ホリプロ新人発掘の他社番組依存からの転換と、全国公募オーディションの創設
他社の番組に新人発掘を委ねるか、自前で公募するか──年商35億円の会社が1億5,000万円を投じた根拠
- 概要
- 1976年、ホリプロダクションが日本テレビの番組「スター誕生」に頼ってきた新人発掘を自前へ移し、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた判断。堀威夫社長は採算を度外視して初回に1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに榊原郁恵氏を選んだ。
- 背景
- ホリプロダクションは「スター誕生」の立ち上げに協力して山口百恵氏と森昌子氏を相次いで獲得したが、番組が人気を得るにつれて各プロダクションのスカウト合戦が激しくなった。スカウト番組の審査は複数の審査員の多数決によるため、難点は少なくても個性を訴える力のない志願者が残った。
- 内容
- 全国を回る公募で志願者を集め、堀社長が重んじた目の輝き・歯の白さと歯ならび・声の大きさという見立てと、1人でもベタほめする者がいれば押し切る決め方を自社の手に置いた。責任者には、同社を支えた最初の歌手で1976年に歌手を引退した守屋浩氏を充てた。
- 含意
- 榊原氏がスターになったことで初回の投資は回収され、堀ちえみ氏・井森美幸氏・鈴木保奈美氏・山瀬まみ氏が続いた。看板タレントが1人欠けてもその穴を埋める人材がデビューする循環が生まれ、1人のタレントに売上高の25%以上を負わせない方針は31年後も残った。
買い戻したのは志願者ではなく、採否の決め方
他社の番組の審査席では、目の輝きと歯ならびと声の大きさで新人を採れなかった。多数決は難点の少ない志願者を残す仕組みで、1人でもベタほめする者がいれば押し切る堀威夫社長の手法と相容れない。1976年の1億5,000万円は、志願者を集める費用であり、採否の決め方を他社から買い戻す費用でもあった。年商35億円の会社が利益の2割を超える額を一度の催しに充てたのは、前編を他社に預けては後編で稼げないという見立てによるものだとみられる。
回収の根拠は、榊原郁恵氏1人の成功に集中していた。第1回でスターが出なければ、分不相応という堀社長自身の評価はそのまま失敗の記録として残ったはずである。公募が仕組みとして働いたと言えるのは、堀ちえみ氏から山瀬まみ氏まで輩出が続き、31年後まで1人に売上高の25%以上を負わせない枠が保たれたからにすぎない。発掘の場を自前で持つことは、当たりを引く確率を上げる手ではなく、外した後に次を打てる回数を増やす手であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
放送局あっての芸能プロという力関係
1970年代半ばの芸能プロダクションの業績は、放送局との結びつきの強さに左右された。テレビとラジオへの出演回数が増えればタレントの人気が上がり、それが会社の売上高に跳ね返る。業界の仕組み自体が1955年設立の渡辺プロダクションの実績から始まっており、ナベプロ帝国と呼ばれる寡占の下で、ホリ・プロダクションは第2勢力にあった。堀威夫社長は水商売的な感覚を取り払い、この稼業を男子一生の仕事にすることを掲げていた[1][2]。
日本テレビの「スター誕生」は、その関係を象徴する番組であった。ホリプロダクションは番組の立ち上げに協力し、山口百恵氏と森昌子氏を相次いで獲得した。2人は同社の看板を一気に厚くしたが、番組が人気を得るにつれて、審査席に並ぶ各プロダクションのスカウト合戦が激しくなった。志願者を集める仕組みは他社のもので、獲得の可否は競り合いに委ねられる。番組に頼るかぎり、望む新人を望むかたちで取れる保証はなかった[3]。
多数決が残す平均点の志願者
堀社長の新人の見立ては、業界では異色と評されていた。第1に目の輝き、第2に歯の白さと歯ならび、第3に声の大きさ。歌のうまさより人間としての資質を先に測る順序で、声も良し悪しではなく大きいかどうかを見た。声が大きければ健康で快活明朗、自己主張も強いという読みによる。山口氏を採ったときは健康美あふれる大根足に惚れ込み、弱点をどう隠すかは初めから考えなかった[4]。
この見立ては、他社の番組の審査席では使えなかった。スカウト番組は複数の審査員の多数決で決まるため、難点の少ない平均的な志願者が残りやすい。難点の少なさと、個性を訴える力があることは別で、堀社長は1人でもベタほめする者がいれば独善と偏見を行使して採用に踏み切った。和田アキ子氏のときも山口氏のときも、周囲の反対を押し切って採った。採否の決め方を自分の側へ取り戻すことが、自前の公募を立てる論拠になった[5]。
