{"title":"さくら銀行の歴史概略","sections":[{"start_year":1673,"end_year":1942,"main_title":"呉服商の為替を内製化して私立銀行第一号へ移った金融業の始まり（1673〜1942）","subsections":[{"title":"三都間の決済から生まれた三井両替店","text":"三井高利氏は1673年、江戸本町一丁目に間口9尺の店を借りて越後屋呉服店を開き、同時に京都室町へ仕入店を置いた。京都で仕入れた反物を江戸で売る商いは、店ごとに現金を送る手間と、外部の両替商へ払う手数料を伴った。1683年5月、越後屋が駿河町へ移るのに合わせて、高利氏はその隣に三井両替店を開き、銀貨と金貨の両替、両替手形の振出、遠隔地の為替を自社で担った。京都と大坂にも店を出し、両替仲間の首班として重きをなしている。呉服の商いに付随する決済を内製化したこの一手から、のちの三井銀行につながる金融業が始まった。\n\n明治維新のとき三井組はその資産をあげて新政府の国費調達に尽力し、明治元年に会計局御為替方、1871年に新貨幣為換座御用を申し渡されて官金の取扱を引き受けた。1871年から1872年にかけては大蔵省正金兌換証券680万円、開拓使正金兌換証券250万円の委託発行を担い、いわゆる三井札を出して中央銀行に近い業務まで扱っている。通商会社の開設や為換会社の経営にも協力し、明治政府の殖産興業策に組み込まれた。近世の両替商が、そのまま明治政府の財政実務へ接続した点に、この金融業の特異さがある。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神戸銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本相互銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"国立銀行条例の外で許された私立銀行第一号","text":"三井組は1871年7月に三井組バンクの創立許可を得て東京海運橋畔に三井組ハウスを着工したが、政府が国立銀行制度の採用へ方針を変えたため計画は止まった。1873年6月、三井組は小野組との共同出資で第一国立銀行を設立し、建設中の三井組ハウスをこれに譲っている。1874年5月には駿河町の両替店を拡張して為換バンク三井組として開業した。自前の銀行を持つ望みは、1876年3月の私盟会社三井銀行の設立認可で実る。同年7月1日、資本金200万円、営業店30か所で開業した。国立銀行条例によらず「銀行」を名乗ることを許されたのは、この三井銀行が最初であった。\n\n設立にあたり政府は難色を示している。国立銀行条例による国立銀行しか認めていなかったためで、『会社銀行八十年史』は「三井は明治維新以来、明治政府に対する軍資金の調達、献金、紙幣発行などの点で多大の功績をあげているので、とくに三井銀行の設立は許可されることになつた」と記す。ただし有限責任の株式組織は認められず、無限責任を意味する「私盟」の語を冠することが設立の条件とされた。開業時の業務は官金出納、為替、荷為替、貸付、預り金、両替、地金銀売買にわたる。特権と引き換えに責任を無限に負う形での出発であった。\n\n開業後の三井銀行は、三井の事業全体へ資金を供給する機関銀行と、採算で貸す商業銀行とのあいだで揺れた。1891年に井上馨氏の推薦で入社した中上川彦次郎氏は、不良貸金の整理を通じて前橋紡績所や芝浦製作所を手中に収め、産業資本本位の機構を組み上げた。1901年に中上川氏が没すると、三井家同族会管理部理事の益田孝氏は三井銀行を採算本位の商業銀行に戻す方針を立て、有価証券と不動産の処分を進めている。1893年7月に合名会社、1909年10月に資本金2000万円の株式会社へ改組し、同時に倉庫業務を東神倉庫として分離した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神戸銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本相互銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"五大銀行の一角として迎えた戦時の合同","text":"1911年に担保付社債信託業を兼営し、1913年から外国為替業務へ進出して上海、ニューヨーク、ロンドン、ボンベイ、スラバヤ、大連へ支店を置いた。ニューヨーク支店の開設は1922年3月で、戦前の日本の為替銀行のなかでは最も遅い進出であった。1933年7月には資本金を1億円へ増やし、五大銀行の一つとして昭和初期の電力外債募集の大部分を受託した。安田、第一、三井、三菱、住友の五大銀行が全国預金に占める比率は、1919年の25%から1931年には38%へ上がっている。資本の都市集中と財閥の膨張が、この時期の財閥銀行の規模を押し上げた。\n\n同じころ、のちに合併相手となる二つの銀行が別々に生まれている。1936年12月、一県一行主義を掲げる政府方針に応じて、兵庫県の三十八、神戸岡崎、五十六、西宮、灘商業、姫路、高砂の七行が合併し、資本金2253万1600円・135か店の神戸銀行が設立された。1940年12月には、東京都の無尽会社を統合する母体として資本金100万円の大日本無盡が設立され、これが日本無盡、日本相互銀行を経て太陽銀行になる。政府が主導した集約は、1920年に1300行あった銀行を1930年に782行へ、普通銀行の数を終戦時に61行まで絞り込んだ。