1933年に日本銀行の斡旋で鴻池・三十四・山口の3行が大阪で合同したのが起源。
ピープルズ・バンクを掲げ、1960年にネット・サービス預金、1978年に金融界初のカードローンを始めた。1993年3月期に3部門で都市銀行の首位に立ち、2001年にUFJホールディングスへ移った。
大阪の三行が国立銀行という形を選んだのは、銀行を始めたかったからではなく、両替商の資本を近代の法制の下へ置き直す仕組みがそれしかなかったからである。鴻池家の両替店は1656年、山口家の布屋両替店は1863年にさかのぼり、蓄えも信用も既にあった。足りなかったのは、預金を集めて工業へ貸すことを許す免許である。1876年の条例改正から1879年の新設禁止までのおよそ3年が、その免許を取れる唯一の窓だった。全国では金禄公債を握る士族が148行を起こし、資本金の8割を禄券が占めたが、大阪の三行はそこへ現金と商売の縁を持ち込んだ。同じ国立銀行という名でも、元手が違えば貸し先も違う。
三行を全国の有力行へ押し上げたのは、自らの成長よりも他行の退出だった。1901年の恐慌で大阪府の17行が支払いを停止し、普通銀行の数は1890行を頂点に減りはじめる。倒れたのは第七十九銀行や百三十銀行のように、頭取が関係会社の株を買い占め、銀行を自分の資金源として使った行である。三行は事業と融資の混同を避けたために残り、残ったことで預金が集まった。1910年、政府が公債の引き受け手として集めた15行のうち大阪側の6行に三十四・鴻池・山口が並んだのは、この選別の結果にほかならない。商人の銀行が、国家財政の資金繰りに呼ばれる側へ移っていた。
旧幕時代からの商業都市であった大阪は、明治維新の変革に立ち遅れ、近代産業の導入による新時代への適応の道を探していた。そのために要る条件が、近代的な金融制度の確立だった。1876年の国立銀行条例改正は秩禄処分で交付された金禄公債を元手とする設立を認め、翌年から全国で設立が相次いだため、政府は1879年11月の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた。最初に動いたのは鴻池家で、1877年5月、鴻池両替店の建物を本店として、大阪で最初の国立銀行である第十三国立銀行を開いた。鴻池家が両替店を開いたのは1656年にさかのぼり、三和銀行はこの1877年5月を創業日としている。免許の門は3年ほどで閉じたのだから、大阪の商人たちは滑り込んだことになる。
三十四銀行の源流である第三十四国立銀行は、1878年3月、岡橋治助氏ら大阪財界の有力者によって創設された。出資したのは大阪の繊維関係の商人たちで、この出自がのちの融資先を決めることになる。山口家を中心に第百四十八国立銀行が設けられたのは翌1879年4月で、同家の起こりは幕末の1863年に開いた布屋両替店にあり、鴻池家と同じく両替業で積んだ財を国立銀行の元手に回している。鴻池・山口の両家が家産を出したのと違い、第三十四国立銀行を支えたのは商人たちが持ち寄った資金だった。とはいえ本店の所在はいずれも大阪で、どの行も大阪財界の求めに応じて誕生している。
全国に生まれた国立銀行の多くは、商人の銀行ではなく士族の銀行だった。条例改正が金禄公債を資本に充てることを認めたため、1876年から1879年に新設された148行の資本金のうち約8割を禄券が占め、1880年末の族籍別出資比率は華族43%、士族31%、平民26%となっている。国立銀行は禄券銀行とも士族銀行とも呼ばれた。そのなかで大阪や横浜、新潟、長崎のような商都と開港場では商人を主体とする国立銀行がつくられ、大阪の三行はその代表だった。三行は鴻池家と山口家をはじめとする大阪財界の有力者の経営にかかる銀行であり、士族授産を目的に旧藩士が設けた地方の国立銀行とは、集めた資本の性格が初めから違っていた。
