1899年、愛知県知多郡東海町(現・東海市)で農業を営んでいた蟹江一太郎氏[1]は、軍隊で上官から『これからは米や麦だけ作っているのでは駄目だ。西洋野菜をやれ』[引用元]と勧められ、除隊後に玉ネギ・キャベツ・トマトの栽培を始めた[2]。同年に最初のトマトの発芽を見た[3]ものの、トマトは日本人の食生活になじまず、さっぱり売れなかった[4]。蟹江一太郎氏は売れ残るトマトを加工へ回す道を選び、1903年にトマトソース(現在のトマトピューレー)の試作に成功した[5]。わが国で最初のトマトの加工品[6]であった。1908年にはトマトケチャップとウスターソースの製造・販売にも乗り出した[7]。
1914年12月、蟹江一太郎氏は愛知トマトソース製造合資会社を設立し[8]、個人経営から法人へ移った[9]。1917年4月には六角形の籠目模様による『カゴメ印』を商標登録した[10]。1919年6月に上野工場が竣工して製造設備が整い[11]、1923年4月には株式会社へ組織を変更して商号を愛知トマト製造株式会社とした[12]。1933年8月にはトマトジュースを発売し[13]、ケチャップ・ピューレー・ジュースという三つの製品群がそろった。創業者が唱えた社是は『和風協力』で、人と和し、協力して仕事をするという意味を込めたもの[14]であった。
1916年、蟹江一太郎氏は原料調達を安定させるため愛知県の農業組織と契約し[15]、加工用トマトの栽培を組織化した。農家と毎年、面積・品種・価格を取り決め[16]、収穫したトマトを決められた価格で全量買い取り、その栽培については責任をもって指導にあたる方式[17]であった。品質を加工に合わせて作り込める原料を、安定した価格で確保するための仕組み[18]であった。この契約栽培は創業以来続き、1970年代末には農協および経済連を通じた農家との直接契約という形をとっていた[19]。加工用トマトは畑で真赤に完熟したものを収穫してすぐ工場へ運び、ジュースであれば搬入から缶詰になるまで6〜7分[20]しかかからない。青いうちに採って流通段階で赤くする生食用と比べ、栄養価には大きな差[21]が生まれた。
第二次大戦から戦後にかけては極度の物資不足が続き[22]、愛知トマト製造株式会社の関係事業は5社に分かれていた[23]。1949年8月、同社は創業50周年を機に関連事業の集約を図り[24]、愛知商事・愛知罐詰興業・滋賀罐詰・愛知海産興業の関係4社を吸収合併して[25]、資本金1,500万円の愛知トマト株式会社となった[26]。本店は名古屋市[27]に置いた。同じ年の4月に東京連絡所(現・東京支店)[28]、7月に大阪出張所(現・大阪支店)[29]を開き、東京と大阪に販売拠点を設けた。1950年代を通じて化学肥料が普及し、日本の食卓にキャベツなどの西洋野菜が並ぶなかで、カゴメは乾物問屋を中心にケチャップの販路[30]を整えた。
生活水準の向上とともに食生活の洋風化が進み、ソースやトマトケチャップの需要が増えた[31]。これに応じて原料の契約栽培は愛知県から1952年に長野県、1961年に栃木県、1962年に茨城県へと産地を広げ、1970年代末には9県に及んだ[32]。主要な原料産地には工場を置き、1961年7月に栃木工場(現・那須工場)[33]、1962年6月に茨城工場が竣工した[34]。1961年4月にはカゴメビル株式会社(現・カゴメアクシス株式会社)を本社ビルの管理会社として設立し[35]、1962年7月に名古屋支店[36]、同年9月に研究所を開いた[37]。売上高は1955年の14億7,800万円から伸び[38]、1962年に蟹江一太郎氏は長男の蟹江一忠氏へ経営を譲った[39]。
1960年、日本政府が資本自由化の方針を決め[40]、巨大外資の日本上陸が現実味を帯びた。この頃、対日進出をうかがった米デルモンテが三井物産を介して合弁会社の設立を持ちかけた[41]が、社長の蟹江一太郎氏はこれを断った[42]。断った理由について蟹江一太郎氏は、製品が全く同じでカゴメにとっての利点はなく、同じ国内での競争なら負けない自信があったからだ[43]と語った。カゴメは1916年から加工用トマトの契約栽培を組織してきており[44]、原料を押さえたまま単独で外資を迎え撃つ道を選んだ。トマト加工食品のパイオニアとして『トマトはカゴメ』というブランドイメージ[45]も浸透していた。
提携を断られたデルモンテは、キッコーマンおよび三井物産と組んで1963年に日本カルパックを設立し、両社の販路でケチャップを売り出した[46]。米ハインツも日魯漁業との合弁で参入したため[47]、カゴメはトマト分野で二つの外資連合を同時に相手取った[48]。1963年4月には商号をカゴメ株式会社に変更し、商品ブランドと社名を一致させた[49]。ブランド名と社名は同じほうがよいという考えから[50]であった。1962年に父から経営を継いだ[51]蟹江一忠氏がこの競争を引き受け、外資の側も原料は国内に求めるほかない以上[52]、競争はカゴメが長年耕してきた土俵の上で起きた。
