米デルモンテとの合弁提携を断り、契約栽培による国産・自主路線を選んだ判断

資本自由化で迫る巨大外資に、蟹江一太郎社長はなぜ提携の手を取らず単独で迎え撃ったか

更新:

時期 1960年
意思決定者 蟹江一太郎 社長
論点 外資提携の可否と国内市場の防衛
概要
1960年頃、資本自由化を背景に対日進出をうかがった米デルモンテが、三井物産を介してカゴメ(当時の商号は愛知トマト)に合弁会社の設立を持ちかけた。創業者で社長の蟹江一太郎氏はこれを断り、契約栽培による国産原料の囲い込みを軸に、単独で外資を迎え撃つ道を選んだ経営判断である。
背景
1960年に政府が資本自由化の方針を決め、ハインツ・デルモンテら巨大外資の日本上陸が現実味を帯びた。カゴメは1899年の創業以来トマトの栽培と加工を続け、1916年から加工用トマトの契約栽培を組織化しており、国内市場で長く独走する立場にあった。
内容
合弁提案を退けられたデルモンテはキッコーマン・三井物産と組んで1963年に日本カルパックを設立して上陸し、ハインツも日魯漁業と合弁で参入した。カゴメは契約栽培で加工用トマトの原料を押さえ、国内での正面競争に単独で応じた。
含意
進出から約10年後の1972年、カゴメのシェアはケチャップ82%・トマトジュース64%を保ち、加工用トマト畑の74%を契約栽培で確保していた。提携を断って守り抜いた「自分の土俵」は、後年のブランド・株主重視の経営へ連なる競争優位の原型となった。
筆者の見解

誰の土俵で戦うかという選択

デルモンテの提案を断った判断の核には、自前の基盤への確信があったとみることができる。外資の資本と世界的なブランドを取り込めば、市場を広げる宣伝も、海外への足がかりも手に入れられたはずである。それでも蟹江一太郎氏は、原料の契約栽培から国内の販路までを自ら握る一貫性の方を選んだ。効率や規模の論理よりも、誰の土俵で戦うかを優先した選択であり、外資と組む道を早い段階で手放した点に、この判断の性格がうかがえる。

もっとも、国産原料と自主路線に賭けた強みは、そのまま裏返しの弱さも抱えていた。国内のトマトに深く依存する構造は、1980年代に農産物の輸入自由化が進むと、割高な国産原料という価格競争上の重荷にもなった。単独で守り抜いた土俵が、後年の農業回帰やブランド重視の経営に通じる一方で、国際競争のなかで見直しを迫られる面もあったとみられる。提携を断って選んだ独立の路線は、カゴメの個性の源であると同時に、後年の課題の出発点にもなっている点に、この判断の射程がうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

資本自由化と巨大外資の対日進出

カゴメが外資との向き合い方を迫られた発端は、資本の国境が開かれたことにあった。1960年、政府は資本自由化の方針を打ち出し、外国企業が日本へ資本を持ち込んで事業を営む道が現実のものになりつつあった。トマト加工の分野でも、世界的な加工食品メーカーである米デルモンテやハインツが対日進出をうかがい、国内市場を長く独走してきたカゴメにとって、巨大外資と正面から向き合う時が近づいていた[1]

迎え撃つカゴメは、このときすでに半世紀を超える来歴を持つ食品メーカーであった。1899年に創業者・蟹江一太郎氏がトマト栽培に着手し、1914年には愛知トマトソース製造合資会社を設立、六角形の籠目模様「カゴメ印」を掲げてケチャップやトマトジュースを育ててきた。戦後の1949年には関係5社を束ねて愛知トマト株式会社となり、地域の加工メーカーを統合して広域の食品企業へと体制を整えていた。デルモンテの提案を受けたのは、この愛知トマトの時代である[2][3]

契約栽培という原料基盤

カゴメの強さの土台には、原料を自前で押さえる仕組みがあった。1916年、蟹江一太郎氏は原材料の安定調達をねらって愛知県の農業組織と契約を結び、トマト栽培を組織化した。栽培農家とあらかじめ作付けや買い入れの約束を交わし、ケチャップやジュースの量産に必要な原料を計画的に確保する——この契約栽培の仕組みが、創業まもない時期から同社の背骨になっていた[4]