国立銀行という制度には期限が付いていた。1882年の日本銀行条例制定を受けて翌1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限は開業免状の下付から20年、その間に銀行券を順次消却することと定められた。日清戦争の前後に銀行の設立が相次いだ背景には、銀行条例の施行、国立銀行の営業期限の到来、そして戦争後に企業が次々と興ったことがあった。期限を目前にした1896年から1899年の間に、普通銀行へ移った国立銀行は122行に上る。移り方は一様ではなかった。山形の第八十一国立銀行は新設の銀行へ業務を渡し、第十三国立銀行と第百四十八国立銀行はそれぞれ鴻池銀行、山口銀行へと行名を改めている。
三行が普通銀行へ移ったのは1897年から1898年にかけてである。三十四銀行は1897年に普通銀行へ改組した。同じ1897年、鴻池家は個人経営の鴻池銀行を興して第十三国立銀行の業務を継承し、翌1898年には山口家が個人経営の山口銀行を創設して第百四十八国立銀行の業務を引き継いでいる。株式組織を採らず個人経営に戻した二行は、国立銀行の看板を下ろして家業の形へ戻したことになる。近代工業の発達に応じて、国立銀行の時代には資本金が主だった銀行資金の構成は預金の比重を高めており、普通銀行への転換はその移り変わりに合わせた経営の近代化でもあった。
三行のうち三十四銀行だけは、資金の向け先が他の二行と違っていた。堅実な経営を保ちながら、中小工業に対する長期金融に着手している。大阪は紡績業を中心とする工業都市として伸びており、三行は揃ってその発展に寄与したが、繊維関係の商人が出資した三十四銀行にとって、紡績と機械の担い手は出資者の取引相手そのものだった。改組の後の三十四銀行は業績を国運の伸張とともに伸ばし、在阪に本店を置く銀行のうち屈指の地位を占めるに至る。両替商の資本から出た二行が商人の資金を預かる一方で、三十四は工業へ資金を流していた。この分業が、のちに三行を合わせたときの取引地盤の広さになった。
1896年の木綿商恐慌と1901年の金融恐慌が、大阪の弱小銀行を整理した。1897年の恐慌でも綿糸商の破綻をきっかけに取引銀行へ取り付けが起こり、波紋は大阪の第七十九銀行をはじめ諸行に及んでいる。はるかに影響が広く、打撃も強かったのは1901年である。前年末に熊本の第九銀行と熊本貯蓄銀行が支払いを停止したのが口火となり、1901年1月には横浜蚕糸銀行が破綻して東京でも4行が休業した。動揺は4月から7月にかけて大阪へ飛び火し、3月下旬の北村銀行、4月の第七十九銀行の破綻をきっかけに約20行の本支店がいっせいに取り付けを受け、支払い停止に追い込まれた銀行は大阪府で17行、全国で34行にのぼった。
中小銀行が倒れた原因は、投機的な株式投資と特定企業に偏った融資にあった。第七十九銀行は1898年に国立銀行から私立銀行へ移って資本金を20万円から100万円へ増やし、大阪天王寺や四国の琴平に支店を開いたが、頭取が伊予鉄道など4社の株を大量に買い占めて各社の社長を兼ねており、恐慌による相場の暴落で損失を抱えて解散を余儀なくされた。1904年には大阪の百三十銀行が臨時休業している。頭取松本重太郎氏が広く事業に関わって関係先へ多額の資金を回しており、密接な関係にあった日本紡織の破綻で100万円を超える損失を負い、取り付けにあって日本銀行の救済を受けた。倒れたのは、事業家が自分の資金源として使った銀行だった。
普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減りはじめ、1914年には1595行となった。取り付け騒ぎが広がるにつれて預金は大銀行へ集まり、1900年末から1901年末にかけて主要6都市の中小銀行の預金が2200万円減る一方、大銀行では1000万円増えている。政府も1901年以降は機会あるごとに銀行の合同を進め、小銀行を大銀行の支店組織に組み替える必要を説いた。1910年の公債募集では、政府が日本銀行総裁と東京・大阪の大銀行15行の首脳を集めて発行条件を協議し、国債引き受けシンジケートを結成している。大阪側の6行には住友・北浜・浪速と並んで三十四・鴻池・山口が入った。三行は普通銀行への転換で経営の近代化を進め、預金を増やして取引先を大企業へ広げていた。
