会社が第百十九国立銀行の経営を引き受け、子会社として本格的銀行業務に乗り出す
    • [13]1895年 三菱合資会社が資本金500万円のうち100万円をさいて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を継承

1919年〜銀行部から独立した株式会社三菱銀行と、ロンドン・ニューヨークの2支店

三菱合資会社は1919年8月、銀行部を切り離して株式会社三菱銀行を設立し、同年10月1日に営業を始めた。合資会社は1917年10月に造船と製鉄、1918年4月に鉱業と商事を独立させ、自らは持株会社へ転じ始めていた。銀行部の資本金は1895年の発足時の100万円のままで、店舗も本店のほか9店にとどまっていた。一方で銀行部の預金は、1913年末の43,544千円から1918年末には224,754千円へ増えていた。合資会社の首脳部は、資本を大きく積み増して広く一般の信用を得なければ、大戦で膨らんだ資金需要に応えられないと判断した。新銀行の資本金5,000万円は合資会社と岩崎家が全額を引き受け、初代会長には合資会社社長の岩崎小彌太氏が就任した。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
    • [18]1919年8月 株式会社三菱銀行を設立し三菱合資会社から分離、同年9月銀行部の営業全部を譲渡、10月1日営業開始
    • [21]銀行部の預金は1913年末43,544千円、1918年末224,754千円
    • [23]新銀行の資本金5,000万円は三菱合資会社と岩崎家が全部を引き受け3,000万円を払い込み、取締役会長に岩崎小彌太を選任
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
    • [19]合資会社は1917年10月に造船・製鉄、1918年4月に鉱業・商事を独立させ、1918年5月に資本金を3,000万円とし持株会社への転向を開始
    • [20]銀行部の資本金は発足当時の100万円のまま変わらず、店舗は本店のほか9店に過ぎなかった
    • [22]合資会社首脳部は銀行事業の積極的拡充を意図し、大戦で膨張した三菱関係・一般事業に対応するため資本金を大幅に増やし広く一般の信用を得る必要があった。銀行界でも増資・合同と株式組織化が進んでいた

三菱銀行は1920年4月、ロンドンとニューヨークに支店を開設した。それまで銀行部は、三菱合資会社のロンドン支店と1917年開設のニューヨーク拠点を使い、関係会社の輸出入や送金の為替を扱っていた。株式会社としての発足を機に外国為替業務を大きく伸ばすため、自前の支店を置くことにした。支店には、海外情勢の把握や行員の養成、分系会社の便宜といった役割も持たせた。ニューヨーク支店は州法に基づく銀行ではなく預金を扱えなかったため、為替の事務に専念した。当初は三菱商事と同じビルの同じ階に入り、綿花や鉄、石油の輸出や生糸の輸入の為替を大量に扱ったという。外国為替の取扱高は国内の不況期にも伸び、主な取引先だった三菱商事の急拡大がその一因だった。

  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [24]1920年4月 ロンドン・ニューヨーク両支店を開設
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
    • [25]銀行部時代から三菱合資会社のロンドン支店(1916年開業)とニューヨーク支店(1917年出張所として開業、1918年支店に昇格)を利用し、関係諸会社の輸出入為替・送金為替を取り扱った
    • [26]1919年10月の株式会社三菱銀行としての発足を機に、外国為替業務の飛躍的発展を図るため1920年4月1日にロンドン・ニューヨーク支店を設置
    • [27]両支店の設置は海外情勢の把握、行員の養成、内地業務の推進、分系会社の便宜等にも資するものとされた
    • [28]ニューヨーク支店(正式にはNew York Agency)は州法に基づく銀行でなく預金業務を扱えず、為替事務に専従した(山口堅吉談)
    • [29]ニューヨーク支店は当初Equitable Building11階で三菱商事と同居し、棉花・鉄・パルプ・石油等の輸出や生糸・雑貨等の輸入の為替を大量に扱った(山口堅吉談)
    • [30]外国為替取扱高は内地経済界不振の時期にも着実に増加し、主要取引先三菱商事の急膨張による取引量の増大がその一因

三菱銀行は1922年3月31日、東京・八重洲町に本店営業所を完成させ、同年5月に営業を始めた。建物は1916年5月の着工から5年10か月と380万円をかけ、信用の保持を銀行の基礎とみて堅牢さを第一の条件に設計された。1920年の反動で財界は大不況に陥り、その整理が済まないうちに1923年9月の関東大震災が起きた。震災では、東京に本店を置く銀行の多くが本店を焼失した。三菱銀行の本館は焼け残り、他行より早く預金の支払いに応じ、本店の金庫も被災した銀行に開放した。預金は1922年末の266,412千円から1923年末に307,326千円へ増えた。不況のさなかに預金が伸びたのは、焼け残った本館と支払いの早さが、預金者に見える形の信用になったからではないか。

  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
    • [31]1922年3月31日 東京市麹町区八重洲町二丁目に本店営業所の建物が完成
    • [33]本店営業所は1916年5月12日の基礎掘削着手から5年10か月、380万円を費やし、銀行発展の基礎は信用の保持・向上にあるとして堅牢・壮麗を第一条件とした
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [32]1922年 本店営業所を新築し同年5月営業開始
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
    • [34]新銀行設立時を好況の絶頂とし、1920年の大波瀾で財界は大不況に陥り、整理が済まないうちに関東大震火災が突発した
    • [38]三菱銀行の預金は1922年末266,412千円、1923年末307,326千円
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [35]1923年9月の関東大震災で東京所在の多くの銀行が本店を焼失
    • [36]1922年完成の本館は震災で無事に残り、他行に先駆けて預金の支払いを開始
    • [37]震災時に本店金庫を開放し罹災した諸銀行の使用に供した
参考文献[18]-[38]
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
    • [18]1919年8月 株式会社三菱銀行を設立し三菱合資会社から分離、同年9月銀行部の営業全部を譲渡、10月1日営業開始
    • [21]銀行部の預金は1913年末43,544千円、1918年末224,754千円
    • [23]新銀行の資本金5,000万円は三菱合資会社と岩崎家が全部を引き受け3,000万円を払い込み、取締役会長に岩崎小彌太を選任
    • [34]新銀行設立時を好況の絶頂とし、1920年の大波瀾で財界は大不況に陥り、整理が済まないうちに関東大震火災が突発した
    • [38]三菱銀行の預金は1922年末266,412千円、1923年末307,326千円
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
    • [19]合資会社は1917年10月に造船・製鉄、1918年4月に鉱業・商事を独立させ、1918年5月に資本金を3,000万円とし持株会社への転向を開始
    • [20]銀行部の資本金は発足当時の100万円のまま変わらず、店舗は本店のほか9店に過ぎなかった
    • [22]合資会社首脳部は銀行事業の積極的拡充を意図し、大戦で膨張した三菱関係・一般事業に対応するため資本金を大幅に増やし広く一般の信用を得る必要があった。銀行界でも増資・合同と株式組織化が進んでいた
  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [24]1920年4月 ロンドン・ニューヨーク両支店を開設
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
    • [25]銀行部時代から三菱合資会社のロンドン支店(1916年開業)とニューヨーク支店(1917年出張所として開業、1918年支店に昇格)を利用し、関係諸会社の輸出入為替・送金為替を取り扱った
    • [26]1919年10月の株式会社三菱銀行としての発足を機に、外国為替業務の飛躍的発展を図るため1920年4月1日にロンドン・ニューヨーク支店を設置
    • [27]両支店の設置は海外情勢の把握、行員の養成、内地業務の推進、分系会社の便宜等にも資するものとされた
    • [28]ニューヨーク支店(正式にはNew York Agency)は州法に基づく銀行でなく預金業務を扱えず、為替事務に専従した(山口堅吉談)
    • [29]ニューヨーク支店は当初Equitable Building11階で三菱商事と同居し、棉花・鉄・パルプ・石油等の輸出や生糸・雑貨等の輸入の為替を大量に扱った(山口堅吉談)
    • [30]外国為替取扱高は内地経済界不振の時期にも着実に増加し、主要取引先三菱商事の急膨張による取引量の増大がその一因
    • [31]1922年3月31日 東京市麹町区八重洲町二丁目に本店営業所の建物が完成
    • [33]本店営業所は1916年5月12日の基礎掘削着手から5年10か月、380万円を費やし、銀行発展の基礎は信用の保持・向上にあるとして堅牢・壮麗を第一条件とした
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [32]1922年 本店営業所を新築し同年5月営業開始
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [35]1923年9月の関東大震災で東京所在の多くの銀行が本店を焼失
    • [36]1922年完成の本館は震災で無事に残り、他行に先駆けて預金の支払いを開始
    • [37]震災時に本店金庫を開放し罹災した諸銀行の使用に供した

