さくら銀行 の歴史

前身・三井銀行と太陽神戸銀行の合併

創業

1673年

創業者

三井高利

創業地

江戸本町一丁目(現東京都中央区日本橋本町一丁目)

Q なぜ1876年に、三井は国立銀行条例によらない私立銀行第一号として三井銀行を設立できたのか
A 三井組は1871年に自前の銀行の許可を得ながら、政府が国立銀行制度へ方針を変えたため計画を止め、1873年には小野組と第一国立銀行を設立して建物まで譲っている。それでも単独設立を諦めず、1876年3月に認可を得た。『会社銀行八十年史』は「三井は明治維新以来、明治政府に対する軍資金の調達、献金、紙幣発行などの点で多大の功績をあげているので、とくに三井銀行の設立は許可されることになつた」と記す。ただし条件として無限責任を示す「私盟」の語を冠し、資本金200万円・営業店30か所で開業した
Q なぜ1948年に、帝国銀行は命じられていない分割を自ら申し出たのか
A 財閥解体では銀行も分割を免れないと見られていたが、分割の必要がないという決定が1948年7月に出ており、命令はなかった。それでも帝国銀行は同年1月に自主分離を決めている。頭取の佐藤喜一郎氏は理由を三つ挙げた。第一銀行出身者が復帰を熱望していたこと、取引層の間口が広すぎて戦後の資金需要に応じ切れないこと、そして集中排除法の適用観測に対し「それなら帝銀だけでも自ら分割を買って出れば、他の銀行に類を及ぼさなくてすむかもしれない」と考えたことであった。銀行で分割されたのは帝国銀行だけとなった
Q なぜ1998年に、さくら銀行は公的資金より先に三井グループへ増資を求めたのか
A 1998年3月期に約1兆2000億円の不良債権を処理して2200億円の純損失を計上し、社員寮と保養所を売った2600億円の売却益も使い切って、自力の含み益は尽きていた。8月28日には株価が220円まで下がり、株式の含み損は3890億円に達している。頭取の岡田明重氏は8月31日、三井グループ各社へ総額約3000億円の増資引き受けを要請したと発表し、格付けをトリプルBからシングルAへ引き上げたいと述べた。12月に約3450億円が払い込まれたが、翌1999年3月には公的資金8000億円の注入も受けている。

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1673年〜 呉服商の為替を内製化し、私立銀行第一号から帝国銀行の分割まで

  1. 1673年 三井銀行創業——三井高利氏の越後屋「現銀掛値なし」から1876年の私立銀行第一号・三井銀行へ 伊勢松坂の商家に育った三井高利氏は、1673年の越後屋の新商法で得た資金力を、どのように両替商から近代銀行へと転じたか
  2. 1683年 隣接地に三井両替店を開業
  3. 1868年 三井組が明治政府の会計局御為替方(官金取扱)を命ぜられ、官金の出納を引き受けた
  4. 1876年 私盟会社三井銀行として開業
  5. 1909年 株式会社三井銀行に改組
  6. 1943年 第一銀行との対等合併により帝国銀行が発足
  7. 1948年 帝国銀行が第一銀行系の営業を分割譲渡して解散

三都間の決済を内製化した三井両替店

1673年、三井高利氏は江戸本町一丁目に間口9尺の店を借りて越後屋呉服店を開き[1]、同時に京都室町へ仕入店を置いた。正札の現金決済による「現銀掛値なし」、店頭で待って売る「店前売り」、反物を必要な丈だけ切って売る「小切売り」[2]の商法をとり、町人層の小口需要を取り込んだ。京都と大坂で仕入れた反物の代金を江戸の売上から決済する遠隔地の資金移動が日常となったため、1683年5月、越後屋の駿河町移転に合わせて高利氏はその隣に三井両替店を開き[3]、銀貨と金貨の両替、両替手形の振出、遠隔地の為替を自ら担った。1691年には幕府御用為替の請負を許され[4]、大坂で徴収した年貢代金を江戸へ送る公金為替を扱った。

  • 三井銀行八十年史
    • [1]1673年 三井高利氏が江戸本町一丁目で越後屋呉服店を開業
    • [2]越後屋の商法 現銀掛値なし・店前売り・小切売り
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [3]1683年5月 越後屋の駿河町移転に合わせて三井両替店を開業
  • 三井文庫『三井両替店史』
    • [4]1691年 幕府御用為替の請負を許可・大坂の年貢代金を江戸へ送る公金為替

明治維新にあたり三井組は資産をあげて新政府の国費調達に応じ、明治元年に会計局御為替方、1871年に新貨幣為換座御用を申し渡され[5]て官金の出納を引き受けた。1871年から1872年にかけては大蔵省正金兌換証券680万円と開拓使正金兌換証券250万円の委託発行[6]を担い、三井札と呼ばれた紙幣を出して中央銀行に近い業務まで扱った。1871年7月には三井組バンクの創立許可を得て東京海運橋畔に三井組ハウスを着工した[7]が、政府が国立銀行制度の採用へ方針を変えたため計画は止まった。1873年6月、三井組は小野組との共同出資で第一国立銀行を設立し[8]、建設中の三井組ハウスをこれに譲った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [5]明治元年 会計局御為替方・1871年 新貨幣為換座御用
    • [6]大蔵省正金兌換証券680万円・開拓使正金兌換証券250万円の委託発行
    • [7]1871年7月 三井組バンクの創立許可・国立銀行制度への方針転換で中止
    • [8]1873年6月 小野組との共同出資で第一国立銀行を設立
  • 三井銀行八十年史
    • [1]1673年 三井高利氏が江戸本町一丁目で越後屋呉服店を開業
    • [2]越後屋の商法 現銀掛値なし・店前売り・小切売り
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [3]1683年5月 越後屋の駿河町移転に合わせて三井両替店を開業
    • [5]明治元年 会計局御為替方・1871年 新貨幣為換座御用
    • [6]大蔵省正金兌換証券680万円・開拓使正金兌換証券250万円の委託発行
    • [7]1871年7月 三井組バンクの創立許可・国立銀行制度への方針転換で中止
    • [8]1873年6月 小野組との共同出資で第一国立銀行を設立
  • 三井文庫『三井両替店史』
    • [4]1691年 幕府御用為替の請負を許可・大坂の年貢代金を江戸へ送る公金為替

国立銀行条例の外で許された私立銀行第一号

1874年5月、三井組は駿河町の両替店を拡張して為換バンク三井組として開業し、1876年3月に私盟会社三井銀行の設立認可を得た[9]。同年7月1日、資本金200万円、営業店30か所で開業した[10]。国立銀行条例によらず銀行を名乗ることを許されたのはこの三井銀行が最初[11]で、政府は明治維新以来の軍資金の調達・献金・紙幣発行の功績を理由に例外を認めた。ただし有限責任の株式組織は認められず、無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件[12]となった。開業時の業務は官金出納、為替、荷為替、貸付、預り金、両替、地金銀売買[13]にわたる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [9]1874年5月 為換バンク三井組として開業/1876年3月 私盟会社三井銀行の設立認可
    • [13]開業時の業務 官金出納・為替・荷為替・貸付・預り金・両替・地金銀売買
  • 三井銀行八十年史
    • [10]1876年7月1日 資本金200万円・営業店30か所で開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」
    • [11]国立銀行条例によらず銀行を名乗った最初の私立銀行
    • [12]無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件

