旭化成売上高に匹敵する1000億円を投じた水島の石油化学コンビナート建設

原料を買い続けるか、自ら分解炉を持つか——化繊会社はどこまで賭けられたか

時期 1968年7月
意思決定者(推定) 宮崎輝 社長
論点 基礎原料の自給と大型設備投資
概要
1960年代後半、旭化成工業の宮崎輝社長が、当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を伴う石油化学コンビナートの建設に踏み切り、岡山県水島地区でエチレンセンターの建設に着手した経営判断。リスクが大きすぎるという社内の反対論を常務会と全工場行脚で説き伏せ、通商産業省の指導を受けて競合の三菱化成工業との輪番制共同投資へ計画を組み替えて実現させた。
背景
1954年の合成樹脂スタイロン以来、旭化成工業はアクリロニトリル・モノマーなど誘導品を一つずつ積み上げてきたが、その土台となる基礎原料は他社から買っていた。合繊の原料が石油化学の誘導品として安く作られることは確実とみられ、原料の自給は総合化学会社への脱皮と一体の課題であった。
内容
当初の計画は旭化成工業・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社で年12万トンのエチレンセンターを建てるものであった。三菱化成工業が同じ水島地区で年30万トン規模の建設を表明すると通産省が共同建設を指導し、1968年1月のトップ会談を経て輪番制の共同投資へ切り替えた。
含意
1972年4月、山陽エチレンが年産35万トンのエチレンセンターを完成させ、念願の総合化学会社となった。ただし同じ月にエチレン業界は不況カルテルの認可を受けており、翌1973年の石油危機以降、この設備は「油漬け」と呼ばれる体質の中心に変わった。
筆者の見解

念願であることと、正しいことは別に決まる

1000億円という金額は、宮崎氏自身が掲げた「自分の実力の範囲でなければならぬ」という選択基準の外側にあった。売上高に匹敵し、年間の設備投資の5倍を超え、社内の反対論も強かった。それでも押し切れたのは、モノマーを三菱化成工業などから買っていた時期の供給不安の記憶と、最低規模基準が30万トンへ上がって単独計画の余地が消えつつあった事情が重なっていたからだとみられる。実力の範囲という物差しは、ここでは踏み越える側の理由に使われている。

ただし、通ったのは進出の意思であって、計画の形ではなかった。単独12万トンの構想は認められず、競合と輪番で建てる形に組み替えられ、水島エチレンの工事と運営は三菱化成工業が握った。山陽エチレンが動き出した1972年4月は、エチレン業界が不況カルテルの認可を受けた月にあたる。翌年の石油危機以降、この設備は「油漬け」と呼ばれる体質の中心に変わり、脱皮の対象は繊維から石油化学へ移った。念願であったことと、投資として正しかったことは、別々に検討される必要があるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

誘導品は揃え、基礎原料は買っていた

旭化成工業が石油化学に足を踏み入れたのは1954年、米ダウ・ケミカル社と技術提携し、川崎工場で合成樹脂スタイロンを原料のモノマーから手がけたときであった。1962年にはアクリル繊維カシミロンの主原料アクリロニトリル・モノマーを世界で初めて一段法で工業化し、1965年には日産115トンと世界最大級の規模に育てていた。誘導品を一つずつ積み上げる形で、化合繊会社は化学会社の側へ寄っていった[1][2]

それでも積み上げの土台にあたる基礎原料は、他社から買う立場のままであった。宮崎輝氏は、モノマーに進出する前の状況を「三菱化成工業など国内の石油化学メーカーや海外から購入していたが、これでは供給に不安があるし、コストも高くつく」と書き残している。1965年の講演でも副社長の刈谷亨氏は、低圧ポリエチレンとポリプロピレンが自社に欠けていると認め、ポリプロピレンは設計まで済ませながら業界の実情を考慮して建設を手控えていると語っていた[3][4]

「何を選ぶか」という物差しと、その外側にある金額

宮崎氏の事業選択には明快な基準があった。1967年の業界誌取材では「企業で大事なことは何を選ぶかということです。これで勝負がつきます」と述べ、選ぶ条件として将来性があること、そして自分の実力の範囲であることの二つを挙げている。同じ取材で宮崎氏は、天然繊維から再生繊維へと続いた交代の波はいずれ合繊にも訪れると語り、繊維の外に自社の柱を用意する必要を説いていた[5][6]