第2章 1927年〜 金融恐慌での預金流入と第百銀行の合併、千代田銀行への改称と行名の復帰

1927年〜金融恐慌で集まった預金と、森村・金原・東京中野の3行の買収

1927年3月に金融恐慌が起きて各地で取り付けが続くなか、会長の串田萬藏氏が率いる三菱銀行は営業を続け、同業銀行の救済に回った。神戸支店では一部で取り付けがあったが、行全体では恐慌を機に預金が増えた。預金は1926年末の3億2883万円から1928年末には5億6225万円に増え、その伸び率は一流銀行で首位だった。恐慌を境に、預金が大銀行へ寄る動きは全国ではっきりした。同じ2年間に貸出は2億2067万円から2億5738万円へ増えただけで、有価証券は1億3109万円から3億2467万円に膨らんだ。貸出先が増えないまま預金だけが積み上がったことが、資本の積み増しと他行の買収へ向かう下地になったとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [39]昭和初期の金融恐慌で多数の銀行が取付にあうなか、三菱銀行は同業銀行の救済に努め、信用を高めて預金が激増した
  • 実業の世界 32(12) 1935年12月
    • [40]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
    • [41]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
    • [43]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
    • [42]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
    • [45]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [44]1927年3月の金融恐慌で、三菱銀行は中小企業や経営難の銀行を救済した。恐慌以降、預金は大銀行に集中する傾向が顕著になった

1929年、三菱銀行は1924年から資本金の8割を出資して経営してきた森村銀行を買収した。同じ年に会長の串田萬藏氏のもとで資本金を倍の1億円に増やした。諸積立金が払込資本金を上回り、預金に比べて資本が小さくなりすぎていたためだった。この増資で三菱の一族が持っていた株式の一部を初めて公開し、公開した23万5000株には3倍を超す申し込みが集まった。1940年10月には、1936年から整理を担ってきた金原銀行を買収した。1942年4月には、1939年から経営に加わっていた東京中野銀行の業務を引き継いだ。2行の買収の狙いは、戦時の貯蓄増強のもとで一般の民間預金を取り込むことにあった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [46]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
    • [54]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
    • [56]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
    • [47]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [48]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [50]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [52]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [55]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [57]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
  • 実業の世界 32(12) 1935年12月
    • [49]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
    • [51]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
    • [53]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [58]日華事変後の貯蓄増強のもとで、1940年金原銀行・1942年東京中野銀行を買収し一般民間預金の吸収に努めた
参考文献[39]-[58]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [39]昭和初期の金融恐慌で多数の銀行が取付にあうなか、三菱銀行は同業銀行の救済に努め、信用を高めて預金が激増した
    • [58]日華事変後の貯蓄増強のもとで、1940年金原銀行・1942年東京中野銀行を買収し一般民間預金の吸収に努めた
  • 実業の世界 32(12) 1935年12月
    • [40]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
    • [41]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
    • [43]串田萬藏は1921年9月に岩崎小彌太の後を継いで会長に就き、1935年2月まで務めた。昭和初頭の恐慌で神戸支店が多少の取付にあったが、総体的には預金が増え、その増加率は一流銀行中の第一位だった
    • [49]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
    • [51]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
    • [53]1929年、会長串田萬藏のもとで資本金を倍額1億円に増加。諸積立金が払込資本金を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため。三菱一家で占有していた株式の一部を公開し、森村銀行の営業一切を継承した
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
    • [42]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
    • [45]預金は1926年末3億2883万円→1927年末4億7059万円→1928年末5億6225万円、貸出金は2億2067万円→2億5348万円→2億5738万円、有価証券は1億3109万円→2億3497万円→3億2467万円
    • [47]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [48]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [50]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [52]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [55]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
    • [57]1929年3月、1924年以来資本金の8割を出資して経営中の森村銀行を買収。諸積立金が払込資本を凌駕し預金の資本金に対する割合が権衡を失したため倍額増資し公称資本金1億円。新株50万株中23万5000株を公開し3倍以上の申込。1940年に1936年以来整理経営中の金原銀行、1942年に1939年以来経営参加の東京中野銀行の業務を買収継承(森村買収の月は総覧の5月と食い違うため本文は年のみ)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [44]1927年3月の金融恐慌で、三菱銀行は中小企業や経営難の銀行を救済した。恐慌以降、預金は大銀行に集中する傾向が顕著になった
    • [46]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
    • [54]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収
    • [56]1929年5月森村銀行、1940年10月金原銀行、1942年4月東京中野銀行を買収

1943年〜第百銀行の合併で預金48億円になった三菱銀行と、戦後の千代田銀行への改称

1943年4月、三菱銀行は第百銀行を合併し、資本金1億3500万円、店舗177店、預金48億円の銀行になった。合併の直前、三菱の店は51支店・14出張所で、97支店・14出張所を持つ第百銀行のほうが店の数では多かった。1942年上半期の預金高では、三菱は7大銀行の5位、第百は7位に位置していた。この合併は、戦時の資金を国が一元的に動かすために銀行の統合を求めた当局の方針に沿うものだった。交渉は頭取の加藤武男氏と第百銀行頭取の関根善作氏が担い、双方が譲り合ってまとめた。合併で加わった112店は、1949年時点で千代田銀行の店舗のおよそ3分の2にあたった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [59]1943年4月第百銀行を合併し、資本金1億3500万円・店舗177店・預金48億円となった
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [60]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [61]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [62]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [64]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [63]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
    • [65]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [66]1943年の合併当時三菱銀行の店舗は50〜60にすぎず、1949年の155店の3分の2は第百の吸収で得たものとされる

敗戦後に戦時補償が打ち切られると、軍需向けの貸出を抱えた金融機関は大きな損失を負った。1946年10月に施行された金融機関再建整備法のもとで、三菱銀行の確定損は約19億7400万円と算定された。この額は旧勘定資産の帳簿残高のほぼ3割にあたり、確定益で埋めても損失が残った。1948年3月の最終処理で、三菱銀行は資本金1億3500万円の93%を切り捨て、第二封鎖預金の一部も切り捨てて穴を埋めた。この間に公職追放で頭取の加藤武男氏や副頭取の関根善作氏が退き、高木健吉氏を経て1947年から千金良宗三郎氏が頭取に就任した。財閥解体の過程でも銀行は過度経済力集中排除法の適用を外れ、規模をほぼ保ったまま再建に入った。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [67]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
    • [68]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
    • [69]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [70]1948年3月、金融機関再建整備法に基づく最終処理を完了し、資本金1億3500万円を93%切り捨てた
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [71]再建整備では特損19億7400万円を資本金と第二封鎖預金の切り捨てで補塡した
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [72]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
    • [73]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった

1948年10月、頭取の千金良宗三郎氏のもとで、三菱銀行は行名を千代田銀行に改めた。財閥の名を商号に使うことを禁じた特定商号使用禁止令により、三菱の名もスリーダイヤの印も使えなくなったためだった。新しい行名は本店のある千代田区丸の内から取り、印には顧客・株主・従業員を表す3本の柱を据えた。同じころ安田銀行は富士銀行に、住友銀行は大阪銀行に名を改めた。行員は、かねての標語だった親切第一を添えて、三菱が千代田に変わったことを取引先に繰り返し伝えた。改称と同時に資本金を11億円へ増やし、このときの預金は332億円、店舗は161店だった。この増資で株式は預金者や従業員、地方の住民へ散らばり、資本の面でも大衆銀行としての性格が強まった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [74]財閥解体で「三菱」の名称を使えなくなり、1948年10月千代田銀行と行名を変更した
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [75]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [76]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [77]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [79]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [80]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [78]千代田の新マークは三菱ビルの正面をかたどり、3本の柱を顧客・株主・従業員に見立てた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [81]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
    • [83]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
  • 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
    • [82]沿革:1948年10月資本金11億円に増資、行名を千代田銀行と改称
参考文献[59]-[83]
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [59]1943年4月第百銀行を合併し、資本金1億3500万円・店舗177店・預金48億円となった
    • [67]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
    • [68]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
    • [69]戦時補償の打ち切りで損失を抱える金融機関が続出し、1946年10月金融機関再建整備法施行。三菱銀行の確定損は旧勘定資産帳簿残高のほぼ3割の約19億7400万円で、確定益で補っても損失が残った
    • [74]財閥解体で「三菱」の名称を使えなくなり、1948年10月千代田銀行と行名を変更した
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [60]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [61]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [62]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [64]合併時、第百は97支店・14出張所、三菱は51支店・14出張所。1942年上半期の預金高で三菱は7大銀行の5位、第百は7位。合併は国の統制政策によるもので、加藤武男三菱銀行頭取と関根善作第百銀行頭取が互譲で進めた
    • [72]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
    • [73]銀行は集排法の適用外でほぼそのままの規模で残った。公職追放で加藤武男頭取・関根善作副頭取らが退き、高木健吉が頭取、1947年から千金良宗三郎が頭取となった
    • [75]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [76]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [77]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [79]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
    • [80]1948年10月、特定商号使用禁止令で「三菱」の名とマークが使えず千代田銀行に改名。名は本社所在地の千代田区丸の内から。代わりのマークは顧客・株主・従業員を表す3本の柱。当時の頭取は1947年からの千金良宗三郎。同じころ安田は富士、住友は大阪に改称。「親切第一の三菱が千代田と変わりました」と行く先々で繰り返した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [63]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
    • [65]1943年4月、時局の要請に基づき第百銀行と合併し、店舗は112店増えて177店、預金は20億円増えて48億円になった
    • [70]1948年3月、金融機関再建整備法に基づく最終処理を完了し、資本金1億3500万円を93%切り捨てた
    • [81]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
    • [83]1948年10月千代田銀行と改称し11億円に増資。当時の預金332億円・店舗161店。増資で株式が預金者・従業員・地方居住者に分散し大衆銀行の性格を帯びた
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [66]1943年の合併当時三菱銀行の店舗は50〜60にすぎず、1949年の155店の3分の2は第百の吸収で得たものとされる
    • [71]再建整備では特損19億7400万円を資本金と第二封鎖預金の切り捨てで補塡した
    • [78]千代田の新マークは三菱ビルの正面をかたどり、3本の柱を顧客・株主・従業員に見立てた
  • 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
    • [82]沿革:1948年10月資本金11億円に増資、行名を千代田銀行と改称

1949年〜東京・大阪での上場とニューヨーク支店の再開、三菱銀行への行名の復帰

1949年5月、千代田銀行は東京と大阪の証券取引所に株式を上場した。上場を控えた同年3月末の預金は444億円、貸出は321億円で、預金は富士銀行の502億円に次ぐ2位だった。前年10月からの半年間で預金は約108億円増えたが、貸出の増加は約51億円にとどまった。ただ株価は39〜40円にとどまり、前年の増資で株数が多くなりすぎたことが主な理由とされた。配当の再開も見通せず、その扱いはいったん棚上げになっていた。1953年までに、上場先は東京・大阪・京都・神戸・札幌の5市場に広がった。再建整備で資本の9割超を失った銀行にとって、上場は株主を広く募り、のちの増資に備える足場になったと考えられる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [84]1949年5月東京・大阪両証取に株式を上場
  • 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎
    • [85]1949年3月末の預金は富士502億円、千代田444億円、貸出は千代田321億円
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [86]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
    • [87]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
    • [88]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
  • 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
    • [89]上場市場は東京・大阪・京都・神戸・札幌

千代田銀行は1950年4月、アメリカ銀行などとコルレス契約を結び、海外との為替取引を戦後に再び始めた。1952年10月にはニューヨーク支店を開設した。ニューヨークには1920年にも支店を置いており、戦後の海外店網はこの支店の再開から立て直しが始まった。1949年の外国部では、為替レートの決定を受けて外国為替の実務を立ち上げることが課題になっていた。同じ年の時点で、貿易手形の取扱高は東京銀行や帝国銀行に届かず、富士や三和と並ぶ水準だった。同じ記事は、三菱商事の解体で生まれた200余りの新会社からの貿易手形の持ち込みを見込んでいた。旧三菱系の商社が貿易を広げるのに備え、決済の拠点を海外に持っておく必要があったのだろう。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [90]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
    • [91]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
    • [93]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [92]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
    • [94]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [95]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
    • [96]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
    • [97]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた

1953年7月、千代田銀行は行名を三菱銀行に戻した。1952年の講和条約の発効で特定商号使用禁止令が効力を失い、三菱の名を再び名乗れるようになっていた。千代田の名は海外で知られておらず、ニューヨーク支店を開設したあとの取引で不便と不利が目立ち、国内でも同様の事情があった。1952年8月には三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も相次いで現れていた。行名の復帰に先立つ1953年4月、千代田銀行は資本金を27億5000万円へ増やした。同年3月末の預金は1597億円に達しており、増資後の資本金は国内の普通銀行で最大だった。グループの各社が三菱の名に戻るなかで、中核の銀行だけが別の名を名乗り続ける理由は薄れていたものと思われる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [98]1953年7月三菱銀行の旧商号に復帰
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [99]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [101]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [103]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [104]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [100]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
    • [102]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
参考文献[84]-[104]
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [84]1949年5月東京・大阪両証取に株式を上場
    • [92]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
    • [94]海外では1952年のニューヨーク支店、1956年のロンドン支店の再開を皮切りに業務を展開した
    • [98]1953年7月三菱銀行の旧商号に復帰
  • 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎
    • [85]1949年3月末の預金は富士502億円、千代田444億円、貸出は千代田321億円
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
    • [86]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
    • [87]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
    • [88]1948年10月〜1949年3月に預金は約108億円増、貸金は51億円増。千代田の株価は39〜40円で、株数が多過ぎることが最大の原因とされた。配当の問題は一応棚上げとなっていた
    • [95]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
    • [96]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
    • [97]1949年、外国部の実務は為替レート決定による外国為替実務の発展が期待されていた。千代田の貿手取扱は東銀・帝銀に及ばず富士・三和程度。三菱商事の解体による200余りの分立新会社が詰めかけると見込まれた
  • 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
    • [89]上場市場は東京・大阪・京都・神戸・札幌
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
    • [90]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
    • [91]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
    • [93]1920年ロンドン・ニューヨークに支店開設。1950年4月アメリカ銀行等とコルレス契約、1952年10月ニューヨーク支店を開設
    • [99]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [101]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [103]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
    • [104]1953年3月末預金1597億円・貸出1402億円で、同年4月27億5000万円に増資し普通銀行中最大の資本金。1952年10月NY支店開設後、千代田の商号は海外に馴染が薄く不便不利で国内も同様だったため、1953年7月三菱銀行の旧名に復帰
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [100]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した
    • [102]千代田の名は1952年の講和条約発効で禁止令が失効し三菱に戻った。1952年8月に三菱商事が復活し、新三菱重工業など三菱の名を冠する会社も復活した