開業後の三井銀行は三井の事業全体へ資金を供給する機関銀行と採算で貸す商業銀行との間で揺れ、1891年に井上馨氏の推薦で入行した中上川彦次郎氏は不良貸金の整理を通じて前橋紡績所や芝浦製作所を三井の傘下に収め[14]、産業資本本位の機構を組んだ。1901年に中上川氏が没すると、三井家同族会管理部理事の益田孝氏は採算本位の商業銀行へ戻す方針を立て[15]、有価証券と不動産の処分を進めた。1893年7月に合名会社、1909年10月に資本金2000万円の株式会社へ改組し[16]、同時に倉庫業務を東神倉庫として分離した。1911年には担保付社債信託業を兼営し、1913年から外国為替業務へ進出して[17]上海・ロンドン・ボンベイ・スラバヤ・大連へ支店を置いた。ニューヨーク支店の開設は1922年3月で[18]、戦前の日本の為替銀行のなかでは最も遅い進出だった。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
    • [14]中上川彦次郎氏 不良貸金の整理で前橋紡績所・芝浦製作所を傘下化
    • [15]益田孝氏 採算本位の商業銀行へ戻す方針・有価証券と不動産の処分
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [16]1893年7月 合名会社・1909年10月 資本金2000万円の株式会社へ改組・東神倉庫を分離
    • [17]1911年 担保付社債信託業の兼営・1913年 外国為替業務へ進出
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [18]1922年3月 ニューヨーク支店開設(戦前の日本の為替銀行で最後発)

1933年7月に資本金を1億円へ増やし、五大銀行の一つとして昭和初期の電力外債募集の大部分を受託[19]した。安田・第一・三井・三菱・住友の五大銀行が全国預金に占める比率は、1919年の25%から1931年に38%へ上がった[20]。同じころ、のちの合併相手にあたる二つの銀行が別々に生まれ、1936年12月、一県一行主義を掲げる政府方針に応じて兵庫県の三十八・神戸岡崎・五十六・西宮・灘商業・姫路・高砂の七行が合併し、資本金2253万1600円・135か店の神戸銀行が設立された[21]。1940年12月には東京都の無尽会社を統合する母体として資本金100万円の大日本無盡が設立され[22]、これが日本無盡、日本相互銀行を経て太陽銀行へ変わった。政府が主導した集約は、1920年に1300行あった銀行を1930年に782行へ、普通銀行の数を終戦時に61行まで絞り込んだ[23]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [19]1933年7月 資本金1億円へ増資・昭和初期の電力外債募集の大部分を受託
    • [20]五大銀行の全国預金比率 1919年25%→1931年38%
    • [23]銀行数 1920年1300行→1930年782行・普通銀行は終戦時61行
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「神戸銀行」
    • [21]1936年12月 兵庫県の七行合併で神戸銀行設立(資本金2253万1600円・135か店)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本相互銀行」
    • [22]1940年12月 資本金100万円の大日本無盡設立・のちの太陽銀行
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [9]1874年5月 為換バンク三井組として開業/1876年3月 私盟会社三井銀行の設立認可
    • [13]開業時の業務 官金出納・為替・荷為替・貸付・預り金・両替・地金銀売買
    • [16]1893年7月 合名会社・1909年10月 資本金2000万円の株式会社へ改組・東神倉庫を分離
    • [17]1911年 担保付社債信託業の兼営・1913年 外国為替業務へ進出
    • [19]1933年7月 資本金1億円へ増資・昭和初期の電力外債募集の大部分を受託
    • [20]五大銀行の全国預金比率 1919年25%→1931年38%
    • [23]銀行数 1920年1300行→1930年782行・普通銀行は終戦時61行
  • 三井銀行八十年史
    • [10]1876年7月1日 資本金200万円・営業店30か所で開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」
    • [11]国立銀行条例によらず銀行を名乗った最初の私立銀行
    • [12]無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
    • [14]中上川彦次郎氏 不良貸金の整理で前橋紡績所・芝浦製作所を傘下化
    • [15]益田孝氏 採算本位の商業銀行へ戻す方針・有価証券と不動産の処分
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [18]1922年3月 ニューヨーク支店開設(戦前の日本の為替銀行で最後発)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「神戸銀行」
    • [21]1936年12月 兵庫県の七行合併で神戸銀行設立(資本金2253万1600円・135か店)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本相互銀行」
    • [22]1940年12月 資本金100万円の大日本無盡設立・のちの太陽銀行

帝国銀行の5年と、自ら申し出た分割

1943年4月、国家的要請により三井銀行は第一銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した[24]。本店は旧第一銀行本店に置かれ、会長には明石照男氏が就き、当時わが国最大の普通銀行となった[25]。翌1944年8月には十五銀行を合併して資本金2億2000万円となった[26]。規模の大きさはそのまま取引先の重なりを意味し、弱電機では日立製作所と東京芝浦電気の両方を、紡績では十大紡のうち三社を主取引先として抱えた[27]。のちに頭取を務めた佐藤喜一郎氏は「両社が合併してできた帝国銀行は、日本の産業界のほぼ四分の一という取り引き先を背負っていた[28]といえるだろう」と書き残している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [24]1943年4月 三井銀行と第一銀行の対等合併で資本金2億円の帝国銀行が発足
    • [25]会長に明石照男氏・当時わが国最大の普通銀行
    • [26]1944年8月 十五銀行を合併し資本金2億2000万円
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [27]弱電機で日立製作所と東京芝浦電気・紡績で十大紡三社が主取引先
    • [28]佐藤喜一郎氏 帝国銀行は産業界のほぼ四分の一の取引先を抱えたとの回想

1948年1月、帝国銀行は旧第一銀行系と旧三井・十五銀行系の二行へ自主的に分離することを決めた[29]。同年9月に営業を新両行へ分割譲渡して解散し、10月に第一銀行が資本金10億2000万円、旧三井・十五系が資本金9億5000万円で新発足した[30]。財閥解体では帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定された[31]が、銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出ており、分割されたのは帝国銀行だけだった[32]。佐藤喜一郎氏は理由に第一銀行出身者が元へ戻ることを熱望していたこと[33]と、「帝国銀行の取り引き層の間口が広く、やがて起こってくるであろう戦後の膨大な資金需要に応じ切れない[34]」ことの二つを挙げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [29]1948年1月 旧第一系と旧三井・十五系への自主分離を決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「第一銀行」
    • [30]1948年10月 第一銀行 資本金10億2000万円・旧三井十五系 資本金9億5000万円で新発足
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [31]財閥解体で帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定
    • [32]1948年7月 銀行は分割不要との決定・分割されたのは帝国銀行のみ
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [33]佐藤喜一郎氏 分割理由に第一銀行出身者の復帰希望
    • [34]佐藤喜一郎氏 取引層の間口の広さで戦後の資金需要に応じ切れないとの判断

第三の理由は集中排除法の適用を否定する観測で、佐藤喜一郎氏は「それなら帝銀だけでも自ら分割を買って出れば、他の銀行に類を及ぼさなくてすむかもしれない[35]」と書いた。分割にあたっては商号も難題となり、佐藤氏は「GHQが第一はいいが三井は使ってはいけないと言い出したので非常に困った。やむなく私の方は帝国銀行の名を使うことでやっと司令部を承諾させた」と述べている。財閥系の銀行はいずれも旧称を使えず、三菱は千代田、住友は大阪、安田は富士、野村は大和へ改称した[37]。旧三井系だけが合同時代の商号をそのまま名乗り、1954年1月に三井銀行の商号へ戻った[38][36]

  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [35]佐藤喜一郎氏 帝銀が自ら分割を申し出れば他行に累が及ばないとの判断
    • [36]GHQが「三井」の商号使用を認めず帝国銀行の名を使い続けた
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [37]三菱は千代田・住友は大阪・安田は富士・野村は大和へ改称
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [38]1954年1月 商号を三井銀行へ戻した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [24]1943年4月 三井銀行と第一銀行の対等合併で資本金2億円の帝国銀行が発足
    • [25]会長に明石照男氏・当時わが国最大の普通銀行
    • [26]1944年8月 十五銀行を合併し資本金2億2000万円
    • [29]1948年1月 旧第一系と旧三井・十五系への自主分離を決定
    • [38]1954年1月 商号を三井銀行へ戻した
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [27]弱電機で日立製作所と東京芝浦電気・紡績で十大紡三社が主取引先
    • [28]佐藤喜一郎氏 帝国銀行は産業界のほぼ四分の一の取引先を抱えたとの回想
    • [33]佐藤喜一郎氏 分割理由に第一銀行出身者の復帰希望
    • [34]佐藤喜一郎氏 取引層の間口の広さで戦後の資金需要に応じ切れないとの判断
    • [35]佐藤喜一郎氏 帝銀が自ら分割を申し出れば他行に累が及ばないとの判断
    • [36]GHQが「三井」の商号使用を認めず帝国銀行の名を使い続けた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「第一銀行」
    • [30]1948年10月 第一銀行 資本金10億2000万円・旧三井十五系 資本金9億5000万円で新発足
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [31]財閥解体で帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定
    • [32]1948年7月 銀行は分割不要との決定・分割されたのは帝国銀行のみ
    • [37]三菱は千代田・住友は大阪・安田は富士・野村は大和へ改称