会社の体力は、その物差しで測ると心もとなかった。1968年11月の講演で常務取締役の植松健悟氏は、同年度の売上高を1710億円、設備投資を現金ベースで185億円と見込むと説明している。自己資本比率は1965年時点で25〜26%にすぎず、設備投資は自己資本で貫きたいというのが同社の方針であった。年間の設備投資の5倍を超える金額を一つの分解炉とその周辺に投じる話は、明らかに従来の身の丈の外側にあった[7][8]

決断

反対論を説いて回った1000億円

宮崎氏は1965年前後に石油化学コンビナートへの進出を決めた。本人の回想によれば、それは当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を必要とする、社運をかけた計画であった。社内ではリスクが大きすぎるという理由で反対論が強かったが、宮崎氏は「この機を逃せば永遠にチャンスを失う」という危機感を持っており、やり通すつもりで押した。旭ダウでスタイロンを手がけて以来、エチレンセンターの建設は宮崎氏の念願であった[9][10]

押し切り方には手順があった。宮崎氏は何回も常務会を開いて役員の意見を聞きながら自説を説明し、同時に企画部長の岡本担三氏を全工場に回らせて説明と説得に当たらせたうえで、計画の遂行を決めている。計画そのものは水島地区で旭化成工業・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社がコンビナートをつくるもので、エチレンセンターの能力は年12万トンを予定し、のちにチッソが加わって20万トンへ引き上げられた[11][12]

通産省の指導と、競合との輪番制

社内をまとめた段階で、三菱化成工業が同じ水島地区に年30万トン規模のエチレンセンターを建設すると発表した。通産省は同じ地区でほぼ同時期に始まる二つの計画は認められないとして、両社が共同で建設するよう指導してきた。国際競争力の強化を掲げる通産省は石油化学協調懇談会の方式でエチレン・プラントの最低規模を定めており、その基準は1967年に年10万トンから30万トンへ引き上げられていた。旭化成工業の20万トンは、この基準に届いていなかった[13][14]

三菱化成工業はあくまで単独建設を主張し、宮崎氏にも引き下がる考えはなかった。通産省の化学工業局長であった吉光久氏が斡旋に乗り出し、1968年1月、両社のトップ会談がクラブ関東で開かれた。三菱化成工業社長の篠島秀雄氏も個性の強い経営者として知られ、業界では話し合いはまとまらないとみられていたが、二人はともに労務畑の出身で、譲るべきところは譲って輪番制の共同投資に落ち着いた。当時これは「ドゴールとナセルの握手」と評された[15][16]

結果

輪番で建った二つのセンター

トップ会談から半年後の1968年7月、旭化成工業60%・日本鉱業40%の出資で山陽石油化学が設立された。同社と三菱化成工業の折半出資により水島エチレンもつくられ、年30万トンの設備は1970年7月に完成した。生産品目は両社が折半で使い、工事の主体と運営は三菱化成工業が担当している。続く1969年12月には同じ方式で山陽エチレンが設立され、今度は旭化成工業が工事と運営を受け持った[17][18]

山陽エチレンのエチレンセンターは1972年4月、年産35万トンで完成した。計画から完成まで7年、これで旭化成工業は念願の総合化学会社となった。もっとも、この時期の30万トン級計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除きすべて共同出資か輪番投資の形をとっており、大量のナフサ手配と資金負担を分け合う旭化成工業の選択は、業界のなかで例外ではなかった[19][20]

稼働の月に来ていた成熟、その先の「油漬け」

需要の側は、センターの完成を待たずに変わっていた。1970年秋から誘導品の在庫が急増し、年率30%で伸びてきたエチレン生産は1971年に14.2%へ鈍化した。設備だけが増えたためエチレンの操業率は1972年に70%台へ落ち、エチレンメーカー12社は同年3月18日に不況カルテルの結成を公正取引委員会へ申請し、4月15日に認可を得ている。山陽エチレンが動き出したのは、その4月であった[21]

宮崎氏自身は、このセンターがその後の多角的な事業展開の強力な武器になったと総括している。事実、旭化成工業は1982年に旭ダウを合併し、エチレンから誘導品までの一貫体制を手にした。一方で1973年10月の石油危機以降、原燃料の高騰は同じ設備を通って損益に響いた。1980年3月期の原燃料コストの上昇は500億円にのぼり、経営計画を担当する弓倉礼一常務は、企業構造が「油漬け」という弱点を抱えていることこそ大きな問題だと語っている。念願として建てた設備が、そのまま体質の名前に変わっていた[22][23]

出典・参考

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