三行の合同は経営の失敗から出た再建ではない。成功した三行を大阪に並べておく余地が無くなったことから出ている。1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は、住友2250万円に次いで三十四1397万5000円、浪速1125万円、山口1000万円が並び、鴻池は300万円にすぎなかった。この表に載った12行のうち近江・加島・藤田の3行は、1927年の恐慌で閉店または経営の挫折に至る。1928年の銀行法が資本金100万円、大都市なら200万円という下限を引くと、普通銀行は1926年末の1420行から1932年末の538行へ減った。生き残った三行は、同じ商都で同じ顧客を奪い合う位置に取り残された。
合同を構想したのは三行ではなく日本銀行だった。中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ一行を大阪に作る必要を考えていた。三行がそれぞれ単独で五大銀行へ届かないことは、資本金の並びからも明らかである。1932年4月に三行の首脳が合併の方向で一致し、日銀へ斡旋を依頼したのは、競争を続ける費用が合同の費用を上回ったからだろう。難関は山口家と鴻池家の新銀行における地位であり、調整には9か月が充てられた。合意の中身は、三行の資産から優良なものだけを持ち寄って新しい銀行を立てることだった。
政府は大銀行主義を掲げていた。1911年10月、大蔵省は地方長官あてに銀行合併促進の通達を出し、翌1912年春の関西銀行大会では、蔵相山本達雄氏が大銀行主義の必要とその手段としての合同促進を説き、人口10万以上の都市では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示している『今日なお不確実なる銀行そのあとを絶たず、小銀行地方に分立して小区域に競争するは時勢の要求に添わざるものあり、銀行の合併を奨励してその基礎の鞏固を図り、支店制度を拡張して有無相通ぜしむるの必要あり』。しかし実績は乏しく、1901年から1913年までに消滅した普通銀行374行のうち合同によるものは53行にとどまり、残る321行は解散と破産だった。合同に加わったのはきわめて小規模の銀行ばかりで、本格的な展開は大正後半期を待つことになる。銀行の数はむしろ増え続け、1920年末には全国で1326行・2796店舗を数えた。監督の側も手を強め、1916年には大臣官房の一課にすぎなかった銀行課を廃して銀行局を新設し、銀行条例の改正で大蔵大臣に業務停止の処分権を与えている。
第一次大戦を契機とするブームが、異常な金融の膨張をもたらした。各行は競って預金利子を引き上げ、定期預金に8分5厘という高率を支払うものさえ現れている。弊害が大きくなると銀行間の協定が求められ、1918年12月、蔵相高橋是清氏の勧奨で預金利子の協定が成立し、まず主要6都市から実行に移されて全国へ広まった。この協定は1947年10月に独占禁止法に触れるとして廃止されるまで、およそ30年にわたり金融史上の役割を果たした。大戦が終わっても貿易は惰性的に好調を保ち、通貨の膨張は衰えず物価は昂騰を続けたが、金融界はその反動を見越しておおむね警戒していた。
山口銀行が株式会社へ組織を改めたのは1917年で、以後は三十四銀行と肩を並べる有力行として大阪の財界で重んじられた。鴻池銀行も1919年にこれに続き、古くからの地盤と信用の厚さで老舗の格を保った。両行が個人経営から離れた時期は、ちょうどこの膨張の局面に重なる。ただ組織を改めても三行の規模には開きが残り、1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は住友銀行の2250万円が首位で、三十四銀行1397万5000円、浪速銀行1125万円、山口銀行1000万円、大阪野村銀行1000万円が続き、鴻池銀行は300万円にとどまった。名門としての信用の厚さと、預かる資金の量は別のものである。
1927年の金融恐慌は、大阪の老舗銀行を退出させた。近江銀行、加島銀行、藤田銀行といった先輩諸銀行が閉店あるいは経営の挫折に至っている。いずれも1918年の払込資本金では在阪12行のうちに数えられた行で、近江700万円、藤田512万5000円、加島500万円という規模を持っていた。第一次大戦後の反動期に適切な経済政策がとられなかったため、累積した矛盾がこの年の恐慌となって爆発したのである。恐慌の後、預金の一部は郵便貯金や信託へ流れたが、銀行の信用回復とともにこの異常な資金移動は止まった。1918年に払込資本金を並べた在阪12行のうち3行が、10年を経ずに市場から退出したことになる。