1949年〜 店舗数の劣位を意識改革で埋めようとした戦後の40年

  1. 1949年 東京証券取引所に上場した(5月16日)
  2. 1954年 三井銀行に商号変更
  3. 1968年 東都銀行を合併
  4. 1968年 日本相互銀行が合併転換法により普通銀行の太陽銀行へ転換
  5. 1973年 神戸銀行と太陽銀行が合併し太陽神戸銀行が発足した(のちの合併相手方)
  6. 1980年 第12次長期経営計画「フェニックス計画」を開始
  7. 1980年 支店ごとに地域一番店を課す目標設定に転換

分割が残した店舗数の差と、再編の時代

1955年3月末の預金は三井銀行1431億円・99か店、第一銀行1505億円・96か店[39]で、分割から7年を経た両行はほぼ同じ体格から出発した。佐藤喜一郎氏は20年後、「支店の設置にしても、分割した結果、第一も三井も同じ割り当てを得られ[40]」たとし、両行合計の預金高が1966年時点で2兆円に及ぶ[41]ことを挙げて「私はいまでも自分の判断はあまり間違っていなかったと、ひそかに自負している」と書いた。1953年4月に資本金を20億円へ増やし[42]、1968年4月には東都銀行を合併して[43]店舗網を補った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [39]1955年3月末 三井銀行 預金1431億円・99か店/第一銀行 預金1505億円・96か店
    • [42]1953年4月 資本金20億円へ増資
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [40]佐藤喜一郎氏 分割で両行が同じ店舗割り当てを得たとの評価
    • [41]1966年時点の両行合計預金高 2兆円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [43]1968年4月 東都銀行を合併

大蔵省が店舗の新設を横並びで割り当てる行政をとったため[44]、三井銀行と上位行との店舗数の差は縮まらなかった。1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換[45]した。1971年10月1日には第一勧業銀行が、1973年10月1日には神戸銀行と太陽銀行の合併で太陽神戸銀行が発足[46]している。1969年元旦に報じられた三菱銀行と第一銀行の合併構想は、第一銀行会長の井上薫氏が「戦中の三井銀行との合併銀行である帝国銀行時代の苦い経験から、事実上の吸収合併になる[47]」として反対運動を起こしたため実らなかった。

  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [44]大蔵省の横並びの店舗行政で上位行との店舗数の差が縮まらなかった
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [45]1968年6月 合併転換法制定・同年12月 日本相互銀行が太陽銀行へ転換
    • [46]1971年10月1日 第一勧業銀行発足・1973年10月1日 太陽神戸銀行発足
    • [47]井上薫氏 帝国銀行時代の経験から事実上の吸収合併になるとして反対
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
    • [39]1955年3月末 三井銀行 預金1431億円・99か店/第一銀行 預金1505億円・96か店
    • [42]1953年4月 資本金20億円へ増資
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
    • [40]佐藤喜一郎氏 分割で両行が同じ店舗割り当てを得たとの評価
    • [41]1966年時点の両行合計預金高 2兆円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [43]1968年4月 東都銀行を合併
    • [45]1968年6月 合併転換法制定・同年12月 日本相互銀行が太陽銀行へ転換
    • [46]1971年10月1日 第一勧業銀行発足・1973年10月1日 太陽神戸銀行発足
    • [47]井上薫氏 帝国銀行時代の経験から事実上の吸収合併になるとして反対
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [44]大蔵省の横並びの店舗行政で上位行との店舗数の差が縮まらなかった

フェニックス計画と脱坊っちゃん銀行

1980年4月、三井銀行は第12次長期経営計画「フェニックス計画」を始めた[48]。最終年度の1983年は三井両替店の創業から300年[49]に当たる。計画には資金量や利益の全行目標を置かず、支店には地域の一番店になること、本部各部には直上位行を追い抜くことを課した[50]。常務の末松謙一氏は目標数値を置かない理由を「そんなものは環境条件次第ですぐ変わってしまう。この見通し難の時代にはあまり意味をなさない」と説明した。社長の関正彦氏は、限界状況を意図的に作り出して行員の意識を変えるための計画だと語った[52][51]

  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [48]1980年4月 第12次長期経営計画「フェニックス計画」を開始
    • [49]最終年度1983年は三井両替店の創業から300年
    • [50]全行目標を置かず支店に地域一番店・本部に直上位行超えを課した
    • [51]末松謙一常務 目標数値は環境条件次第で変わるため置かないと説明
    • [52]関正彦社長 限界状況を作り行員の意識を変える計画と説明

1981年3月時点の店舗数は175店で、太陽神戸銀行や第一勧業銀行のおよそ半分[53]、同じ旧財閥系の三菱・住友と比べても約40店少なかった。三井グループ企業の総借入額に占める三井銀行のシェアは9.8%で、三菱銀行の11.8%、住友銀行の12.8%を下回った[54]。副社長の草場敏郎氏は「せめてあと40店あれば住友とだって対等にやれるのだが[55]」と語り、三井物産常務の鬼原誠一氏は「資金がないから、企業に対して言いたいことも言えない、といったところが本当なのでしょう[56]」と述べた。この劣位は「戦後の帝国銀行時代、第一銀行を分離した時にスタートした[57]」ものとみなされていた。

  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [53]1981年3月 店舗数175店・旧財閥系3行より約40店少ない
    • [54]三井グループ総借入額に占めるシェア 三井9.8%・三菱11.8%・住友12.8%
    • [55]草場敏郎副社長 あと40店あれば住友と対等にやれるとの発言
    • [56]鬼原誠一 三井物産常務 資金がないため企業へ言いたいことも言えないとの評
    • [57]三井銀行の劣位は帝国銀行から第一銀行を分離した時に始まったとの見方

会長の小山五郎氏は、非力さの原因を店舗不足に帰す見方に対し「むしろ、自分の方からあきらめてしまう甘さ、ひ弱さに、そんなイメージの生まれる原因がある[58]」と述べた。新宿西口支店長の松下宏文氏は「確かに私の経験でも、三井銀行はこれまで、育ちのよいお坊っちゃん銀行だった。このお坊っちゃんが髪ふり乱し、目を血走らせ始めたことが、かえって取引先に受けているようです」と語った。1981年3月期の実質預金伸び率7.04%は都銀13行中で首位に立ち、預金1億円当たり経費344千円は住友に次ぐ低さ[60]だった。 [59]