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「1篇 会社企業発達史 02 近代產業移植期の会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥の形成」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神戸銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「日本相互銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1943,"end_year":1970,"main_title":"第一銀行との合同で最大行となり、6年で名を取り戻すまで（1943〜1970）","subsections":[{"title":"産業界の四分の一を抱えた帝国銀行の5年","text":"1943年4月、国家的要請により三井銀行は第一銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した。本店は旧第一銀行本店に置かれ、会長には明石照男氏が就き、当時わが国最大の普通銀行となった。翌1944年8月には十五銀行を合併して資本金2億2000万円となる。帝国銀行の頭取を務めた佐藤喜一郎氏は後年、この合併の知らせを「私はこの話を十七年末、大阪で突然聞いた」と回想している。当時の佐藤氏は大阪支店長で、前年に取締役へ就いたばかりであった。最大行の成立は、現場の役員にすら事後に届く決定であった。\n\n規模の大きさは、そのまま取引先の重なりを意味した。佐藤喜一郎氏は「両社が合併してできた帝国銀行は、日本の産業界のほぼ四分の一という取り引き先を背負っていたといえるだろう」と述べている。弱電機では日立製作所と東京芝浦電気の両方を、紡績では十大紡のうち三社を主取引先として抱えた。戦時の資金統制のもとでは、統合された貸出枠と広い取引層はむしろ利点であった。しかし系列を異にする取引先を一行が抱える構図は、戦後に資金需要が戻ったとき、どちらにも十分な資金を回せない制約へ転じる。この重複は、5年後に佐藤喜一郎氏が分割の理由へ挙げた論点でもあった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「第一銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」（日本経済新聞社、1966年連載）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"自ら申し出た分割と、名乗れなかった三井の名","text":"1948年1月、帝国銀行は旧第一銀行系と旧三井・十五銀行系の二行へ自主的に分離することを決めた。同年9月に旧帝国銀行は営業を新両行へ分割譲渡して解散し、10月に第一銀行が資本金10億2000万円で、旧三井・十五系が資本金9億5000万円で新発足している。財閥解体では帝国、三菱、住友、野村、安田の各行が制限会社に指定され、分割も避けられまいと見られていたが、銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出た。したがって帝国銀行の分割は、外からの命令ではなく自らの申し出による。銀行のうち分割されたのは帝国銀行だけであった。\n\n佐藤喜一郎氏は分割の理由を三つ挙げている。第一に、第一銀行出身者が元へ戻ることを熱望していたこと。第二に、「帝国銀行の取り引き層の間口が広く、やがて起こってくるであろう戦後の膨大な資金需要に応じ切れないと考えたから」であること。第三に、集中排除法の適用を否定する観測が出ていたことであった。三つ目について佐藤氏は「それなら帝銀だけでも自ら分割を買って出れば、他の銀行に類を及ぼさなくてすむかもしれない」と書き残している。処分を待つのではなく自ら差し出して、業界全体への波及を止めるという判断であった。\n\n分割の過程では商号が難題となった。佐藤喜一郎氏は「GHQが第一はいいが三井は使ってはいけないと言い出したので非常に困った。やむなく私の方は帝国銀行の名を使うことでやっと司令部を承諾させた」と述べている。財閥系の銀行はいずれも旧称を使えず、三菱は千代田、住友は大阪、安田は富士、野村は大和へ改称した。旧三井系だけが合同時代の商号をそのまま名乗る形になっている。1949年5月16日に東京証券取引所へ上場し、1952年の平和条約発効を経て、1954年1月にようやく三井銀行の商号へ戻る。財閥の名を取り戻すまでに分割から6年近くを要した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「第一銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」（日本経済新聞社、1966年連載）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"店舗数の劣位が固定した高度成長期の20年","text":"分割を、佐藤喜一郎氏は20年後に肯定している。「支店の設置にしても、分割した結果、第一も三井も同じ割り当てを得られ、いわば倍になった」とし、両行合計の預金高が1966年時点で2兆円に及ぶことを挙げて「私はいまでも自分の判断はあまり間違っていなかったと、ひそかに自負している」と書いた。数字はその見立てを裏づける。1955年3月末の預金は三井銀行1431億円・99か店、第一銀行1505億円・96か店で、分割から7年を経た両行はほぼ同じ体格から出発している。合わせれば帝国銀行1行のときを上回る店舗数であった。\n\n分割の評価は、しかし一様ではない。日経ビジネスは1981年の記事で、三井銀行のハンディキャップレースは「戦後の帝国銀行時代、第一銀行を分離した時にスタートした」と書き、大蔵省の横並びの店舗行政のもとで上位行との店舗数の差が行けども行けども縮まらなかったと指摘した。