東海銀行 の歴史

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創業 1941年
母体 愛知銀行+名古屋銀行+伊藤銀行の三行合併
創業地 愛知県名古屋市
創業 1881年9月、松坂屋を営む伊藤家が、名古屋で最初の私立本店銀行として伊藤銀行を
1881年9月、松坂屋を営む伊藤家が、名古屋で最初の私立本店銀行として伊藤銀行を創立した。翌1882年7月には瀧兵右衛門氏・神野金之助氏ら商人の発起で名古屋銀行が設立され、1896年4月には満期を迎えた第十一・第百三十四の両国立銀行を実質的に合わせた愛知銀行が開業している。1932年に明治銀行が閉店すると、名古屋の本店銀行は愛知・名古屋の2行に絞られた。日銀総裁の結城豊太郎氏が一県一行の方針で合同を促し、1941年6月、3行は対等の条件で合併して公称資本金3760万円・141店の東海銀行が発足した。ただし伊藤銀行の資本金は他の2行より1桁小さく、配当相当金は年7分と低く置かれた。
決断 合併で規模を得る機会がないまま、名古屋の預金を元手に東京と海外へ出た銀行だった。
合併で規模を得る機会がないまま、名古屋の預金を元手に東京と海外へ出た銀行だった。副頭取の木下正美氏の主導で東京への出店を重ね、都内の店舗は1962年に20店、1968年に44店となり、同じ1968年にはニューヨークとロンドンの支店を構えた。1968年に頭取となった三宅重光氏は、合併に頼らず業務提携で規模の不利を補う方針を採った。ところが1979年には主力取引先2社の倒産で80億円超を償却し、名古屋の預金を東京の大企業取引へ回す構図の危うさが顕在化した。提携で規模を補う方針は、1994年に西垣覚頭取のもとで、量を追わずコスト競争力で競う方針へ変わった。
現況 最後の東海銀行が描いたのは、名古屋の地盤を地域別の銀行として残す設計だった。19
最後の東海銀行が描いたのは、名古屋の地盤を地域別の銀行として残す設計だった。1998年に頭取となった小笠原日出男氏は、カンパニー制を表明し、108店舗の統廃合を計画した。1999年10月にはあさひ銀行と共同持株会社のもとで首都圏・中部圏・関西圏の地域銀行へ組み替える構想を発表している。しかし2000年6月にあさひ銀行が離れ、7月に三和銀行・東洋信託銀行との経営統合で基本合意した。2001年4月、株式移転でUFJホールディングスが設立され、東海銀行は上場を終えた。2002年1月に三和銀行と合併してUFJ銀行となり、その系譜は2005年の統合を経て三菱UFJフィナンシャル・グループへ続いている。
競合 東海銀行の競争劣位は、支店網が東海地方に偏っていたことにあった。1979年時点で
東海銀行の競争劣位は、支店網が東海地方に偏っていたことにあった。1979年時点で名古屋市の預金の40%を集めたものの、東京と関西に店を持つ太陽神戸銀行には1978年度上期に月によって預金で逆転を許し、目標とした三和銀行との差は開く一方だった。1985年には総資金量と税引き利益で三井銀行を上回ったが、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として名が挙がったのは東京銀行で、東海銀行に合併の相手は現れなかった。1990年にその三井銀行が太陽神戸銀行と合併し、上位行との差は一度に開いた。1978年に差が開く一方だった三和銀行は、22年後、関西の手薄を補う統合の相手に変わった。

第1章 1881年〜 伊藤銀行・名古屋銀行・愛知銀行の創立と、名古屋の地場銀行としての明治・大正の成長

1881年〜伊藤銀行・名古屋銀行の創立と、日清戦後に遅れて立った愛知銀行

名古屋では1877年に第十一国立銀行が最初の本店銀行として立ち、1878年に第百三十四国立銀行が続いた。だが1879年12月以降は国立銀行の新設が許されなくなり、各地で私立銀行の設立が相次いだ。第十一国立銀行の設立に加わった伊藤家は1881年9月に伊藤銀行を創立し、名古屋で最初の私立本店銀行とした。国立銀行は商工業の育成に向かないという批判もあり、翌1882年7月には商家らの発起で名古屋銀行が設立された。名古屋銀行の顔ぶれは、瀧兵右衛門・小出庄兵衛・神野金之助・森本善七ら郡部出身を含む商人が中心だった。伊藤銀行は松坂屋を営む伊藤家の個人銀行の色合いが濃く、資本金は1941年の合併時点でも200万円だった。

  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [1]1877年に第十一国立銀行(資本金10万円)が名古屋の本店銀行の嚆矢として創設、1878年に第百三十四国立銀行が創立
    • [7]名古屋銀行は瀧兵右衛門・小出庄兵衛・神野金之助・森本善七など商人を主な顔ぶれとして創立
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第一章「前史」
    • [2]1879年12月以降は国立銀行の新設が許可されず、以後各地に私立銀行が設立された
    • [3]第十一国立銀行の設立に参加した豪商伊藤家が1881年に私立伊藤銀行を設立、名古屋最初の私立本店銀行
    • [5]国立銀行は商工業の育成に不向きとの非難もあり私立銀行の設立が促され、1882年に商家たちの発起で私立名古屋銀行が設立
    • [8]名古屋銀行は郡部出身の商人により組織された
    • [9]伊藤銀行は伊藤家の個人銀行としての色彩が強く、保守的な経営を続けた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [4]伊藤銀行は1881年9月、名古屋銀行は1882年7月の創立
    • [6]伊藤銀行は1881年9月、名古屋銀行は1882年7月の創立
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [10]伊藤銀行は松坂屋の伊藤家の事業の一部門で、1941年合併時の公称資本金は200万円

愛知銀行は1896年3月19日に設立の認可を受け、同年4月20日に名古屋市玉屋町で営業を始めた。きっかけは、第十一国立銀行と第百三十四国立銀行が1896年に営業の満期を迎えることだった。両行と徳川家の代表者は1895年12月14日に普通銀行の設立に着手し、同月27日に大蔵大臣から発起の認可を得た。資本金200万円のうち100万円を発起人が引き受けて残りを公募とし、両国立銀行の株主には1株につき新株4株を割り当てた。開業時の払込50万円は第百三十四国立銀行の資本金30万円と第十一国立銀行の20万円を足した額で、形は解散でも実質は2行の合併だった。平民の資本による第十一と金禄公債を元手にした士族の第百三十四が1行にまとまり、初代頭取には第百三十四国立銀行頭取の岡谷惣助氏が就任した。

  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第一章「創業時代」
    • [11]1896年3月19日設立認可、同年4月20日名古屋市玉屋町二丁目で営業開始
    • [14]国立銀行が1896年に営業満期となるため、両行の代表者と徳川家の代表者が1895年12月14日に普通銀行設立運動に着手、同年12月27日に大蔵大臣渡辺国武が発起を認可
    • [15]資本金200万円のうち100万円を発起人引受、100万円を公募。1896年1月31日現在の両行株1株に新株4株を交付
    • [16]開業時は資本金200万円・払込50万円。払込は第百三十四国立銀行30万円と第十一国立銀行20万円の合計で、両行は形式上解散だが実質は合併
    • [17]第十一国立銀行は主に平民資本、第百三十四国立銀行は金禄公債を基礎とした士族資本。岡谷惣助は第百三十四国立銀行頭取を務め、愛知銀行初代頭取に就任
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [12]愛知銀行は1896年(明治29年)4月の創立
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [13]愛知銀行は第十一国立銀行と第百三十四銀行の営業満期に際し、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門ら有力者の発起で1896年4月に資本金200万円で開業
参考文献[1]-[17]
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [1]1877年に第十一国立銀行(資本金10万円)が名古屋の本店銀行の嚆矢として創設、1878年に第百三十四国立銀行が創立
    • [7]名古屋銀行は瀧兵右衛門・小出庄兵衛・神野金之助・森本善七など商人を主な顔ぶれとして創立
    • [13]愛知銀行は第十一国立銀行と第百三十四銀行の営業満期に際し、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門ら有力者の発起で1896年4月に資本金200万円で開業
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第一章「前史」
    • [2]1879年12月以降は国立銀行の新設が許可されず、以後各地に私立銀行が設立された
    • [3]第十一国立銀行の設立に参加した豪商伊藤家が1881年に私立伊藤銀行を設立、名古屋最初の私立本店銀行
    • [5]国立銀行は商工業の育成に不向きとの非難もあり私立銀行の設立が促され、1882年に商家たちの発起で私立名古屋銀行が設立
    • [8]名古屋銀行は郡部出身の商人により組織された
    • [9]伊藤銀行は伊藤家の個人銀行としての色彩が強く、保守的な経営を続けた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [4]伊藤銀行は1881年9月、名古屋銀行は1882年7月の創立
    • [6]伊藤銀行は1881年9月、名古屋銀行は1882年7月の創立
    • [12]愛知銀行は1896年(明治29年)4月の創立
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [10]伊藤銀行は松坂屋の伊藤家の事業の一部門で、1941年合併時の公称資本金は200万円
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第一章「創業時代」
    • [11]1896年3月19日設立認可、同年4月20日名古屋市玉屋町二丁目で営業開始
    • [14]国立銀行が1896年に営業満期となるため、両行の代表者と徳川家の代表者が1895年12月14日に普通銀行設立運動に着手、同年12月27日に大蔵大臣渡辺国武が発起を認可
    • [15]資本金200万円のうち100万円を発起人引受、100万円を公募。1896年1月31日現在の両行株1株に新株4株を交付
    • [16]開業時は資本金200万円・払込50万円。払込は第百三十四国立銀行30万円と第十一国立銀行20万円の合計で、両行は形式上解散だが実質は合併
    • [17]第十一国立銀行は主に平民資本、第百三十四国立銀行は金禄公債を基礎とした士族資本。岡谷惣助は第百三十四国立銀行頭取を務め、愛知銀行初代頭取に就任