  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [58]小山五郎会長 非力さの原因は店舗不足でなく自ら諦める甘さにあるとの発言
    • [59]松下宏文 新宿西口支店長 お坊っちゃん銀行が変わり取引先に受けているとの発言
    • [60]1981年3月期 実質預金伸び率7.04%で都銀13行中1位・預金1億円当たり経費344千円
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
    • [48]1980年4月 第12次長期経営計画「フェニックス計画」を開始
    • [49]最終年度1983年は三井両替店の創業から300年
    • [50]全行目標を置かず支店に地域一番店・本部に直上位行超えを課した
    • [51]末松謙一常務 目標数値は環境条件次第で変わるため置かないと説明
    • [52]関正彦社長 限界状況を作り行員の意識を変える計画と説明
    • [53]1981年3月 店舗数175店・旧財閥系3行より約40店少ない
    • [54]三井グループ総借入額に占めるシェア 三井9.8%・三菱11.8%・住友12.8%
    • [55]草場敏郎副社長 あと40店あれば住友と対等にやれるとの発言
    • [56]鬼原誠一 三井物産常務 資金がないため企業へ言いたいことも言えないとの評
    • [57]三井銀行の劣位は帝国銀行から第一銀行を分離した時に始まったとの見方
    • [58]小山五郎会長 非力さの原因は店舗不足でなく自ら諦める甘さにあるとの発言
    • [59]松下宏文 新宿西口支店長 お坊っちゃん銀行が変わり取引先に受けているとの発言
    • [60]1981年3月期 実質預金伸び率7.04%で都銀13行中1位・預金1億円当たり経費344千円

4本部制を解体して部長を3倍にした組織改革

1986年4月、三井銀行は審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体した[61]。部長のポストを従来の3倍へ増やし、それまで役員が持っていた決裁権限[62]をほぼそのまま新任部長へ移している。会長の草場敏郎氏はこれを「革命」と呼んだ[63]。本部組織としての審査部はなくなり、本店では各営業部長に青天井の決裁権限を、リテール部門では地域部長に大幅な決裁権限を与えた[64]。取締役資本市場企画部長は旧来の銀行業務を「与信リスクをどう管理するかという仕事だった。これは100戦100勝じゃなければ駄目だ」と説明し、価格変動を扱う証券業務は「6勝4敗でいい」と対比した。 [65]

  • 日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後 “ショック療法”の成果と本音」
    • [61]1986年4月 審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体
    • [62]部長ポストを3倍に増やし役員の決裁権限を新任部長へ移譲
    • [63]草場敏郎会長 組織改革を「革命」と呼んだ
    • [64]審査部を本部組織から外し営業部長へ青天井の決裁権限・地域部長へ大幅委譲
    • [65]与信業務は100戦100勝・証券業務は6勝4敗という対比

旧組織のままでは、証券部門のディーリングの損切りまで経営会議にかけていた[66]。経常収益は1986年3月期の1兆1778億円から1988年3月期に1兆5404億円へ、営業利益は485億円から1590億円へ増えた[67]。中小企業と個人を対象とする融資残高は2年で32%増え、総貸出金に占める比率は53.1%から61.3%へ上がった[68]。社長の神谷健一氏は「専管の役員の顔色を見るくらいなら、客の顔を見て仕事をしろ[69]」と現場を督励した。ただしこの2年は他の都銀もそろって収益を伸ばした時期で、改革を主導した部長自身が「環境に恵まれ」た[70]結果だと前置きしていた。

  • 日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後 “ショック療法”の成果と本音」
    • [66]旧組織では証券ディーリングの損切りまで経営会議にかけていた
    • [67]経常収益 1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円/営業利益485億円→1590億円
    • [68]中小企業・個人向け融資残高 2年で32%増・総貸出金比率53.1%→61.3%
    • [69]神谷健一社長 専管役員でなく客を見て仕事をしろとの督励
    • [70]資本市場企画部長 他の都銀も順調に収益を伸ばす環境に恵まれたとの前置き
  • 日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後 “ショック療法”の成果と本音」
    • [61]1986年4月 審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体
    • [62]部長ポストを3倍に増やし役員の決裁権限を新任部長へ移譲
    • [63]草場敏郎会長 組織改革を「革命」と呼んだ
    • [64]審査部を本部組織から外し営業部長へ青天井の決裁権限・地域部長へ大幅委譲
    • [65]与信業務は100戦100勝・証券業務は6勝4敗という対比
    • [66]旧組織では証券ディーリングの損切りまで経営会議にかけていた
    • [67]経常収益 1986年3月期1兆1778億円→1988年3月期1兆5404億円/営業利益485億円→1590億円
    • [68]中小企業・個人向け融資残高 2年で32%増・総貸出金比率53.1%→61.3%
    • [69]神谷健一社長 専管役員でなく客を見て仕事をしろとの督励
    • [70]資本市場企画部長 他の都銀も順調に収益を伸ばす環境に恵まれたとの前置き

1989年〜 対等合併で600店を得て、さくら銀行になるまで

三井が動き、太陽神戸が応じた1989年夏

1989年夏、三井銀行と太陽神戸銀行は合併を決めた[71]。三井銀行は三菱・住友という他の財閥系銀行に比べてグループ内での位置がそう高くなく、合併に動きやすい環境にあった[72]。大蔵官僚出身の太陽神戸銀行頭取・松下康雄氏と三井銀行社長・末松謙一氏の古くからの個人的関係も働いた[73]。名誉会長の小山五郎氏は合併を大願成就と呼び、「これで本当に僕の仕事は終わったという感じだ[74]」と語って、新本店へは行かないと告げた。一度合併した太陽神戸銀行がふたたび合併する例は珍しかった[75]。合併はホールセールの三井とリテイルの太陽神戸という補完を前提とし、資金集めを太陽神戸が、融資を三井が担う図式[76]で進められた。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [71]1989年夏 三井銀行と太陽神戸銀行が合併を決定
    • [72]三井銀行はグループ内での位置が高くなく合併に動きやすい環境にあった
    • [73]松下康雄氏と末松謙一氏の古くからの個人的関係
    • [75]一度合併した太陽神戸銀行がふたたび合併する例は珍しかった
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎(三井銀行名誉会長)」
    • [74]小山五郎名誉会長 合併を大願成就と呼び自らの仕事は終わったと発言
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [76]合併はホールセールの三井とリテイルの太陽神戸の補完を前提とした

1990年4月1日、太陽神戸三井銀行が発足した[77]。行員2万4000人は第一勧業銀行を5000人上回り、店舗は600店近く、役員66人・8本部制[78]の組織となった。本部長8人は旧太陽神戸4人・旧三井4人で分け、等級は1級・2級・3級に一本化し[79]、合同役員室と本部長協議会を置いた。会長の松下康雄氏は「実は、この合併の最大のメリットは、人材が行内で確保できた[80]ということではないかと、思い始めているところです」と述べ、地価高騰で新規出店が難しいなかで支店網を一挙に得た[81]意義を挙げた。松下氏は「世界のトップクラスの銀行になる[82]」という目標があったから順調な合併を実現できたとも述べた。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏(太陽神戸三井銀行会長)」
    • [77]1990年4月1日 太陽神戸三井銀行が発足
    • [78]行員2万4000人・店舗600店近く・役員66人・8本部制
    • [79]本部長8人を旧太陽神戸4人・旧三井4人で分け等級を1〜3級へ一本化
    • [80]松下康雄会長 合併の最大の利点は人材を行内で確保できた点との発言
    • [81]地価高騰で新規出店が難しいなかで支店網を一挙に得た
    • [82]松下康雄会長 世界のトップクラスの銀行になるという目標が順調な合併を支えたとの発言

松下康雄氏は一体化について、第一勧業銀行や太陽神戸銀行が要した15年の3分の1にあたる5年で到達する[83]と語った。1973年の旧太陽銀行と旧神戸銀行の合併は「表看板だけ一緒で内部は全く別々の銀行だった[84]」と業界関係者に言われており、太陽神戸三井銀行はその反省を人事の運用へ持ち込んだ。統合店では支店長のもとに旧三井と旧太陽神戸の出身者を副支店長として各1人置き、2年ごとに支店長の出身行を交代させる方針[85]をとった。支店統合推進チームは旧両行のメンバー32人で構成し、8人ずつ4チームに分かれて統合する支店に約2カ月半ずつ常駐[86]した。