1960年代を通じて、ハインツ・日魯連合とデルモンテ・キッコーマン連合はいずれも日本のトマト市場でカゴメに敗れた[53]。外資の進出から10年を経た1972年、カゴメのシェアはケチャップで82%、トマトジュースで64%を保っていた[54]。カゴメが早くから原料トマトの生産に契約栽培の制度を導入し、加工用トマト畑の74%を確保していたことが、その強さの最大の理由に数えられた[55]。原料の国内調達義務も、外資に対する守りとして[56]働いた。1965年以降は業界への新規参入が活発になり、キリンも1976年頃からトマトジュースと野菜ジュース[57]を手がけた。カゴメはこれをマイナスとは受け止めず、参入の増加がそれだけ市場を広げ、新規需要の開拓に役立ったと見ていた[58]。
1967年10月、カゴメは台湾に現地資本との合弁で台湾可果美股份有限公司を設立[59]した。出資比率は40%、工場は台南市[60]に置いた。設立の趣旨は日本への原料供給ではなく台湾全土での販売と東南アジア・中近東への輸出にあった[61]が、のちにカゴメは同社からトマトペーストを輸入し、原料調達の多様化にも使った[62]。1968年7月に富士見工場が竣工し[63]、1971年3月にはカゴメ興業株式会社(のちのカゴメ物流サービス株式会社)を物流子会社として設立[64]、1972年4月に東京本部を開いた[65]。台湾可果美は1970年代末までに軌道へ乗り、業績も伸び[66]ていた。
1976年11月、カゴメは名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場[67]した。公募増資で得た資金を借入金の返済にあて、自己資本比率は1976年3月期の16.8%から翌期には25.9%へ上がり[68]、固定比率も153.9%から95.1%へ改善した[69]。1978年9月に名古屋証券取引所市場第一部へ指定替となり[70]、同年11月1日には4,520千株を1株1,145円で公募して東京証券取引所市場第一部に上場した[71]。上場時の資本金は24億7,000万円、従業員数は1,345人[72]であった。事業所は名古屋本社と東京本部、栃木工場ほか7工場、東京支店ほか10支店、宇都宮営業所ほか2営業所、青森出張所ほか11出張所[73]に及んでいた。
上場時点のカゴメは、1978年3月期の売上高のうちトマトケチャップが263億円で38.9%、トマトジュースが196億円で28.9%、ソース製品が101億円で15.0%を占めていた[74]。同期の市場占有率はトマトケチャップ73.3%、トマトジュース50.9%、ソース製品27.6%、リンゴジュース26.2%、野菜ジュース23.4%で、いずれも第1位である[75]。契約栽培で確保する原料トマトは全国の加工用トマト生産量の52%にのぼり[76]、販売を受け持つ特約店は166社を数えた[77]。売上高は1955年の14億7,800万円から1978年3月期には675億4,900万円に達した[78]。ただし1977年3月期には大手ビールメーカーがトマトジュース分野へ新規参入し、これに応じた販売促進費と広告宣伝費の増加が営業利益率を下げた[79]。
1983年、カゴメは経営体質を一新する5カ年計画『スカイ計画』を始めた[80]。輸入自由化への対応を急ぎ、それまで原料の8割近くを占めていた国産トマトの比率を1988年には3割まで下げた[81]。1982年からの2年間で世界中のトマト産地を回り、カゴメの製品に最も適したペーストを作る国を探した結果、トルコのタット社とチリのマヨワ社と原料供給の契約を結んだ[82]。台湾を加えた三つの産地で、ジュースを除くトマト関連製品に必要なペースト約13万トンを確保できるまでになった[83]。スカイ計画は1,000億円企業を目標に掲げ、1988年にこれを達成[84]した。1983年5月にはブランドマーク[85]も変更した。
1988年2月2日、ジュネーブで開かれたガット理事会で日本は農産物10品目の自由化勧告を受諾し[86]、トマトケチャップ・トマトジュース・トマトソースを含む8品目の輸入割当枠撤廃が決まった[87]。原料の加工用トマトの価格は国産が1キロ約50円、米国は約10円と5分の1で、缶のコストも米国は日本の半分程度であった[88]。1988年6月、カゴメは米国カリフォルニア州に現地法人を設立し[89]、2年後をめどに自社工場を建てて米国内で調達した原料から業務用トマトケチャップを生産する計画[90]を発表した。蟹江英吉社長は『食品業界も国境のないビジネスになったということです』[引用元]と語った。
米国進出は、当時カゴメと契約していた加工用トマトの栽培農家の反発を招いた[91]。契約農家は全国に約3,700戸あり[92]、カゴメは国内生産量14万6千トンのうち約7万トンを買い取る最大のユーザー[93]であった。1978年をピークに国内のトマトジュース需要が減り[94]、ペーストの輸入が増えたため契約量は激減して、2万戸近くあった契約農家は半分に減り、副業として作っていた農家はすべて脱落した[95]。蟹江英吉社長は米国進出が報じられた直後に『ジュースの国内生産はやめない』[引用元]と表明したが、日本最大のトマト産地である長野県の農家からは、実施時期も決まっていない自由化を理由に初の値下げに応じさせられた直後の工場進出だとして猛反発が起きた[96]。
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|---|---|---|---|---|
| 1899〜1962年売れなかったトマトを加工品に変え、契約栽培で原料を握るまでの創業期 | 創業者蟹江一太郎西洋野菜の栽培に着手、最初のトマトの発芽を見る | ★ | ||