原料基盤の上で、製品は戦後の食卓の変化とともに伸びた。化学肥料の普及で西洋野菜が定着し、食の洋風化が進むなかで、カゴメは乾物問屋を軸にケチャップの販路を整え、夏に採れるトマトを生かしたトマトジュースも育てていた。ケチャップ・ピューレー・ジュースという加工トマトの品揃えで、同社は国内市場を長く独走する立場にあった。巨大外資が狙ったのは、この成熟した国内トマト加工の市場であった[5]

決断

デルモンテとの合弁提案を断る

巨大外資は、まず手を組む相手としてカゴメに近づいた。1960年頃、対日進出を模索していた米デルモンテが、三井物産を介してカゴメ側に合弁会社の設立を持ちかけた。資本と世界的なブランドを携えた相手との提携は、外資の上陸圧力をかわす一つの選択肢でもあった。だがカゴメはこの申し出を受けず、単独でデルモンテを迎え撃つ道を選んだ[6]

拒否の理由を、蟹江一太郎氏は後年こう振り返っている。提携で扱う製品は自社のものと変わらず、組んだところで得るものは乏しい。同じ日本国内での競争ならば負けない自信がある——そう考えて断った、と。外資の資本やブランドを取り込む発想よりも、自ら築いた原料と販路の基盤で正面から戦えるという確信が、判断の中心にあったことがうかがえる[7]

外資は別の相手と上陸した

提携を断られたデルモンテは、別の相手と組んで日本に上陸した。1963年、デルモンテはキッコーマンおよび三井物産と合弁会社「日本カルパック」を設立し、そこで生産したケチャップを三井物産系の食品問屋とキッコーマンの販路に乗せて売り出した。カゴメが手を取らなかった資本とブランドは、国内の有力企業の流通網と結びついて、正面から市場へ投じられた[8]

もう一方の巨大外資も、同じころ日本市場に足場を築いた。米ハインツは日魯漁業と合弁会社を設立して参入し、トマト加工の分野では、カゴメがデルモンテとハインツという二つの外資連合に同時に応戦する構図が生まれた。世界の食品市場を席巻してきた二社を相手に、国内最大手が単独で受けて立つ——資本自由化がもたらしたトマト戦争は、こうして始まった[9]

結果

守り抜いた牙城

戦いの帰趨は、カゴメの防衛成功に落ち着いた。1960年代を通じて、ハインツ・日魯連合もデルモンテ・キッコーマン連合も、日本市場のトマト戦争でカゴメを崩せなかった。折しも政府は農家保護の観点から加工用トマト原料の国内調達を義務づけており、原料を国内で押さえていたカゴメには追い風となった。巨大外資の資本力をもってしても、同社の市場地位は揺らがなかった[10]

進出から約10年後の数字が、防衛の確かさを裏づけている。日経ビジネスによれば、両巨大外資の上陸から10年を経てなお、カゴメのシェアはケチャップで82%、トマトジュースで64%に達し、その牙城はほとんど揺らいでいなかった。同誌は、王座が揺るがなかった最大の理由を、両外資も日本国内に原料を求めて生産せざるを得ない「自分の土俵」での戦いだった点に見ている[11][12]

契約栽培という土俵

その「土俵」を支えたのが、契約栽培であった。日経ビジネスは、カゴメが圧倒的な強みを保った最大の理由を、早くから原料トマトの生産に契約栽培を取り入れた点に求めている。作付け面積や買い入れ価格を農家とあらかじめ取り決めることで、同社は原料を安定して確保し、農家の収入も安定した。こうしてカゴメは、全国の加工用トマト畑の74%を契約栽培で押さえるまでになっていた[13]

外資を退けた同社は、対外的な旗印も整えた。1963年4月、社名を「カゴメ株式会社」に変更し、長年親しまれた商品ブランドと社名を一致させて、トマト加工品メーカーとしての輪郭をはっきりさせた。国産原料を契約栽培で押さえ、加工から販売までを自前で握る一貫した体制——提携を断って選んだこの独立路線は、後年のブランドや株主を重んじる経営へと連なる競争優位の原型になっていた[14]

出典・参考
  • カゴメ社史「カゴメの歴史」(2017年)
  • 日経ビジネス 1972年8月21日号「自由化の"嵐"に耐えられるか」
  • カゴメ 有価証券報告書 第81期(2024年12月期)【沿革】
  • カゴメ八十年史(1960年3月期・単独業績)