ニチロ北洋サケ・マス漁場の取得と、米国式缶詰機械によるサケ缶詰の量産化
手詰めで704箱の工場に、隣の露人商会は自動機械を据えた——魚を獲る会社にとどまるか、缶詰を量産する会社になるか
- 概要
- 1906年に沿海州で出会った堤清六氏と平塚常次郎氏が、露領カムチャッカの漁場で手詰めのサケ缶詰から始め、米国製の自動缶詰機械を買い入れて量産へ移り、1914年に函館で設立された日魯漁業を含む三社の合同(1921年)で北洋最大の缶詰会社をつくった経営判断。
- 背景
- 紅鮭は当時の日本では好まれず値も安く、輸出缶詰にするほかに売り先がなかった。1910年にウス・カム漁場へ建てた工場の初年生産は四ダース入り704箱にとどまり、隣接する露人デンビー商会のスウェーデン式半自動機械とは5倍から10倍の開きがあった。
- 内容
- 西海岸オゼルナヤの新工場に、空缶の製造から詰め込みまで自動で運ぶ米国製のサニタリー缶機械を入れた。売り物ではないと断られた機械は、セール・フレーザー商会のブース氏が立替払いで仲介して買い入れた。1914年3月には一井組が資本金200万円で日魯漁業となり、函館に三社が並んだ。
- 含意
- 1921年の三社合同は米国式缶詰機械と技術を全面的に使った能率的大量生産を目的とし、堤商会の流れを汲む輸出食品が主体となって進めた。競争の中身は漁獲量から缶詰の生産能力へ移り、空缶部門は北海製罐倉庫として分かれた。
獲る量ではなく、詰める量で競うと決めたとき
隣の漁場に据えられたスウェーデン式の半自動機械は、堤商会の5倍から10倍を缶に詰めた。平塚常次郎氏と堤清六氏がここで選んだのは、漁場を増やして獲る量で押し返すことではなく、有り金をはたいて同じ土俵の機械を買うことであった。魚を獲る会社であれば、漁場の数と漁の腕が競争の中身になる。缶詰を売る会社になると決めた時点から、競争の中身は1日に何缶詰められるかへ移る。1921年の合同が缶詰の能率的大量生産を目的に掲げたのは、その延長にあったとみられる。
ただ、この量産体制は他国の領土の上に立っていた。漁場は露領の競売で買い直すもので、1913年には日本人同士の争いから堤商会が優良なウス・カム漁場を失っている。1920年の尼港事件ではオホーツク方面の漁場30余ヵ所が焼かれ、戦後恐慌の滞貨と合わせて1,000万円の負債が残った。念願の合同は、朝鮮銀行が融資の条件として求めたものでもある。缶に詰める能力が上がるほど、その前提となる漁場の不確かさも重くなったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
買魚出漁から、自前の漁場へ
1906年の春、平塚常次郎氏は沿海州の黒龍江河畔ブロンゲ岬で買魚出漁に従事していた。当時の日本人には漁場の許可が下りず、露人漁業家から魚を買うという形式をとっていたが、実際は自分たちで漁をしていた。そこへ一人の若い日本人がひょっこり訪ねてくる。越後三条町の呉服屋の長男で、ロシア人相手の雑貨貿易を調べに来た堤清六氏であった。堤氏は魚くさい漁舎に二泊三日滞在し、北洋漁業の話を聞いて帰っていった[1][2]。
その年の暮れに堤氏から連絡があり、翌1907年、二人は新潟に堤商会の看板を掲げた。堤氏は両親や親類から1万2,500円を出資させ、163トンの帆船「宝寿丸」を手に入れている。この年に漁業条約が結ばれたものの漁場の競売が遅れたため、初漁は前年と同じ買魚出漁となり、宝寿丸でカムチャッカのカム河へ向かった。翌1908年にはウスチ・カムチャッカで二ヵ所の漁場を落札し、気兼ねのない自前の漁場を得た[3][4]。
紅鮭は、日本では売れなかった
ウス・カム一帯は紅鮭が非常に多い漁場であった。ところが当時の日本で紅鮭は好まれず、値も安い。方々で聞いて回ると、外国ではかえって喜ばれるから輸出缶詰にしたらよかろうという。カムチャッカに詳しい郡司大尉の助言も力になり、堤商会は1910年、ウス・カム漁場に小さな缶詰工場を建てた。獲った魚をそのまま日本へ運ぶのではなく、現地で缶に詰めて欧米へ売る。売り先を国内から外へ移したことが、以後の事業の形を決めた[5][6]。
初年に作れたのは四ダース入り704箱にとどまった。製法は手工業そのもので、ブリキ屋のようにコテで一つずつハンダづけし、殺菌のため釜で煮沸すると缶が膨張する。穴を開けて空気を抜き、そこをまた塞ぐので、缶にはヘソのような跡が残った。中身の処理も定まらず、高熱で煮ると崩れる身と堅いままの身が混じり、「鮭のスープか」とひやかされている(日本経済新聞 1958/4)。味は良いというので気を良くし、翌年は2,700余箱を作った[7]。