第3章 1954年〜 第一銀行との合併構想の白紙化と加州三菱銀行、オンライン化と業績の低迷

1954年〜三菱グループの機関銀行と、日銀総裁に転じた宇佐美洵

財閥本社が消えたあと、三菱銀行はグループで興す新事業の世話役を務め、各社を結ぶ位置に立った。元頭取の加藤武男氏は1955年の時点で、銀行を中心とする三菱の再結集を否定していなかったという。同じころ三菱商事は資本金を6億5千万円から25億円へ増やし、8億7,500万円分を縁故割当とした。1955年3月末の預金総額は2,338億円、貸出総額は1,801億円、店舗は157ヵ店であった。後年、中村俊男氏は、重化学工業の多い系列企業への貸付が預金として戻り、資金が効率よく回ったと振り返った。持株会社に代わって系列の資金と株式をつなぐ結節点になったことが、この時期の銀行の拠り所だったとみられる。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [105]1954年の三菱セメント、1956年の三菱油化、1958年の三菱原子力工業などグループの新事業で、全社と取引のある銀行が世話役を務めた(持株会社が無くなったため)
    • [109]三菱系企業に時流の重化学工業が多く、銀行の貸付金が預金として戻り効率的に回転した(中村俊男談)
  • 産業と経済 新年特別 1955年
    • [106]元頭取の加藤武男は三菱銀行を中心とする近代的な財閥復活を否定しておらず、銀行が持株会社的役割を負うと報じられた(1955年)
    • [107]三菱商事が資本金6億5,000万円を25億円に増資し、1,750万株・8億7,500万円分を縁故割当とし、株は三菱銀行を中心とする三菱系各社が持つとみられた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
    • [108]1955年3月末の預金総額2,338億円、貸出総額1,801億円、店舗157ヵ店、従業員8,700余名

頭取の宇佐美洵氏は1964年12月、在任3年1カ月で日本銀行総裁に転じた。同月17日、蔵相の田中角栄氏から電話で総裁就任を求められ、その日に後任の頭取を田実渉氏に託した。民間からの起用は戦後初めてで、財界には大蔵省と日銀の出身者が続く総裁人事への反発から、民間人を求める声が強かったという。宇佐美氏は全国銀行協会連合会の会長として、通産省主導の特振法案に官僚統制の恐れがあるとして反対し、骨抜きにしていた。行員には、日銀に移る以上は三菱とはっきり縁を切ると告げて銀行を去った。頭取を中央銀行の長に送り出したことで、三菱銀行は金融界の中心とみなされる度合いを強めたと推察される。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [110]宇佐美洵は1961年11月に頭取となり、3年1カ月後の1964年12月に日銀総裁へ転じ、後任は田実渉
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [111]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
    • [115]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
    • [112]宇佐美の日銀総裁就任は戦後初の民間からの起用で、日銀80年で7人目の民間出身総裁
    • [113]財界では戦後の日銀総裁が大蔵省・日銀出身者で占められたことへの反発があり、民間人起用を求める声が高かったと伝えられた
    • [114]全銀協会長として通産省の特振法構想に官僚統制の恐れがあるとして反対し続け、骨抜きにした
参考文献[105]-[115]
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
    • [105]1954年の三菱セメント、1956年の三菱油化、1958年の三菱原子力工業などグループの新事業で、全社と取引のある銀行が世話役を務めた(持株会社が無くなったため)
    • [109]三菱系企業に時流の重化学工業が多く、銀行の貸付金が預金として戻り効率的に回転した(中村俊男談)
    • [110]宇佐美洵は1961年11月に頭取となり、3年1カ月後の1964年12月に日銀総裁へ転じ、後任は田実渉
  • 産業と経済 新年特別 1955年
    • [106]元頭取の加藤武男は三菱銀行を中心とする近代的な財閥復活を否定しておらず、銀行が持株会社的役割を負うと報じられた(1955年)
    • [107]三菱商事が資本金6億5,000万円を25億円に増資し、1,750万株・8億7,500万円分を縁故割当とし、株は三菱銀行を中心とする三菱系各社が持つとみられた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
    • [108]1955年3月末の預金総額2,338億円、貸出総額1,801億円、店舗157ヵ店、従業員8,700余名
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
    • [111]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
    • [115]1964年12月17日に田中角栄蔵相から電話で日銀総裁就任を求められ、辞令を受けた日に後任頭取を田実渉に依頼し、課長以上に三菱と縁を切ると挨拶した
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
    • [112]宇佐美の日銀総裁就任は戦後初の民間からの起用で、日銀80年で7人目の民間出身総裁
    • [113]財界では戦後の日銀総裁が大蔵省・日銀出身者で占められたことへの反発があり、民間人起用を求める声が高かったと伝えられた
    • [114]全銀協会長として通産省の特振法構想に官僚統制の恐れがあるとして反対し続け、骨抜きにした

1964年〜田実渉が仕掛けた第一銀行との合併構想と、白紙に戻った三菱第一銀行

1969年1月、頭取の田実渉氏と第一銀行頭取の長谷川重三郎氏の間で、両行の合併の方向が固まったことが表面化した。都市銀行の再編は、業務提携から合併の段階へ進むとの見通しが示された。両頭取の会見では、自由化に備えて企業が国際化するには規模の利益の追求が要り、銀行も同じだという考えが示された。相手には異種の金融機関の方が利点は大きいとされる中で、気心の知れた第一銀行を選んだという説明もあった。ただ、取締役に話したのは会見の前日が初めてで、行内の意思統一はまだできていなかった。規模を一度に取ることを急いだ分、相手行の内部の合意づくりが後回しになったのだろう。

  • 日経新聞 1969年1月3日
    • [116]三菱銀行と第一銀行が両行頭取間で原則的に合併の方向を打ち出した(1969年1月3日報道)
    • [118]この合併方針を起爆剤に、都市銀行の再編が業務提携段階から合併段階へ進む見通しが出た
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [117]第一銀行頭取は長谷川重三郎、三菱銀行頭取は田実渉。1969年元日の読売新聞が三菱・第一の合併を報じた
  • 読売新聞 1969年1月4日
    • [119]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [120]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [121]取締役に合併の話をしたのは会見前日が初めてで、銀行全体の意思統一まではまだ来ていないと述べられた

第一銀行との合併構想は、同行の元頭取井上薫氏らの反対で1969年のうちに流れた。井上氏は構想を実質的な吸収合併とみて反対し、戦時中の三井銀行との合併で第一系の支店長が4年で84名から62名へ減った経験を挙げた。取引先も、三菱グループと競合する企業が多く、合併後に三菱色に塗りつぶされると懸念した。報道のあと長谷川氏ら数人の役員が辞任し、第一銀行は1971年3月に日本勧業銀行との対等合併を発表した。後年、田実氏は『私が合併をいちばんはじめに試みて、結局失敗したけれども、しかしあれは第一勧銀となって実を結んだ』と語った。相手を選ぶ際に、相手行の人事と取引先の利害を読み切れなかったことが構想の限界だったと考えられる。

  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [122]第一銀行の井上薫は三菱銀行との合併に反対し、1968年暮れに田実頭取を訪ねて話を進めないよう求めた。合併は流産した
    • [123]1968年10月ごろ長谷川頭取から三菱との合併話を打ち明けられ、実質上は吸収合併であるとして即座に反対した
    • [124]戦時中の三井銀行との合併(帝国銀行)では、第一系の支店長が合併時84名から4年後62名に減り、三井系は45名から68名に増えた
    • [125]三菱グループはワンセット主義で第一系企業と競合するものが多く、取引先(大株主)が三菱色に塗りつぶされることを懸念してほとんど全て反対した
    • [126]長谷川頭取以下数人の役員が辞任し、1971年3月11日の日経朝刊が第一・勧銀の対等合併(10月1日発足メド)を報じた
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
    • [127]田実渉は1973年時点でも合併論者だとし、第一銀行との合併の試みは失敗したが第一勧銀として実を結んだと語った