1896年〜雌伏時代の愛知銀行と、第一次大戦の好況に乗った躍進時代

愛知銀行の目論見書は、資本金200万円を国債・貸付・手形割引などに振り分け、年12万1750円の純益を見込んだ。だが開業時の払込は50万円にとどまり、創立から1年を経た時点の預金は60万円余だった。1896〜1901年の株価は払込額を割り込むのがほぼ常で、払込を上回る値が付き始めたのは1906年だった。名古屋の本店銀行は1901年末に29行を数えたが、1901年と1907年の恐慌を経て明治末年ごろには22行に減った。1907年5月27日に小栗銀行が臨時休業すると、愛知・名古屋・明治の3行は非常時に互いを援助すると申し合わせた。目論見の4分の1の払込で出発し、2度の恐慌が重なったことが、創立から10年余りの伸びを抑えたと推察される。

  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第一章「創業時代」
    • [18]設立目論見書は資本金200万円を国債50万・貸付70万・当座預金貸越30万・手形割引35万・荷為替15万円に充て、純益予算12万1750円と見込む
    • [19]創立当時の資本金200万円・払込50万円、創立1周年後の預金は60万円余
    • [20]創業時代(1896〜1901年)は株価が払込を割るのがほとんど常だった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第三章
    • [21]1906年(明治39年)から愛知銀行の株価にプレミアムが付き始めた
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第一章「前史」
    • [22]名古屋の本店銀行は1901年末に29行、1901年・1907年の恐慌と大銀行主義で明治末年ごろには市内22行に減少
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第二章
    • [23]1907年5月27日に小栗銀行が臨時休業、愛知・名古屋・明治の3行は緊急時の相互援助を約した

1907年の恐慌が収まると愛知銀行の株価は上がり続け、1911年上期には30円払込の株が51円18銭を付けた。預金は1909年に1000万円台へ乗り、1914年には1500万円を超えて、1908年末の2倍以上になった。1914年に関戸銀行、1915年に一宮銀行の業務を継ぎ、1917年12月には北方・枇杷島・大垣の3行を買収した。同じ1917年12月に資本金を700万円へ増やし、1915年からは貸出を預金以下に抑える方針を通した。1920年の恐慌で株価は3月上旬の122円から5月25日に80円へ下げたが、下期末の貸出は預金8700万円に対し約6300万円にとどめた。預金が伸びる局面で店を一つずつ新設するより近隣の銀行を買収するほうが早く地盤を得られると判じ、貸出の抑えで恐慌に備えたのだろう。

  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第三章
    • [24]1907年の恐慌鎮静後、株価は上昇を続け1911年上期には30円払込が51円18銭まで上昇
    • [25]預金は1909年から1000万円台、1914年に1500万円突破。1908年末比で全国普通銀行の1.5倍強に対し2倍以上
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [26]1914年に関戸銀行、1915年に一宮銀行の業務を継承、1917年12月に北方・枇杷島・大垣銀行を買収
    • [27]1917年12月の買収と同時に資本金を700万円に増加
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第四章
    • [28]貸出を預金以下に引き締めたのは1915年からで、1915〜1919年を通じ貸出総額を預金総額以下に抑えた
    • [29]1920年恐慌時の名古屋新聞の相場表で愛銀株は3月上旬122円、5月25日80円
    • [30]1920年下期末は預金8700万円に対し貸出約6300万円に制限
参考文献[18]-[30]
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第一章「創業時代」
    • [18]設立目論見書は資本金200万円を国債50万・貸付70万・当座預金貸越30万・手形割引35万・荷為替15万円に充て、純益予算12万1750円と見込む
    • [19]創立当時の資本金200万円・払込50万円、創立1周年後の預金は60万円余
    • [20]創業時代(1896〜1901年)は株価が払込を割るのがほとんど常だった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第三章
    • [21]1906年(明治39年)から愛知銀行の株価にプレミアムが付き始めた
    • [24]1907年の恐慌鎮静後、株価は上昇を続け1911年上期には30円払込が51円18銭まで上昇
    • [25]預金は1909年から1000万円台、1914年に1500万円突破。1908年末比で全国普通銀行の1.5倍強に対し2倍以上
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第一章「前史」
    • [22]名古屋の本店銀行は1901年末に29行、1901年・1907年の恐慌と大銀行主義で明治末年ごろには市内22行に減少
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第二章
    • [23]1907年5月27日に小栗銀行が臨時休業、愛知・名古屋・明治の3行は緊急時の相互援助を約した
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [26]1914年に関戸銀行、1915年に一宮銀行の業務を継承、1917年12月に北方・枇杷島・大垣銀行を買収
    • [27]1917年12月の買収と同時に資本金を700万円に増加
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第四章
    • [28]貸出を預金以下に引き締めたのは1915年からで、1915〜1919年を通じ貸出総額を預金総額以下に抑えた
    • [29]1920年恐慌時の名古屋新聞の相場表で愛銀株は3月上旬122円、5月25日80円
    • [30]1920年下期末は預金8700万円に対し貸出約6300万円に制限

第2章 1920年〜 金融恐慌と一県一行の統合、愛知・名古屋・伊藤の3行合併による東海銀行の発足

1920年〜愛知銀行の大成時代と、金融恐慌後の緊縮、合併不調の末に閉じた明治銀行

愛知銀行は1922年5月、資本金を700万円から1500万円へ引き上げた。同じ時期、全国の手形交換所加盟銀行は1923年6月に貸出が預金を上回り、1925年12月には預金100に対し貸出107.1まで膨らんだ。この1925年12月、愛知銀行の貸出は預金138に対して72にとどまっていた。1923年7月に名古屋で尾三銀行が取り付けに遭った際、日銀名古屋支店は愛知・明治・名古屋・村瀬の4行への融通を通じて救済の資金を出した。配当は1922年下期から1924年下期まで年1割1分弱を続けた。預金の半ばほどに貸出を抑えた運び方が、増資と高配当を同時に支えたとみられる。

  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [31]1922年5月に資本金を1500万円に増加(1917年12月に700万円)
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [32]全国手形交換所社員及代理交換銀行の預金に対する貸出比率は1923年6月に102.9、1925年12月に107.1
    • [33]1925年12月の愛知銀行は預金138に対し貸出72
    • [35]愛知銀行は1922年下期から1924年下期まで1割1分弱の配当を続けた
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
    • [34]1923年7月の尾三銀行取付で、日銀名古屋支店が愛知・明治・名古屋・村瀬の4行に融通する形式で担保の限度内で資金を供給

1927年の金融恐慌の後、全国の銀行は整理と合同で1932年末に650行まで減り、新設分を除けば6年で1000を超す銀行が消えた。大蔵省は1927年5月に合同と減配を勧め、愛知銀行も同年上期の配当を年1割から9分へ下げた。恐慌後は有力銀行に預金が集まり、愛知銀行の預金は1926年上期末の1億4803万円から1928年上期末に1億7034万円へ増えた。同じ期間に貸出は1億952万円から1億77万円へ減っている。1928年1月施行の新銀行法は最低資本金を100万円と定めたが、愛知銀行は定款を改めるだけで足りた。集まった預金を貸出に充てなかった姿勢が、1932年の合併交渉での慎重さにも通じたと推察される。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [36]1926年末1577行の全国銀行数は1932年末に650行へ減少
    • [37]1927〜1932年の6年間に新設・転業の増加87行を考慮すると1000を超える銀行が消滅
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [38]大蔵省は1927年5月に銀行の合同を促し減配を慫慂、愛知銀行は1927年上期の配当を年9分(前期比1分減)とした
    • [39]恐慌後の金融界の変動は有力銀行への預金集中。愛知銀行の預金は1926年上期末148,032,417円、1928年上期末170,346,686円
    • [40]愛知銀行の貸出は1926年上期末109,522,972円、1928年上期末100,779,594円
    • [41]新銀行法は最低資本金100万円(東京・大阪200万円)。愛知銀行は1928年1月26日の株主総会で定款を全面改正したが影響は受けなかった

明治銀行は1932年3月4日に閉店し、名古屋の本店銀行は愛知・名古屋の2行に絞られた。発端は前年、大株主の神野金之助・富田重助の両氏が銀行業から退く意向を示し、愛知銀行との合併を求めたことだった。2月29日、日本銀行名古屋支店での協議で、名目は合併としつつ実質は愛知銀行が明治銀行を買収する案がまとまり、その夜に公表された。ところが3月1日の調印の席に村瀬銀行の閉店の知らせが届くと、愛知銀行頭取の渡辺義郎氏は全資産の精査を求めて署名を延ばしたという。公表後の不調で明治銀行に取り付けが押し寄せ、愛知・名古屋の両行にも波及した。条件を詰める前に公表したことが、地元どうしの再編をかえって危うくしたのだろう。