決断
隣の機械力と、有り金をはたいた買付
同じ1910年、隣り合う漁場を持つ露人のデンビー商会が、スウェーデン式の半自動缶詰機械を据え付けた。手詰めの堤商会に対し、能力は5倍から10倍である。平塚氏は後年、この機械を前にして「堤も私もううんとうなった」と書き残している(日本経済新聞 1958/4)。負けん気で力んでも機械力にはかなわない。翌年には漁場取締官憲が工場のある漁場へ閉鎖を命じ、堤商会はオホーツクに三漁場を新たに得て大豊漁で凌いだ[8][9]。
オホーツクで利益を上げた堤商会は、事務所を北洋漁業の根拠地である函館へ移し、西海岸のオゼルナヤに漁場と缶詰工場を開いた。ここで平塚氏は手詰めをやめている。もう鮭のスープの時代ではないとして、有り金全部をはたき、米国から最新式の機械を買うことに決めた。サニタリー缶と呼ばれる方式で、空缶の製造から中身の詰め込みまでが自動で運ぶ。デンビー商会との能力差を、同じ機械を持つことで埋めにかかった[10]。
機械を売らない相手と、立替払いの仲介
買付は容易ではなかった。当の米国の会社は、製品の空缶は売るが機械は売り物ではないと頑強に断り、相手にしない。これを動かしたのが、かねて堤商会に力添えしていたセール・フレーザー商会の米人幹部社員ブース氏である。ブース氏は金を立て替えてまで骨を折り、買入れを成立させた。堤商会は個人企業ながら優秀な製品を作り、英国のセール・フレーザー社やセール商会の信用を得ていた。その信用が機械を動かした[11][12]。
北洋を目指す者は、この間にも増えていた。函館にできた一井組は久原房之助氏の番頭であった中山説太郎氏が中心で、派手な進出ぶりであった。1913年には中山氏がデンビー商会と絡んで堤商会の優良なウス・カム漁場を奪う。翌1914年3月12日、一井組は資本金200万円で日魯漁業株式会社となり、函館に本社を置いた。社長は久原氏と同じ長州人の田村市郎氏、専務は中山氏である。これが「日魯」という社名の始まりであった[13][14]。
結果
三社合同——目的は缶詰の能率的大量生産
1919年11月、堤商会は旧輸出食品と合併し、輸出食品株式会社となった。北洋に並ぶ三社を一本にまとめることは、平塚氏と堤氏がかねて念願していたところであった。ところが翌1920年3月の尼港事件でオホーツク方面の漁場30余ヵ所が焼き払われ、同じ年の戦後恐慌ではロンドンに送った缶詰が滞貨する。運賃の変動による差額損も重なり、負債は1,000万円に達した[15]。
百方奔走の末、朝鮮銀行を中心に融資がまとまったが、その条件は関係三社の合同であった。1921年、輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業が合同し、資本金2,570万円の日魯漁業が発足する。本社は東京市日本橋区に移った。会社銀行八十年史はこの合同を、米国式缶詰機械と技術を全面的に利用して缶詰の能率的大量生産を図るのが目的で、輸出食品が主体となり計画を進行したものと記している[16][17][18]。
容器の内製と、量産の到達点
合同にあたって輸出食品が持ち込んだのは、資本よりも信用であった。英国のセール・フレーザー社やセール商会から得ていた信用と暖簾という無形資産を提供し、新会社はこれを元に英国商社から機械の輸入と融資の援助を受けて合同を実現している。社名に日魯を残したのは、合同前の三社がいずれも14年前から露領カムチャッカでサケ・マス漁を営み、なかでも堤商会が日本最初の紅鮭缶詰工場を現地に建てていたためであった[19][20]。
容器も自前で抱えた。米国から買い入れた機械のうち空缶部門は函館で独立の工場となり、1921年10月、日魯漁業の全額出資により資本金100万円の北海製罐倉庫として設立された。量産の到達点は数字に表れている。1932年11月時点の経営漁場はカムチャッカ東海岸106、西海岸137、オホーツク38、沿海州サガレン17の計298、工場は32を数え、半期の缶詰生産は122万2,000函、年産は5,000万円を超えた[21][22]。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「北海製罐」
- ニチロ 有価証券報告書【沿革】