三菱銀行は1968年9月にオンライン・システムを動かし始めた。同じ年の預金量は1兆8,000億円台、店舗は182店で富士銀行に次ぐ2位だったが、大衆化路線には乗り遅れた感があるとされた。銀行は1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニーと提携した預金で個人客の取り込みを図っていた。オンライン化の3年後の1971年には、オンラインで結んだ現金引出機を業界で初めて置いた。1972年には家計預金を一つにまとめる総合口座を出し、1973年10月に東京事務センターを新設した。系列企業との取引で伸びた銀行が、機械化を足場に個人客の窓口を広げ、大衆化の遅れを縮めようとしたと思われる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [128]1968年9月にオンライン・システムを開始した
    • [131]1971年に業界初のオンラインによるCD(現金引出機)を設置した
    • [132]1972年に総合口座を取り扱い、1973年10月に東京事務センターを新設した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [129]1968年時点で預金量1兆8,000億円台、店舗182ヵ店、富士銀行に次ぐ2位。大衆化路線に乗りおくれた感もあるが、ここ数年急速に他行に迫っていると評された
    • [130]1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニー・プロと提携してディズニー預金などに活用した
参考文献[116]-[132]
  • 日経新聞 1969年1月3日
    • [116]三菱銀行と第一銀行が両行頭取間で原則的に合併の方向を打ち出した(1969年1月3日報道)
    • [118]この合併方針を起爆剤に、都市銀行の再編が業務提携段階から合併段階へ進む見通しが出た
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
    • [117]第一銀行頭取は長谷川重三郎、三菱銀行頭取は田実渉。1969年元日の読売新聞が三菱・第一の合併を報じた
    • [122]第一銀行の井上薫は三菱銀行との合併に反対し、1968年暮れに田実頭取を訪ねて話を進めないよう求めた。合併は流産した
    • [123]1968年10月ごろ長谷川頭取から三菱との合併話を打ち明けられ、実質上は吸収合併であるとして即座に反対した
    • [124]戦時中の三井銀行との合併(帝国銀行)では、第一系の支店長が合併時84名から4年後62名に減り、三井系は45名から68名に増えた
    • [125]三菱グループはワンセット主義で第一系企業と競合するものが多く、取引先(大株主)が三菱色に塗りつぶされることを懸念してほとんど全て反対した
    • [126]長谷川頭取以下数人の役員が辞任し、1971年3月11日の日経朝刊が第一・勧銀の対等合併(10月1日発足メド)を報じた
  • 読売新聞 1969年1月4日
    • [119]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [120]会見で、合併相手は異種金融機関の方がメリットが大きいといわれるが、自由化に対処し企業が国際化するには規模の利益の追求が大事で銀行も同じ、相手は気心を知っている第一銀行が一番良いと説明された
    • [121]取締役に合併の話をしたのは会見前日が初めてで、銀行全体の意思統一まではまだ来ていないと述べられた
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
    • [127]田実渉は1973年時点でも合併論者だとし、第一銀行との合併の試みは失敗したが第一勧銀として実を結んだと語った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [128]1968年9月にオンライン・システムを開始した
    • [131]1971年に業界初のオンラインによるCD(現金引出機)を設置した
    • [132]1972年に総合口座を取り扱い、1973年10月に東京事務センターを新設した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
    • [129]1968年時点で預金量1兆8,000億円台、店舗182ヵ店、富士銀行に次ぐ2位。大衆化路線に乗りおくれた感もあるが、ここ数年急速に他行に迫っていると評された
    • [130]1961年に子豚の貯金箱を考案し、ディズニー・プロと提携してディズニー預金などに活用した

1971年〜中村俊男の国際化路線と加州三菱銀行、手堅さが招いた業績の低迷

中村俊男氏は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに国際化を掲げた。1971年4月の支店長会議では、『国際業務は都市銀行の主要業務として、今後真剣に取り組んでいかねばならない』と訴えた。これは外国為替にとどまらず、海外での貸出や証券取引など国際金融業務へ参入する意味を持っていた。1952年のニューヨーク支店再開から20年を経た1972年1月、初の海外現地法人として加州三菱銀行をロサンゼルスに設けた。同年5月には、欧米の代表的な銀行で構成するオライオン・グループに加わった。国内の合併で規模を取れなかった分、海外に拠点を持つことで成長の余地を探ったと読める。

  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [133]中村俊男は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに「国際化」を掲げた
    • [134]1971年4月の支店長会議で、わが国経済の急速かつ本格的な国際化に対処して当行の国際化路線を強化する必要があると述べた
    • [135]国際化は外国為替業務にとどまらず、海外での貸出業務・証券取引業務など国際金融業務への進出を意味した
    • [136]1952年10月にニューヨーク支店を再開し、1972年1月に初めての海外現地法人「加州三菱銀行」をロサンゼルスに設立した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [137]1972年5月に欧米先進諸国の代表的銀行で構成するオライオン・グループに参加した

三菱銀行は1980年に創業100年を迎え、記念事業の一環として7月に地上24階の新本館を落成させた。頭取の山田春氏は100年で培った特色に信用を挙げ、金融恐慌で預け入れ客が引出し客を上回った経緯をその裏づけとした。二世紀目の経営の基本には、健全性と効率化を据えた。戦前は財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化を続けた結果、中小企業向け貸出の比率がおよそ50%に達したとも説いた。ところが翌年には、その信用の伝統がかえって一般の預金者を遠ざける要素になったとされた。信用を拠り所とする姿勢は、法人取引では強みでも、個人取引を広げる場面では働きにくかったようだ。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [138]1980年7月に創業100周年を迎え、新本館が完成した
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [139]山田春頭取は100年の歴史で培われた特色を信用と答えた。新本店は地上24階(1980年7月14日落成)
    • [140]関東大震災で本店の建物が無事で他行の重要物件を預かり、金融恐慌では預け入れ客が引出し客を上回ったと山田頭取が述べた
    • [141]二世紀目の経営の基本は健全性と効率化で、新しい金融ニーズに応えるとした
    • [142]戦前は三菱グループ中心の財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化への努力で中小企業向け貸出比率はだいたい50%になったと山田頭取が述べた
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [143]三菱銀行の信用力の伝統はかえって一般預金者に敬遠される要素となり、堅実な経営方針は国際化という環境変化にややそぐわないと指摘された

1981年3月期の三菱銀行の経常利益(有価証券関係の損益を除く)は231億円で、1年前に11億円だった住友銀行との差が170億円に開いた。格差の半分は国際部門から生じ、個人預金でも住友に抜かれて上位4行の最下位に下がった。国内の産業金融を主流とし、貸出と審査に人材を注いできた結果、国際部門が手薄になったという。中村氏も後年、海外へ出る企業への融資では都市銀行は受け身にならざるをえないと振り返った。銀行は1981年7月13日、機能別の組織を三菱系大企業・中堅中小企業・国際の3本部へ切り替えた。系列の信用に支えられた取引の型が、自由化の局面では収益の伸びを抑える側に回ったと推測される。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [144]1981年3月期の経常利益(有価証券関係損益控除後)は住友銀行401億円に対し三菱銀行231億円で、170億円の差
    • [145]1980年3月期は住友392億円、三菱381億円で差は11億円だった
    • [146]1981年3月期の住友との収益格差の半分は国際部門から生じ、個人預金で住友に抜かれ上位4行中最下位となった
    • [147]三菱財閥への資金供給者として国内産業金融中心の伝統が強く、貸出・審査部門が主流で国際部門に人材を十分投入できなかった
    • [149]1981年7月13日、機能別組織から三菱系大企業担当の営業本部・中堅中小企業の業務本部・国際本部の市場別組織に全面改正した
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [148]都市銀行は海外に進出する日本企業への融資では受け身にならざるをえず、自ら海外プロジェクトを計画することはしないと中村俊男が述べた
参考文献[133]-[149]
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
    • [133]中村俊男は1970年10月に頭取に就任し、第二次三カ年計画の最重点施策の一つに「国際化」を掲げた
    • [134]1971年4月の支店長会議で、わが国経済の急速かつ本格的な国際化に対処して当行の国際化路線を強化する必要があると述べた
    • [135]国際化は外国為替業務にとどまらず、海外での貸出業務・証券取引業務など国際金融業務への進出を意味した
    • [136]1952年10月にニューヨーク支店を再開し、1972年1月に初めての海外現地法人「加州三菱銀行」をロサンゼルスに設立した
    • [148]都市銀行は海外に進出する日本企業への融資では受け身にならざるをえず、自ら海外プロジェクトを計画することはしないと中村俊男が述べた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [137]1972年5月に欧米先進諸国の代表的銀行で構成するオライオン・グループに参加した
    • [138]1980年7月に創業100周年を迎え、新本館が完成した
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
    • [139]山田春頭取は100年の歴史で培われた特色を信用と答えた。新本店は地上24階(1980年7月14日落成)
    • [140]関東大震災で本店の建物が無事で他行の重要物件を預かり、金融恐慌では預け入れ客が引出し客を上回ったと山田頭取が述べた
    • [141]二世紀目の経営の基本は健全性と効率化で、新しい金融ニーズに応えるとした
    • [142]戦前は三菱グループ中心の財閥銀行の色彩が強かったが、大衆化への努力で中小企業向け貸出比率はだいたい50%になったと山田頭取が述べた
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
    • [143]三菱銀行の信用力の伝統はかえって一般預金者に敬遠される要素となり、堅実な経営方針は国際化という環境変化にややそぐわないと指摘された
    • [144]1981年3月期の経常利益(有価証券関係損益控除後)は住友銀行401億円に対し三菱銀行231億円で、170億円の差
    • [145]1980年3月期は住友392億円、三菱381億円で差は11億円だった
    • [146]1981年3月期の住友との収益格差の半分は国際部門から生じ、個人預金で住友に抜かれ上位4行中最下位となった
    • [147]三菱財閥への資金供給者として国内産業金融中心の伝統が強く、貸出・審査部門が主流で国際部門に人材を十分投入できなかった
    • [149]1981年7月13日、機能別組織から三菱系大企業担当の営業本部・中堅中小企業の業務本部・国際本部の市場別組織に全面改正した