整理合同に拍車をかけたのは、1928年1月から施行された銀行法である。同法は銀行の資本金を最低100万円とし、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなければならないと定め、5年間でこの規格に達することを求めた。単独の増資による適格化は許されなかったため、小銀行には合同するほかに道がなかった。施行当時の普通銀行1283行のうち非適格は半数の617行にのぼり、1928年中だけで252行が淘汰されている。普通銀行の数は1926年末の1420行から1932年末には538行へ減り、一行あたりの店舗数は3.75店から10.99店へ増えた。
預金の集中は、恐慌の直接の結果だけではなかった。地方農村経済の深刻な衰微と、取り付けを経験した預金者が同じ預けるなら都市の大銀行へと傾いた心理が、吸収と併合の結果に上乗せされた。1927年末から1932年末にかけては政府の緊縮政策と金解禁が重なり、全国普通銀行の総預金は若干減少したものの、一流大銀行ではかえって増加している。三十四・山口・鴻池の三行も小銀行を併合し、住友・安田・三井・三菱などの財閥系諸銀行に次ぐ位置へ進んだ。弱小企業と銀行の整理、企業の集中と大規模化が進むなか、巨大銀行の優位は金解禁を経ていよいよ著しくなっていた。
合同の機運が高まったのは1930年から1931年ごろである。三行は生まれも育ちも大阪財界の求めに負っており、時代が進むにつれて一つにまとまることを求められていた。営業の地盤が重なる三行が競い合うのは好ましくない、との判断が合併への道を開き、基盤も条件も似通った三行が資金を持ち寄れば産業の伸長を力強く後押しできるとして、財界もこれを歓迎した。大阪の同じ商圏で同じ客を取り合う三行が並び立つこと自体が、整理すべき状態とみなされていたのである。
産婆役を務めたのは日本銀行だった。中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、この間、三行の合同によって住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月、三行の首脳部が大局的に合併の方向で意見を一致させ、日銀に斡旋を依頼したことで具体化が一歩進んだ。すでに日銀理事となっていた中根氏と下山調査役の斡旋により、準備の会合は数十回にわたって極秘裏に重ねられている。大阪の三行を合わせて五大銀行に並ぶ一行を作るという構想は、三行の側からではなく監督する側から持ち込まれたことになる。
難関とされたのは、山口家と鴻池家の運営と、新銀行における両家の地位だった。この調整には9か月の準備期間が充てられ、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた。準備の過程でもっとも問題になったのは、新銀行の引継資産を安全確実で採算上も有利なものに限ることであり、三行の資産のうち優良資産を選んで拠出する方針が採られた。1932年12月、三行の首脳者によって合併基本要綱に調印がなされ、翌1933年1月には創立準備委員会が設けられている。大阪の商人が別々に立てた三つの銀行は、55年を経て一つの銀行へ統合される道筋に入った。
1933年12月9日、三十四・山口・鴻池の三行が合同し、資本金1億720万円の三和銀行が大阪で発足した。初代頭取には、合同の斡旋にあたった日銀理事の中根貞彦氏が就任した。中根氏は日銀から下山元一氏を伴って乗り込み、後を継いだ岡野清豪氏と渡辺忠雄氏も日銀の出身だった。1934年末の第一期決算で預金は10億2500万円となり、三和は275店を持つ国内初の10億円銀行として預金量の首位に立った。経営の基本理念には、取引先・株主・行員の融合を説く「三和主義」が置かれた。山口・鴻池の両家のどちらにも属さない日銀出身者を頭取に据えたことで、三和は旧家の銀行ではなく大阪の銀行として立ち上がったとみられる。
