1912年4月1日、吉本吉兵衛氏と吉本せい氏の夫婦は、天満天神宮の裏門に面した一角で寄席『第二文芸館』の経営に乗り出した[1]。買い取った小屋に何を載せるかで、夫婦は当時の寄席の相場から外れた選び方をした。演芸を興行する場を自前で持ち、そこに客の入る出し物を掛けるこの寄席経営から、吉本興業の事業が始まった[2]。
創業者の吉本せい氏の弟にあたる林正之助氏は、姉に請われ、大正の初めに18歳で興行の世界に入った[3]。まもなく吉本吉兵衛氏が急逝し、林正之助氏が吉本せい氏の片腕として寄席の興行を切り盛りした[4]。林正之助氏の勤続は74年に及び、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして経営を握った[5]。夫婦が始めた寄席経営は吉本興行部の名で束ねられ、その設立を1914年4月とし、そこに事業の始まりを置く記録も残る[6]。買い取った小屋を足場に寄席を増やし、大正末期には東京や横浜へも進出して、30近い寄席を傘下に収めた[7]。
1932年、吉本興行部を吉本興業合名会社に改組した[8]。改組の時期については、1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めたとする記録も残る[9]。合名会社に形を改めたあとは、興行する場と、そこに立つ芸人を同時に増やすことへ向かった。演芸人を育成し指導する機関を設けたうえで、寄席の興行に加えて演劇と映画へ業務を広げた[10]。芸人を自前で育てながら小屋を買い増した結果、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市へ伸び、30有余を数えるに至った[11]。寄席まで合わせると、大阪を本拠に各都市へ並べた小屋の数は35に達した[12]。
1933年には、抱えていた芸人を組ませて漫才コンビのエンタツ・アチャコをつくり、『早慶戦』を大ヒットさせた[13]。この一作で漫才は大阪の寄席を越えて人気を集め、興行主としての吉本の名を高めた[14]。劇場を増やすほど掛ける出し物が要り、当たる出し物が出れば劇場が埋まった。ところが太平洋戦争により、経営していた劇場のほとんどが甚大な被害を受け、焼け落ちた小屋も出た[15]。所属していた芸人たちも戦争で散り散りになった[16]。
戦後、吉本興業合名会社は戦災を受けた劇場をいち早く修復し、アメリカ映画を主体に興行を再開した[17]。空襲で焼けた演芸場の跡には映画館を建て、映画興行を主な業務に据えた[18]。散り散りになった芸人が戻らない以上、掛けられるのは自前の演芸ではなく、他社の作った映画だった。1955年に関西学院大学文学部を卒業して入社した中邨秀雄氏は、映画館の管理係として掃除や看板の掛け替えにあたった[19]。入社の動機を、好きな映画をただで見られると考えたからだと中邨秀雄氏は述べた[20]。
1948年1月7日、資本金650万円で吉本興業株式会社を設立した[21]。同年7月には吉本興業合名会社から営業の一切を譲り受け、劇場と興行の実体をそのまま株式会社へ引き継いだ[22]。新会社が掲げた事業は映画と演芸の興行で、寄席から始まった会社にとって主業と副業は入れ替わっていた[23]。1949年5月、大阪証券取引所に上場[24]。創業から37年で、夫婦が買った小屋に始まる寄席経営は株式を公開する会社の形に変わった。1954年12月には資本金を1億1000万円へ増やし、設立時の650万円から16倍を超える規模にした[25]。
戦後の再建は、焼けた寄席を映画館へ置き換えて進んだ。映画興行を主な業務とし、直営の劇場は京阪神地区に6館を数えた[26]。本社は大阪市南区河原町に置き、創業家の林正之助社長が指揮を執った[27]。関東地区は傍系の吉本株式会社が経営にあたり、名古屋地区ではトヨタとの提携で中日本興業株式会社を設立して、東西でチェーンを組んだ[28]。営業収入は1957年3月期、1958年3月期ともに4億円[29]。
戦後の吉本興業は、空襲で焼けた演芸場の跡に映画館を建て、映画興行を主業としていた[30]。これを演芸へ引き戻したのは、1959年に重なった民間テレビ放送の勃興である[31]。前年の1958年12月には東京タワーが完工し、全国でテレビ局の開局が相次いだ[32]。当時の制作部長で後に社長となる八田竹男氏は、やがて映画がテレビに食われる時代が来るとして、映画館『うめだ花月』を演芸場につくり直した[33]。そして1959年3月、毎日放送テレビの本放送開始と同時に劇場中継を行った[34]。最初の出し物は花菱アチャコ主演の『迷月赤城山』で、中邨秀雄氏は花菱アチャコのマネジャーを務めた[35]。
劇場中継の開始とともに所属タレントの人気も出始め、劇場にふたたび客が押しかけた[36]。上場市場も広げた。1949年5月に大阪証券取引所へ上場していた吉本興業は、1961年10月に東京証券取引所へ上場した[37]。もっとも収入の柱は依然として劇場にあり、1963年3月期の半期の興行収入は223,229千円で収入全体の77%を占めた[38]。売店が22,008千円で8%、賃貸収入が19,582千円で7%、喫茶が16,575千円で6%と続いた[39]。