  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [42]1932年春の金融恐慌で明治銀行が没落し、名古屋・愛知の両行が中京金融界の双璧となった
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
    • [43]1931年、明治銀行の大株主神野金之助・富田重助が銀行業をやめたいとして合併を持ち出し、愛知銀行との合併を主張
    • [44]1932年2月29日、日銀名古屋支店で合併の形式により愛知が明治を買収することが決まり、同夜に電通経由で発表
    • [45]3月1日夜の会議中に村瀬銀行が取付けに遭い翌日から閉店するとの通知が日銀名古屋支店長に届いた
    • [46]3月1日の調印の席で渡辺頭取が詳細な資産表の精査を求め、調印に至らなかった
    • [47]合併不調が伝わり明治銀行に取付けが殺到、村瀬・愛知農商・名古屋・愛知の各行も取付けに遭い、明治は4日から閉店
参考文献[31]-[47]
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [31]1922年5月に資本金を1500万円に増加(1917年12月に700万円)
    • [42]1932年春の金融恐慌で明治銀行が没落し、名古屋・愛知の両行が中京金融界の双璧となった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [32]全国手形交換所社員及代理交換銀行の預金に対する貸出比率は1923年6月に102.9、1925年12月に107.1
    • [33]1925年12月の愛知銀行は預金138に対し貸出72
    • [35]愛知銀行は1922年下期から1924年下期まで1割1分弱の配当を続けた
    • [38]大蔵省は1927年5月に銀行の合同を促し減配を慫慂、愛知銀行は1927年上期の配当を年9分(前期比1分減)とした
    • [39]恐慌後の金融界の変動は有力銀行への預金集中。愛知銀行の預金は1926年上期末148,032,417円、1928年上期末170,346,686円
    • [40]愛知銀行の貸出は1926年上期末109,522,972円、1928年上期末100,779,594円
    • [41]新銀行法は最低資本金100万円(東京・大阪200万円)。愛知銀行は1928年1月26日の株主総会で定款を全面改正したが影響は受けなかった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
    • [34]1923年7月の尾三銀行取付で、日銀名古屋支店が愛知・明治・名古屋・村瀬の4行に融通する形式で担保の限度内で資金を供給
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [36]1926年末1577行の全国銀行数は1932年末に650行へ減少
    • [37]1927〜1932年の6年間に新設・転業の増加87行を考慮すると1000を超える銀行が消滅
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
    • [43]1931年、明治銀行の大株主神野金之助・富田重助が銀行業をやめたいとして合併を持ち出し、愛知銀行との合併を主張
    • [44]1932年2月29日、日銀名古屋支店で合併の形式により愛知が明治を買収することが決まり、同夜に電通経由で発表
    • [45]3月1日夜の会議中に村瀬銀行が取付けに遭い翌日から閉店するとの通知が日銀名古屋支店長に届いた
    • [46]3月1日の調印の席で渡辺頭取が詳細な資産表の精査を求め、調印に至らなかった
    • [47]合併不調が伝わり明治銀行に取付けが殺到、村瀬・愛知農商・名古屋・愛知の各行も取付けに遭い、明治は4日から閉店

1932年〜一県一行を進めた結城豊太郎日銀総裁と、資本金3760万円の東海銀行

1936年、広田内閣の馬場鍈一蔵相は一県一行主義を掲げ、自立できる地方銀行まで統合を進めた。当局には県内の銀行を愛知・名古屋の2行へ集める構想もあったが、実現したのは尾張と三河の地区ごとの合同にとどまった。日中戦争が長引くと国債の引き受け先を地方銀行へ広げる必要が生じ、預金金利を下げるため群小の銀行の統合が求められた。3行合併を推した日銀総裁の結城豊太郎氏は、1939年ごろから親交のある愛知銀行頭取の渡辺義郎氏に合同を促していた。1940年10月中旬に大蔵省が3行の首脳を別々に招いて反対のないことを確かめ、12月15日に覚書が調印された。愛知銀行は1944年の行史で、戦時の体制が強まるなかで名古屋・伊藤の両行との提携を深める必要に迫られたと記した。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [48]1936年、広田内閣の馬場蔵相が一県一行主義を提唱し、自立可能な地方銀行の統合も推進
    • [49]1936年当時、県下の銀行を愛知・名古屋両行に併合させる構想が当局内にあったが、実現したのは稲沢銀行中心の尾張、岡崎銀行中心の三河の合同のみ
    • [50]国債消化と低金利政策のため地方銀行の資金コスト引き下げが必要となり、合同による競争緩和が図られた
    • [52]1939年ごろから結城日銀総裁が親交のあった渡辺愛知銀行頭取に合同の考慮を促していた
    • [53]1940年10月中旬に大蔵省が3行首脳を個別に招致、12月15日に愛知県庁で覚書に調印
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [51]3行合併を推進したのは当時の日銀総裁結城豊太郎
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
    • [54]戦時体制の強化により愛知銀行も名古屋・伊藤両行との提携を一段深くする必要に迫られ、3行は東海の名の下に一丸となった

覚書は3行を対等の条件で合わせると定め、新銀行の会長以下の人選は大蔵省に委ねた。行名は3行が結城総裁に命名を頼み、1941年2月20日に東海銀行と決まった。3月27日に合併契約が結ばれ、旧3行の株主には払込額の同じ新株が1株ずつ渡された。6月9日、東海銀行は公称資本金3760万円、払込2725万円で発足し、店は141、行員は3468人を数えた。会長には旧愛知銀行頭取の渡辺義郎氏、頭取には旧名古屋銀行頭取の井倉和雄氏が就任し、常務5人も愛知2人・名古屋2人・伊藤1人で分けた。役員の顔ぶれまで出身行で釣り合わせたのは、対等という覚書の約束を役員の構成で示すためだったと考えられる。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [55]1940年12月15日の覚書で3行対等の条件による合併と、会長以下重役の人選の大蔵省一任を定めた
    • [56]3行協議で命名を結城日銀総裁に依頼し、1941年2月20日に東海銀行と命名
    • [57]1941年3月27日に合併契約書を調印、3行の株式1株に新銀行の同払込額の株式1株を交付
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [58]1941年6月9日、公称資本金3760万円(払込2725万円)で設立
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [59]創立当初の営業店舗141店、行員3468名
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [60]創立当時の役員は会長渡辺義郎(旧愛知頭取)、頭取井倉和雄(旧名古屋頭取)
    • [61]創立時の常務5人は愛知出身2・名古屋出身2・伊藤出身1

松坂屋を営む伊藤家の一部門だった伊藤銀行の公称資本金は200万円で、愛知銀行の1500万円、名古屋銀行の2060万円より1桁小さかった。合同の機運が生じた段階で、伊藤銀行副社長の佐々部晩穂氏には愛知銀行との合併が持ちかけられていた。合併契約は伊藤銀行の株主にも新株を1株ずつ渡したが、合併前日までの配当相当金は年7分とし、他の2行の年8分より低く置いた。新銀行では常務1人と取締役2人を伊藤銀行から出し、社長の伊藤次郎左衛門氏は相談役に就任した。伊藤家の先代次郎左衛門氏は、1896年の愛知銀行の創立を発起した一人でもあった。規模の差は配当の差で埋め、枠は対等にそろえた構図と読める。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [62]伊藤銀行は公称資本金200万円、松坂屋の伊藤家の事業の一部門
    • [63]愛知銀行の公称資本金1500万円、名古屋銀行2060万円
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [64]合同の機運の中で佐々部伊藤銀行副社長に愛知との合併問題が持ちかけられた
    • [65]合併契約第5条・第7条で伊藤銀行株主にも1株対1株で交付、配当相当金は愛知・名古屋年8分に対し伊藤年7分
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [66]創立時の役員に伊藤銀行出身の常務久野真苗、取締役岩佐義徳・佐々部晩穂、相談役伊藤次郎左衛門(旧社長)
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [67]愛知銀行は1896年、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門(先代)らの主唱発起で創立
参考文献[48]-[67]
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [48]1936年、広田内閣の馬場蔵相が一県一行主義を提唱し、自立可能な地方銀行の統合も推進
    • [49]1936年当時、県下の銀行を愛知・名古屋両行に併合させる構想が当局内にあったが、実現したのは稲沢銀行中心の尾張、岡崎銀行中心の三河の合同のみ
    • [50]国債消化と低金利政策のため地方銀行の資金コスト引き下げが必要となり、合同による競争緩和が図られた
    • [52]1939年ごろから結城日銀総裁が親交のあった渡辺愛知銀行頭取に合同の考慮を促していた
    • [53]1940年10月中旬に大蔵省が3行首脳を個別に招致、12月15日に愛知県庁で覚書に調印
    • [55]1940年12月15日の覚書で3行対等の条件による合併と、会長以下重役の人選の大蔵省一任を定めた
    • [56]3行協議で命名を結城日銀総裁に依頼し、1941年2月20日に東海銀行と命名
    • [57]1941年3月27日に合併契約書を調印、3行の株式1株に新銀行の同払込額の株式1株を交付
    • [64]合同の機運の中で佐々部伊藤銀行副社長に愛知との合併問題が持ちかけられた
    • [65]合併契約第5条・第7条で伊藤銀行株主にも1株対1株で交付、配当相当金は愛知・名古屋年8分に対し伊藤年7分
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [51]3行合併を推進したのは当時の日銀総裁結城豊太郎
    • [58]1941年6月9日、公称資本金3760万円(払込2725万円)で設立
    • [62]伊藤銀行は公称資本金200万円、松坂屋の伊藤家の事業の一部門
    • [63]愛知銀行の公称資本金1500万円、名古屋銀行2060万円
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
    • [54]戦時体制の強化により愛知銀行も名古屋・伊藤両行との提携を一段深くする必要に迫られ、3行は東海の名の下に一丸となった
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [59]創立当初の営業店舗141店、行員3468名
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [60]創立当時の役員は会長渡辺義郎(旧愛知頭取)、頭取井倉和雄(旧名古屋頭取)
    • [61]創立時の常務5人は愛知出身2・名古屋出身2・伊藤出身1
    • [66]創立時の役員に伊藤銀行出身の常務久野真苗、取締役岩佐義徳・佐々部晩穂、相談役伊藤次郎左衛門(旧社長)
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [67]愛知銀行は1896年、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門(先代)らの主唱発起で創立