第4章 1984年〜 バンク・オブ・カリフォルニア買収とニューヨーク上場、東京銀行との合併と三菱東京FGの設立

1984年〜バンク・オブ・カリフォルニアの子会社化と、手堅さの殻を破った伊夫伎一雄

三菱銀行は1984年6月、米国西海岸で最も古い銀行とされるバンク・オブ・カリフォルニアを買収した。頭取は山田春氏で、1972年1月に設けた現地法人の加州三菱銀行とは別に、既存の銀行の買収を選んだ。当時の三菱銀行は、1979年度ごろまで並んでいた富士・住友の両行に経常利益で差をつけられ、三和銀行にも迫られていた。行内で「青年将校」と呼ばれた若手・中堅行員は、守りの堅さだけでは他の都銀に追いつけないとみていた。この買収でも、彼らが主軸になって動いたという。買収時に20店まで縮んでいたバンク・オブ・カリフォルニアは、1987年には年約3000万ドルの利益を出すまでに持ち直した。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [150]1984年6月、米国西海岸最古の銀行バンク・オブ・カリフォルニアを買収。1972年1月に海外現地法人第1号の加州三菱銀行を設立
  • 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
    • [151]1984年6月のカリフォルニア銀行買収は山田春頭取(1986年時点で会長)の時代の施策
  • 日経ビジネス 1983年11月14日
    • [152]経常利益は1979年度ごろまで富士・住友とほぼ並んだが直近2〜3年は差をつけられ、三和に急速に追い上げられている
    • [153]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
    • [154]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
  • Decide 1987年
    • [155]伊夫伎頭取談:バンカルは住宅融資の不良債権で経営が傾き買収時は20店、前期決算で約3000万ドルの利益まで回復

1986年6月に頭取に就任した伊夫伎一雄氏は、就任の翌月に都銀で初めて中途採用の求人広告を出した。8月末までに560人が応募し、システム部門を中心に30人近くを採った。同年10月には組織を組み替え、M&Aの仲介を担う情報開発本部と、都銀で初めてその名を冠した証券本部を新設した。下敷きは、副頭取時代の伊夫伎氏が率いた検討会が1986年3月にまとめた自由化への対応策で、組織案は専務の若井恒雄氏のチームが詰めた。リスクを避ける体質から、国際業務関係の利益は都銀上位5行で最下位に甘んじる年が多かった。首位の住友とは200億円前後の開きがあり、手堅さが収益の伸びを抑えていた。

  • 日経ビジネス 1987年4月13日
    • [156]1986年6月に伊夫伎一雄が頭取就任。同年7月11日に都銀のトップを切って中途採用の求人広告を新聞に掲載
    • [157]8月末の1回目締切までに560人が応募し、システム部門を中心に10月以降30人近くを採用
    • [158]1986年10月1日から組織改革を実施。情報開発本部(M&A仲介など)と証券本部を新設し、証券本部の名は都銀で初めて
    • [160]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
    • [161]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
  • 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
    • [159]伊夫伎副頭取を中心に1985年9月から研究し、1986年3月に基本方針を決定。組織は若井恒雄専務を長とするプロジェクトチームが検討

三菱銀行は1988年10月にロンドン、1989年2月にスイス3取引所とパリに株式を上場した。続けて1989年9月19日、邦銀で初めてニューヨーク証券取引所に上場した。SECへ出す年次報告書は子会社をすべて連結して米国基準で3年分を作り直すもので、準備に8カ月と2〜3億円を要した。資金調達だけなら欧州で足りるという声が上位都銀の首脳から出るほど、米国の開示は重かった。企画部は上場を、都銀決算の透明度を高める作戦の一環と位置づけていた。旧来の営業利益で4位だった三菱は、新しい経理基準の業務利益で1988年度を試算すると2200億円で住友に次ぐ2位に上がった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [162]1988年10月ロンドン証券取引所に上場、1989年2月スイス3取引所とパリに上場
  • 日経ビジネス 1989年12月4日
    • [163]1989年9月19日、邦銀初のニューヨーク証券取引所上場。初値22 1/8ドル
    • [164]SEC向けフォーム20-Fは子会社を全て連結し米国会計基準で作り直し、主要データは過去3年遡及。1988年11月から8カ月の作業で上場コスト2〜3億円
    • [166]企画部は「ここ2〜3年、都銀決算の透明度を高くしようとしてきた作戦の一環」と説明
  • Decide 1989年
    • [165]上位都銀のトップ談「資金調達だけのためなら欧州で十分だ。米国はディスクロが厳しいだけで負担が大きい」
  • 日経ビジネス 1989年7月31日
    • [167]新経理基準の業務利益で88年度を試算すると住友2400億円・三菱2200億円で三菱が2位。旧基準の営業利益では4位
参考文献[150]-[167]
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [150]1984年6月、米国西海岸最古の銀行バンク・オブ・カリフォルニアを買収。1972年1月に海外現地法人第1号の加州三菱銀行を設立
    • [162]1988年10月ロンドン証券取引所に上場、1989年2月スイス3取引所とパリに上場
  • 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
    • [151]1984年6月のカリフォルニア銀行買収は山田春頭取(1986年時点で会長)の時代の施策
    • [159]伊夫伎副頭取を中心に1985年9月から研究し、1986年3月に基本方針を決定。組織は若井恒雄専務を長とするプロジェクトチームが検討
  • 日経ビジネス 1983年11月14日
    • [152]経常利益は1979年度ごろまで富士・住友とほぼ並んだが直近2〜3年は差をつけられ、三和に急速に追い上げられている
    • [153]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
    • [154]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
  • Decide 1987年
    • [155]伊夫伎頭取談:バンカルは住宅融資の不良債権で経営が傾き買収時は20店、前期決算で約3000万ドルの利益まで回復
  • 日経ビジネス 1987年4月13日
    • [156]1986年6月に伊夫伎一雄が頭取就任。同年7月11日に都銀のトップを切って中途採用の求人広告を新聞に掲載
    • [157]8月末の1回目締切までに560人が応募し、システム部門を中心に10月以降30人近くを採用
    • [158]1986年10月1日から組織改革を実施。情報開発本部(M&A仲介など)と証券本部を新設し、証券本部の名は都銀で初めて
    • [160]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
    • [161]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
  • 日経ビジネス 1989年12月4日
    • [163]1989年9月19日、邦銀初のニューヨーク証券取引所上場。初値22 1/8ドル
    • [164]SEC向けフォーム20-Fは子会社を全て連結し米国会計基準で作り直し、主要データは過去3年遡及。1988年11月から8カ月の作業で上場コスト2〜3億円
    • [166]企画部は「ここ2〜3年、都銀決算の透明度を高くしようとしてきた作戦の一環」と説明
  • Decide 1989年
    • [165]上位都銀のトップ談「資金調達だけのためなら欧州で十分だ。米国はディスクロが厳しいだけで負担が大きい」
  • 日経ビジネス 1989年7月31日
    • [167]新経理基準の業務利益で88年度を試算すると住友2400億円・三菱2200億円で三菱が2位。旧基準の営業利益では4位