| トマトソースの製造・販売を開始 | ★★ | |||
| トマトケチャップ・ウスターソースの製造・販売を開始 | ★ | |||
| 愛知トマトソース製造設立 | ★ | |||
| カゴメ印 商標登録 | ★ | |||
| 上野工場竣工、製造設備を近代化 | ★ | |||
| 愛知トマト製造に改組 | ★ | |||
| トマトジュースを発売 | ★★ | |||
| 愛知トマト製造・愛知海産興業・滋賀罐詰・愛知商事・愛知罐詰興業の5社が合併 | ★★ | |||
| 愛知トマトを設立 | ★ | |||
| 米デルモンテとの合弁提携の拒否と、契約栽培による国産・自主路線 1960年頃、資本自由化を背景に対日進出をうかがった米デルモンテが、三井物産を介してカゴメ(当時の商号は愛知トマト)に合弁会社の設立を持ちかけた。創業者で社長の蟹江一太郎氏はこれを断り、契約栽培による国産原料の囲い込みを軸に、単独で外資を迎え撃つ道を選んだ経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 栃木工場竣工 | ★ | |||
| 研究所を新設 | ★ | |||
| 1963〜1990年資本自由化で上陸した外資を契約栽培で退け、農産物自由化への備えに転じた時代 | カゴメに商号変更 | ★ | ||
| 台湾可果美股份有限公司を合弁・設立、海外トマト原料調達に着手 | ★★ | |||
| 富士見工場竣工 | ★ | |||
| カゴメ興業(カゴメ物流サービス)を物流子会社として設立(2019年 F-LINEに統合) | ★ | |||
| 東京本部開設 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所市場第一部に指定替 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に株式上場 | ★ | |||
| 蟹江英吉 | ブランドマークを に変更 | ★ | ||
| 1991〜2009年商品数の膨張と米国事業の失敗を経て、非創業家社長が立て直しに動いた時期 | 蟹江嘉信 | 東京本部を東京本社に商号変更し2本社制に移行 | ★ | |
| 蟹江嘉信 | 野菜飲料「野菜生活100」を発売 | ★★ | ||
| 伊藤正嗣 | 「農業への原点回帰」による生鮮トマト事業への参入と自社菜園の全国展開 1996年、社長の蟹江嘉信氏は1980年代の多角化路線を見直し、『農業への原点回帰』を掲げた。これを受けてカゴメは1998年、加工用トマトの契約栽培とは別に、自社の大型温室で生食用トマトを直接栽培する生鮮トマト事業へ参入した。約4.8億円を投じた美野里町の"野菜工場"から、全国各地へ自社菜園を広げていく新規事業の判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 伊藤正嗣 | KAGOME INC.設立 | ★ | ||
| 伊藤正嗣 | 現在地(日本橋浜町三丁目21番1号日本橋浜町Fタワー)に東京本社を移転 | ★ | ||
| 伊藤正嗣 | 企業理念(「感謝」「自然」「開かれた企業」)を発表 | ★ | ||
| 伊藤正嗣 | 株主を「ファン」に変える——個人株主10万人構想と安定株主基盤の構築 2001年8月、カゴメは株式持ち合いの解消で放出される金融機関保有株の受け皿を個人投資家に定め、株主優待や株主懇親会など個人向けIRとあわせて個人株主を大量に迎え入れた。株主数を約6,000人規模から数万人へ広げ、個人を最大の安定株主とする構造を築いた経営判断である。1999年に動き出し、2003年に対外的に確立した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 喜岡浩二 | 連続ヒットを生む「野戦型」商品開発改革 全社員から提案を募る仕組みと新商品比率の数値目標を導入し、野菜飲料を軸に年商100億円級のヒットを相次いで放った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 喜岡浩二 | 可果美(杭州)食品有限公司設立(2017年 清算結了) | ★ | ||
| 2010〜2026年生鮮トマトの黒字化から「野菜の会社」へ、海外事業を膨らませていった時期 | 西秀訓 | Kagome Australia Pty Ltd.と子会社2社を設立 | ★ | |
| 寺田直行 | Kagome Senegal Sarl設立 | ★ | ||
| 寺田直行 | 国内食品メーカー5社で物流会社F-LINEを設立 | ★★ | ||
| 山口聡 | カゴメアグリフレッシュ設立 | ★ | ||
| 山口聡 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 山口聡 | DXAS Agricultural Technology Lda設立 | ★ | ||
| 山口聡 | Ingomar Packing Company, LLCの持分を追加取得し子会社化 | ★★ |
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事実根拠:出所(カゴメ)