決断
他動車から自動車へ、分不相応の1億5,000万円
1976年、ホリプロダクションはタレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを組んだ。堀社長はその意図を、テレビ局の「スター誕生」式番組に頼ってきた新人発掘を自前でも行うこと、他動車から自動車になることと説明した。加えて、全国を回る催しでホリプロの名を浸透させるねらいも置いた。発掘の場を他社から引き取ると同時に、集客そのものを社名の宣伝に変える構えであった[6]。
初回は採算を度外視した。堀社長は分不相応と自認しながら1億5,000万円を投じた。開始の翌期にあたる1977年3月期のホリグループの年商は35億円、税引き前利益は7億円近くで、投じた額は年商の4%台、利益の2割を超える。売上高を伸ばすには所属タレントを増やすほかなく、増やせばタレントを担当する社員も増える。会社の伸びに正比例して人件費が伸びる収益構造のもとで、一度の催しに充てる額として小さくはなかった[7][8]。
責任者に据えた守屋浩氏と、前編の引き取り
責任者には守屋浩氏を充てた。守屋氏はホリプロダクションを支えた最初の歌手で、1976年に歌手を引退した。堀社長は、売れ盛りを過ぎたタレントの処遇の第一号として、この人物に新人発掘の職を与えた。人気の落ちた看板を外へ出さず、次の看板を探す仕事に就ける配置であり、芸能の稼業を男子一生の仕事にするという同社の掲げ方を社内に対して示す人事でもあった[9]。
堀社長は、タレントづくりの工程を前編と後編に分けて考えていた。前編は発掘から新曲がベスト5に入るまでで、年間600人近い新人がデビューする当時は技量の差も小さく、素人の判断が当たることさえある領域だと位置づけた。グレードを上げ、ライフサイクルを伸ばす後編のマネジメント価値の創造にこそプロダクションの役割があるとした。前編を他社の番組に預けたままでは、後編で磨く素材を自分で選べない[10]。
結果
榊原郁恵氏による回収と、続いた輩出
第1回のグランプリに選ばれたのは榊原郁恵氏であった。堀会長は後年、榊原氏という少女に遭い、彼女がスターになってくれたので投じた分は十分に回収できたと述べた。キャラバンはその後も続き、堀ちえみ氏、井森美幸氏、鈴木保奈美氏、山瀬まみ氏を世に送り出した。堀会長はスカウト活動を芸能プロダクションの生命線と位置づけ、看板タレントが1人欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューする循環を意識した商品開発を続けた[11][12]。
公募は一度きりの企画に終わらなかった。1990年、ホリプロダクションはロックブームとバンドブームの加速に目を付け、才能あるアーチストの発掘を目的とした新たなオーディション「HORIPRO LIVE BATTLE」の開催を計画した。歌謡番組の地盤沈下で音楽ビジネスを取り巻く環境が変わっても、探す相手を入れ替えて公募の形を組み直せば足りた。他社の番組の枠に合わせていたころには持てなかった自由度であった[13]。
31年後も残った25%の枠
発掘を自前で持つ体制は、1人に頼らない収益の組み立てと対になっていた。2007年時点のホリプロには、1人のタレントで売上高の25%以上を稼がないという暗黙のルールが残っている。創業者の堀氏は、ホームランバッターはいらず3割打者が3人いればよいと言い続けてきた。大物タレントに頼りすぎ、そのタレントが売れなくなった途端に業績が傾いた経験から生まれた教訓であると、マネージメント第一事業部の鈴木基之部長は説明する[14]。
突出した1人を作らない運用は、露出の調整にまで及んだ。主演ドラマがあったタレントはしばらくテレビ出演を控えさせ、人気を持続させるために仕事をやらせない判断も採る。毎年4月頃に開くタレント方針会議では、取締役と各部門の部長、担当マネジャーが2日間かけて全所属タレントの今後3年間の媒体戦略を立てた。2007年3月期は業績予想を2度上方修正し、売上高も過去最高を更新する勢いにありながら、突出して稼ぐ者はいなかった[15][16]。
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮 (株)ホリプロ会長 堀威夫/立教大学教授 野田一夫」
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- 週刊東洋経済 2007年4月28日号