ホリプロ放送局系列の音楽出版会社への楽曲著作権譲渡の不採用と、東京音楽出版の設立

目先の出演機会か、楽曲の権利か——放送局あっての芸能プロといわれた時代に、堀威夫社長はどちらを取ったか

時期 1965年8月
意思決定者(推定) 堀威夫 ホリプロダクション 社長
論点 収益構造と権利の保有
概要
1965年8月、ホリプロダクションが東京音楽出版株式会社を設立し、所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲らず、自社で保有して管理する道を採った経営判断。堀威夫社長の判断による。
背景
テレビ・ラジオへの出演回数がタレントの人気と業績に直結した時代、多くの芸能プロダクションは楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲り、見返りに出演機会を得ていた。ホリプロダクションの収入は番組出演料と興行収入に限られ、守屋浩氏の謹慎や舟木一夫氏の独立で一気に細る構造であった。
内容
東京音楽出版を設立してレコード会社への音楽原盤制作の提供と著作権管理を開始。日本音楽著作権協会の会員となり、作詞・作曲者と分配率を交渉したうえで著作権を自社へ譲渡してもらう形を敷いた。レコードは自社がマザーテープを納める方式とし、著作権と原盤権を同時に確保した。
含意
使用料が入るまでの半年から1年の時差が次の商品を開発する原資となり、1980年の山口百恵氏の引退のような事態を下支えした。1989年時点の著作権料収入は原盤印税を含めて売上高の20%強。事業は1985年の洋楽管理会社の設立、1990年代の米国3社の設立へ広がった。
筆者の見解

何を会社の資産と数えるか

1965年に東京音楽出版へ移した権利が数字で語られたのは、売上高の20%強という比率が示された1989年の講演であった。設立から20年余り、この会社は放棄した出演機会の埋め合わせをすぐには返さない持ち場であり続けた。堀威夫社長が譲渡に同調しなかったのは、守屋浩氏の謹慎と舟木一夫氏の独立という創業直後の2件で、タレント1人の身に起きたことがそのまま売上を消す構造を、創業直後の2件で見ていたからだった。放送局との関係を優先した同業他社の判断も、当時の力関係のもとでは合理的であった。

ただ、著作権収入が本業を上回ることはなかった。同じ講演で堀会長が挙げた著作権料収入は原盤印税を含めて売上高の20%強にとどまり、上位10人の収入が総売上高の30%ほどを占める構造は残った。米国に構えた3社も、総投資額10億円に対する使用料は年間9,000万円で、2000年に著作権事業だけで人件費をまかなうという見通しは1994年の時点では先の話であった。それでも、タレントが去っても残る資産を持つかどうかが、一代限りの人気商売と呼ばれた事業を長く続けられるかどうかを分けたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

出演料と興行収入だけで立っていた会社

ホリプロダクションは1963年1月、資本金250千円で東京都港区赤坂田町に設立され、演芸の供給と斡旋、演劇・音楽・映画の興行を業務とした。歌手のマネージメントを軸とする会社で、収入は所属タレントの番組出演料と興行収入に限られていた。口入れ稼業、一代限りの人気商売とも呼ばれる事業である。堀威夫社長はこれを男子一生の仕事にすると掲げ、投機的な思惑や水商売的な感覚を取り払い、最初から企業として営む方針を立てた[1][2]

その脆さは、創業からほどなく2度あらわになった。最初に世に出た歌手の守屋浩氏は事故を起こし、1年間の謹慎で仕事から離れた。守屋氏に次いでデビューさせた舟木一夫氏は、かつて興行を手がけた父親が息子の売れ行きを見て動き、1年たたないうちに独立した。生身の人間を抱える以上、病気も事故も起こり得る。堀社長は後年、これをプロダクションが生来もっているアキレス腱と呼んでいる[3]

放送局あっての芸能プロという力関係

1960年代の音楽ビジネスでは、テレビ・ラジオへの出演回数の増加がタレントの人気上昇を招き、それが芸能プロダクションの業績へそのまま結びつく構図が成り立っていた。大ヒットを飛ばすには、まず放送局との間に太いパイプが必要になる。放送局あっての芸能プロという関係が業界では一般的で、出演枠を配る側と分けてもらう側という力の差が、商売の前提に置かれていた[4]