劇場とテレビの結びつきは、設備の自前化へ進んだ。それでも収入の中心は劇場のままで、1970年3月期の半期の劇場収入は392,221千円と全収入の49%を占め、テレビ・ラジオ収入は80,472千円の10%にとどまった[40]。
ところが、劇場をテレビへ結び直した路線はいったん否定された。1968年から1969年ごろ、林正之助社長の身辺に不祥事が起こり、社長を辞めざるを得なくなった[41]。代わって社長には、東京市場の開拓を手がけてきた林家の末弟、林弘高氏が就いた[42]。林弘高社長はブレーンを引き連れて東京から大阪の本社に乗り込み、脱演芸の多角化を方針に掲げた[43]。中身は、苦戦続きの劇場をつぶして当時ブームだったボウリング場へ改造することにあった[44]。1970年3月期の半期のボウリング収入は147,496千円に達し、全収入の18%を占めた[45]。
方針は人事にも及んだ。八田竹男氏は制作部長を外され[46]、中邨秀雄氏は脱演芸の路線に反発して辞表を出した[47]。中邨秀雄氏は周囲の説得を受け、前の身分と地位が保証される条件も付いたため、数カ月で会社へ戻った[48]。離れていた間は海外に出て、自分と会社を客観的に眺める機会にあて、会社の欠点もつかんだと後年語っている[49]。林弘高社長が突然病に倒れたこともあり、脱演芸の路線は撤回された[50]。制作部長を外れた八田竹男氏は、のちに吉本興業の社長に就いた[51]。
1960年代の毎日放送の番組『ヤングお~お~』で、吉本興業はタレント斡旋と番組企画をセットにした『ユニット制作方式』を採用した[52]。笑いとトークと歌を並べた若者向けのバラエティ番組で、中邨秀雄氏が制作を手がけた[53]。この番組が、吉本興業を興行会社から制作会社へ移すきっかけとなった[54]。番組制作へ寄るのに合わせ、支払いの実務も改めた。中邨秀雄氏は1964年にテレビ課長、1973年に制作部長に就いた[55]。
1973年、吉本興業は毎日放送と資本を出し合い、番組制作会社『I.T.S』を設立した[56]。1975年10月には株式会社吉本音楽出版を設立し、音楽の権利を扱う子会社も手元に置いた[57]。営業収入は1973年3月期の22億円から1975年3月期の33億円へ増えた[58]。収入の構成も動いた。1975年3月期の半期の興行収入は1,007百万円で59.9%、テレビ・ラジオ収入は374百万円で22.3%、事業収入は299百万円で17.8%だった[59]。1963年3月期に収入の77%を占めた興行は、12年で6割を割り込む水準まで低下した[60]。
営業収入は1964年3月期の6億円から[61]、1970年3月期に15億円[62]、1979年3月期には41億円へ伸びた[63]。15年で7倍近い伸び。途中で足踏みもあり、1977年3月期は35億円と前期の37億円を下回ったが[64]、1978年3月期には40億円へ戻した[65]。経常利益は1971年3月期の5億円から[66]1979年3月期の10億円へ倍増し[67]、当期純利益は1964年3月期の0.61億円から[68]1979年3月期の5億円に増えた[69]。
吉本興業は1980年10月、東京都港区に制作部東京事務所を開設した[70]。開設を命じられたのは、漫才コンビの横山やすし・西川きよしのマネジャーを8年務めた木村政雄氏である[71]。新入社員と2人、わずか9坪の部屋で東京での営業を始めた[72]。大阪だけを拠点としてきた会社で東京勤務は出世の本線から外れると受け止められ、木村政雄氏の異動を左遷と見る社員が社内には多かった[73]。木村政雄氏自身は、吉本興業と松竹新喜劇しかない大阪と違って東京の芸能界は裾野が広く、横山やすし・西川きよしの成功で所属タレントが東京でも通用するという手応えを得ていた[74]。東京事務所の業務は、木村政雄氏がすべて自分の判断で決めた[75]。
吉本興業は1932年の吉本興業合名会社への改組後、大阪を筆頭に主要都市で30有余の劇場を経営していたが、太平洋戦争でそのほとんどが被害を受けた[76]。東京事務所の開設は漫才ブームと重なり、ブームで活躍したタレントはほとんどが吉本興業に所属していた[77]。中邨秀雄氏は代表取締役制作部長から常務となって東京進出の陣頭指揮を執り、所属タレントを東京の番組へ売り込んだ[78]。営業収入は1980年3月期の42億円から1981年3月期に56億円、1982年3月期には64億円へ伸び、経常利益は11億円から20億円へ増えた[79]。1983年3月期には営業収入が59億円、経常利益が16億円へ下がった[80]。
東京の番組に吉本興業のタレントを定着させるには、新しい芸人を次々に送り出す必要があった[81]。そこで吉本興業は1982年、新人の発掘と養成にあたる吉本総合芸能学院を開校した[82]。中邨秀雄氏は、徒弟制度で芸人を育てた時代と違って社内養成には費用がかかるものの、それを研究開発費と割り切っていると1998年に語った[83]。学院からは漫才コンビのダウンタウンが育った[84]。1993年11月時点で吉本興業の芸人は約400人に達し、うち高収入が保証される専属契約を結ぶのは50人足らずで、大半が1年契約にとどまった[85]。残る約350人は仕事のたびに契約を交わす関係で、面白い芸を持てば仕事が増え、客に飽きられればその他大勢へ戻った[86]。