1941年〜岡崎・稲沢・大野の3行合併と、中央信託から継いだ信託業務と187の店

東海銀行は発足から半年で太平洋戦争を迎え、地盤である繊維・雑貨などの中小商工業は統制で縮んだ。1941年12月から1945年8月に預金は特殊預金を除いて約15億円増えたが、貸出は約5億円増にとどまり、国債が約7億9000万円増えた。預金を貸出に回せず、国債の引き受けで運用するほかなかったのである。店の網は1943年4月に尾州銀行、1944年11月に岡崎銀行の営業の一部を譲り受けて補った。戦時の主な融資先はワシノ製機や大隈鉄工などだったが、軍需の補償は少額だったという。軍需の大企業に深く入り込まなかったことが、終戦後に補償が打ち切られた際の損失を抑える側に働いたようだ。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [68]創立半年で大戦を迎え、地盤の東海地方の繊維・雑貨ほか中小商工業が戦時統制で打撃を受けた
    • [69]1941年12月から1945年8月の預金増加は特殊預金を除くと約15億円
    • [70]同期間の貸出増加は約5億円、国債増加は約7億9000万円
    • [71]大軍需会社の発展で中小商工業が不振となり、余裕資金を国債引受に向けるほかなかった
    • [72]1943年4月に尾州銀行の営業の一部、1944年11月に岡崎銀行八幡出張所の営業を譲り受け
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [73]戦時中の主な融資先はワシノ製機・中央発振・大隈鉄工・朝日兵器等で、軍需補償は極めて僅少

東海銀行は1945年9月、中央信託の営業を譲り受けて信託部を設け、信託業務を兼ねるようになった。同月17日には岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県内に本店を置く唯一の銀行となった。3行の公称資本金は岡崎381万円・稲沢150万円・大野115万円で、持ち込んだ店は支店57・出張所21・代理店7だった。岡崎と稲沢は、1936年以降に三河と尾張でそれぞれ地区の合同の核となった銀行である。合併の結果、公称資本金は4406万円、預金総額は約44億6600万円に達した。1936年から当局が描いた県内を1行にまとめる方針は、終戦の直後に地区ごとの中心行の吸収によって完結した可能性が高い。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [74]1945年9月に中央信託の営業を譲り受けて信託部を設置し信託業務を兼営
    • [75]1945年9月17日に岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県下唯一の本店銀行となる
    • [77]合併した3行の営業店舗は支店57・出張所21・代理店7
    • [79]合併後の公称資本金4406万円、預金総額44億6615万5千円(1945年9月17日現在)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [76]公称資本金は岡崎銀行381万円、稲沢銀行150万円、大野銀行115万円
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [78]県下では稲沢銀行中心の尾張地区、岡崎銀行中心の三河地区の銀行合同が実現していた

3行の合併で店は本店を含めて187となり、明治以来県内に設立された110余りの銀行のうち本店を残す唯一の銀行となった。一方で53の店が戦災を受けて在外資産も失い、配当は1945年3月決算の年8分を最後に途絶えた。金融機関再建整備法による特別損失は3億8200万円に上り、預金の切り捨てや9割減資で埋めて1948年3月に処理を終えた。資本金は9割減資で一時440万6000円まで縮んだ。第二封鎖預金の切り捨て率は38%で、軍需補償の少ない融資先が多かったため、帝国・三菱・住友の7割を下回ったという。統合を終えた時点で、戦後の再建は資本の積み直しから始まる状況にあったと見てよい。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [80]3行合併当日の営業店舗数は本店を加えて総計187店
    • [83]創立から1945年3月決算まで年8朱の配当を続け、終戦後は無配
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [81]明治以来愛知県下に設立された110余の銀行のうち残る唯一の本店銀行
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [82]戦時中に53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [84]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円等で補填し1948年3月に最終処理
    • [85]9割減資で資本金は一時440万6000円となった
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [86]第二封鎖預金の切捨率は東海3割8分、帝国・三菱・住友は7割。戦時の融資先の軍需補償が僅少だったため
参考文献[68]-[86]
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [68]創立半年で大戦を迎え、地盤の東海地方の繊維・雑貨ほか中小商工業が戦時統制で打撃を受けた
    • [69]1941年12月から1945年8月の預金増加は特殊預金を除くと約15億円
    • [70]同期間の貸出増加は約5億円、国債増加は約7億9000万円
    • [71]大軍需会社の発展で中小商工業が不振となり、余裕資金を国債引受に向けるほかなかった
    • [72]1943年4月に尾州銀行の営業の一部、1944年11月に岡崎銀行八幡出張所の営業を譲り受け
    • [74]1945年9月に中央信託の営業を譲り受けて信託部を設置し信託業務を兼営
    • [75]1945年9月17日に岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県下唯一の本店銀行となる
    • [77]合併した3行の営業店舗は支店57・出張所21・代理店7
    • [79]合併後の公称資本金4406万円、預金総額44億6615万5千円(1945年9月17日現在)
    • [80]3行合併当日の営業店舗数は本店を加えて総計187店
    • [83]創立から1945年3月決算まで年8朱の配当を続け、終戦後は無配
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [73]戦時中の主な融資先はワシノ製機・中央発振・大隈鉄工・朝日兵器等で、軍需補償は極めて僅少
    • [86]第二封鎖預金の切捨率は東海3割8分、帝国・三菱・住友は7割。戦時の融資先の軍需補償が僅少だったため
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [76]公称資本金は岡崎銀行381万円、稲沢銀行150万円、大野銀行115万円
    • [81]明治以来愛知県下に設立された110余の銀行のうち残る唯一の本店銀行
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [78]県下では稲沢銀行中心の尾張地区、岡崎銀行中心の三河地区の銀行合同が実現していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [82]戦時中に53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [84]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円等で補填し1948年3月に最終処理
    • [85]9割減資で資本金は一時440万6000円となった

第3章 1945年〜 戦後の再建整備から東京・ロンドンへの進出、中部の巨大な地銀として都市銀行に並ぶまで

1945年〜9割の減資からの再建と、日銀名古屋支店長から来た鈴木亨市頭取

1948年3月、東海銀行は金融機関再建整備法に基づいて資本金を9割減らした。再建整備で確定した特別損失3億8200万円は、預金切り捨ての2億9500万円と減資の3900万円、積立金と確定益で埋めた。損失の元には、地盤の繊維・雑貨などの中小商工業が戦時統制で縮み、53店が戦災に遭い、在外資産も失ったことがあった。同年9月には整備計画に沿って4億3059万4000円を増資し、資本金を4億3500万円とした。1953年2月には、確定損を負った預金者へ元利金の全額を、全国の銀行に先んじて払い戻した。預金者への払い戻しを急いだのは、預金を元手とする銀行として信用の回復を何より優先したためとみられる。

  • 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
    • [87]1948年3月、金融機関再建整備法により9割減資
  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
    • [88]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円・積立金2700万円・確定益2100万円で補填し、1948年3月に最終処理完了
    • [89]戦時中は地盤の繊維・雑貨等の中小商工業が戦時統制で圧縮され、53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [91]1953年2月、全国銀行に率先して確定損を負担した預金者に預金の元利金全部を支払い
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [90]1948年9月、整備計画に基づき4億3059万4000円を増資し資本金4億3500万円

戦後の再建を率いたのは、1943年に頭取となった日本銀行出身の鈴木亨市氏だった。鈴木氏は東海銀行の発足時に日銀名古屋支店長を務めており、三行合併を進めた日銀総裁の結城豊太郎氏の推薦で2代目頭取に就任した。首脳を日銀から迎え、旧行の重役を早めに退かせて若手行員を現業担当の重役に登用したことで、旧愛知と旧名古屋の行風の融合が進んだという。経営の軸には、地元産業の復興と大衆預金の獲得を据えた。店頭には「親切」の標語を掲げ、入りやすく話しやすい店であることを行員に求めた。合併銀行の首脳を旧行と無縁の日銀出身者に任せたことが、派閥を抑えて地元の営業へ力を集める条件になったのだろう。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
    • [92]鈴木亨市は日銀出身、1943年(昭和18年)頭取、1959年会長
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [93]結城豊太郎日銀総裁の推薦で当時日銀名古屋支店長の鈴木亨市が2代目頭取に就いた
    • [95]鈴木亨市は地元産業の復興と発展、大衆預金の獲得を軸に拡張策を展開
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [94]首脳を日銀から迎え、旧銀行の重役を退陣させ若手行員から現業担当重役を抜擢したことが旧愛知・旧名古屋の行風の融合の一因
  • 野田経済 1956年12月号
    • [96]鈴木頭取は銀行のモットーに「親切」を掲げて店頭にも示し、入りやすく話しやすい店を心がけた

1948年の新日本経済の連載は東海銀行を八大銀行の一つとして扱い、東西の金融市場での地位を五大銀行に次ぐと評した。戦後の第二封鎖預金の切捨率は、帝国・三菱・住友の7割に対し、東海は3割8分にとどまった。戦時の主な融資先が中小の機械メーカーなどで、打ち切られた軍需補償が少なかったためだった。敗戦後に輸出産業として伸びた繊維・陶器・木材は、もともと東海銀行の取引基盤だった。1946年9月末から1947年4月末にかけての自由預金の増加率は206%で、全国の普通銀行の140%を上回った。1955年3月末の預金総額は1661億円となり、普通銀行の中で5位に並んだ。重工業への出遅れが、敗戦後にはかえって損失の小ささと輸出産業の地盤として利いたと推察される。