  • 日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏(太陽神戸三井銀行会長)」
    • [83]松下康雄会長 一体化に要する期間を先行合併行の15年の3分の1と説明
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [84]旧太陽銀行と旧神戸銀行の合併は表看板だけ一緒との業界評
    • [85]統合店に旧両行出身の副支店長を各1人置き2年ごとに支店長の出身行を交代
    • [86]支店統合推進チームは旧両行32人・8人ずつ4チーム・約2カ月半常駐
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [71]1989年夏 三井銀行と太陽神戸銀行が合併を決定
    • [72]三井銀行はグループ内での位置が高くなく合併に動きやすい環境にあった
    • [73]松下康雄氏と末松謙一氏の古くからの個人的関係
    • [75]一度合併した太陽神戸銀行がふたたび合併する例は珍しかった
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎(三井銀行名誉会長)」
    • [74]小山五郎名誉会長 合併を大願成就と呼び自らの仕事は終わったと発言
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [76]合併はホールセールの三井とリテイルの太陽神戸の補完を前提とした
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏(太陽神戸三井銀行会長)」
    • [77]1990年4月1日 太陽神戸三井銀行が発足
    • [78]行員2万4000人・店舗600店近く・役員66人・8本部制
    • [79]本部長8人を旧太陽神戸4人・旧三井4人で分け等級を1〜3級へ一本化
    • [80]松下康雄会長 合併の最大の利点は人材を行内で確保できた点との発言
    • [81]地価高騰で新規出店が難しいなかで支店網を一挙に得た
    • [82]松下康雄会長 世界のトップクラスの銀行になるという目標が順調な合併を支えたとの発言
    • [83]松下康雄会長 一体化に要する期間を先行合併行の15年の3分の1と説明
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [84]旧太陽銀行と旧神戸銀行の合併は表看板だけ一緒との業界評
    • [85]統合店に旧両行出身の副支店長を各1人置き2年ごとに支店長の出身行を交代
    • [86]支店統合推進チームは旧両行32人・8人ずつ4チーム・約2カ月半常駐

対等の原則が残した重複店舗とシステム

第1次店舗統合は1991年9月末までの1年半で36店を18店に集約した[87]にとどまった。1991年9月末の国内店舗は本支店510・出張所84の計594で、東京都231・兵庫県123・神奈川県56・大阪府55と偏りがあり、地域が重なる店舗はなお約90残った[88]。東京都新宿区の四谷支店と新宿御苑前支店の距離は30メートル[89]しかなかった。旧神戸銀行の本拠地である兵庫県では地方公共団体の公金取扱機関に指定された店が多く[90]、統合は難しかった。1993年3月をめどとする第2次統合は約40店を対象とした[91]

  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [87]第1次店舗統合は1991年9月末までに36店を18店へ集約
    • [88]1991年9月末 国内店舗594(本支店510・出張所84)東京都231・兵庫県123・重複約90
    • [89]四谷支店と新宿御苑前支店の距離30メートル
    • [90]兵庫県の店は地方公共団体の公金取扱機関に指定され統合が難しかった
    • [91]1993年3月をめどとする第2次統合は約40店が対象

勘定系システムは旧三井がIBM、旧太陽神戸が富士通で、富士通への統一が決まっていた[92]。1991年10月から旧三井の支店へ新システムを導入する作業を始め、移行が完了する1992年10月までの1年間、首都圏での店舗統合は棚上げとなった[93]。システム統合の事務量は1973年の太陽・神戸合併時の10倍にのぼった[94]。統合の際は店の規模に応じて人員を20%から30%減らし、1991年4月8日に統合した茨城県の取手支店では74人だった行員を62人まで減らした[95]。ただし余剰人員はほかの支店や本部の営業支援部門へ配置転換したため、人件費の削減にはつながらなかった[96]

  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [92]勘定系は旧三井がIBM・旧太陽神戸が富士通で富士通へ統一
    • [93]1992年10月の旧三井店の移行完了まで首都圏の店舗統合を棚上げ
    • [94]システム統合の事務量は1973年の太陽・神戸合併時の10倍
    • [95]統合時の人員削減20〜30%・取手支店は74人から62人へ
    • [96]余剰人員は他店・本部へ配置転換したため人件費削減につながらなかった

1991年3月期の営業経費4581億円は、資金量がほぼ同じ第一勧業銀行の3602億円を1000億円近く上回った[97]。うち人件費は2381億円で、賃金水準を高い旧三井へそろえた[98]ことが費用を押し上げた。同期の業務純益987億円は都銀上位6行で最も低く、国内総資金利ざやは0.09%で首位の住友銀行の0.652%と開いた[99]。1991年3月末のBIS基準による自己資本比率7.3%は、都市銀行で唯一8%を下回った[100]。頭取の末松謙一氏は「新銀行のために役に立つか立たないか、いいか悪いかを唯一の基準として考えていく[101]」と述べた。

  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [97]1991年3月期 営業経費4581億円(第一勧業銀行3602億円)
    • [98]人件費2381億円・賃金水準を旧三井へそろえた
    • [99]業務純益987億円は都銀上位6行で最低・国内総資金利ざや0.09%(住友0.652%)
    • [100]1991年3月末 BIS自己資本比率7.3%は都市銀行で唯一8%割れ
    • [101]末松謙一頭取 新銀行の役に立つかを唯一の基準とするとの発言
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [87]第1次店舗統合は1991年9月末までに36店を18店へ集約
    • [88]1991年9月末 国内店舗594(本支店510・出張所84)東京都231・兵庫県123・重複約90
    • [89]四谷支店と新宿御苑前支店の距離30メートル
    • [90]兵庫県の店は地方公共団体の公金取扱機関に指定され統合が難しかった
    • [91]1993年3月をめどとする第2次統合は約40店が対象
    • [92]勘定系は旧三井がIBM・旧太陽神戸が富士通で富士通へ統一
    • [93]1992年10月の旧三井店の移行完了まで首都圏の店舗統合を棚上げ
    • [94]システム統合の事務量は1973年の太陽・神戸合併時の10倍
    • [95]統合時の人員削減20〜30%・取手支店は74人から62人へ
    • [96]余剰人員は他店・本部へ配置転換したため人件費削減につながらなかった
    • [97]1991年3月期 営業経費4581億円(第一勧業銀行3602億円)
    • [98]人件費2381億円・賃金水準を旧三井へそろえた
    • [99]業務純益987億円は都銀上位6行で最低・国内総資金利ざや0.09%(住友0.652%)
    • [100]1991年3月末 BIS自己資本比率7.3%は都市銀行で唯一8%割れ
    • [101]末松謙一頭取 新銀行の役に立つかを唯一の基準とするとの発言

さくら銀行への商号変更と旧太陽神戸出身の頭取

1992年4月、太陽神戸三井銀行は商号をさくら銀行へ改めた[102]。平仮名の行名の登場は、銀行が消費者・預金者を重視する時代に入ったことを示した[103]。合併で得た600店近い支店網は、第一勧業銀行や住友銀行の400店弱と比べて200店ほど多かった[104]。ただし店舗の廃止で生じた出店枠を成長地域へ振り向ける動きは鈍く、不動産融資が盛んだったころは1年たたずに黒字化した店舗も、1991年の時点では3年から4年を要した。出店に要する費用は1店あたり20億円から30億円といわれた。各行が中小企業や個人を対象とするリテール分野に力を入れるなかで、店舗網は競争の要となった[106][105]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [102]1992年4月 商号をさくら銀行へ変更
    • [103]平仮名の行名は銀行が消費者・預金者を重視する時代を示した
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [104]600店近い支店網は第一勧業銀行・住友銀行の400店弱を上回った
    • [105]新規出店の黒字化に3〜4年・出店費用は1店20億〜30億円
    • [106]各行がリテール分野に注力するなかで店舗網が競争の要となった

1994年6月、橋本俊作氏が頭取に就いた[107]。橋本氏は1953年に神戸銀行へ入行し、1973年の太陽銀行との合併では合併事務局次長、1990年の太陽神戸三井銀行の発足時には業績管理を担う業務本部長[108]を務めている。旧太陽神戸の出身者が合併行の頭取に就いた[109]ことで、対等の原則は人事の頂点にも及んだ。当時の行員数2万2000人は銀行界で最も多かった[110]。橋本氏は頭取就任の記者会見で合併を経営の革新と呼び、顧客に向けたキャッチフレーズを「あなたに近いさくらです」から「あなたと歩むさくらです」へ改めた[111]