木村政雄氏は東京事務所を離れ、大阪本社の制作部長に着任した[87]。大阪へ戻った木村政雄氏の目には、10年前と変わらない漫才と、吉本と松竹が同じ顔ぶれで続ける新喜劇が映った[88]。吉本新喜劇の出演者は男性の平均年齢が40歳を超えており、木村政雄氏は10歳以上の若返りを進めた[89]。飛んだり跳ねたりのドタバタ劇が吉本新喜劇の持ち味であるのに、年齢が上がった出演者は情に訴える芝居へ寄り、客の期待と乖離して劇場が埋まらなくなっていた[90]。一時は混乱したものの、数年で吉本新喜劇に客が戻った[91]。1989年から人気が回復し、吉本興業は1991年3月期から増収増益を続けた[92]。
吉本興業は、芸人を鍛える場として直営劇場を増やした[93]。1986年には若手を育てる200席の心斎橋筋2丁目劇場を開いた[94]。1987年10月には大阪市中央区で吉本会館を竣工して本社を移し[95]、同会館内に新喜劇の主要な演目を上演する877席のなんばグランド花月を設けた[96]。さらに1988年10月に名古屋市中区、1989年12月に福岡市中央区へ制作部の事務所を置いた[97]。直営劇場を持てば所属タレントを常に訓練でき、優秀なスタッフが集まる拠点も確保できると木村政雄氏は説明した[98]。1985年3月期の部門別営業収入は、テレビ・ラジオ部門が33億6300万円で56%、興行部門が19億9600万円で33%、事業部門が6億1600万円で10%を占めた[99]。
中邨秀雄氏は1991年4月に社長へ就任し、同じ1991年、吉本興業のオーナーだった林正之助氏が亡くなった[100]。中邨秀雄社長はタレントビジネス・飲食・不動産・物販・旅行を5本柱に置くペンタゴン経営を掲げ、タコ焼き店やライブハウス、キャラクターグッズ、吉本タレントと行く旅行ツアーへ広げた[101]。失敗と判断すれば手を引くのも速く、出版社の飛鳥新社と組んだ新聞『日刊アスカ』は5カ月で撤退した[102]。多角化の軸には貸しビル業を据えた[103]。1987年に34億円を投じて吉本会館本館・別館を開き、以後6年間で京都吉本ビルやSWINGヨシモトなど5つの複合賃貸ビルを建てた[104]。総売り上げに占める不動産賃貸部門の割合は、1990年3月期の5%から1993年3月期には約15%へ上がった[105]。
1993年3月期の売上高は前期比20.7%増の148億2900万円、経常利益は同9.8%増の19億9800万円で、テレビ・ラジオからの収入は総売り上げの59%にあたる87億5200万円に達した[106]。好業績を背景に、吉本興業は東京へ自前の劇場を置いた[107]。1994年3月に銀座7丁目劇場を開いたが、連日満員でも150人程度しか収容できず赤字となった[108]。1995年1月、フジテレビジョンの役員待遇エグゼクティブプロデューサーだった横澤彪氏が吉本興業東京支社長へ転じ、同年6月に常務へ就いた[109]。横澤彪氏が陣頭指揮を執るなか、1995年3月には300人前後を収容する渋谷公園通り劇場を東京・渋谷の公園通り沿いに開場した[110]。1997年3月期にはメディア部門の売上高が東京56億円、大阪50億円となり、初めて東京が大阪を上回った[111]。
東京の2劇場は、どんなタレントが東京でうけるかを知るための実験劇場である[112]。中邨秀雄社長は、営業として成り立つのは400〜500人以上の劇場だと語った[113]。吉本興業は1998年10月に渋谷公園通り劇場を、1999年1月に銀座7丁目劇場を所期の目的が終了したとして閉鎖し、よい場所が見つかるまでは東京のタレントが週末に出演できる場としてスタジオアルタなどを確保した[114]。入れ替わりに、1999年3月に小樽よしもと、同年5月に福岡駅前の交通センタービル内へ定員111名の吉本111劇場を開いた[115]。1999年3月期の売上は前期比8.1%増の246億52百万円、営業利益23億33百万円、経常利益24億12百万円、当期純利益8億54百万円[116]。1999年春には吉本総合芸能学院の採用を従来の150人から600人へ増やし、同年6月に中邨秀雄氏が会長、林裕章氏が社長へ就いた[117]。
吉本興業は2001年4月、東京都新宿区に『ルミネtheよしもと』を開場した[118]。
2002年3月期の連結営業収入は376億15百万円、経常利益は28億47百万円、当期純利益は5億93百万円を計上した[119]。
連結営業収入は376億15百万円から362億84百万円へ減り、経常利益も27億29百万円まで下がった[120]。2004年3月期の連結営業収入は343億4百万円まで縮んだ[121]。
業績は戻り、2006年3月期の連結営業収入は462億38百万円、営業利益は63億51百万円、当期純利益は34億59百万円を計上した[122]。
