キユーピー中島董商店の得意先販売網を引き継ぎ、半世紀続いた製販分離を解消して自社販売へ移行

作ることに徹するか、売る場も自ら持つか——創業家の商店に委ねてきた販路をめぐる選択

時期 1972年12月
意思決定者(推定) キユーピー 取締役会
論点 販路と製販の分業
概要
1972年12月、キユーピーは製品の一括販売先であった中島董商店の得意先販売網などを引き継ぎ、20営業所を構えて自社販売へ切り替えた。1925年のマヨネーズ発売以来つづいた製造と販売の分業を、半世紀を経てあらためた判断であった。
背景
創業期のキユーピーは製造に徹し、販売は創始者の中島董一郎氏が営む中島商店(1938年に中島董商店へ商号変更)が担った。1970年7月の東証第二部上場で公開企業となり、家庭用マヨネーズ市場には1968年に味の素が参入していた。
内容
中島董商店の側は販売部門をキユーピーへ移管し、キユーピーは全国20営業所の直販体制を敷いた。翌1973年4月には東証第一部銘柄に指定され、同年9月には冷凍冷蔵食品のキユーピーフローズン(現デリア食品)を設けた。
含意
店頭の動きを生産と商品企画へ直に返す経路を自社内に持ったことで、のちの野菜・サラダ事業や外食向けの取引開拓を自前の営業組織が担えるようになった。1999年のサラダクラブ設立や2001年の日本マクドナルド向け受注は、この体制の上に載っている。
筆者の見解

販路を持つ会社になるということ

この判断の性格は、資本の組み替えでも工場の増設でもなく、会社が外の世界と接する面をどこに置くかの変更にあったとみることができる。中島董商店に販売を委ねる形は、洋風調味料が売れるかどうかも分からない時代には合理的であり、実際にマヨネーズを家庭へ届けたのは商店側の努力であった。ただ、その形のままでは、店頭で何が起きているかという情報は必ず一社を経由してから製造会社へ届く。1970年の上場で公開企業となった会社にとって、その一拍の遅れと、説明のしにくさは重かったといえる。

引き継いだのが工場でも商標でもなく得意先の名簿であった点に、この決断の含みがある。半世紀かけて商店が築いた関係を製造会社が受け取り、20の営業所に配り直すという作業は、成果が数字に出るまで時間のかかるものであった。それが実を結んだかたちが、外食チェーンの新メニューを一人の営業が社内外の調整を重ねて取りにいく1990年代末以降の仕事ぶりであったとみられる。誰が顧客と向き合うかを自社に引き寄せた選択は、その後に同社が中食・外食へ広げていく事業の前提を作った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

製造と販売を分けて始まった会社

キユーピーの創業には、はじめから二つの会社が並んでいた。中島董一郎氏は1918年に缶詰販売の中島商店を興し、翌1919年には東京・中野に製造会社の食品工業株式会社を設けて、その創業へ資本参加した。1925年に食品工業が国産初の卵黄型マヨネーズを製造すると、その販売は中島商店が引き受けた。作る会社と売る会社を分けるこの形は、洋風調味料がまだ家庭になじまない時代に、販路の開拓と得意先との関係づくりを商店側へ委ね、製造会社を生産と品質の改良に専念させる分業として働いた[1][2]

分業はその後も維持された。商店の側は1938年に商号を中島董商店へ改め、製造会社の側は1957年に社名を食品工業からキユーピー株式会社へ変えた。名も資本も別のまま、キユーピーが作った商品はすべて中島董商店を通って問屋や小売へ渡った。戦中に原料が絶えて製造を中断したのち、1948年にマヨネーズの生産を再開すると、食生活の洋風化とともに取扱高は戻り、二社の分業は半世紀近くにわたって食品会社の骨格として続いた[3][4]

上場企業となった製造会社と、競争が始まった主戦場

1970年7月、キユーピーは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。資本調達の道が開くと同時に、創業家の商店と一体で動いてきた経営に、開示と説明責任を伴う公開企業としての規律が入った。上場会社の売上のほとんどが、資本関係の別な一社を通って市場へ出ていくという形は、外部の株主や取引先から見て説明の要るものであった。製造会社が自らの販路を持たない状態は、企業としての近代化を進めるうえで残された課題であった[5]

市場の側でも競争が始まっていた。キユーピーの独壇場であった家庭用マヨネーズには1968年に味の素が参入し、社内の空気は張り詰めた。同じころ小売の現場では量販店が伸び、店頭での品出しや販促が売上を左右する度合いが増していた。1973年入社で東京支店に配属された鈴木豊氏はスーパーを一店ずつ回る日々を送ったと後年に語っており、需要が生まれる場所は問屋の帳簿から店頭へ移りつつあった。誰が店頭を見るのかという問いが、分業のままでは答えにくくなっていた[6]

決断

得意先販売網の引き継ぎと20営業所の設置

1972年12月、キユーピーは製品の一括販売先であった中島董商店の得意先販売網などを引き継ぎ、20の営業所を構えて自社販売へ切り替えた。中島董商店の側は、同じ年の出来事を販売部門のキユーピーへの移管と記している。商権を持つ商店から製造会社へ得意先を移す作業は、双方の株主が創業家で重なっていたとはいえ、長年の取引関係を一度組み替えるものであった。半世紀にわたった製販分離は、この移管をもって終わった[7][8]

この切り替えは、生産側の増強と同じ時期に重なった。キユーピーは同じ1972年の3月に茨城県猿島郡五霞村へ五霞工場を設け、1973年4月には東京証券取引所市場第一部銘柄に指定された。さらに同年9月には冷凍冷蔵食品の販売を目的にキユーピーフローズン(現デリア食品)を設けている。作る量を増やし、売る先を自ら抱え、扱う品目を調味料の周辺へ伸ばすという三つの動きが、上場から数年のあいだに続けて起きた[9]

結果

自前の営業組織が担った野菜・サラダ事業の開拓

直販の体制を得たキユーピーは、調味料そのものではなく、調味料をかけて食べるものの側へ商いを伸ばした。1974年にポテトサラダ、1980年にはロングライフサラダを発売し、外食チェーンを主な相手として野菜・サラダの販路を築いた。かけて食べる野菜の市場が広がればマヨネーズとドレッシングも売れるという考え方に沿った事業であり、1999年には小売向けカット野菜の生産を目的に三菱商事との合弁でサラダクラブを設けた。2002年の時点で野菜・サラダ事業は社内の売上のおよそ一割を占めていた[10][11]

自社の営業がどこまでの取引を取れるかは、2001年の日本マクドナルド向け受注に表れた。同社が同年10月に都内121店へ導入した野菜サラダを、キユーピーの外食担当営業が勉強会の場から追いかけ、容器の仕様が未確定な段階でサラダクラブの工場を案内して受注にこぎつけた。担当営業が受け持つ取引先は一人あたり一社から三社に限られ、社内の製造・資材の各担当と得意先の間を一人で往復する仕事の型であった。キユーピーは2000年と2001年に日本マクドナルドの商品開発貢献企業として表彰されている[12][13]

出典・参考

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