  • 日経ビジネス 1994年11月14日号「橋本俊作氏[さくら銀行頭取]登場 イノベーションの道、コツコツ歩む」
    • [107]1994年6月 橋本俊作氏が頭取に就任
    • [108]橋本俊作氏 1953年神戸銀行入行・1973年合併事務局次長・1990年業務本部長
    • [109]旧太陽神戸の出身者が合併行の頭取に就任
    • [110]当時の行員数2万2000人は銀行界で最多
    • [111]頭取就任会見で合併を経営の革新と呼びキャッチフレーズを変更
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [102]1992年4月 商号をさくら銀行へ変更
    • [103]平仮名の行名は銀行が消費者・預金者を重視する時代を示した
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
    • [104]600店近い支店網は第一勧業銀行・住友銀行の400店弱を上回った
    • [105]新規出店の黒字化に3〜4年・出店費用は1店20億〜30億円
    • [106]各行がリテール分野に注力するなかで店舗網が競争の要となった
  • 日経ビジネス 1994年11月14日号「橋本俊作氏[さくら銀行頭取]登場 イノベーションの道、コツコツ歩む」
    • [107]1994年6月 橋本俊作氏が頭取に就任
    • [108]橋本俊作氏 1953年神戸銀行入行・1973年合併事務局次長・1990年業務本部長
    • [109]旧太陽神戸の出身者が合併行の頭取に就任
    • [110]当時の行員数2万2000人は銀行界で最多
    • [111]頭取就任会見で合併を経営の革新と呼びキャッチフレーズを変更

1995年〜 不良債権の処理に追われ、住友銀行との合併で幕を閉じるまで

量から質へ移った物差しと、格付けの下落

合併の狙いは資金量にあり、「量がなければ質もない」というのが当時の社長である末松謙一氏の認識[112]だった。資金量の少なさゆえに三井グループ内で軽んじられてきた歴史を一挙に挽回することが目的[113]で、その悲願が達せられた時点から7年、さくら銀行は不良債権の償却に追われた。1990年代後半に銀行へ求められたのは、大企業ではM&Aなどを含む企業戦略に合致した財務戦略への参画で、資金については量より質が問われた[114]。合併から8年を経た時点で100店舗以上を統合しており、店舗群を元の母体銀行へ分けることはできなくなっていた[115]

  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [112]末松謙一社長 量がなければ質もないという認識
    • [113]合併の目的は資金量の少なさによるグループ内の劣位の挽回
    • [114]銀行に求められるものが量から質へ移った
    • [115]100店舗以上を統合し店舗群を母体銀行へ分けられなくなっていた

1997年2月、さくら銀行は旧太陽神戸銀行からの案件だったアポロリースの救済を拒み[116]、メイン銀行を含む金融団も支援から退いた。同年8月には大都工業がゴルフ会員権の預託金返還を抱えて倒産し[117]、さくら銀行の支援は得られなかった。前年には三井物産を親会社としてきた東食も倒産している[118]。1997年6月、末席の代表取締役だった岡田明重氏が8人抜きで頭取に就いた[119]。岡田氏は利害の優先順位を問われて「今のさくらにとって、順位をつけるなら上位概念は株主と投資家[120]」と答え、「幾つかの分野で、どこにも負けない、とんがったところを作る[121]」と述べた。

  • 週刊東洋経済 1997年2月15日号「[フラッシュ]アポロリース さくら銀行が救済拒否」
    • [116]1997年2月 アポロリースの救済を拒否・金融団も支援から撤退
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[フラッシュ]大都工業 またもゼネコン倒産」
    • [117]1997年8月 大都工業が倒産しさくら銀行の支援は得られなかった
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [118]三井物産を親会社としてきた東食の倒産
  • 週刊東洋経済 1997年6月28日号「[ひと]さくら銀行頭取 岡田明重 八人抜きの抜擢人事で返信への期待を担う」
    • [119]1997年6月 末席の代表取締役だった岡田明重氏が8人抜きで頭取に就任
    • [120]岡田明重氏 上位概念は株主と投資家との発言
    • [121]岡田明重氏 どこにも負けない分野を作るとの発言

1997年10月、さくら銀行は組織改正を行い、証券関連やM&Aをまとめた投資銀行ディビジョンカンパニーを分社化して、営業を大企業向けと支店リテイルに分けた[122]。大企業向けはおもに旧三井、リテイルは旧神戸と旧太陽が担い、投資銀行部門は能力に応じて人選する[123]形をとった。それでも1998年7月時点の長期債格付けはムーディーズのBaa2で、大手都銀6行のなかで最も低かった[124]。株価は400円を割り込み[125]、行内では業務純益3000億円を出す仕組みを土台に手を打つ方針[126]が語られた。国内の有人店舗数は430店で国内最大となり、資金量がより大きい東京三菱銀行の322店[127]を上回っている。

  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [122]1997年10月 投資銀行ディビジョンカンパニーを分社化し営業を大企業向けと支店リテイルへ分離
    • [123]大企業向けは旧三井・リテイルは旧神戸と旧太陽・投資銀行は能力で人選
    • [124]1998年7月 長期債格付けはムーディーズのBaa2で大手都銀6行中最低
    • [125]1998年7月時点の株価は400円割れ
    • [126]業務純益3000億円を出す仕組みを土台に手を打つ方針
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
    • [127]国内有人店舗430店は国内最大・東京三菱銀行322店を上回った
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
    • [112]末松謙一社長 量がなければ質もないという認識
    • [113]合併の目的は資金量の少なさによるグループ内の劣位の挽回
    • [114]銀行に求められるものが量から質へ移った
    • [115]100店舗以上を統合し店舗群を母体銀行へ分けられなくなっていた
    • [118]三井物産を親会社としてきた東食の倒産
    • [122]1997年10月 投資銀行ディビジョンカンパニーを分社化し営業を大企業向けと支店リテイルへ分離
    • [123]大企業向けは旧三井・リテイルは旧神戸と旧太陽・投資銀行は能力で人選
    • [124]1998年7月 長期債格付けはムーディーズのBaa2で大手都銀6行中最低
    • [125]1998年7月時点の株価は400円割れ
    • [126]業務純益3000億円を出す仕組みを土台に手を打つ方針
  • 週刊東洋経済 1997年2月15日号「[フラッシュ]アポロリース さくら銀行が救済拒否」
    • [116]1997年2月 アポロリースの救済を拒否・金融団も支援から撤退
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[フラッシュ]大都工業 またもゼネコン倒産」
    • [117]1997年8月 大都工業が倒産しさくら銀行の支援は得られなかった
  • 週刊東洋経済 1997年6月28日号「[ひと]さくら銀行頭取 岡田明重 八人抜きの抜擢人事で返信への期待を担う」
    • [119]1997年6月 末席の代表取締役だった岡田明重氏が8人抜きで頭取に就任
    • [120]岡田明重氏 上位概念は株主と投資家との発言
    • [121]岡田明重氏 どこにも負けない分野を作るとの発言
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
    • [127]国内有人店舗430店は国内最大・東京三菱銀行322店を上回った

三井グループ各社への緊急増資と公的資金8000億円

1998年3月期、さくら銀行は約1兆2000億円の不良債権を処理して2200億円の純損失を計上した[128]。処理の原資として社員寮と保養所のほぼ全部を売却し、2600億円の売却益を充てている[129]。度重なる株式の益出しで含み益は底をつき、同年8月28日の株価で計算した株式含み損は3890億円に達した[130]。バブル期には建設・不動産・ノンバンクの3業種向け貸出を都銀で最も多く増やしており[131]、取引先には経営再建中のフジタやアポロリースが並んだ[132]。都内の6支店をモデルケースとして事務・管理部門を1店へ集約し、海外拠点の半減も計画した[133]

