この創業が示すのは、呉服の小売という具体の商いから金融業が枝分かれしていった経緯である。三井高利氏が越後屋で採った"現銀掛値なし"の現金商法は、掛売りに伴う貸倒れと回収の遅れを避け、手元に現金を厚く残す売り方であり、三都間の仕入決済という日々の資金移動が、両替商の内製化を促していったとみられる。金融は初めから目的だったというより、呉服商の資金の循環から立ち上がってきた業であったと読める。
もう一つ見えてくるのは、江戸期に整えた同族の資本管理が、近代の銀行設立を支えた道筋である。1710年の大元方は三井十一家の共有資本を一元に集約し、所有と経営を分ける原理を家憲として明文化しており、この蓄積が、1874年の小野組破綻という混乱のなかでも三井組の単独設立を可能にしたと読める。1673年の越後屋から1876年の三井銀行まで、呉服と両替の二本柱で蓄えた資金力と組織が、近代株式会社銀行への移行を担ったと推察される。この法人は1943年に帝国銀行、1990年に太陽神戸三井銀行、1992年にさくら銀行と商号を変更し、2001年の合併まで続いた。