コロワイド逗子工場の閉鎖と鎌倉キッチン配送センターの新設、セントラルキッチン網の構築

手作りの看板を掲げたまま仕込みを店から剥がせるか——賃貸3拠点から10工場へ至る内製化

時期 1994年10月
意思決定者(推定) 蔵人金男 社長
論点 製造・物流機能の内製化
概要
1994年10月、コロワイドが創業地の逗子工場を閉鎖し、セントラルキッチンの本格稼働と物流の強化を目指して神奈川県鎌倉市に鎌倉キッチン配送センターを設置した経営判断。統合報告書2025は、この月をもって自分達で作って、自分達で運んで、自分達で売るというマーチャンダイジング戦略が本格的に始まったと記している。
背景
1977年の手作り居酒屋甘太郎から一貫して直営で店を広げ、一業態を全国へ配るのではなく一地域に複数業態を並べる地域1番店商法をとってきた。看板を他社に貸さない以上、品質と仕込みの負荷はすべて自社が抱えることになり、店の大型化と業態の増加でその負荷が重くなっていた。
内容
工場を創業地に置かれた加工設備から多店舗を支える製造・配送拠点へ置き換え、1997年までに大阪府摂津市と埼玉県浦和市を加えて3拠点とした。拠点は自社所有ではなく賃貸で賄い、3カ所合計の総投資額は1億20百万円程度にとどめた。株式公開で得た資金は出店の設備投資へ向けた。
含意
この製造・物流機能は後年のM&Aの前提に変わった。2016年の長浜工場はレインズインターナショナルとカッパ・クリエイトの買収による西日本の店舗増を理由に建設され、総投資額は約45億円に達した。一方、2020年の大戸屋ホールディングス買収では、この機能そのものが反対の理由にもなった。
筆者の見解

機能として持った工場、資産になった工場

3カ所の配送センターを賃貸で賄い総投資額は1億20百万円程度になる——1999年の講演で蔵人金男社長が語ったこの答えに、判断の芯がある。直営一貫と地域1番店商法を選んだ以上、手作りの味を店ごとにばらつかせないためには仕込みを厨房から剥がすほかなかった。それでも資金は店に向けたい。賃貸のセントラルキッチンは、その二つを両立させる折衷であったとみることができる。工場を持つことと自社で建てることを切り分けた点に、この時期の身軽さがあった。

もっとも、身軽さは長くは続かなかった。長浜工場の総投資額は約45億円で、賃貸で賄っていた頃とは桁が違う。建設の理由もレインズインターナショナルとカッパ・クリエイトの買収による西日本の店舗増であり、機能が先にあって買収を支えたというより、買収が機能の規模を決めた面が大きい。大戸屋の窪田健一社長が店内調理の良さを守ろうとしたように、共通化の効きにくい看板もある。垂直統合は原価を下げる装置であると同時に、買った相手に何を残すのかを毎回問い直させる仕組みでもあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

直営で面を押さえるという選び方

コロワイドの店舗展開は、看板を他人に貸さない形で始まった。蔵人金男社長は1999年の講演で、昭和52年に手作り居酒屋甘太郎として逗子に30坪の店を出したのが始まりであり、これを主力業態として一貫して直営で店舗展開を行ってきたと述べている。一業態を全国へ薄く配るのではなく、一地域で幅広い年齢層を集める地域1番店商法を戦略に据えたとも語った。速く広げる道を選ばなかった分、味と仕込みの負荷はすべて自社が背負った[1]

抱え込む負荷は、業態が増え店が大きくなるほど重くなった。1981年11月の大船1号店から直営のみの多店舗展開に入り、1987年に日本料理三間堂、1992年にダイニングカラオケのデイ・トリッパーを自社で開発している。1988年11月には358席の大和店を開き、1993年11月の海老名2号店では全席に無煙ロースターを据えて焼肉をメニューに加えた。主力の甘太郎はほとんどの商品が本格手作りで、焼鳥や玉子焼は売り切りを前提とし、残れば捨てる運用をとっていた[2][3]

創業地に残されていた工場

仕込みを支える設備そのものは、1986年11月に置かれている。同年6月に町田1号店で東京都へ進出したのと前後して、コロワイドは本社を逗子から藤沢市南藤沢へ移し、創業地である逗子市に逗子工場を設置した。本社は商圏の広がりに合わせて動いた一方、工場は創業の地に残った。1994年4月には蒲田で甘太郎とデイ・トリッパーを同時に開き、本格的な東京進出の方向性を打ち出している。店が東へ伸びるほど、逗子から運ぶ距離は長くなった[4]