吉本興業は2007年10月に持株会社制を導入し、事業を新設分割により株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー、株式会社よしもとデベロップメンツ、株式会社よしもとアドミニストレーションの3社へ承継させた[123]。提出会社の従業員は2007年3月期末の286名から2008年3月期末の17名へ減り、事業に就いていた社員は子会社へ出向した[124]。連結の従業員数は572名から574名でほとんど動いておらず、単体の減少は事業を子会社へ移したことによる[125]。持株会社となった提出会社に残ったのは管理部門だけで、2009年3月期末の単体従業員は21名にとどまった[126]。2008年3月期には連結営業収入501億8百万円、営業利益59億20百万円を計上した[127]。
直前の2009年3月期の連結営業収入は488億71百万円、営業利益は43億57百万円で、当期純利益は前期の30億77百万円から6億13百万円へ落ち込んだ[128]。部門別の内訳は制作が90%、事業が8%、不動産が3%で、劇場と芸人を抱える制作が収入の大半を占めた[129]。
吉本興業が大阪証券取引所へ株式を上場したのは1949年5月であった[130]。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1958年第二文芸館から30有余の劇場網へ、戦災で場を失った興行会社 | 吉本泰三・せい夫婦が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手 | ★★ | ||
| 大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行 | ★ | |||
| 「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手 | ★★ | |||
| 東京・神田の寄席を買収し「神田花月」を開場 | ★ | |||
| 対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同 | ★★★ | |||
| 創業者の吉本泰三が死去 | ★★ | |||
| キネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場 | ★ | |||
| 大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放 | ★★ | |||
| 吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設 | ★★ | |||
| 日活と提携し映画「佐渡情話」を製作 | ★★ | |||
| 日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣 | ★★ | |||
| 演芸人の養成所「漫才道場」を開校 | ★ | |||
| 東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失 | ★★ | |||
| 演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散 | ★★★ | |||
| 林正之助 | 吉本興業合名会社を「吉本興業株式会社」に改組 | ★★ | ||
| 林正之助 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 林正之助 | 創業者の吉本せいが死去 | ★ | ||
| 1959〜1979年毎日放送との劇場中継の開始と脱演芸路線の撤回 | 林正之助 | うめだ花月劇場を演芸場に転換し演芸興行を再開 | ★★★ | |
| 林正之助 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 林正之助 | 毎日放送がうめだ花月劇場から吉本新喜劇の中継を開始 | ★★ | ||
| 林弘高 | 毎日放送「ヤングおー!おー!」で番組制作を一括して請け負うユニット制作に着手 | ★★ | ||
| 1980〜1999年9坪の東京事務所と吉本総合芸能学院による全国区化 | 八田竹男 | 芸人養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校 | ★★★ | |
| 八田竹男 | 大阪・難波に「なんばグランド花月」を開場し本社を移転 | ★★ | ||
| 2000〜2022年ルミネtheよしもとの開場からM-1グランプリと非上場化へ | 林裕章 | 東京・新宿に「ルミネtheよしもと」を開場 | ★★ | |
| 林裕章 | 漫才の賞レース「M-1グランプリ」を開始 | ★★ | ||
| 吉野伊佐男 | 持株会社制に移行 | ★★ | ||
| 大﨑洋 | クオンタム・エンターテインメントによる株式公開買付けで同社の子会社に移行 | ★★ | ||
| 大﨑洋 | 東京・大阪の各証券取引所で上場廃止 | ★★★ | ||
| 岡本昭彦 | 吉本興業ホールディングスに商号変更 | ★★ |
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事実根拠:出所(吉本興業)