1673年〜 呉服商の為替を内製化し、私立銀行第一号から帝国銀行の分割まで
- 1673年 三井銀行創業——三井高利氏の越後屋「現銀掛値なし」から1876年の私立銀行第一号・三井銀行へ 伊勢松坂の商家に育った三井高利氏は、1673年の越後屋の新商法で得た資金力を、どのように両替商から近代銀行へと転じたか
- 1683年 隣接地に三井両替店を開業
- 1868年 三井組が明治政府の会計局御為替方(官金取扱)を命ぜられ、官金の出納を引き受けた
- 1876年 私盟会社三井銀行として開業
- 1909年 株式会社三井銀行に改組
- 1943年 第一銀行との対等合併により帝国銀行が発足
- 1948年 帝国銀行が第一銀行系の営業を分割譲渡して解散
三都間の決済を内製化した三井両替店
1673年、三井高利氏は江戸本町一丁目に間口9尺の店を借りて越後屋呉服店を開き[1]、同時に京都室町へ仕入店を置いた。正札の現金決済による「現銀掛値なし」、店頭で待って売る「店前売り」、反物を必要な丈だけ切って売る「小切売り」[2]の商法をとり、町人層の小口需要を取り込んだ。京都と大坂で仕入れた反物の代金を江戸の売上から決済する遠隔地の資金移動が日常となったため、1683年5月、越後屋の駿河町移転に合わせて高利氏はその隣に三井両替店を開き[3]、銀貨と金貨の両替、両替手形の振出、遠隔地の為替を自ら担った。1691年には幕府御用為替の請負を許され[4]、大坂で徴収した年貢代金を江戸へ送る公金為替を扱った。
- 三井銀行八十年史
- [1]1673年 三井高利氏が江戸本町一丁目で越後屋呉服店を開業
- [2]越後屋の商法 現銀掛値なし・店前売り・小切売り
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [3]1683年5月 越後屋の駿河町移転に合わせて三井両替店を開業
- 三井文庫『三井両替店史』
- [4]1691年 幕府御用為替の請負を許可・大坂の年貢代金を江戸へ送る公金為替
明治維新にあたり三井組は資産をあげて新政府の国費調達に応じ、明治元年に会計局御為替方、1871年に新貨幣為換座御用を申し渡され[5]て官金の出納を引き受けた。1871年から1872年にかけては大蔵省正金兌換証券680万円と開拓使正金兌換証券250万円の委託発行[6]を担い、三井札と呼ばれた紙幣を出して中央銀行に近い業務まで扱った。1871年7月には三井組バンクの創立許可を得て東京海運橋畔に三井組ハウスを着工した[7]が、政府が国立銀行制度の採用へ方針を変えたため計画は止まった。1873年6月、三井組は小野組との共同出資で第一国立銀行を設立し[8]、建設中の三井組ハウスをこれに譲った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [5]明治元年 会計局御為替方・1871年 新貨幣為換座御用
- [6]大蔵省正金兌換証券680万円・開拓使正金兌換証券250万円の委託発行
- [7]1871年7月 三井組バンクの創立許可・国立銀行制度への方針転換で中止
- [8]1873年6月 小野組との共同出資で第一国立銀行を設立
- 三井銀行八十年史
- [1]1673年 三井高利氏が江戸本町一丁目で越後屋呉服店を開業
- [2]越後屋の商法 現銀掛値なし・店前売り・小切売り
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [3]1683年5月 越後屋の駿河町移転に合わせて三井両替店を開業
- [5]明治元年 会計局御為替方・1871年 新貨幣為換座御用
- [6]大蔵省正金兌換証券680万円・開拓使正金兌換証券250万円の委託発行
- [7]1871年7月 三井組バンクの創立許可・国立銀行制度への方針転換で中止
- [8]1873年6月 小野組との共同出資で第一国立銀行を設立
- 三井文庫『三井両替店史』
- [4]1691年 幕府御用為替の請負を許可・大坂の年貢代金を江戸へ送る公金為替
国立銀行条例の外で許された私立銀行第一号
1874年5月、三井組は駿河町の両替店を拡張して為換バンク三井組として開業し、1876年3月に私盟会社三井銀行の設立認可を得た[9]。同年7月1日、資本金200万円、営業店30か所で開業した[10]。国立銀行条例によらず銀行を名乗ることを許されたのはこの三井銀行が最初[11]で、政府は明治維新以来の軍資金の調達・献金・紙幣発行の功績を理由に例外を認めた。ただし有限責任の株式組織は認められず、無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件[12]となった。開業時の業務は官金出納、為替、荷為替、貸付、預り金、両替、地金銀売買[13]にわたる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [9]1874年5月 為換バンク三井組として開業/1876年3月 私盟会社三井銀行の設立認可
- [13]開業時の業務 官金出納・為替・荷為替・貸付・預り金・両替・地金銀売買
- 三井銀行八十年史
- [10]1876年7月1日 資本金200万円・営業店30か所で開業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」
- [11]国立銀行条例によらず銀行を名乗った最初の私立銀行
- [12]無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件