同じ一つの決断が、当事者には割り当てが倍になったと映り、後年の記者には劣位の始まりと映る。分割の得失は、比較の対象を分割前の帝国銀行に置くか、分割しなかった三菱・住友に置くかで裏返る。両方の評価が同時に成り立つ決断であった。\n\n1960年代後半、銀行は再編の時代を迎える。1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換した。三井銀行も1968年4月に東都銀行を合併している。1969年元旦には三菱銀行と第一銀行の合併構想が報じられたが、第一銀行会長の井上薫氏が反対して実らなかった。井上氏は「戦中の三井銀行との合併銀行である帝国銀行時代の苦い経験から、事実上の吸収合併になる」として反対運動を起こしている。帝銀の記憶は、20年を経てなお再編の判断に働いていた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「2篇 日本会社史 52 銀行・信託」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「第一銀行」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」（日本経済新聞社、1966年連載）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行－日銀の威力高まる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「財閥解体のアラシ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1971,"end_year":1992,"main_title":"175店の劣位を意識改革で埋めようとし、最後は規模を買った（1971〜1992）","subsections":[{"title":"フェニックス計画と「脱坊っちゃん銀行」の10年","text":"1980年4月、三井銀行は第12次長期経営計画「フェニックス計画」を始めた。最終年度の1983年は、三井両替店の創業から300年に当たる。計画には資金量や利益の全行目標が置かれず、支店には地域の一番店になることを、本部各部には直上位行を追い抜くことを課した。常務の末松謙一氏は目標数値を置かない理由を「そんなものは環境条件次第ですぐ変わってしまう。この見通し難の時代にはあまり意味をなさない」と説明している。社長の関正彦氏は「意図的に限界状況を作り出すことによって、行員の姿勢を変えようというものなのだ」と計画の性格を語った。\n\n1981年3月時点の店舗数は175店で、太陽神戸銀行や第一勧業銀行のおよそ半分、同じ旧財閥系の三菱・住友と比べても約40店少なかった。三井グループ企業の総借入額に占める三井銀行のシェアは9.8%で、三菱銀行の11.8%、住友銀行の12.8%を下回っている。副社長の草場敏郎氏は「せめてあと40店あれば住友とだって対等にやれるのだが」と語った。三井物産常務の鬼原誠一氏も「資金がないから、企業に対して言いたいことも言えない、といったところが本当なのでしょう」と評している。店舗と資金量の劣位が、グループ内での発言力にそのまま現れていた。\n\n劣位の説明を、会長の小山五郎氏は受け付けなかった。非力さの原因を店舗不足に帰す見方に対し「むしろ、自分の方からあきらめてしまう甘さ、ひ弱さに、そんなイメージの生まれる原因がある」と述べている。現場では新宿西口支店長の松下宏文氏が「確かに私の経験でも、三井銀行はこれまで、育ちのよいお坊っちゃん銀行だった。このお坊っちゃんが髪ふり乱し、目を血走らせ始めたことが、かえって取引先に受けているようです」と語った。1981年3月期の実質預金伸び率7.04%は都銀13行中で首位に立ち、預金1億円当たり経費344千円は住友に次ぐ低さであった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎（三井銀行名誉会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏（太陽神戸三井銀行会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"4本部制を解体して部長を3倍にした組織改革","text":"1986年4月、三井銀行は審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体した。部長のポストを従来の3倍へ増やし、それまで役員が持っていた決裁権限をほぼそのまま新任部長へ移している。会長の草場敏郎氏はこれを「革命」と呼んだ。資本市場企画部長の古舘氏は旧来の銀行業務を「与信リスクをどう管理するかという仕事だった。これは100戦100勝じゃなければ駄目だ」と説明し、価格変動を扱う証券業務は「6勝4敗でいい」と対比している。減点主義の審査を通す組織のままでは、ディーリングの損切りまで経営会議にかかってしまう。\n\n数字は改革を支持した。経常収益は1986年3月期の1兆1778億円から1988年3月期に1兆5404億円へ、営業利益は485億円から1590億円へ増えている。中小企業と個人を対象とする融資残高は2年で32%増え、総貸出金に占める比率は53.1%から61.3%へ上がった。社長の神谷健一氏は「専管の役員の顔色を見るくらいなら、客の顔を見て仕事をしろ」と現場を督励している。もっともこの2年は超低金利と資産価格の上昇に恵まれた時期でもある。