1990年〜不良債権処理を先に済ませた若井恒雄と、日本信託銀行の子会社化

業務純益が前期比3割近く減った1990年6月に頭取に就任した若井恒雄氏は、1992年4月から全国銀行協会連合会の会長を務めた。三菱銀行の不良債権は、大蔵省の基準では2000億円ほどだが、米国SECの基準では6500億円ほどになるという。若井氏は、公表を渋ることこそがかえって信用不安を招くとみて、1993年3月を目標に開示を進める方針を示した。ただし問題のある金融機関の救済策を先に整えることを条件とした。1993年9月末の破綻先・延滞債権は計5945億円で、半年で920億円増えていた。三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権の比率が最も低く、1995年3月期に一掃する計画を立てた。

  • 日経ビジネス 1990年7月16日
    • [168]若井恒雄は1990年6月に頭取就任。1990年3月期の業務純益は前期比3割近く減少
  • 日経ビジネス 1992年8月3日
    • [169]1992年4月から全国銀行協会連合会会長。三菱銀行の不良債権は大蔵省基準で約2000億円、SEC基準で約6500億円とされ関心を集めた
  • 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
    • [170]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
    • [171]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年
    • [172]1993年9月末の破綻先債権1374億円・延滞債権4570億円、合計5945億円で1993年3月末比920億円増
  • Decide 1994年
    • [173]三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権比率が最も低く、1995年3月期に不良債権を一掃する計画

三菱銀行は1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資を引き受けて株式の68%を取得し、子会社にした。同じ月には証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設けた。常務の谷野剛氏は1994年1月、大企業・中堅企業の直接金融の需要に応えるため、証券子会社の設立を重要な戦略と位置づけていた。前年の設立では都銀に認可が下りておらず、当初は債券業務から始め、株式業務へ広げる計画だった。すでに1986年には、三菱グループ企業向けの貸出が国内貸出の5%台と、10年前の半分以下に低下していた。大企業が銀行借入から離れるなか、信託と証券の子会社は、その取引を銀行の外で取り戻す器と見込まれていたと推察される。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [174]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
    • [175]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1994年
    • [176]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
    • [177]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
  • 日経ビジネス 1987年4月13日
    • [178]三菱グループ企業向け融資のシェアは国内貸出の5%台で、約10年前の半分以下

三菱銀行は1995年3月に東京銀行との合併を決め、1996年4月に東京三菱銀行が生まれた。両行を組み合わせる案は、数年前から話題にのぼっていた。東京銀行は海外で強いが国内で弱く、三菱銀行は国内に厚みを持つ一方で海外が薄いという、互いを補う関係にあったためである。合併では三菱銀行を存続会社とし、比率を1対0.8と定めた。若井恒雄氏が会長となり、頭取の座には東京銀行頭取だった高垣佑氏が就任した。高垣氏は合併を5年、10年先の尺度で捉えるべきだとし、両行は国際競争力に優れた銀行づくりと、将来の持株会社化までを視野に置いた。特定の企業集団に属さず外国為替を専門とする東京銀行は、上場する2100社のうち約6割を取引先に持っていた。系列の枠を越えたこの取引網を取り込み、国内の薄さを埋めることが狙いだったとみられる。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [179]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
    • [181]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
  • Decide 1994年
    • [180]海外に強く国内に弱い東銀と、国内は磐石だが海外が手薄の三菱との組み合わせは3、4年前から話題
  • 日経ビジネス 1995年9月4日
    • [182]高垣頭取は5カ月前に合併を決断し、5年・10年の時間で考えるべきとした。ザ・バンクと呼ばれる国際競争力ある銀行を目指し、銀行持株会社も視野
  • 日経ビジネス 1995年4月10日
    • [183]東銀はどのグループにも属さない中立の外為専門銀行で、上場企業2100社のおよそ6割と取引
参考文献[168]-[183]
  • 日経ビジネス 1990年7月16日
    • [168]若井恒雄は1990年6月に頭取就任。1990年3月期の業務純益は前期比3割近く減少
  • 日経ビジネス 1992年8月3日
    • [169]1992年4月から全国銀行協会連合会会長。三菱銀行の不良債権は大蔵省基準で約2000億円、SEC基準で約6500億円とされ関心を集めた
  • 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
    • [170]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
    • [171]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年
    • [172]1993年9月末の破綻先債権1374億円・延滞債権4570億円、合計5945億円で1993年3月末比920億円増
    • [176]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
    • [177]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
  • Decide 1994年
    • [173]三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権比率が最も低く、1995年3月期に不良債権を一掃する計画
    • [180]海外に強く国内に弱い東銀と、国内は磐石だが海外が手薄の三菱との組み合わせは3、4年前から話題
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
    • [174]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
    • [175]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
    • [179]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
    • [181]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
  • 日経ビジネス 1987年4月13日
    • [178]三菱グループ企業向け融資のシェアは国内貸出の5%台で、約10年前の半分以下
  • 日経ビジネス 1995年9月4日
    • [182]高垣頭取は5カ月前に合併を決断し、5年・10年の時間で考えるべきとした。ザ・バンクと呼ばれる国際競争力ある銀行を目指し、銀行持株会社も視野
  • 日経ビジネス 1995年4月10日
    • [183]東銀はどのグループにも属さない中立の外為専門銀行で、上場企業2100社のおよそ6割と取引

1996年〜東京銀行と合併した東京三菱銀行と、三菱東京フィナンシャル・グループの設立

東京三菱銀行が1996年4月1日に発足する前日、米国ではケミカルとチェース・マンハッタンが合併した。新しいチェースは従業員の約16%にあたる1万2000人程度の削減策をすぐに示した。これに対し東京三菱は、3年で2000人を減らす案を非公式に匂わせるにとどめ、新しい長期計画の開始も1997年4月へ持ち越した。4つある副頭取の席は旧三菱と旧東京で2つずつ分け合い、旧三菱側は頭取のたすき掛けを続けない意向を示していた。人員の計画が固まったのは1999年で、行員を合併前の2万115人から2000年度末までに1万7000人へ減らすとした。対等を掲げた合併だっただけに、両行の均衡を保つ人事が人員削減の速さより先に立ったのだろう。

  • 日経ビジネス 1996年4月8日
    • [184]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
    • [185]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
    • [186]東京三菱は3年間で2000人の削減などの合理化策を匂わしているが非公式。新長期計画は1997年4月から
    • [187]副頭取4席は旧三菱と旧東京で2人ずつ。旧三菱幹部は4分の3を望み、頭取のたすき掛け人事を恒久化しない意向
  • 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
    • [188]2000年度末までに行員を合併前の2万115人から1万7000人へ削減、国内店舗を328から282へ

頭取の岸曉氏は1998年、全国銀行協会連合会の会長として金融危機への対応に当たった。東京三菱でも大蔵省の金融検査官への接待が明るみに出たが、岸氏は公的資金を注入する金融2法の実施を控えて会長を続けた。行内では公務員への接待を全面的に禁じ、用件は日中に聞きに行くよう改めた。1997年9月中間期には約1兆1000億円の不良債権を引き当てており、体力には余裕があった。1999年春、大手行が公的資金を申請するなかで、東京三菱は自助努力を促すのが法の趣旨だとして申請を見送った。代わりに三菱グループ企業を引受先とする2442億円の増資と、本店などの売却で自己資本を約4000億円積み増した。

