旭化成 水島コンビナート建設 売上高に匹敵する1000億円を投じた石油化学への本格進出
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1960年代後半、旭化成工業の宮崎輝社長が、当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を伴う石油化学コンビナートの建設に踏み切り、岡山県水島地区でエチレンセンターの建設に着手した経営判断。リスクが大きすぎるという社内の反対論を常務会と全工場行脚で説き伏せ、通商産業省の指導を受けて競合の三菱化成工業との輪番制共同投資へ計画を組み替えて実現させた。
- 背景
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1954年の合成樹脂スタイロン以来、旭化成工業はアクリロニトリル・モノマーなど誘導品を一つずつ積み上げてきたが、その土台となる基礎原料は他社から買っていた。合繊の原料が石油化学の誘導品として安く作られることは確実とみられ、原料の自給は総合化学会社への脱皮と一体の課題であった。
- 内容
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当初の計画は旭化成工業・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社で年12万トンのエチレンセンターを建てるものであった。三菱化成工業が同じ水島地区で年30万トン規模の建設を表明すると通産省が共同建設を指導し、1968年1月のトップ会談を経て輪番制の共同投資へ切り替えた。
- 含意
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1972年4月、山陽エチレンが年産35万トンのエチレンセンターを完成させ、念願の総合化学会社となった。ただし同じ月にエチレン業界は不況カルテルの認可を受けており、翌1973年の石油危機以降、この設備は"油漬け"と呼ばれる体質の中心に変わった。
いつ何が起きたか 10件
筆者の見解
念願であることと、正しいことは別に決まる
1000億円という金額は、宮崎氏自身が掲げた『自分の実力の範囲でなければならぬ』という選択基準の外側にあった。売上高に匹敵し、年間の設備投資の5倍を超え、社内の反対論も強かった。それでも押し切れたのは、モノマーを三菱化成工業などから買っていた時期の供給不安の記憶と、最低規模基準が30万トンへ上がって単独計画の余地が消えつつあった事情が重なっていたからだとみられる。実力の範囲という物差しは、ここでは踏み越える側の理由に使われている。
ただし、通ったのは進出の意思であって、計画の形ではなかった。単独12万トンの構想は認められず、競合と輪番で建てる形に組み替えられ、水島エチレンの工事と運営は三菱化成工業が握った。山陽エチレンが動き出した1972年4月は、エチレン業界が不況カルテルの認可を受けた月にあたる。翌年の石油危機以降、この設備は"油漬け"と呼ばれる体質の中心に変わり、脱皮の対象は繊維から石油化学へ移った。念願であったことと、投資として正しかったことは、別々に検討される必要があるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
業績の推移
同じ問いに直面した会社
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参考文献
- 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
- 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
- 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
- 『日本産業史』第3巻 化学「化学-プラントの大型化を経て成熟化」(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994年)
- 私の履歴書 経済人22「宮崎輝(旭化成工業・社長)」
- 旭化成 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1980年12月29日号