この判断の性格は、資本の組み替えでも工場の増設でもなく、会社が外の世界と接する面をどこに置くかの変更にあったとみられる。中島董商店に販売を委ねる形は、洋風調味料が売れるかどうかも分からない時代には合理的であり、実際にマヨネーズを家庭へ届けたのは商店側の努力であった。ただ、その形のままでは、店頭で何が起きているかという情報は必ず一社を経由してから製造会社へ届く。1970年の上場で公開企業となった会社にとって、その一拍の遅れと、説明のしにくさは重かったといえる。
引き継いだのが工場でも商標でもなく得意先の名簿であった点に、この決断の含みがある。半世紀かけて商店が築いた関係を製造会社が受け取り、20の営業所に配り直すという作業は、成果が数字に出るまで時間のかかるものであった。それが実を結んだかたちが、外食チェーンの新メニューを一人の営業が社内外の調整を重ねて取りにいく1990年代末以降の仕事ぶりであったと推察される。誰が顧客と向き合うかを自社に引き寄せた選択は、その後に同社が中食・外食へ広げていく事業の前提を作った。