  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [97]八大銀行の連載で東海銀行を扱い、巨大な預金と東西両市場での地位から五大銀行に次ぐと評価
    • [98]第二封鎖預金の切捨率は帝国・三菱・住友7割、三和6割、野村5割8分、安田5割5分、神戸5割、東海3割8分
    • [99]東海の切捨率が低かったのは戦時中の主な融資先がワシノ製機・大隈鉄工等で軍需補償が僅少だったため
    • [100]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤だった
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [101]自由預金の増加率は1946年9月末→1947年4月末で東海銀行206%、全国普通銀行140%
  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
    • [102]1955年3月末の預金総額1661億円・貸出金総額1443億円で普通銀行中各5位
参考文献[87]-[102]
  • 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
    • [87]1948年3月、金融機関再建整備法により9割減資
  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
    • [88]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円・積立金2700万円・確定益2100万円で補填し、1948年3月に最終処理完了
    • [89]戦時中は地盤の繊維・雑貨等の中小商工業が戦時統制で圧縮され、53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [91]1953年2月、全国銀行に率先して確定損を負担した預金者に預金の元利金全部を支払い
    • [102]1955年3月末の預金総額1661億円・貸出金総額1443億円で普通銀行中各5位
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [90]1948年9月、整備計画に基づき4億3059万4000円を増資し資本金4億3500万円
    • [93]結城豊太郎日銀総裁の推薦で当時日銀名古屋支店長の鈴木亨市が2代目頭取に就いた
    • [95]鈴木亨市は地元産業の復興と発展、大衆預金の獲得を軸に拡張策を展開
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
    • [92]鈴木亨市は日銀出身、1943年(昭和18年)頭取、1959年会長
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [94]首脳を日銀から迎え、旧銀行の重役を退陣させ若手行員から現業担当重役を抜擢したことが旧愛知・旧名古屋の行風の融合の一因
    • [97]八大銀行の連載で東海銀行を扱い、巨大な預金と東西両市場での地位から五大銀行に次ぐと評価
    • [98]第二封鎖預金の切捨率は帝国・三菱・住友7割、三和6割、野村5割8分、安田5割5分、神戸5割、東海3割8分
    • [99]東海の切捨率が低かったのは戦時中の主な融資先がワシノ製機・大隈鉄工等で軍需補償が僅少だったため
    • [100]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤だった
  • 野田経済 1956年12月号
    • [96]鈴木頭取は銀行のモットーに「親切」を掲げて店頭にも示し、入りやすく話しやすい店を心がけた
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [101]自由預金の増加率は1946年9月末→1947年4月末で東海銀行206%、全国普通銀行140%

1955年〜木下正美の東京進出とロンドン支店、日本のピープルズ・バンクを掲げた大衆預金

1968年までに東海銀行の東京都内の店舗は44店となり、新設店の大半は関東に置かれた。1956年に頭取の鈴木亨市氏は、東京と大阪の取引先を名古屋に縁のある企業から一般の得意先へ広げてきたと説明した。東京への本格的な進出を主導したのは、副頭取の木下正美氏だった。木下氏によれば、地元の取引を1行で受ける立場にあったため他行の進出が激しく、守るだけでは預金の伸び率を削られた。1962年までに東京の店舗は20店に達し、東京の伸びにより都市銀行の預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上がった。地元での強い地位がかえって他行を呼び込み、守りに限界が出たことが、外へ出る動機になったと考えられる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [103]1968年の国内店舗は名古屋市58・愛知県56・東京都44・大阪府9で、東西進出政策により新設店の大半が関東に集中
  • 野田経済 1956年12月号
    • [104]鈴木頭取は、以前は東京・大阪でも名古屋に関係のある方面を主に活動していたが、一般の得意先・事業へ広げてきたと説明
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [105]木下正美(副頭取)が東京へ乗り出した時から東海銀行は一回りスケールを大きくした
    • [106]木下副頭取は、地元を1行で受けているため他行の進出が激しく守勢では伸び率を侵食されるので、攻勢に出て東京進出を断行したと説明
    • [107]1962年時点で東京の店舗は20店、東京の伸びにより都市銀行総預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上昇

1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営に触れた木下正美氏は、帰国後にピープルズ・バンクの路線を打ち出した。1961年3月に竣工した名古屋の新本店では、長さ約50mのカウンターに34人のテラーを並べ、客のための空間を広く取った。2階には経営相談所を設け、取引先が気軽に相談できる造りとした。事務では他行に先がけてIBMの電子計算機7070を入れ、窓口の処理を速めた。貸出では、中小企業への融資の比率が他行より高いことを木下氏は特色に挙げた。1966年9月末の預金は1兆1713億円で、10年間の伸びは都市銀行13行平均の4.7倍に対し5倍だった。財閥系の上位行と大企業のメーン取引で並びにくい以上、個人と中小企業の厚みで規模を補う選択だったとうかがえる。

  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [108]木下副頭取は1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営を見聞し、帰国後に大衆との結びつきを重視するピープルズ・バンクの線を打ち出した
    • [109]1961年3月31日竣工の新本店は完全テラー・システムで、約50mのカウンターに34名のテラーが並ぶ
    • [110]新本店の2階営業場に経営相談所を設置
    • [111]他行に先がけて最新型のIBM電子計算機7070を採用
    • [112]木下副頭取は中小企業に対する融資率が他行より高いと説明
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [113]1966年9月末の預金は1兆1713億円、10年間の伸びは都銀13行平均4.7倍に対し東海5倍

東海銀行は甲種外国為替銀行として世界の主要地の銀行とコルレス契約を結んで貿易金融を手がけ、1954年3月にはニューヨーク事務所を開設した。地盤の東海地方には繊維・陶器など輸出向けの産業が多く、為替の需要は取引先の側にあった。1960年時点の海外拠点はニューヨークとロンドンの駐在員事務所で、1962年の役員名簿でもロンドンはまだ駐在員事務所と記された。1966年6月には店舗190のうち2店が海外に置かれ、1968年にはその2店がニューヨークとロンドンの支店と記された。取引先の輸出に伴う為替の取次ぎから入ったため、海外拠点も1960年代半ばの支店への格上げまで段を踏んで広げたようだ。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
    • [114]甲種外国為替銀行として世界主要地の外国銀行とコルレス契約を結び貿易金融を実行
    • [115]1954年3月にニューヨーク事務所を開設し将来の発展に備えた
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [116]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤
  • 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
    • [117]1960年版時点の海外駐在員事務所はニューヨーク・ロンドン
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [118]1962年の人物紹介で中村幸四郎の役職はロンドン駐在員事務所長
  • 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
    • [119]1966年時点の店舗数190で、名古屋市内54・地元4県79・関東36・関西19・海外2
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [120]1968年の店舗はニューヨーク・ロンドンの2海外支店を含めて202
参考文献[103]-[120]
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [103]1968年の国内店舗は名古屋市58・愛知県56・東京都44・大阪府9で、東西進出政策により新設店の大半が関東に集中
    • [113]1966年9月末の預金は1兆1713億円、10年間の伸びは都銀13行平均4.7倍に対し東海5倍
    • [120]1968年の店舗はニューヨーク・ロンドンの2海外支店を含めて202
  • 野田経済 1956年12月号
    • [104]鈴木頭取は、以前は東京・大阪でも名古屋に関係のある方面を主に活動していたが、一般の得意先・事業へ広げてきたと説明
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [105]木下正美(副頭取)が東京へ乗り出した時から東海銀行は一回りスケールを大きくした
    • [106]木下副頭取は、地元を1行で受けているため他行の進出が激しく守勢では伸び率を侵食されるので、攻勢に出て東京進出を断行したと説明
    • [107]1962年時点で東京の店舗は20店、東京の伸びにより都市銀行総預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上昇
    • [108]木下副頭取は1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営を見聞し、帰国後に大衆との結びつきを重視するピープルズ・バンクの線を打ち出した
    • [109]1961年3月31日竣工の新本店は完全テラー・システムで、約50mのカウンターに34名のテラーが並ぶ
    • [110]新本店の2階営業場に経営相談所を設置
    • [111]他行に先がけて最新型のIBM電子計算機7070を採用
    • [112]木下副頭取は中小企業に対する融資率が他行より高いと説明
    • [118]1962年の人物紹介で中村幸四郎の役職はロンドン駐在員事務所長
  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
    • [114]甲種外国為替銀行として世界主要地の外国銀行とコルレス契約を結び貿易金融を実行
    • [115]1954年3月にニューヨーク事務所を開設し将来の発展に備えた
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [116]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤
  • 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
    • [117]1960年版時点の海外駐在員事務所はニューヨーク・ロンドン
  • 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
    • [119]1966年時点の店舗数190で、名古屋市内54・地元4県79・関東36・関西19・海外2

1968年〜日銀出身の三宅重光頭取と、谷信一頭取の集まる預金への転換

1968年5月、日本銀行出身の三宅重光氏が東海銀行の頭取に就任した。三宅氏は前年9月に頭取の金子嘉徳氏から後任として求められ、11月に副頭取となって半年ほど行内の事情を学んだ。当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、首脳を外部から迎えざるを得なかったという。就任に際しては、1971年の創立30周年までに資金量を2兆円とする目標を掲げた。1969年の対談では、大銀行の合併は効果で個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が複数並んで競う構図が必要だとした。そのうえで、オープンコルレスやクレジットカードなどの業務提携が広く深く進めば、合併の意味は薄れるとの見方を示した。合併に頼らず提携で規模の不利を補う方針は、財閥の系列を持たない中位行の立場から導かれたと読める。

  • 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
    • [121]1968年5月、予定通り東海銀行頭取に就任
    • [122]1967年9月18日に金子頭取から後任に求められ、同年11月に取締役副頭取、副頭取を半年務めてから頭取に就く予定だった
    • [123]当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、外部から首脳を連れて来なければならなくなっていた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [124]三宅頭取は就任にあたり1971年の創立30周年までに資金量2兆円とする目標を持った
  • 金融財政事情 20(9) 1969年
    • [125]三宅頭取は、合併は効果の良し悪しで個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が幾つか競争し合う形が必要と述べた
    • [126]オープンコルレス契約やクレジットカード業務などの業務提携の網が広く深く張られれば合併はあまり意味がなくなるとの見方