1940年、三和は東京本部を開設し、重工業分野の取引の開拓を始めた。1937年7月からの戦時経済への移行は、大阪を地盤に軽工業中心の民需産業と結びついていた三和に不利に働いた。産業の軍需化と統制による商取引の縮小に加え、中央集権化によって官庁との連絡でも後れを取った。東京本部の設置で中央官庁との連絡は円滑になり、戦時中に立ち遅れていた重化学工業との取引の釣り合いも改善した。常務の上枝一雄氏は1953年、融資先に軍需工業を持たない三和は日華事変から太平洋戦争にかけて一時雌伏期に入ったと振り返った。東京に拠点を持たないままでは、統制経済の下で資金の流れから外れると頭取の中根貞彦氏らは判断したのだろう。
戦時金融体制の確立を趣旨に政府が銀行合同を促すなか、三和も店舗配置の適正化と経営の効率化を掲げて他行を取り込んだ。1942年以降は辻林・更池・河泉・乙訓・山城八幡・尾州の各行から営業の全部または一部を譲り受けた。1945年5月には三和信託と大同銀行を吸収合併して資本金を1億4645万円とし、信託業も兼ねた。1941年から1945年に吸収した地方銀行は9行に及び、店舗は四国・九州・東北にも広がった。三和信託の合併を機に中根氏は頭取を退き、副頭取の岡野清豪氏が2代頭取に就任した。太平洋戦争下の4年足らずで預金は2倍を超え、1945年9月末には102億円に達した。
1945年11月、三和は復興融資部を設け、中小企業の復興に向けた資金の融通を強めた。軍需中心の経済が崩れて金融機関にも民主的な運営が求められたが、民需産業を地盤としてきた三和にとって、それは本来の姿への復帰だった。当時の経済は生産力が極端に落ち、悪性のインフレが広がっていた。1946年8月以降は旧勘定から切り離した新勘定をどう伸ばすかが再建の鍵となり、救国貯蓄運動を機に預金が増え始めた。上枝一雄氏は1953年、平和産業の復活とともに三和の預金は急上昇し、市中銀行で3位を保ってきたと語った。戦時に軍需の取引先を持たなかった不利が、敗戦後は整理すべき貸出の少なさとして効いたと推察される。
1947年2月、岡野清豪頭取が戦時中から在職の役員全員とともに退き、専務の渡辺忠雄氏が頭取に就任した。渡辺氏は日銀の出身で、中根・岡野両氏の強い懇請を受けて戦後すぐ三和に入っていた。三和は発足以来一部門に集中しない取引を続けてきたため、集中排除法の適用を受けず、再建を滞りなく進められた。1948年10月には金融機関再建整備法に基づく整備計画を終え、資本金10億円で新たに発足した。預金は1945年9月末の102億円から1949年3月末の406億円へ、約4倍に増えた。渡辺氏は、金持ちだけを回るやり方では預金が集まらないとして「ピープルズ・バンク」を経営の方針に掲げた。
1949年11月、三和は甲種外国為替銀行の指定を受け、欧米の有力銀行とのコルレス契約を進めた。三和の外国為替業務は旧行時代の1910年に始まり、台湾・朝鮮の支店や満州・中国の出張所を持っていたが、これらの外地拠点は敗戦で一挙に失われた。1953年1月、三和は初の海外支店としてサンフランシスコ支店を開設し、同年8月には台北駐在事務所を置いた。常務の上枝一雄氏は同年、この支店は為替手数料が主な収入で、政府の外貨預託もあるため現地の預金が無くても成り立つと説明した。上枝氏は、日本から最も近い米国西部の発展を見込んで支店を出したとも語った。外地の拠点を失った後の貿易金融を、米国側に窓口を置くことから組み直そうとしたものと思われる。
1959年、三和は兼営してきた信託部門を切り離し、神戸銀行・野村証券とともに東洋信託銀行を設けた。発端は野村證券が1954年1月に大蔵省へ出した証券信託銀行の構想で、同年6月に蔵相が銀行の新設を認めない方針を示し、単独設立の道は閉ざされた。大蔵省は非公式に、信託を併営する2行の信託部門と組むよう野村に促した。信託併営の利点を最も享受していた大和銀行が応じない一方、三和と神戸との折衝は順調に進み、1959年9月に三者の首脳が覚書に調印した。新銀行の資本金は25億円で、三和の信託業務の営業譲渡は1963年4月に済んだ。長期金融と短期の商業金融を分け、それぞれを専業とする体制がこれで整った。