開業後の三井銀行は三井の事業全体へ資金を供給する機関銀行と採算で貸す商業銀行との間で揺れ、1891年に井上馨氏の推薦で入行した中上川彦次郎氏は不良貸金の整理を通じて前橋紡績所や芝浦製作所を三井の傘下に収め[14]、産業資本本位の機構を組んだ。1901年に中上川氏が没すると、三井家同族会管理部理事の益田孝氏は採算本位の商業銀行へ戻す方針を立て[15]、有価証券と不動産の処分を進めた。1893年7月に合名会社、1909年10月に資本金2000万円の株式会社へ改組し[16]、同時に倉庫業務を東神倉庫として分離した。1911年には担保付社債信託業を兼営し、1913年から外国為替業務へ進出して[17]上海・ロンドン・ボンベイ・スラバヤ・大連へ支店を置いた。ニューヨーク支店の開設は1922年3月で[18]、戦前の日本の為替銀行のなかでは最も遅い進出だった。
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
- [14]中上川彦次郎氏 不良貸金の整理で前橋紡績所・芝浦製作所を傘下化
- [15]益田孝氏 採算本位の商業銀行へ戻す方針・有価証券と不動産の処分
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [16]1893年7月 合名会社・1909年10月 資本金2000万円の株式会社へ改組・東神倉庫を分離
- [17]1911年 担保付社債信託業の兼営・1913年 外国為替業務へ進出
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [18]1922年3月 ニューヨーク支店開設(戦前の日本の為替銀行で最後発)
1933年7月に資本金を1億円へ増やし、五大銀行の一つとして昭和初期の電力外債募集の大部分を受託[19]した。安田・第一・三井・三菱・住友の五大銀行が全国預金に占める比率は、1919年の25%から1931年に38%へ上がった[20]。同じころ、のちの合併相手にあたる二つの銀行が別々に生まれ、1936年12月、一県一行主義を掲げる政府方針に応じて兵庫県の三十八・神戸岡崎・五十六・西宮・灘商業・姫路・高砂の七行が合併し、資本金2253万1600円・135か店の神戸銀行が設立された[21]。1940年12月には東京都の無尽会社を統合する母体として資本金100万円の大日本無盡が設立され[22]、これが日本無盡、日本相互銀行を経て太陽銀行へ変わった。政府が主導した集約は、1920年に1300行あった銀行を1930年に782行へ、普通銀行の数を終戦時に61行まで絞り込んだ[23]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [19]1933年7月 資本金1億円へ増資・昭和初期の電力外債募集の大部分を受託
- [20]五大銀行の全国預金比率 1919年25%→1931年38%
- [23]銀行数 1920年1300行→1930年782行・普通銀行は終戦時61行
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「神戸銀行」
- [21]1936年12月 兵庫県の七行合併で神戸銀行設立(資本金2253万1600円・135か店)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本相互銀行」
- [22]1940年12月 資本金100万円の大日本無盡設立・のちの太陽銀行
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [9]1874年5月 為換バンク三井組として開業/1876年3月 私盟会社三井銀行の設立認可
- [13]開業時の業務 官金出納・為替・荷為替・貸付・預り金・両替・地金銀売買
- [16]1893年7月 合名会社・1909年10月 資本金2000万円の株式会社へ改組・東神倉庫を分離
- [17]1911年 担保付社債信託業の兼営・1913年 外国為替業務へ進出
- [19]1933年7月 資本金1億円へ増資・昭和初期の電力外債募集の大部分を受託
- [20]五大銀行の全国預金比率 1919年25%→1931年38%
- [23]銀行数 1920年1300行→1930年782行・普通銀行は終戦時61行
- 三井銀行八十年史
- [10]1876年7月1日 資本金200万円・営業店30か所で開業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」
- [11]国立銀行条例によらず銀行を名乗った最初の私立銀行
- [12]無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
- [14]中上川彦次郎氏 不良貸金の整理で前橋紡績所・芝浦製作所を傘下化
- [15]益田孝氏 採算本位の商業銀行へ戻す方針・有価証券と不動産の処分
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [18]1922年3月 ニューヨーク支店開設(戦前の日本の為替銀行で最後発)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「神戸銀行」
- [21]1936年12月 兵庫県の七行合併で神戸銀行設立(資本金2253万1600円・135か店)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本相互銀行」
- [22]1940年12月 資本金100万円の大日本無盡設立・のちの太陽銀行
帝国銀行の5年と、自ら申し出た分割
1943年4月、国家的要請により三井銀行は第一銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した[24]。本店は旧第一銀行本店に置かれ、会長には明石照男氏が就き、当時わが国最大の普通銀行となった[25]。翌1944年8月には十五銀行を合併して資本金2億2000万円となった[26]。規模の大きさはそのまま取引先の重なりを意味し、弱電機では日立製作所と東京芝浦電気の両方を、紡績では十大紡のうち三社を主取引先として抱えた[27]。のちに頭取を務めた佐藤喜一郎氏は「両社が合併してできた帝国銀行は、日本の産業界のほぼ四分の一という取り引き先を背負っていた[28]といえるだろう」と書き残している。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [24]1943年4月 三井銀行と第一銀行の対等合併で資本金2億円の帝国銀行が発足