1975年5月、三宅重光氏が会長に退き、副頭取の谷信一氏が頭取に就任した。三宅氏は前年3月から名古屋商工会議所の会頭を兼ねており、頭取との兼務に無理を感じていた。谷氏は1937年に前身の愛知銀行へ入り、東京駐在の長い経歴を経た行員出身の頭取だった。就任後の1975年9月の取材で、谷氏は『さしあたり、集める預金から集まる預金へと体質転換する必要がありますね。』と預金の集め方を改める考えを示した。個人預金は小口でも質が高く、安定すれば全体の規模で大口の法人預金に劣らないという判断だった。後任の加藤隆一氏は1980年、谷氏の路線を大衆化・国際化・効率化の3本柱と整理した。企業の資金需要が鈍る局面で、預金の軸足を法人から個人へ移す転換だったと思われる。

  • 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
    • [127]1975年5月、谷信一副頭取を頭取にし、三宅は会長に就任
    • [128]三宅は1974年3月4日に名古屋商工会議所会頭に就任し、頭取との兼職は無理で疲労が累積した
  • 日経ビジネス 1975年9月1日号
    • [129]谷信一は1937年名古屋高商卒業と同時に前身の愛知銀行に入行、常務・専務期の大半を東京駐在で過ごし、1974年5月副頭取、1975年5月頭取
    • [130]谷頭取は集める預金から集まる預金への体質転換が必要との考えを示した
    • [131]個人預金は小口だが良質で、安定すれば全体の規模は大口法人預金に劣らないと説明
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [132]加藤頭取は就任に当たり前頭取の路線だった「大衆化」「国際化」「効率化」の三本柱を踏襲すると表明

1979年2月、東海銀行が主力銀行を務めていた林紡績とパシフィック通商が相次いで倒産した。1979年3月期に両社向けで償却した不良債権は80億円を超え、同期の経常利益198億円の4割を上回った。それまでは各常務に大きく権限を委ね、東京営業部は東京の案件をほぼ東京で決めていた。東海銀行は4月11日に常務会を新設し、6月1日からは担当常務3人の意見が一致した場合だけ融資を決める審査に改めた。同期の預金の34%を名古屋で集めた一方、貸出は29%にとどまり、余った資金を東京の大企業取引に回していた。1980年に頭取の加藤隆一氏は、名古屋を固められなければ東京も海外もあり得ないとの立場を示した。名古屋の預金で東京の貸出を支える構図こそが、巨大な地銀と呼ばれた理由だったのかもしれない。

  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [133]1979年2月、東海銀行がメーンバンクの林紡績・パシフィック通商が相次いで倒産
    • [134]1979年3月期に林紡績向け69億円、パシフィック通商向け10数億円、計80億円以上を償却し、同期経常利益198億円の40%超
    • [135]専務・常務が各部門を担当し大幅に権限を委譲、東京営業部は東京のことはほとんど東京で決められた
    • [136]1979年4月11日に常務会を新設、6月1日から3審査部担当常務の合議決裁に切り替え、一致した場合のみ決裁
    • [137]1979年3月期の残高で預金の34%を名古屋地区で集め貸出は29%、預金超過分を東京に集中投入して大企業に食い込む原資とした
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [138]加藤頭取は、名古屋をしっかり固められなくて東京も大阪も海外もあり得ないと述べた
参考文献[121]-[138]
  • 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
    • [121]1968年5月、予定通り東海銀行頭取に就任
    • [122]1967年9月18日に金子頭取から後任に求められ、同年11月に取締役副頭取、副頭取を半年務めてから頭取に就く予定だった
    • [123]当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、外部から首脳を連れて来なければならなくなっていた
    • [127]1975年5月、谷信一副頭取を頭取にし、三宅は会長に就任
    • [128]三宅は1974年3月4日に名古屋商工会議所会頭に就任し、頭取との兼職は無理で疲労が累積した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [124]三宅頭取は就任にあたり1971年の創立30周年までに資金量2兆円とする目標を持った
  • 金融財政事情 20(9) 1969年
    • [125]三宅頭取は、合併は効果の良し悪しで個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が幾つか競争し合う形が必要と述べた
    • [126]オープンコルレス契約やクレジットカード業務などの業務提携の網が広く深く張られれば合併はあまり意味がなくなるとの見方
  • 日経ビジネス 1975年9月1日号
    • [129]谷信一は1937年名古屋高商卒業と同時に前身の愛知銀行に入行、常務・専務期の大半を東京駐在で過ごし、1974年5月副頭取、1975年5月頭取
    • [130]谷頭取は集める預金から集まる預金への体質転換が必要との考えを示した
    • [131]個人預金は小口だが良質で、安定すれば全体の規模は大口法人預金に劣らないと説明
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [132]加藤頭取は就任に当たり前頭取の路線だった「大衆化」「国際化」「効率化」の三本柱を踏襲すると表明
    • [138]加藤頭取は、名古屋をしっかり固められなくて東京も大阪も海外もあり得ないと述べた
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [133]1979年2月、東海銀行がメーンバンクの林紡績・パシフィック通商が相次いで倒産
    • [134]1979年3月期に林紡績向け69億円、パシフィック通商向け10数億円、計80億円以上を償却し、同期経常利益198億円の40%超
    • [135]専務・常務が各部門を担当し大幅に権限を委譲、東京営業部は東京のことはほとんど東京で決められた
    • [136]1979年4月11日に常務会を新設、6月1日から3審査部担当常務の合議決裁に切り替え、一致した場合のみ決裁
    • [137]1979年3月期の残高で預金の34%を名古屋地区で集め貸出は29%、預金超過分を東京に集中投入して大企業に食い込む原資とした

第4章 1979年〜 地銀からの脱皮と上位行との規模の差、三和銀行とのUFJ統合による上場廃止

1979年〜加藤隆一頭取の地域密着と世界の東海、太陽神戸・三和との規模の差

頭取の谷信一氏が病気で退任したため、1980年5月に副頭取の加藤隆一氏が60歳で頭取に就任した。加藤氏は谷氏の敷いた大衆化・国際化・効率化の3本柱を引き継ぎ、そこへ地域密着を加えると表明した。名古屋を固められなければ東京も大阪も海外もあり得ないとして、地盤の空洞化を避けることを経営の重心に置いた。背景には国債の値下がりと大企業の銀行離れがあり、生産者向けに偏った融資を個人向けの小口金融へ広げる必要が出ていた。1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を集め、その余剰を東京での大企業取引へ振り向けていた。東京で伸びる元手が名古屋の預金だった以上、地元の固め直しは拡大の路線と矛盾しなかったとみられる。

  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [139]1980年5月、谷信一前頭取の病気辞任を受け、副頭取の加藤隆一が60歳で頭取に就任(都銀最年少)
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [140]加藤隆一は前頭取の大衆化・国際化・効率化の3本柱を踏襲し、これに地域密着を加えると表明
    • [141]加藤隆一は名古屋を固められなくては東京・大阪・海外もないとし、名古屋の空洞化は避けるべきとした
    • [142]国債の暴落と企業の銀行離れを受け、生産者金融主体から消費者金融・小口金融へ広げる必要を加藤が指摘
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [143]1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を占め、名古屋の預金超過分を東京の大企業取引へ投入

1984年度に始めた第7次長期経営計画で、東海銀行は成長性で首位に立つことを掲げ、重点の一つに国際業務の総合的な展開を置いた。国際部門は1978年時点で利益全体の10%を超え、同年のシンジケートローン組成件数は東京銀行に次ぐ2位だった。1985年2月にデュッセルドルフ支店とメルボルン駐在員事務所、3月にバーレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は34か所となった。本部業務の点検で減らした約200人のうち120人を証券・国際などの重点部門へ配置転換し、全体の人員を増やさずに国際部門を厚くした。加藤隆一頭取は1980年、カリフォルニアに根を張ったまま世界一となったバンク・オブ・アメリカを、地方に本店を置く銀行の手本に挙げていた。

  • 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
    • [144]1984年度(昭和59年度)から第7次長期経営計画。キャッチフレーズは「成長性ナンバーワンをめざす」、柱に国際業務の総合的な展開
    • [146]1985年2月デュッセルドルフ支店・メルボルン駐在員事務所、3月バハレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は支店9・駐在員事務所16・現地法人5・関連金融機関4の計34か所
    • [147]効率化運動で本部要員約200人を削減し、うち120人を証券・国際・事務管理などの重点部門へ振り向けた
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [145]国際部門の利益は全体の10%超。1978年のシンジケートローン組成状況で東海銀行は東京銀行に次ぐ2位
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [148]加藤隆一はサンフランシスコに本店を構えカリフォルニアに密着しながら世界一となったバンク・オブ・アメリカを例に、名古屋本店を特色とした

1978年度上期、東海銀行の預金は太陽神戸銀行に月によって逆転を許し、目標としていた三和銀行との差は開く一方だった。支店網が東海地方に偏っていたため、東京と関西に店を持つ太陽神戸銀行に比べ、全国で預金を集めるうえで不利だった。加藤隆一頭取は本部業務のむだを洗い出す効率化運動を進め、上位行に迫る経営体質をつくることを狙った。1985年の時点で、東海銀行は総資金量と税引き利益で三井銀行を上回っていた。1986年に住友銀行が平和相互銀行を合併した後も再編の観測は続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として名が挙がったのは東京銀行だった。規模の差を合併で埋める見通しは立っておらず、自らの効率を上げて差を詰めるほかなかったのだろう。