  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
    • [128]1998年3月期 不良債権処理約1兆2000億円・純損失2200億円
    • [129]社員寮・保養所のほぼ全部を売却し2600億円の売却益を処理に充当
    • [130]1998年8月28日の株価で株式含み損3890億円
    • [131]バブル期に建設・不動産・ノンバンクの3業種向け貸出を都銀で最も多く増やした
    • [132]取引先に経営再建中のフジタ・アポロリース
    • [133]都内6支店で事務・管理部門を1店へ集約・海外拠点の半減を計画

1998年8月28日、日経平均株価の終値が1万3915円とバブル崩壊後の最安値をつけた日に、さくら銀行の株価は都銀9行で大和銀行に次いで安い220円まで下がった[134]。8月31日、頭取の岡田明重氏は記者会見を開き、三井物産・三井不動産・トヨタ自動車など三井グループ各社へ総額約3000億円の緊急増資引き受けを要請した[135]と発表した。狙いを「格付けはシングルA(現在はトリプルB)を取得できるようにしたい[136]」と説明している。増資の受諾には一段のリストラが条件として付き、さくら銀行は3年間で3000人を減らす方針[137]を固めた。外資系金融機関と国内証券会社との3社提携[138]も検討していた。

  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
    • [134]1998年8月28日 日経平均終値1万3915円・さくら銀行株価220円(都銀9行で大和に次ぐ安値)
    • [136]岡田明重頭取 格付けをトリプルBからシングルAへ引き上げたいとの発言
    • [137]増資の条件として一段のリストラを求められ3年間で3000人削減の方針
    • [138]外資系金融機関と国内証券会社との3社提携を検討
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「[フラッシュ]さくら銀行 緊急増資要請を発表」
    • [135]1998年8月31日 三井グループ各社へ総額約3000億円の緊急増資引き受けを要請

三井物産社長の上島重二氏は「経営はあくまで個別企業の自己責任。できる範囲で協力する」ことを持論とし、払い込んだ300億円について「これ以上、負担する体力はウチにはない[140]」と述べた。トヨタ自動車社長の奥田碩氏も「同じ釜のメシを食うといった情実は今は成り立たない。資本の論理が優先」と語った。1998年12月に払い込みが完了し、第三者割当増資と海外子会社の優先株式を合わせて約3450億円を調達[142]している。引受上位は日本生命と三井生命の各400億円、太陽生命・三井物産・三井不動産の各300億円、東京電力200億円、東芝150億円、野村証券100億円で、三井信託銀行の名はそこに無かった[143][139][141]

  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 三井物産 さくら支援の『揺れる心』」
    • [139]上島重二 三井物産社長 経営は個別企業の自己責任との持論
    • [140]三井物産 払込300億円が限度との表明
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
    • [141]奥田碩 トヨタ自動車社長 情実でなく資本の論理が優先との発言
    • [142]1998年12月 第三者割当増資と海外子会社優先株式で約3450億円を調達
    • [143]引受上位 日本生命・三井生命各400億円ほか・三井信託銀行の名は無し
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
    • [128]1998年3月期 不良債権処理約1兆2000億円・純損失2200億円
    • [129]社員寮・保養所のほぼ全部を売却し2600億円の売却益を処理に充当
    • [130]1998年8月28日の株価で株式含み損3890億円
    • [131]バブル期に建設・不動産・ノンバンクの3業種向け貸出を都銀で最も多く増やした
    • [132]取引先に経営再建中のフジタ・アポロリース
    • [133]都内6支店で事務・管理部門を1店へ集約・海外拠点の半減を計画
    • [134]1998年8月28日 日経平均終値1万3915円・さくら銀行株価220円(都銀9行で大和に次ぐ安値)
    • [136]岡田明重頭取 格付けをトリプルBからシングルAへ引き上げたいとの発言
    • [137]増資の条件として一段のリストラを求められ3年間で3000人削減の方針
    • [138]外資系金融機関と国内証券会社との3社提携を検討
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「[フラッシュ]さくら銀行 緊急増資要請を発表」
    • [135]1998年8月31日 三井グループ各社へ総額約3000億円の緊急増資引き受けを要請
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 三井物産 さくら支援の『揺れる心』」
    • [139]上島重二 三井物産社長 経営は個別企業の自己責任との持論
    • [140]三井物産 払込300億円が限度との表明
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
    • [141]奥田碩 トヨタ自動車社長 情実でなく資本の論理が優先との発言
    • [142]1998年12月 第三者割当増資と海外子会社優先株式で約3450億円を調達
    • [143]引受上位 日本生命・三井生命各400億円ほか・三井信託銀行の名は無し

個人取引への集中と、住友銀行との合併で幕

1999年3月、さくら銀行は公的資金8000億円の注入を受けた。全額が転換型優先株で、配当利回り1.37%・転換開始3年4カ月後という条件は、同時に注入を受けた富士銀行や第一勧業銀行より重い。1999年3月期の不良債権処理額は、一般貸倒引当金の積み増しやゼネコンのフジタ向け債権放棄を含めて9900億円に達した[145]。破産更生等債権・危険債権・要管理債権の合計2兆300億円は総与信残高の5.6%を占め、1人当たり業務純益954万円は上位都銀で最も低かった[146]。1998年11月11日の店長会議では、岡田明重氏が危機感を訴えて言葉に詰まった[147][144]

  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
    • [144]1999年3月 公的資金8000億円・全額が転換型優先株・配当利回り1.37%・転換開始3年4カ月後
    • [145]1999年3月期 不良債権処理額9900億円(フジタ向け債権放棄を含む)
    • [146]開示債権合計2兆300億円は総与信の5.6%・1人当たり業務純益954万円は上位都銀で最低
    • [147]1998年11月11日の店長会議で岡田明重氏が言葉に詰まった

立て直しの柱は個人取引に置かれ、1999年3月1日にエーエム・ピーエム・ジャパンとの提携でコンビニ店内への店舗設置を始めた[148]。費用は従来型の店舗外現金自動預け払い機の10分の1から15分の1[149]に収まる。個人普通預金1500万口座・給与振込指定200万口座[150]を土台とし、法人では収益を確保できる約140社をコア大企業と定めて絞り込んだ[151]。2000年には資本金200億円で日本初のインターネット専門銀行ジャパンネット銀行を設立し、さくら銀行が60%、富士通・日本生命・住友銀行が各10%、東京電力・三井物産が各5%を出資した[152]。1999年9月中間期は住宅ローンなどの伸びで総資金利ざやが倍近く改善している[153]

  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
    • [148]1999年3月1日 エーエム・ピーエム・ジャパンとの提携でコンビニ店内へ店舗を設置
    • [149]コンビニ店舗の費用は従来型の店舗外ATMの10分の1〜15分の1
    • [150]個人普通預金1500万口座・給与振込指定200万口座
    • [151]収益を確保できる約140社をコア大企業と定めて絞り込んだ
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「[特集]新銀行がやってくる 既存銀行の「反撃」なるか? さくら・三和のケーススタディ」
    • [152]ジャパンネット銀行 資本金200億円・さくら60%・富士通/日本生命/住友銀行各10%・東京電力/三井物産各5%
  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号「[TopNews]明暗出そろった都銀決算。意外や健闘のさくら銀 落ち込む東京三菱銀」
    • [153]1999年9月中間期は住宅ローンなどのリテイル戦略で総資金利ざやが倍近く改善