- [25]会長に明石照男氏・当時わが国最大の普通銀行
- [26]1944年8月 十五銀行を合併し資本金2億2000万円
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [27]弱電機で日立製作所と東京芝浦電気・紡績で十大紡三社が主取引先
- [28]佐藤喜一郎氏 帝国銀行は産業界のほぼ四分の一の取引先を抱えたとの回想
1948年1月、帝国銀行は旧第一銀行系と旧三井・十五銀行系の二行へ自主的に分離することを決めた[29]。同年9月に営業を新両行へ分割譲渡して解散し、10月に第一銀行が資本金10億2000万円、旧三井・十五系が資本金9億5000万円で新発足した[30]。財閥解体では帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定された[31]が、銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出ており、分割されたのは帝国銀行だけだった[32]。佐藤喜一郎氏は理由に第一銀行出身者が元へ戻ることを熱望していたこと[33]と、「帝国銀行の取り引き層の間口が広く、やがて起こってくるであろう戦後の膨大な資金需要に応じ切れない[34]」ことの二つを挙げた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [29]1948年1月 旧第一系と旧三井・十五系への自主分離を決定
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「第一銀行」
- [30]1948年10月 第一銀行 資本金10億2000万円・旧三井十五系 資本金9億5000万円で新発足
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- [31]財閥解体で帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定
- [32]1948年7月 銀行は分割不要との決定・分割されたのは帝国銀行のみ
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [33]佐藤喜一郎氏 分割理由に第一銀行出身者の復帰希望
- [34]佐藤喜一郎氏 取引層の間口の広さで戦後の資金需要に応じ切れないとの判断
第三の理由は集中排除法の適用を否定する観測で、佐藤喜一郎氏は「それなら帝銀だけでも自ら分割を買って出れば、他の銀行に類を及ぼさなくてすむかもしれない[35]」と書いた。分割にあたっては商号も難題となり、佐藤氏は「GHQが第一はいいが三井は使ってはいけないと言い出したので非常に困った。やむなく私の方は帝国銀行の名を使うことでやっと司令部を承諾させた」と述べている。財閥系の銀行はいずれも旧称を使えず、三菱は千代田、住友は大阪、安田は富士、野村は大和へ改称した[37]。旧三井系だけが合同時代の商号をそのまま名乗り、1954年1月に三井銀行の商号へ戻った[38]。 [36]
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [35]佐藤喜一郎氏 帝銀が自ら分割を申し出れば他行に累が及ばないとの判断
- [36]GHQが「三井」の商号使用を認めず帝国銀行の名を使い続けた
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- [37]三菱は千代田・住友は大阪・安田は富士・野村は大和へ改称
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [38]1954年1月 商号を三井銀行へ戻した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
- [24]1943年4月 三井銀行と第一銀行の対等合併で資本金2億円の帝国銀行が発足
- [25]会長に明石照男氏・当時わが国最大の普通銀行
- [26]1944年8月 十五銀行を合併し資本金2億2000万円
- [29]1948年1月 旧第一系と旧三井・十五系への自主分離を決定
- [38]1954年1月 商号を三井銀行へ戻した
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
- [27]弱電機で日立製作所と東京芝浦電気・紡績で十大紡三社が主取引先
- [28]佐藤喜一郎氏 帝国銀行は産業界のほぼ四分の一の取引先を抱えたとの回想
- [33]佐藤喜一郎氏 分割理由に第一銀行出身者の復帰希望
- [34]佐藤喜一郎氏 取引層の間口の広さで戦後の資金需要に応じ切れないとの判断
- [35]佐藤喜一郎氏 帝銀が自ら分割を申し出れば他行に累が及ばないとの判断
- [36]GHQが「三井」の商号使用を認めず帝国銀行の名を使い続けた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「第一銀行」
- [30]1948年10月 第一銀行 資本金10億2000万円・旧三井十五系 資本金9億5000万円で新発足
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- [31]財閥解体で帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定
- [32]1948年7月 銀行は分割不要との決定・分割されたのは帝国銀行のみ
- [37]三菱は千代田・住友は大阪・安田は富士・野村は大和へ改称