  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [149]1978年度(昭和53年度)上期の預金実績で太陽神戸銀行が東海銀行を逆転した月があり、目標とする三和銀行との差は開く一方
    • [150]東海地方に集中した支店網は全国規模の預金集めで不利。太陽神戸銀行は東京と関西にバランスよく支店を配置
  • 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
    • [151]効率化運動は自らの足腰を鍛えて「上位行に迫る経営体質を」という加藤頭取のねらいに沿うもの
    • [152]東海銀行は総資金量・税引き利益などで三井銀行を上回った(1985年時点)
  • Decide 5(4) 1987年7月
    • [153]1986年の住友銀行・平和相互銀行合併以後も再編観測が続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として東京銀行の名が取り沙汰された
参考文献[139]-[153]
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [139]1980年5月、谷信一前頭取の病気辞任を受け、副頭取の加藤隆一が60歳で頭取に就任(都銀最年少)
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
    • [140]加藤隆一は前頭取の大衆化・国際化・効率化の3本柱を踏襲し、これに地域密着を加えると表明
    • [141]加藤隆一は名古屋を固められなくては東京・大阪・海外もないとし、名古屋の空洞化は避けるべきとした
    • [142]国債の暴落と企業の銀行離れを受け、生産者金融主体から消費者金融・小口金融へ広げる必要を加藤が指摘
    • [148]加藤隆一はサンフランシスコに本店を構えカリフォルニアに密着しながら世界一となったバンク・オブ・アメリカを例に、名古屋本店を特色とした
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
    • [143]1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を占め、名古屋の預金超過分を東京の大企業取引へ投入
    • [145]国際部門の利益は全体の10%超。1978年のシンジケートローン組成状況で東海銀行は東京銀行に次ぐ2位
    • [149]1978年度(昭和53年度)上期の預金実績で太陽神戸銀行が東海銀行を逆転した月があり、目標とする三和銀行との差は開く一方
    • [150]東海地方に集中した支店網は全国規模の預金集めで不利。太陽神戸銀行は東京と関西にバランスよく支店を配置
  • 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
    • [144]1984年度(昭和59年度)から第7次長期経営計画。キャッチフレーズは「成長性ナンバーワンをめざす」、柱に国際業務の総合的な展開
    • [146]1985年2月デュッセルドルフ支店・メルボルン駐在員事務所、3月バハレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は支店9・駐在員事務所16・現地法人5・関連金融機関4の計34か所
    • [147]効率化運動で本部要員約200人を削減し、うち120人を証券・国際・事務管理などの重点部門へ振り向けた
    • [151]効率化運動は自らの足腰を鍛えて「上位行に迫る経営体質を」という加藤頭取のねらいに沿うもの
    • [152]東海銀行は総資金量・税引き利益などで三井銀行を上回った(1985年時点)
  • Decide 5(4) 1987年7月
    • [153]1986年の住友銀行・平和相互銀行合併以後も再編観測が続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として東京銀行の名が取り沙汰された

1988年〜伊藤喜一郎頭取の3つの足と、加藤隆一会長の長期支配、西垣覚頭取の登板

1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎氏が59歳で頭取に就任した。頭取を8年務めた加藤隆一氏は後継候補をつくらないと公言し、次の頭取は常務以上の役員に意見を聞いて選んだという。伊藤氏は中部圏を大事な基盤としつつ、金融の中心である東京と海外を加えた三本足で立つ方針を示した。方針は金融情勢に応じて変わるものだとして、前任の路線を名古屋回帰とみる見方は退けた。東京では都心部の店舗を整え、大口の法人取引と個人向けの小口取引を並べて広げる計画だった。米国では日系企業中心の取引から非日系企業やミドルマーケットへ広げるため、審査能力の強化を課題に挙げた。自らの時間は名古屋に6、東京に4の割合で振り分けるとした。

  • 日経ビジネス 1988年11月7日号
    • [154]1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎が59歳で頭取に就任
  • 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
    • [155]頭取在任8年の加藤隆一は「プリンスはつくらない」とし、後継は常務以上の意見を聞いて選んだ
    • [156]伊藤は中部圏を大事な基盤としつつ、名古屋・東京・海外の三本足で立つ方針を示した
    • [157]伊藤は加藤の経営を名古屋回帰とする見方を否定し、方針は金融情勢で変わるのが当然とした
    • [158]東京都心部の店舗整備を進め、ホールセールとリテールを並行して展開する計画
    • [159]米国で非日系企業・ミドルマーケットとの取引を広げるため、審査能力の強化を課題とした
    • [160]伊藤の活動の比重は名古屋6対東京4

1991年、元秋葉原支店の行員が絡む架空預金証書事件が起き、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった。経営責任としては1991年10月に日銀出身の副会長が退任しただけで、1992年1月に頭取の伊藤喜一郎氏が管理責任者21人の処分を発表した。処分が軽いとの批判のなか、6月に伊藤氏が会長に、会長の加藤隆一氏が相談役に就任するという観測が流れた。加藤氏は1986年から会長を兼ねて8年頭取を務め、人事権を握るワンマン経営者とされた。1992年4月には新聞各紙が加藤氏の辞任を報じたが、副頭取を頭取に上げる案は潰れ、伊藤氏が頭取を続けることになった。後継候補をつくらない方針が、責任の取り方と交代の手を狭めたと推察される。

  • 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
    • [161]1991年の架空預金証書事件(元秋葉原支店行員らが逮捕)で、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった
    • [162]経営責任は1991年10月の日銀出身・新井永吉副会長の辞任のみ。1992年1月30日、伊藤喜一郎頭取が秋葉原支店長ら管理責任者21名の処分を発表
    • [163]処分の軽さに批判があり、6月に伊藤頭取が会長、加藤会長が相談役に退くとの噂が金融関係者の間で流れた
    • [164]加藤隆一は1986年からの会長兼務を含め1988年まで8年頭取を務め、人事権を源にワンマン体制を築いたとの見方で衆目が一致していたと記事は書く
  • 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
    • [165]1992年4月26日に朝日・日経などが加藤会長の辞任を報じた。稲垣副頭取の頭取昇格と伊藤頭取の会長就任の図式は潰れ、伊藤体制の続投が決まった

1994年6月、副頭取の西垣覚氏が59歳で頭取に就任し、伊藤喜一郎氏は会長となった。西垣氏は愛知紡績とタキヒヨーへの2度の出向を経ており、出向から戻って頭取に就任するのは東海銀行で初めてだった。直前の決算で不良債権を大きく償却し、系列ノンバンクの支援では約3000億円の不良債権を肩代わりした。西垣氏は、上位6行が合併で量の差を広げた以上、合併しない限りは量を追わずにコスト競争力で競うという方針を示した。目標は格付けを上位行並みに引き上げることに置いた。専門性の高い業務の人材を行内で公募する制度を設け、東京と名古屋に分かれていた企画部を一本にまとめた。都市銀行として東京の顔となる駐在の副頭取が要るとして、副頭取を2人置いた。

  • 日経ビジネス 1994年10月10日号
    • [166]西垣覚は1935年生まれ、93年9月副頭取、94年6月から頭取(59歳)
    • [167]西垣は1962年愛知紡績、78年タキヒヨーに出向。出向から戻って頭取となるのは東海銀行で初めて(中部財界 1994 も同旨)
    • [168]前期決算で思い切った償却を行い、系列ノンバンク支援で約3000億円の不良債権を肩代わりした
  • 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
    • [169]上位6行は合併で量的格差をつけており、合併しない限りは質(コスト競争力)で勝負するとした
    • [170]質の評価として格付けを上位行並みに上げることを目標とした
    • [171]資金証券・海外など専門業務で行内公募制度を導入し、東京・名古屋二本立ての企画部を一本化した
    • [172]都市銀行の体制として東京の顔となる駐在が要るとして二副頭取体制を採った
参考文献[154]-[172]
  • 日経ビジネス 1988年11月7日号
    • [154]1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎が59歳で頭取に就任
  • 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
    • [155]頭取在任8年の加藤隆一は「プリンスはつくらない」とし、後継は常務以上の意見を聞いて選んだ
    • [156]伊藤は中部圏を大事な基盤としつつ、名古屋・東京・海外の三本足で立つ方針を示した
    • [157]伊藤は加藤の経営を名古屋回帰とする見方を否定し、方針は金融情勢で変わるのが当然とした
    • [158]東京都心部の店舗整備を進め、ホールセールとリテールを並行して展開する計画
    • [159]米国で非日系企業・ミドルマーケットとの取引を広げるため、審査能力の強化を課題とした
    • [160]伊藤の活動の比重は名古屋6対東京4
  • 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
    • [161]1991年の架空預金証書事件(元秋葉原支店行員らが逮捕)で、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった
    • [162]経営責任は1991年10月の日銀出身・新井永吉副会長の辞任のみ。1992年1月30日、伊藤喜一郎頭取が秋葉原支店長ら管理責任者21名の処分を発表
    • [163]処分の軽さに批判があり、6月に伊藤頭取が会長、加藤会長が相談役に退くとの噂が金融関係者の間で流れた
    • [164]加藤隆一は1986年からの会長兼務を含め1988年まで8年頭取を務め、人事権を源にワンマン体制を築いたとの見方で衆目が一致していたと記事は書く
  • 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
    • [165]1992年4月26日に朝日・日経などが加藤会長の辞任を報じた。稲垣副頭取の頭取昇格と伊藤頭取の会長就任の図式は潰れ、伊藤体制の続投が決まった
  • 日経ビジネス 1994年10月10日号
    • [166]西垣覚は1935年生まれ、93年9月副頭取、94年6月から頭取(59歳)
    • [167]西垣は1962年愛知紡績、78年タキヒヨーに出向。出向から戻って頭取となるのは東海銀行で初めて(中部財界 1994 も同旨)
    • [168]前期決算で思い切った償却を行い、系列ノンバンク支援で約3000億円の不良債権を肩代わりした
  • 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
    • [169]上位6行は合併で量的格差をつけており、合併しない限りは質(コスト競争力)で勝負するとした
    • [170]質の評価として格付けを上位行並みに上げることを目標とした
    • [171]資金証券・海外など専門業務で行内公募制度を導入し、東京・名古屋二本立ての企画部を一本化した
    • [172]都市銀行の体制として東京の顔となる駐在が要るとして二副頭取体制を採った