そこで多くの芸能プロダクションは、所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲り渡す作戦を採り始めた。プロモーションが当たって曲がヒットした場合の著作権使用料収入を放送局側に譲り、その見返りにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう仕組みである。譲るのは当たるかどうか分からない将来の収入で、得るのは目の前の出演枠にあたる。放送局と芸能プロダクションの力関係を考えれば、もっともな策であった[5]

決断

譲らずに自前で持つ

1965年8月、ホリプロダクションは東京音楽出版株式会社を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を始めた。堀社長は、放送局系列へ譲るという同業他社の動きに同調しなかった。楽曲の著作権は自社がこの世に産み落としたかけがえのない財産であり、何年かすれば必ず安定した収益源になるという読みがあった。渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックと並び、芸能プロダクションとしては最も早い時期に自前の著作権管理事業へ乗り出した[6][7]

この選択は、譲渡と引き換えに得られたはずの出演機会を手放すことを意味した。当時のホリプロダクションは設立から2年半の新興プロダクションで、放送局との太いパイプこそが足りていない側にあった。それでも堀社長が権利を取ったのは、守屋氏の謹慎と舟木氏の独立で、タレント1人の身に起きた出来事がそのまま売上を消す構造を見ていたからだとみられる。出演枠は放送局が配るが、著作権は作者の死後50年という長期にわたって自社に残る[8]

ジャスラック会員化と分配率の交渉

著作権を収入へ変えるには、社外の仕組みに自社を接続する必要があった。ホリプロダクションは日本音楽著作権協会(ジャスラック)の会員となり、自社が著作権をもつ楽曲がレコード・テープ・CDとして売れたり、演奏会やテレビ、映画で使用されたりするたびに、一定の使用料が同協会を経由して入る形を整えた。歌手のマネージメントから始まった会社が、著作権の活用は収入増につながると気付いた結果であった[9]

楽曲そのものの押さえ方も定めた。所属歌手が新曲を出す際、自社が企画する場合も作詞・作曲者に企画してもらう場合も、発売の時点で分配率を決めたうえで著作権をすべて自社へ譲渡してもらう。分配率は作詞・作曲者との個別の交渉で決まり、期間には有限のものと無限のものがあった。レコードでは自社がマザーテープを作ってレコード会社へ納め、原盤印税がレコード会社経由で入る形を敷いたため、1曲ごとに著作権と原盤権が同時に生じた[10]

結果

半年から1年の時差が次の商品を生んだ

著作権使用料は、使用時からジャスラックを経由してホリプロダクションへ入るまで半年から1年ほどかかる。堀社長はこの時差そのものを、次の商品を開発するのに重要な役割を果たすものと位置づけた。映画やテレビ、のちにはVTRでの使用にも一定のロイヤリティーが入り、いずれにも同じ時差がある。堀会長は後年、これらが予測できない不慮の事態をカバーする大きな役割を果たしていると述べた[11]

その効き目が表に出たのは1980年であった。売上高の22%ほどを占めていた山口百恵氏が結婚を理由に歌手を引退し、新聞や雑誌はホリプロはつぶれるにちがいないと書いたが、同社は次の商品の開発へ移れた。1989年3月20日の講演で堀会長は、所属タレント上位10人の収入が総売上高の30%ぐらい、著作権料収入が原盤印税を含めて20%強と答えた。所有する著作権は、人気タレントの引退や独立というリスクをカバーする役目を担っていた[12][13]

洋楽と米国へ広げた著作権事業

権利を扱う持ち場はその後も広げられた。1985年10月、ホリプロダクションは新会社の東京音楽出版株式会社を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を始めた。1965年設立で音楽原盤の制作と著作権管理にあたった同名の会社とは別の法人にあたる。1987年4月には、その1965年設立の会社が改称したホリミュージックを含む4社を吸収合併し、権利と原盤の管理を本体へ取り込んだ[14]

1989年6月に米国ロスアンジェルスへ設けた現地法人を足がかりに、著作権事業は国外へも伸びた。1994年の時点でナッシュビルのホリプロ・エンターテイメント・グループ、ロサンゼルスのエメラルド・フォレスト、ニューヨークのデルファイ・キャピタルの3社を構え、9,000曲の著作権を獲得している。総投資額10億円に対して入る使用料は年間9,000万円で、堀会長は2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなうと見通した[15][16]

出典・参考
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)

この決断を下した社長 堀威夫

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