日経ビジネスの記事自身が「極めて幸運にめぐまれたスタート」と留保を置き、「本当の試練はもう少し先」と結んでいた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎（三井銀行名誉会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏（太陽神戸三井銀行会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"世界最大規模の銀行を得た1990年4月","text":"1989年夏、三井銀行と太陽神戸銀行は合併を決めた。日本産業史は三井が動けた事情を「三井銀行は三菱、住友という他の財閥系銀行に比べるとグループ内での位置はそう高くなく、合併に動きやすい環境にあった」とし、大蔵官僚出身の太陽神戸銀行頭取・松下康雄氏と三井銀行社長・末松謙一氏の古くからの個人的関係も働いたと記す。一度合併した太陽神戸銀行がふたたび合併する例は珍しかった。名誉会長の小山五郎氏は「太陽神戸銀行との合併はまさに大願成就。これで本当に僕の仕事は終わったという感じだ」と語り、新本店へは行かないと告げている。\n\n1990年4月1日、太陽神戸三井銀行が発足した。行員2万4000人は第一勧業銀行を5000人上回り、店舗は600店近く、役員66人・8本部制の組織となった。本部長8人は旧太陽神戸4人・旧三井4人で分け、等級を1級から3級へ一本化している。会長の松下康雄氏は「実は、この合併の最大のメリットは、人材が行内で確保できたということではないかと、思い始めているところです」と述べ、地価高騰で新規出店が難しいなかで600店の支店網を一挙に得た意義を挙げた。一体化には第一勧業銀行や太陽神戸が要した15年の3分の1、5年で到達するとも語っている。\n\n規模の効果は、しかし数字に現れなかった。第1次店舗統合は1991年9月末までの1年半で36店を18店に集約したにとどまり、地域が重なる店舗はなお約90あった。勘定系システムは旧三井がIBM、旧太陽神戸が富士通で、富士通への統一が終わるまで首都圏の統合は棚上げとなる。賃金水準を高い旧三井へそろえたことも重なり、1991年3月期の営業経費4581億円は資金量のほぼ等しい第一勧業銀行を1000億円近く上回った。同期の業務純益987億円は都銀上位6行で最も低く、BIS自己資本比率7.3%は都市銀行で唯一8%を割っている。1992年4月、商号をさくら銀行へ改めた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1981年6月1日号「三井銀行 脱坊っちゃん銀行へ意識大革命」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年10月10日号「三井銀行の『革命』宣言のその後」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1989年10月9日号「中興の祖は語る 小山五郎（三井銀行名誉会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年4月9日号「編集長インタビュー 松下康雄氏（太陽神戸三井銀行会長）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年10月21日号「太陽神戸三井銀行 難航する店舗統合」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1993,"end_year":2001,"main_title":"量の獲得が費用へ転じ、三井の名とともに幕を閉じるまで（1993〜2001）","subsections":[{"title":"合併8年目の決算に残った重複の費用","text":"合併の狙いは明快であった。週刊東洋経済は1998年7月の特集で、三井側の戦略を「『量がなければ質もない』が当時の社長である末松謙一氏の認識だった。資金量の少なさゆえに三井グループ内で軽んじられてきた歴史を一挙に挽回するのが目的だった」と要約している。ところが目的が達せられた時点から7年、銀行は不良債権の償却に追われた。同じ記事は「銀行に求められるのは、大企業ではＭ＆Ａなどを含む企業戦略に合致した財務戦略への参画であり、資金については量より質を問う」と書き、評価の物差しそのものが移ったと指摘している。量を得たときには、量が価値を失っていた。\n\n店舗網の広さは費用の側へ回った。1998年時点の国内有人店舗は430店で国内最大となり、資金量がより大きい東京三菱銀行の322店を上回っている。従業員の給与も月額平均で東京三菱を上回った。バブル期には建設・不動産・ノンバンクのいわゆる3業種向け貸出を都銀で最も増やしており、取引先にはフジタやアポロリースが並ぶ。1998年3月期には約1兆2000億円の不良債権を処理して2200億円の純損失を計上した。処理の原資として社員寮と保養所のほぼ全部を売却し、2600億円の売却益を充てている。株式の含み益はこの時点で尽きた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年7月25日号「［特集］全解剖 不良銀行処理／さくら銀行はどこへ行く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年9月12日号「［フラッシュ］さくら銀行 緊急増資要請を発表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月27日号「［特集］漂流する三井グループ／土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月27日号「［特集］漂流する三井グループ 三井物産 さくら支援の『揺れる心』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年5月12日号「［特集］三井・住友の金融大連合で生保戦略はどうなる？