1960年、上枝一雄氏が渡辺忠雄氏の後を継いで頭取に就任した。三和の預金は1953年の時点で富士・三菱に次ぐ市中3位で、上枝氏は東京では東京系の大銀行を凌げないとみていた。1960年8月1日、三和は京阪神・奈良・和歌山の108店のどこからでも引き出せるネット・サービス預金を始めた。上枝氏は続く消費者金融の狙いの一つに、メーカーや商社だけに貸す従来のやり方への疑問を挙げた。二つ目の狙いは新たな得意先の獲得で、上枝氏は『われわれのような性格の銀行はやはり新たな貯蓄層を探して行かにやいけない』と語った。上位2行と同じ大企業の取引を追うより、個人の預金と貸出に差を詰める余地を見たと考えられる。
1967年、上枝頭取はピープルズ・バンクの意味を、庶民や中小企業に限らず業種と階層を問わない銀行だと定め直した。当時の三和は中小企業向け貸出の比率が最も高く、ファミリーチェックや各種の消費者金融、リースを手がけていた。1970年の対談で上枝氏は国際化に対処した大衆化路線を掲げ、この2、3年で個人の貯蓄の考え方が大きく変わったとの見方を示した。頭取の村野辰雄氏のもと、三和は有力都市銀行に先がけて消費者金融部を設け、住宅ローンに注力した。1972年9月の時点で消費者ローンは総貸出の約2%で、1975年に5%へ高める目標だった。村野氏は企業中心のモルガン流と大衆中心のバンク・オブ・アメリカ流を比べ、『ウチは後者を決断した。新設部はその姿勢を表わしたもの』と語った。
三和銀行は1972年8月、住宅ローンの相談から抵当の設定、貸し出しまでを女性行員が受け持つ「ローンレディー」を置いた。石油危機を境に企業は設備投資の資金を手元資金や直接金融で調えるようになり、銀行は借り手を個人や中小企業へ移さざるを得なくなった。1975年には専務の村井七郎氏が、大企業・中小企業とあわせて個人を重んじる庶民性を長期計画の基盤に据えると打ち出した。住宅ローンに回すよう大蔵省が求めた比率は融資総額の14〜15%だったが、三和は同年7〜9月期にそれを上回る20%を目標とした。ローンレディーも8月の時点で約80人に達し、212ある支店のほぼ3店に1人の割合で配された。企業向けの貸出が先細るなか、個人の住宅資金を新たな貸出先として育てる狙いがあったとみられる。
1976年4月、副頭取の赤司俊雄氏が頭取に昇格した。1933年に三和銀行が発足してから43年目で、行内から育った初めての頭取だった。前頭取の村野辰雄氏は、企業集団を背に持たない三和の立場を『ウチはバックに何もありません。』と言い表し、消費者金融部を他行に先駆けて置くなど個人取引を広げてきた。赤司氏は就任の記者会見でピープルズバンクを目指すと述べ、他行も同じだと返されて「ひと味違う」と言い足したという。強大な企業グループを持たない三和には、この方針のほかに生き残る手立てはないという認識だった。外から来た頭取の下で築かれた大衆化の方針は、生え抜きの頭取に渡ったことで行内の路線として固まったとみられる。
「ひと味違うピープルズバンク」は、1978年3月に金融界で最初に売り出したサンワ・クローバーカード・ローンで商品の形をとった。カード1枚で50万円まで無担保・無保証で借りられ、1979年11月時点で融資件数は10万件に達した。発売の半年前には会社員1000人に借入の実情を尋ね、使い道を縛らない品ぞろえと返済方法の選択に生かした。1979年には個人客22万人への調査に4000万円を投じ、全国内支店で来店客の満足度も集めた。1980年の年頭、赤司氏は品質管理のクローバーサークル活動を「三和らしさ」の原点と位置づけ、顧客本位を行員に求めた。商品も金利も揃いやすい都市銀行の間で、三和は客を調べてから売る手順を差の源にしたと推察される。