  • 日経ビジネス 1998年3月9日
    • [189]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
    • [190]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
    • [191]公務員・みなし公務員の接待を全面禁止し、聞きたいことは日中に聞きに行くとした
  • 日経ビジネス 1997年12月15日
    • [192]東京三菱は不良債権比率が低いうえ、1997年9月中間期に約1兆1000億円の不良債権引当を実施
  • 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
    • [193]大手行が資本注入を申請するなか、東京三菱は公的資金の申請を見送った。岸頭取は早期健全化法の趣旨は自主的努力とした
    • [194]三菱グループ主要企業を引受先とする第三者割当増資2442億円と、丸の内本店・旧東京銀行本店の売却1006億円で自己資本を約4000億円増やす

1999年に興銀・第一勧業・富士の3行統合と住友・さくらの合併が決まると、残る東京三菱と三和銀行の統合が取りざたされた。頭取の岸曉氏は、規模を追うより銀行の質と業務の速さを高めるという考えを周囲に示していた。三和銀行との交渉はまとまらず、三和は2000年7月に東海銀行などとの統合で合意した。3グループが生まれると、首位だった東京三菱は総資産で4位に下がる立場にあった。東京三菱は2000年4月に三菱信託・日本信託と統合で合意し、2001年4月の株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設けて上場を終えた。業態の垣根を越えるグループ内の信託と組めば、主導権を手放さずに商品の幅を広げられると判断したと考えられる。

  • ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
    • [195]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
    • [196]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
  • 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」
    • [197]他の都銀が合従連衡するなかで、東京三菱は交渉中の三和銀行に逃げられたと評された
  • 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
    • [198]都銀3グループの誕生で、それまでトップだった東京三菱は一挙に4位に転落することになり新戦略を探っていた。三菱信託も信託業界の再編で戦略を模索。都銀と信託の垣根を越えた統合
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
    • [199]2000年4月、東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行が持株会社設立による経営統合に基本合意(2000年7月に三和・東海・東洋信託も基本合意)。2001年4月、株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設立
参考文献[184]-[199]
  • 日経ビジネス 1996年4月8日
    • [184]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
    • [185]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
    • [186]東京三菱は3年間で2000人の削減などの合理化策を匂わしているが非公式。新長期計画は1997年4月から
    • [187]副頭取4席は旧三菱と旧東京で2人ずつ。旧三菱幹部は4分の3を望み、頭取のたすき掛け人事を恒久化しない意向
  • 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
    • [188]2000年度末までに行員を合併前の2万115人から1万7000人へ削減、国内店舗を328から282へ
    • [193]大手行が資本注入を申請するなか、東京三菱は公的資金の申請を見送った。岸頭取は早期健全化法の趣旨は自主的努力とした
    • [194]三菱グループ主要企業を引受先とする第三者割当増資2442億円と、丸の内本店・旧東京銀行本店の売却1006億円で自己資本を約4000億円増やす
  • 日経ビジネス 1998年3月9日
    • [189]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
    • [190]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
    • [191]公務員・みなし公務員の接待を全面禁止し、聞きたいことは日中に聞きに行くとした
  • 日経ビジネス 1997年12月15日
    • [192]東京三菱は不良債権比率が低いうえ、1997年9月中間期に約1兆1000億円の不良債権引当を実施
  • ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
    • [195]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
    • [196]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
  • 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」
    • [197]他の都銀が合従連衡するなかで、東京三菱は交渉中の三和銀行に逃げられたと評された
  • 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
    • [198]都銀3グループの誕生で、それまでトップだった東京三菱は一挙に4位に転落することになり新戦略を探っていた。三菱信託も信託業界の再編で戦略を模索。都銀と信託の垣根を越えた統合
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
    • [199]2000年4月、東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行が持株会社設立による経営統合に基本合意(2000年7月に三和・東海・東洋信託も基本合意)。2001年4月、株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設立

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歴史年表 1880〜2001年

東京三菱銀行の沿革1880〜2001年における主な出来事を抜粋

時代年月頭取出来事重要度
1880〜1926年三菱為換店と第百十九国立銀行の継承、合資会社銀行部から株式会社三菱銀行の独立為替局を分離して三菱為換店を開設★★
第百十九国立銀行の経営を継承★★
銀行部を新設★★
三菱銀行を設立★★
ロンドン支店を開設★
ニューヨーク支店を開設★
1927〜1953年金融恐慌での預金流入と第百銀行の合併、千代田銀行への改称と行名の復帰三菱信託を設立★
金融恐慌下で同業銀行の救済に応需★★
第百銀行と合併★★
千代田銀行に商号変更★
東京・大阪の各証券取引所に上場★
ニューヨーク支店を再開★
千代田銀行が三菱銀行に商号変更★
1954〜1983年第一銀行との合併構想の白紙化と加州三菱銀行、オンライン化と業績の低迷日本共同証券の設立に参加★
オンラインシステムを稼働★
第一銀行との合併構想が白紙化★★
加州三菱銀行を設立★★
1984〜2001年バンク・オブ・カリフォルニア買収とニューヨーク上場、東京銀行との合併と三菱東京FGの設立バンク・オブ・カリフォルニアを子会社化★★
商業銀行を設立★
ロンドン証券取引所に上場★
スイス3取引所・パリに上場★
ニューヨーク証券取引所に上場★
日本信託銀行を子会社化★
二行の合併で発足した新銀行への一本化(1996年成立)

1996年4月1日、財閥系の三菱銀行と外国為替専門の東京銀行が合併し、東京三菱銀行が発足した。総資産は約72兆円に達し、当時世界最大の銀行となった。

詳細を読む
★★★
三和銀行との経営統合交渉が不成立★★
株式移転により三菱東京フィナンシャル・グループを設立し上場廃止★★
出典・参考 47件
出典・参考
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
  • 株式会社年鑑 1953年版「千代田銀行」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「三菱銀行」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
  • 臨増東洋経済 1973年「スタートの遅れを挽回しトップの座に・田実渉」
  • 日経ビジネス 1981年8月24日
  • 日経ビジネス 1983年11月14日
  • 私の銀行昭和史(東洋経済新報社、1985年)「証言 第一勧業銀行成立の舞台裏」井上薫
  • 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「グループの中核-三菱銀行」中村俊男
  • 私の三菱昭和史(東洋経済新報社、1987年)「三菱銀行の国際化路線」中村俊男
  • 日経ビジネス 1987年4月13日
  • 日経ビジネス 1989年12月4日
  • 日経ビジネス 1989年7月31日
  • 日経ビジネス 1990年7月16日
  • 日経ビジネス 1992年8月3日
  • 証券アナリストジャーナル 1994年
  • 日経ビジネス 1995年9月4日
  • 日経ビジネス 1995年4月10日
  • 日経ビジネス 1996年4月8日
  • 日経ビジネス 1997年12月15日
  • 日経ビジネス 1998年3月9日
  • 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
  • 日経新聞 1969年1月3日
  • 読売新聞 1969年1月4日
  • 私の履歴書 経済人14「宇佐美洵」(日本経済新聞社)
  • 実業の世界 32(12) 1935年12月
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧・三菱銀行)」
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「千代田銀行(旧称・三菱銀行)」
  • 金融界 1(9) 1949年5月「銀行評判記――千代田銀行の卷」
  • 新日本経済 13(5) 1949年5月 牧岡彦太郎
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第一章「三菱銀行の創立」
  • 三菱銀行史(三菱銀行史編纂委員会、1954年)第三編第二章「第一次世界大戦後の反動期」
  • 産業と経済 新年特別 1955年
  • 金融界 17(2) 1965年2月「クローズ・アップ 宇佐美洵日銀総裁」
  • 銀行時評(1980年)「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
  • 銀行時評 1980年「三菱銀行・山田春頭取に聞く 信用が支えた一〇〇年の歴史」
  • Decide 1987年
  • Decide 1989年
  • 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
  • Decide 1994年
  • 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
  • ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
  • 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」

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