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三井グループへの緊急増資要請と公的資金8000億円","text":"1998年8月31日、頭取の岡田明重氏は記者会見を開き、三井物産・三井不動産・トヨタ自動車など三井グループ各社へ総額約3000億円の緊急増資引き受けを要請したと発表した。直前の8月28日、日経平均株価がバブル崩壊後の最安値をつけた日に、さくら銀行の株価は220円まで下がり、株式の含み損は3890億円に達している。都銀9行のなかでは大和銀行に次いで安い水準であった。岡田頭取は要請の狙いを「格付けはシングルA（現在はトリプルB）を取得できるようにしたい」と説明した。増資の受諾には3年間で3000人という人員削減が条件として付いている。\n\n引き受け側は情実で動いてはいない。三井物産社長の上島重二氏は「経営はあくまで個別企業の自己責任。できる範囲で協力するというのが基本姿勢」を持論とする。払い込んだ300億円について、三井物産は「これ以上、負担する体力はウチにはない」としている。トヨタ自動車社長の奥田碩氏も「同じ釜のメシを食うといった情実は今は成り立たない。資本の論理が優先」と述べている。1998年12月に払い込まれた約3450億円の引受上位は日本生命と三井生命の各400億円、太陽生命・三井物産・三井不動産の各300億円で、三井信託銀行の名はそこに無かった。\n\n自助努力は半年しかもたなかった。1999年3月、さくら銀行は公的資金8000億円の注入を受ける。全額が転換型優先株で、配当利回り1.37%・転換開始3年4カ月後という条件は、同時に注入を受けた富士銀行や第一勧業銀行のそれより重い。1999年3月期の不良債権処理額は9900億円に達し、破産更生等債権・危険債権・要管理債権の合計2兆300億円は総与信残高の5.6%を占めた。1人当たり業務純益954万円は上位都銀で最も低い水準であった。注入された公的資金は、その全額が不良債権処理へ吸い込まれる規模だった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年7月25日号「［特集］全解剖 不良銀行処理／さくら銀行はどこへ行く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年9月12日号「［フラッシュ］さくら銀行 緊急増資要請を発表」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月27日号「［特集］漂流する三井グループ／土壇場のさくら銀行 もはや『三井』弱体化の元凶」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月27日号「［特集］漂流する三井グループ 三井物産 さくら支援の『揺れる心』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年5月12日号「［特集］三井・住友の金融大連合で生保戦略はどうなる？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年9月7日号「三井グループ支援仰いだ さくら銀行の事情」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統合で幕——何が残り、何が消えたか","text":"統合へ向かう時点の自社は、三つの数字に要約できる。公的資金8000億円を注入されてなお総与信の5.6%が開示債権として残り、自己資本の厚みは市場の評価を戻すに至らなかった。1998年11月の店長会議では、岡田頭取が危機感を訴えて言葉に詰まる場面があったと支店長が証言している。合併から9年を経ても旧三井と旧太陽神戸の不協和音は消えず、実力主義の人事へ移っても旧三井優遇と批判された。約4000人の人員削減をどう進めるかも残っている。単独で立て直す時間が、収益力の側から尽きていた。\n\n外から見た位置づけは二重であった。1999年3月の時点で金融当局のある幹部は「さくらと三和、富士と一勧。これぐらいの大合併が実現しないと、金融システムは安定しないかもしれない」と語り、週刊東洋経済は「さくら銀行が今後再編の対象となったとしても不思議ではない」と書いている。一方で岡田頭取は個人普通預金1500万口座・給与振込指定200万口座を挙げ、コンビニエンスストアとの提携による店舗を含めて個人取引を前面に置く方針を示していた。重荷とされた店舗網と口座数が、統合の相手からは取得すべき資産に見えていたと考えられる。\n\n2001年3月27日、さくら銀行の株式は上場を廃止された。4月1日、住友銀行との合併により三井住友銀行が発足し、1673年の越後屋から数えて328年、1876年の私立銀行第一号から数えて125年続いた法人が、ここで幕を閉じた。残ったものは600店に届いた店舗網と1500万の個人口座、そして三井グループとの取引関係であった。消えたものは商号と上場、そして自らの判断で相手を選ぶ立場である。前史をたどれば、この銀行は帝国銀行の分割を自ら申し出た1948年に一度、規模を手放す判断をしている。1990年に規模を取り戻し、2001年にはその規模ごと相手方へ渡した。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年7月25日号「［特集］全解剖 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