1995年〜大阪信組の事業譲受と、三和・東洋信託と組んだUFJホールディングス

1995年12月7日、経営不振の大阪信用組合の事業を東海銀行が1996年夏をめどに引き継ぐと発表された。東海銀行は健全な債権と預金だけを受け、不良債権は日本版RTCへ移し、譲渡で生じる損失は預金保険機構が資金援助で埋める枠組みだった。大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗を持ち、9月に資金が不足して大阪府は自主再建を難しいと判断していた。東海銀行は1968年から役職員を送り、1995年10月には300億円の支援融資を出すなど大阪信組と関わりが深かった。受け皿を担う理由には金融システムの安定への協力と関西の取引基盤の強化を挙げ、直接費用は3年間で107億円と試算された。抵当権の移転にかかる登録免許税を誰が負うかも、1996年1月の時点で決まっていなかった。

  • 金融財政事情 46(47) 1995年12月
    • [173]1995年12月7日、大阪信用組合の事業を来夏(1996年夏)をメドに東海銀行が承継すると発表
    • [174]東海は健全債権と預金を引き継ぎ、不良債権は日本版RTCへ移管、譲渡で生ずるロスは預金保険機構が資金援助
    • [175]大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗。9月12日に資金ショートし、大阪府は自主再建は困難と判断
    • [176]東海銀行は1968年から役職員を派遣(延べ5人)、1995年10月に300億円の支援融資を供与
    • [177]東海は譲受の理由に金融システムの安定性維持への協力と関西の取引基盤の強化を挙げた。直接コストは初年度86億円、3年間で107億円の試算
  • 日経ビジネス 1996年1月22日号
    • [178]大阪信組から営業譲渡を受ける東海銀行でも、債権移管に伴う抵当権移転の登録免許税が生じ、誰が負担すべきかが問題とされた(1996年1月)

1998年4月に副頭取から頭取に就任した小笠原日出男氏は、5年後には東海銀行はないかもしれないという危機感を表した。規模で劣る以上、金融ビッグバンの下で外国の金融機関並みの速さを身につける必要があるという認識だった。他の都市銀行に先駆けて社内分社のカンパニー制を表明し、数年で108店舗を統廃合する計画を立てた。1998年9月にはあさひ銀行と金融持株会社を視野に入れた戦略的提携で合意し、1999年10月7日に共同持株会社を設ける構想を発表した。両行は2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域銀行3社と国際資金証券銀行1社へ組み替える計画だった。合併はせず、地域ごとの銀行の独自性を残す設計に狙いを置いた。名古屋の地盤を手放さずに規模の不足を補う手段として、地域別の子会社を持株会社の傘下に置く方式が選ばれたと思われる。

  • 日経ビジネス 1998年5月18日号
    • [179]小笠原日出男は1998年4月1日に副頭取から頭取に就任し、「5年後、下手をすれば東海銀行はないかもしれない」と危機感を示した
    • [180]ビッグバン本番で外国金融機関並みのスピードが必要で、規模で劣るだけになおさらだとされた
    • [181]他の都銀に先駆けてカンパニー制(社内分社制)の導入を表明し、数年以内に108店舗の統廃合を進める
  • 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
    • [182]1998年9月にあさひ銀行と戦略的提携で合意。1999年10月7日に共同持株会社「東海あさひ」(2000年10月めど設立)の設立で合意と発表
    • [183]2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域軸子会社3社と国際資金証券銀行1社に再編する
    • [184]合併ではなく持株会社を活用し、各地域銀行の経営の独自性を尊重することに戦略性を置いた

2000年6月の時点で、東海銀行とあさひ銀行の統合には三和銀行が加わり、3行統合として構想を広げることになった。頭取の小笠原日出男氏は、地域の軸では関西が手薄で、機能の軸でも証券や信託を補う必要があったことを三和銀行と組む理由に挙げた。異業種の銀行業参入が進むなか、中堅・中小企業の市場で競争優位を保つには一定の規模と機能が要るという認識だった。ところが2000年6月にあさひ銀行が統合から離れることが明らかになった。2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行は持株会社を通じた経営統合で基本合意した。2001年4月に3行は株式移転でUFJホールディングスを設け、東海銀行はその子会社となって上場を終えた。2002年1月には三和銀行と合併してUFJ銀行となった。

  • 金融財政事情 51(22) 2000年6月
    • [185]2000年6月号のインタビュー時点で、東海・あさひの統合に三和銀行が参加し3行による統合となった
    • [186]地域軸では関西が手薄(大和銀行は不参加)、機能軸では証券・信託を補強する必要があり、三和も同じ方向で戦略を考えていたため一緒にやることになった
    • [187]異業種の銀行業進出など環境の変化で、中堅・中小企業マーケットで優位な競争を展開するには一定の規模と機能が要るとした
  • 日経ビジネス 2000年10月16日号
    • [188]2000年6月にあさひ銀行の統合離脱が明らかになった
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
    • [189]2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が持株会社の設立を通じた経営統合に基本合意
    • [190]2001年4月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転によりUFJホールディングスを設立
    • [191]2002年1月、三和銀行と東海銀行が合併しUFJ銀行に商号変更
参考文献[173]-[191]
  • 金融財政事情 46(47) 1995年12月
    • [173]1995年12月7日、大阪信用組合の事業を来夏(1996年夏)をメドに東海銀行が承継すると発表
    • [174]東海は健全債権と預金を引き継ぎ、不良債権は日本版RTCへ移管、譲渡で生ずるロスは預金保険機構が資金援助
    • [175]大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗。9月12日に資金ショートし、大阪府は自主再建は困難と判断
    • [176]東海銀行は1968年から役職員を派遣(延べ5人)、1995年10月に300億円の支援融資を供与
    • [177]東海は譲受の理由に金融システムの安定性維持への協力と関西の取引基盤の強化を挙げた。直接コストは初年度86億円、3年間で107億円の試算
  • 日経ビジネス 1996年1月22日号
    • [178]大阪信組から営業譲渡を受ける東海銀行でも、債権移管に伴う抵当権移転の登録免許税が生じ、誰が負担すべきかが問題とされた(1996年1月)
  • 日経ビジネス 1998年5月18日号
    • [179]小笠原日出男は1998年4月1日に副頭取から頭取に就任し、「5年後、下手をすれば東海銀行はないかもしれない」と危機感を示した
    • [180]ビッグバン本番で外国金融機関並みのスピードが必要で、規模で劣るだけになおさらだとされた
    • [181]他の都銀に先駆けてカンパニー制(社内分社制)の導入を表明し、数年以内に108店舗の統廃合を進める
  • 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
    • [182]1998年9月にあさひ銀行と戦略的提携で合意。1999年10月7日に共同持株会社「東海あさひ」(2000年10月めど設立)の設立で合意と発表
    • [183]2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域軸子会社3社と国際資金証券銀行1社に再編する
    • [184]合併ではなく持株会社を活用し、各地域銀行の経営の独自性を尊重することに戦略性を置いた
  • 金融財政事情 51(22) 2000年6月
    • [185]2000年6月号のインタビュー時点で、東海・あさひの統合に三和銀行が参加し3行による統合となった
    • [186]地域軸では関西が手薄(大和銀行は不参加)、機能軸では証券・信託を補強する必要があり、三和も同じ方向で戦略を考えていたため一緒にやることになった
    • [187]異業種の銀行業進出など環境の変化で、中堅・中小企業マーケットで優位な競争を展開するには一定の規模と機能が要るとした
  • 日経ビジネス 2000年10月16日号
    • [188]2000年6月にあさひ銀行の統合離脱が明らかになった
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
    • [189]2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が持株会社の設立を通じた経営統合に基本合意
    • [190]2001年4月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転によりUFJホールディングスを設立
    • [191]2002年1月、三和銀行と東海銀行が合併しUFJ銀行に商号変更

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歴史年表 1881〜2002年

東海銀行の沿革1881〜2002年における主な出来事を抜粋

時代年月頭取出来事重要度
1881〜1920年伊藤銀行・名古屋銀行・愛知銀行の創立と、名古屋の地場銀行としての明治・大正の成長伊藤銀行を創立★
名古屋銀行を創立★
愛知銀行を創立★
1920〜1945年金融恐慌と一県一行の統合、愛知・名古屋・伊藤の3行合併による東海銀行の発足東海銀行を設立★★
中央信託の営業を譲り受け、信託業務の兼営を始める★
岡崎・稲沢・大野の3行を合併★
1945〜1979年戦後の再建整備から東京・ロンドンへの進出、中部の巨大な地銀として都市銀行に並ぶまで金融機関再建整備法により資本金の9割を減資し、増資して資本金4億3500万円とする★
ロンドン支店を開設★
1979〜2001年地銀からの脱皮と上位行との規模の差、三和銀行とのUFJ統合による上場廃止あさひ銀行と共同持株会社の設立で合意★
三和銀行・東洋信託銀行とともに株式移転でUFJホールディングスを設立し上場廃止★
三和銀行と合併し、UFJ銀行となる★★
出典・参考 43件
出典・参考
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第一章「創業時代」
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第三章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第二章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第四章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
  • 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
  • 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
  • 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
  • 野田経済 1956年12月号
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
  • 日経ビジネス 1975年9月1日号
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
  • 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
  • 日経ビジネス 1988年11月7日号
  • 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
  • 日経ビジネス 1994年10月10日号
  • 日経ビジネス 1996年1月22日号
  • 日経ビジネス 1998年5月18日号
  • 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
  • 日経ビジネス 2000年10月16日号
  • 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
  • 新日本経済 12(6) 1948年
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第一章「前史」
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
  • 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
  • 金融財政事情 20(9) 1969年
  • 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
  • Decide 5(4) 1987年7月
  • 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
  • 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
  • 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
  • 金融財政事情 46(47) 1995年12月
  • 金融財政事情 51(22) 2000年6月

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