1976年10月時点で、三和銀行の海外拠点は7支店を含む18カ国46拠点で、米シティコープの101カ国684拠点とは桁が違った。海外部門の収益への寄与は1975年度下期にようやく16%となり、利益の70%を海外で得るシティコープに遠く届かなかった。同じ1976年2月には米小売のW・T・グラントの破産で、2000万ドルの融資の多くが焦げ付いた。1970年に4支店と1駐在員事務所だった海外網は、大衆化と並べて国際化を掲げたことで6年のうちに広がった。それでも1979年の三和は国内220店に対して海外は9店で、頭取の赤司俊雄氏には海外勤務の経験がなかった。国際企画部長の巽啓吾氏は、非財閥系の三和は個人取引を国際化の軸とし、中小企業の進出が多い東南アジアを重んじるという方針を示した。
1982年6月、ロンドン支店長を2度務め国際本部長を経た副頭取の川勝堅二氏が、生え抜きで2人目の頭取に就任した。川勝氏の頭取在任中の1986年8月、米国子会社の加州三和銀行がカリフォルニア州のロイズ銀行を買収した。買収前の総資産は加州三和の16億ドルに対してロイズが30億ドルで、統合後は50億ドルに達した。個人預金が全預金の7割を占めるロイズを加え、コストの低い資金を調達する力を得る狙いだった。1991年に予定された米国の州際業務の解禁に備え、先に規模を積む判断でもあった。国内で磨いた個人取引を海外でも軸に置くという方針が、買収先の選び方に表れたと考えられる。
三和銀行は1987年4月、1990年3月までの3年間の中期経営計画「ユニバーサルプロジェクト90」を始めた。最新かつ最強の世界的なユニバーサルバンクを経営目標に掲げ、あわせて収益で首位の銀行を目指すと内外に宣言した。1988年2月には資本市場本部と情報開発本部を新設し、7本部29部を10本部37部に改めた。計画の取りまとめを中心で担った副頭取の渡辺滉氏は、1988年6月に頭取に就任した。三和は資金量で上位都銀の5位にとどまる一方、営業利益は4位につけていた。金利の自由化で調達と運用の巧拙が利益を分ける局面は、規模で劣る三和には順位を入れ替える機会に映ったのではないか。
頭取の渡辺滉氏の下、1990年3月時点で三和銀行の業務純益の順位は前年の5位から2位に上がった。大企業取引の層が薄い三和は中堅企業に私募債の発行を持ちかけ、1991年2月時点で代表受託件数の首位を半期ごとに9期続けていた。受託した約350社のうち2割では、私募債をきっかけに三和の取引順位が上がった。首都圏の店舗網の見劣りは駅前に置く無人店舗で補い、1993年3月末には有人353店と無人653店で計1006店に達した。1993年3月期、三和は業務純益・経常利益・当期利益の3部門で都市銀行の首位に立った。預金の規模では財閥系に届かない三和が、中堅企業と身近な店舗に絞って利益の物差しで競ったことが首位を支えたと思われる。
架空の預金証書3655億円分を残した東洋信用金庫の処理で、大蔵省は1992年初め、三和銀行による救済合併のほかに道はないとする姿勢をとった。証書を担保にノンバンクが尾上縫被告へ貸した債権が約2200億円に上り、地方銀行や信用金庫との合併では処理できない額とみたためだった。頭取の渡辺滉氏は、利点のない合併は株主に説明できないとして要請を拒み続けた。三和の役員も、大蔵省が初めから合併という枠をはめてきたとして不満を示した。それでも三和は1992年10月1日に東洋信用金庫を合併し、出資1.5口に三和株1株を割り当てた。株主への説明を盾に負担の分け方を詰めたうえで、信用秩序の維持を引き受けたと推測される。
1999年6月、国際畑の室町鐘緒氏が頭取に就任し、さくら銀行との合併を探ったという。さくら銀行が住友銀行を選び、親密な損保の3社統合も2000年2月に崩れて、三和は単独では規模が足りない現実に直面した。東京三菱銀行と組めば主導権を握られるため、三和は2000年3月14日、東海銀行とあさひ銀行の連合への合流を発表した。室町氏は統合後も『我々はミドル・リテールのナンバーワンブランドを狙います。』として、中堅企業と個人の取引を軸に据えた。同年7月11日には三和・東海・東洋信託銀行の3行として、2005年度に連結業務純益1兆円を出す目標を公表した。収益で首位に立った三和も、主導権を保てる相手を選んで統合に進むほかなかったようだ。
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事実根拠:出所(三和銀行)