1906年〜 露領カムチャッカへの買魚出漁から始めた堤商会と日魯漁業の設立
- 1906年 堤清六氏と平塚常次郎氏が新潟市に堤商会を設立
- 1907年 帆船「宝寿丸」で北洋漁場に初出漁
- 1910年 さけ缶詰の製造を開始
- 1914年 北洋サケ・マス漁場の取得と、米国式缶詰機械によるサケ缶詰の量産化 手詰めで704箱の工場に、隣の露人商会は自動機械を据えた——魚を獲る会社にとどまるか、缶詰を量産する会社になるか
ブロンゲ岬での出会いと帆船「宝寿丸」の初出漁
日魯漁業の創業者の一人となる平塚常次郎氏は、1881年に北海道函館の呉服唐物商の家に生まれた[1]。札幌の露清語学校[2]でロシア語を学び、南樺太コルサコフの雑貨店員を経て、21歳の春に露領カムチャッカのヤイナへ買魚出漁に加わった[3]。日露戦争では旭川第七師団の砲兵として旅順攻撃から奉天大会戦に参加[4]し、砲声で右の鼓膜を破った。ポーツマス条約で日本が北洋露領の漁業権を得た翌年の1906年春[5]、平塚氏は沿海州黒龍江河畔のブロンゲ岬で漁をしていた。そこへ背広にハンチング、白ズボンに長ぐつ[6]という漁場では見慣れない風体の青年が訪ねてくる。越後三条町の呉服屋の長男で、ロシア人相手の雑貨貿易を調べに来た堤清六氏[7]だった。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [1]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
- [2]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
- [3]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
- [4]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
- [5]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
- [6]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
- [7]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた
堤氏は帰郷したのち、水産に反対する両親と親類を説得して1万2,500円の出資を集め、163トンの帆船「宝寿丸」を手に入れた[8]。名目は当初の計画どおりの貿易だったが、宝寿丸は出漁船であり[9]、二人はこれを元手に新潟で堤商会の看板を掲げた。有価証券報告書は沿革の最初に1906年11月の堤商会設立を記し[10]、平塚氏自身は看板を掲げたのを翌1907年と回想した[11]。同年に日露漁業協約が結ばれたものの漁場の競売が遅れたため、初年度は宝寿丸でカムチャッカ河へ向かう買魚出漁に終わった[12]。翌1908年、堤商会はウスチ・カムチャッカで二か所の漁場を落札[13]し、自前の漁場を持った。平塚氏は漁のかたわら地形や潮流、魚の回遊状態を調べて歩いた[14]。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [8]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
- [9]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
- [11]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
- [12]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
- [13]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
- [14]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた
- ニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [10]有価証券報告書は1906年11月の堤商会設立を沿革の起点とする
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [1]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
- [2]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
- [3]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
- [4]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
- [5]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
- [6]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
- [7]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた
- [8]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
- [9]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
- [11]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
- [12]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
- [13]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
- [14]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた
- ニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [10]有価証券報告書は1906年11月の堤商会設立を沿革の起点とする
紅鮭の缶詰と、社名「日魯」の由来
カムチャッカ東海岸の一帯は紅鮭が多かったが、当時の日本で紅鮭は好まれず値も安かった[15]。外国では喜ばれるので輸出用の缶詰にすればよいという助言を受け、堤商会は1910年にウスチ・カムチャッカの漁場へ小さな工場を建てた[16]。その年の生産は四ダース入り704箱[17]にとどまる。缶の封は職人が鏝で半田づけし、煮沸で膨張した缶に穴をあけてまた半田づけするという手工業で、身の詰め方も揃わず「鮭のスープか」と冷やかされた[18](日本経済新聞 1958/4)。それでも味は評価され、翌年には2,700余箱を製造した[19]。隣接する露人デンビー商会の漁場はスウェーデン式の半自動機械を据えており、生産能力は堤商会の五倍から十倍あった[20]。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [15]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
- [16]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
- [17]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
- [18]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
- [19]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
- [20]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた
機械力の差を埋めるため、堤商会はオゼルナヤに新工場を建てる際、有り金をはたいて米国製のサニタリー缶機械を導入した[21]。空缶の製造から中身の充填までを自動で処理する設備で、機械は売り物ではないと断られたのを、セール・フレーザー商会のブース氏が立て替え払いまでして買い付けた[22]。この空缶部門は後に函館で独立工場となり、北海製罐につながる[23]。一方、久原房之助氏の番頭だった中山説太郎氏が興した一井組は、1914年3月12日に資本金200万円の日魯漁業株式会社となり[24]、社長に田村市郎氏、専務に中山氏が就いた[25]。これが日魯という社名の起こりで、以後は堤商会・輸出食品・日魯の三社が北洋漁業の三羽烏と呼ばれた[26]。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [21]オゼルナヤの新工場に米国製サニタリー缶機械を導入した
- [22]セール・フレーザー商会のブースが立て替え払いで機械の買付を助けた
- [23]空缶製造部門は函館で独立し北海製罐につながった
- [25]設立時の日魯漁業は社長が田村市郎、専務が中山説太郎だった
- [26]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [24]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [15]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
- [16]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
- [17]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
- [18]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
- [19]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
- [20]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた
- [21]オゼルナヤの新工場に米国製サニタリー缶機械を導入した
- [22]セール・フレーザー商会のブースが立て替え払いで機械の買付を助けた
- [23]空缶製造部門は函館で独立し北海製罐につながった
- [25]設立時の日魯漁業は社長が田村市郎、専務が中山説太郎だった
- [26]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [24]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された