1999年10月、さくら銀行と住友銀行は合併に向けて全面提携することで合意した[154]。合併後の総資産は99兆円で、同年8月に発表された富士銀行・第一勧業銀行・日本興業銀行の三行統合に次ぐ規模[155]となり、住宅ローン残高は両行合わせて11.4兆円、都銀内のシェアは27.3%に達した[156]。三和銀行との合併も取り沙汰されたが、三和側が吸収合併の形にこだわったため破談となり、住友銀行が対等の精神を掲げて交渉した[157]。岡田明重氏は合併までに4200人を減らす計画を示し[158]、2001年2月には財務が悪化した三井生命の要請に応じて中央三井信託銀行とあわせ1000億円の劣後ローンを供与した[159]。2001年4月、住友銀行との合併により三井住友銀行が発足し[160]、1673年の越後屋から数えて328年、1876年の私立銀行第一号から数えて125年続いた法人が消滅した。

  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「[TopNews]取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
    • [154]1999年10月 さくら銀行と住友銀行が合併に向けた全面提携で合意
    • [155]合併後の総資産99兆円・三行統合に次ぐ規模
    • [156]住宅ローン残高 両行合計11.4兆円・都銀内シェア27.3%
    • [157]三和銀行が吸収合併の形にこだわり破談・住友銀行は対等の精神を掲げた
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「[特集]金融再編の視点インタビュー さくら銀行 岡田明重頭取 リストラは戦略と表裏一体」
    • [158]合併までの人員削減4200人
  • 週刊東洋経済 2001年2月10日号「[産業・企業]三井生命が「さくら銀行グループ」から資本注入仰ぐ」
    • [159]2001年2月 三井生命へ中央三井信託銀行とあわせ1000億円の劣後ローンを供与
  • 週刊東洋経済 2001年5月12日号「[特集]三井・住友の金融大連合で生保戦略はどうなる?」
    • [160]2001年4月 住友銀行との合併により三井住友銀行が発足
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
    • [144]1999年3月 公的資金8000億円・全額が転換型優先株・配当利回り1.37%・転換開始3年4カ月後
    • [145]1999年3月期 不良債権処理額9900億円(フジタ向け債権放棄を含む)
    • [146]開示債権合計2兆300億円は総与信の5.6%・1人当たり業務純益954万円は上位都銀で最低
    • [147]1998年11月11日の店長会議で岡田明重氏が言葉に詰まった
    • [148]1999年3月1日 エーエム・ピーエム・ジャパンとの提携でコンビニ店内へ店舗を設置
    • [149]コンビニ店舗の費用は従来型の店舗外ATMの10分の1〜15分の1
    • [150]個人普通預金1500万口座・給与振込指定200万口座
    • [151]収益を確保できる約140社をコア大企業と定めて絞り込んだ
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「[特集]新銀行がやってくる 既存銀行の「反撃」なるか? さくら・三和のケーススタディ」
    • [152]ジャパンネット銀行 資本金200億円・さくら60%・富士通/日本生命/住友銀行各10%・東京電力/三井物産各5%
  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号「[TopNews]明暗出そろった都銀決算。意外や健闘のさくら銀 落ち込む東京三菱銀」
    • [153]1999年9月中間期は住宅ローンなどのリテイル戦略で総資金利ざやが倍近く改善
  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「[TopNews]取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
    • [154]1999年10月 さくら銀行と住友銀行が合併に向けた全面提携で合意
    • [155]合併後の総資産99兆円・三行統合に次ぐ規模
    • [156]住宅ローン残高 両行合計11.4兆円・都銀内シェア27.3%
    • [157]三和銀行が吸収合併の形にこだわり破談・住友銀行は対等の精神を掲げた
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「[特集]金融再編の視点インタビュー さくら銀行 岡田明重頭取 リストラは戦略と表裏一体」
    • [158]合併までの人員削減4200人
  • 週刊東洋経済 2001年2月10日号「[産業・企業]三井生命が「さくら銀行グループ」から資本注入仰ぐ」
    • [159]2001年2月 三井生命へ中央三井信託銀行とあわせ1000億円の劣後ローンを供与
  • 週刊東洋経済 2001年5月12日号「[特集]三井・住友の金融大連合で生保戦略はどうなる?」
    • [160]2001年4月 住友銀行との合併により三井住友銀行が発足

さくら銀行の沿革1673〜2001年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三井銀行創業——三井高利氏の越後屋「現銀掛値なし」から1876年の私立銀行第一号・三井銀行へ伊勢松坂の商家に育った三井高利氏は、1673年の越後屋の新商法で得た資金力を、どのように両替商から近代銀行へと転じたか 詳細を読む★★★
隣接地に三井両替店を開業
三井組が明治政府の会計局御為替方(官金取扱)を命ぜられ、官金の出納を引き受けた
私盟会社三井銀行として開業★★
株式会社三井銀行に改組
外国為替業務に参入
第一銀行との対等合併により帝国銀行が発足★★
十五銀行を吸収合併
帝国銀行が第一銀行系の営業を分割譲渡して解散★★
東京証券取引所に上場した(5月16日)
三井銀行に商号変更
東都銀行を合併
日本相互銀行が合併転換法により普通銀行の太陽銀行へ転換
神戸銀行と太陽銀行が合併し太陽神戸銀行が発足した(のちの合併相手方)
第12次長期経営計画「フェニックス計画」を開始
支店ごとに地域一番店を課す目標設定に転換
審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体
部長職を3倍に増やして決裁権限を委譲
太陽神戸銀行との対等合併と、さくら銀行への商号変更量を先に取るか、収益力を先に立て直すか——中位にとどまった三井銀行は、なぜ規模の合併を選んだか 詳細を読む★★★
さくら銀行に商号変更
末席の代表取締役だった岡田明重氏が8人抜きで頭取に就任★★
三井グループ各社への総額約3000億円の緊急増資要請公的資金か、グループの資本か——含み益の尽きた銀行が最初に頼った先 詳細を読む★★★
公的資金8000億円の注入を受け入れ★★
さくら銀行と住友銀行の合併・三井住友銀行の発足(2001年成立)旧財閥の壁を越えた大手行合併は、なぜ「住友主導」と評されたのか? 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 三井銀行八十年史
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」
  • 三井文庫『三井両替店史』
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥の形成」
  • 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社、1966年連載)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「神戸銀行」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本相互銀行」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「第一銀行」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
  • 日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」
  • 日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後 “ショック療法”の成果と本音」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎(三井銀行名誉会長)」
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「[特集]全解剖 不良銀行処理 さくら銀行はどこへ行く」
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏(太陽神戸三井銀行会長)」
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」
  • 日経ビジネス 1994年11月14日号「橋本俊作氏[さくら銀行頭取]登場 イノベーションの道、コツコツ歩む」
  • 週刊東洋経済 1997年2月15日号「[フラッシュ]アポロリース さくら銀行が救済拒否」
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[フラッシュ]大都工業 またもゼネコン倒産」
  • 週刊東洋経済 1997年6月28日号「[ひと]さくら銀行頭取 岡田明重 八人抜きの抜擢人事で返信への期待を担う」
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」
  • 週刊東洋経済 1998年9月12日号「[フラッシュ]さくら銀行 緊急増資要請を発表」
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 三井物産 さくら支援の『揺れる心』」
  • 週刊東洋経済 1999年3月27日号「[特集]漂流する三井グループ 土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」
  • 週刊東洋経済 2000年3月4日号「[特集]新銀行がやってくる 既存銀行の「反撃」なるか? さくら・三和のケーススタディ」
  • 週刊東洋経済 1999年12月4日号「[TopNews]明暗出そろった都銀決算。意外や健闘のさくら銀 落ち込む東京三菱銀」
  • 週刊東洋経済 1999年10月23日号「[TopNews]取り残された三和・東京三菱 住友・さくら銀合併の衝撃」
  • 週刊東洋経済 1999年11月6日号「[特集]金融再編の視点インタビュー さくら銀行 岡田明重頭取 リストラは戦略と表裏一体」
  • 週刊東洋経済 2001年2月10日号「[産業・企業]三井生命が「さくら銀行グループ」から資本注入仰ぐ」
  • 週刊東洋経済 2001年5月12日号「[特集]三井・住友の金融大連合で生保戦略はどうなる?」

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