距離だけが問題であったわけではない。多業態を一地域に重ねる展開では、業態ごとに異なる仕込みが同じ商圏の中で並行して走る。蔵人社長は後年、徹底したドミナントで流通システムを効率化し鮮度の高い食材を提供する一方、知名度を上げていると複合出店の意図を説明している。一業態あたりの店数を抑えたまま面を押さえる形をとる以上、仕込みを各店の厨房に残したままでは効率が出にくかったとみられる[5]

決断

逗子工場を閉じ、鎌倉へ置き直す

1994年9月、社名が株式会社コロワイドに改まった。勇気・愛・知恵・決断の四語からの造語であることが、有価証券報告書に記されている。翌10月、同社は逗子工場を閉鎖し、セントラルキッチンの本格稼働と物流の強化を目指して神奈川県鎌倉市に鎌倉キッチン配送センターを設置した。工場を、創業地に置かれた加工設備から、多店舗を支える製造と配送の拠点へ定義し直す判断であった。同年12月には川崎駅前に233坪465席の甘太郎川崎1号店を開き、大型店展開の端緒としている[6]

会社自身も、自社の歩みをこの月から数えている。統合報告書2025は、1994年10月に逗子の食品加工工場を閉鎖して鎌倉市に400坪の鎌倉キッチン配送センターを新設したことをもって、自分達で作って、自分達で運んで、自分達で売るというマーチャンダイジング戦略が本格的に始まったと記す。拠点はその後も足された。1997年7月に大阪府摂津市へ大阪キッチン配送センター、同年11月に埼玉県浦和市へ413坪の浦和キッチン配送センターを置いている[7][8]

自前で建てず、賃貸で賄う

1999年10月に株式を店頭登録した直後、蔵人社長は証券アナリスト向けの講演で自社の特徴を三つ挙げ、その一つに独自のキッチン配送センターを3カ所保有していることを置いた。これにより、美味しくリーズナブルな価格による手作り料理の提供、徹底した衛生管理、複合店のドミナント展開、商品の売れ筋・もうけ筋への特化が可能になったという説明であった。製造機能は、多業態を一地域に重ねる展開の前提として語られていた[9]

講演の質疑では、その拠点をどう持っているかが明かされた。3カ所は12時間稼働で合計170店舗に対応でき、店舗数がこれを超えれば75店舗対応のセンターを埼玉か千葉に作る。ただし自前ではなく賃貸で賄うため総投資額は1億20百万円程度になる、と蔵人社長は答えている。当時の店舗数は104店で、翌々期までに年35店以上の新規出店を計画し、株式市場からの調達資金はすべて設備投資に充てる方針であった。製造機能を重い自社資産にせず、資金は店へ向けたことになる[10][11]

結果

買収が工場の規模を決めるまで

拠点は入れ替わりながら増えていった。2001年6月に鎌倉キッチンセンターを閉鎖する一方、2005年にさいたまキッチンセンターを増設し、2007年に6拠点目となる栃木キッチンセンター、2011年に横須賀の神奈川キッチンセンターを設けている。2012年6月には子会社コロワイドMDの神奈川工場に2億円を投じ、敷地面積346平方メートルの植物工場を稼働させた。同社の井上真社長は、野菜は他の食材と比べて値段の上下が大きく安定調達が非常に難しいと語っている[12][13]

規模を決めたのは買収であった。2016年5月、コロワイドは滋賀県長浜市への新工場建設を発表する。敷地面積約20,742平方メートル、総投資額約45億円で、東日本をカバーする神奈川工場を上回る規模であった。発表資料は建設の理由を、2012年のレインズインターナショナルと2014年のカッパクリエイトのM&Aにより西日本地区の店舗数が約450店へ飛躍的に増加したためと明記している。あわせて内製化率の向上と、当時10カ所あった工場の再編・物流網の統廃合を掲げた[14]

店内調理という反論と、10工場体制

買った会社に自社の型を持ち込めるかが正面から問われたのが、2020年の大戸屋ホールディングス買収であった。同年9月、コロワイドは公開買付けによって発行済株式総数の46.8%を取得し、同社を連結子会社としている。大戸屋側の窪田健一社長は、コロワイドのセントラルキッチンが導入されれば店内調理の良さ、大戸屋の味が失われてしまうと株主に訴え続けていた。四半世紀かけて築いた製造機能が、買う理由であると同時に、売り渡さない理由としても持ち出された[15][16]

拠点はその後も増えている。2017年7月に滋賀県長浜市の長浜セントラルキッチン、2022年10月に横浜市戸塚区のMD研究所、2026年4月に茨城県つくば市のつくば工場が加わった。2025年の誌面では、グループ全体で10カ所の自社工場を持ち、肉のカットやハンバーグの成型を工場で行って店舗の仕込み工数を軽減していること、数種類あったエビを可能な限り統一して調達ロットを増やし原価を下げていることが伝えられている[17][18]

出典・参考

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