吉本興業 の歴史

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創業 1912年
創業者 吉本泰三、吉本せい
創業地 大阪府大阪市
創業 1912年4月1日、吉本吉兵衛氏と吉本せい氏の夫婦が、大阪・天満天神宮の裏門に面
1912年4月1日、吉本吉兵衛氏と吉本せい氏の夫婦が、大阪・天満天神宮の裏門に面した寄席"第二文芸館"を買い取って興行を始めた。買った小屋に何を掛けるかで、夫婦は当時の寄席の相場から外れた出し物を選んでいる。吉本吉兵衛氏の急逝後は、吉本せい氏の弟で18歳から興行に加わった林正之助氏が経営を担い、92歳までオーナーとして会社を率いた。大正末期には東京や横浜へも進出して30近い寄席を傘下に収め、1932年に吉本興業合名会社へ改組する。1933年にはエンタツ・アチャコの"早慶戦"が当たり、経営する劇場は大阪を筆頭に30有余を数えた。
決断 劇場を、客を入れる場から芸人を鍛える場へ持ち替えた。太平洋戦争で30有余の劇場の
劇場を、客を入れる場から芸人を鍛える場へ持ち替えた。太平洋戦争で30有余の劇場のほとんどが被害を受け、所属していた芸人も散り散りになる。戦後の吉本興業は焼けた寄席の跡に映画館を建て、アメリカ映画で興行を再開した。1959年、制作部長の八田竹男氏は映画がテレビに侵食されると見て映画館"うめだ花月"を演芸場へ作り直し、毎日放送の本放送開始と同時に劇場中継を始める。劇場を不動産として運用する体制へ移した会社もあったが、吉本興業は1982年に新人を養成する吉本総合芸能学院を開設し、1986年に200席の心斎橋筋2丁目劇場、1987年に877席のなんばグランド花月を設けた。直営の小屋があれば所属タレントを常に舞台へ乗せられるという理由が、興行収入が全収入の6割を割ったあとも劇場を建て続ける根拠になった。
現況 番組を作って人を送る収入が9割を占め、興行は主力から降りた。1963年3月期に収
番組を作って人を送る収入が9割を占め、興行は主力から降りた。1963年3月期に収入の77%を占めた興行は、1975年3月期の半期には59.9%まで下がり、1985年3月期にはテレビ・ラジオ部門が56%で首位に立つ。2001年4月には東京・新宿にルミネtheよしもとを開場した。2009年3月期の連結営業収入は488億円、営業利益は43億円で、部門別の内訳は制作が90%、事業が8%、不動産が3%である。2009年にクオンタム・エンターテインメントの公開買付けで同社の子会社となり、2010年2月に東京・大阪の両取引所で上場を廃止した。1949年5月の上場から61年である。2019年6月には吉本興業ホールディングスへ商号を変更し、劇場の運営とタレントの斡旋を続けている。
競合 競っているのは芸の中身ではなく、芸人を絶やさず供給できるかである。大阪の演芸は長
競っているのは芸の中身ではなく、芸人を絶やさず供給できるかである。大阪の演芸は長く吉本興業と松竹の新喜劇が並ぶ構図にあった。1980年10月、吉本興業は東京都港区に9坪の制作部東京事務所を開設し、漫才ブームで所属タレントを東京の番組へ送り込む拠点にする。1982年には徒弟制度に代えて新人を毎年採用する吉本総合芸能学院を開校し、1999年春には採用を150人から600人へ増やした。学院からはダウンタウンが育っている。1993年11月時点の芸人は約400人で、高収入が保証される専属契約は50人に満たない。残る約350人を仕事ごとの契約に留めたことが、当たる演者を絶やさずに固定費を抑える仕組みを構築した。
長期業績の推移 1949〜2009年
吉本興業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1980年3月期〜2009年3月期

第1章 1912年〜 寄席興行の垂直統合第二文芸館の買収から演芸各派の統合へ

筆者考察y.sugiura, author

吉本興業が最初に買ったのは芸ではなく、芸を掛ける場所だった。1912年の第二文芸館から1931年の合名会社化までの19年、吉本吉兵衛とせいが手を伸ばした先は一貫して小屋である。花月亭、神田花月と買い足して23軒を連ねたのは、演者を独占するためではない。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば一人あたりの出番が増え、小屋の側は毎日の番組を埋められるからだった。ただし小屋をいくつ持っても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。1922年に浪花三友派を吸収したのは番組の供給元を内側へ移す手であり、ここで小屋と演者が一つの帳簿に入った。大正の末には東京・横浜へも広がり、傘下の寄席は30近くに達する。

1930年に初代桂春団治をめぐって起きた騒動は、興行という商売の前提が崩れた瞬間だった。全社員を動員して日本放送協会の大阪中央放送局にピケを張ったのは、木戸銭を取らずに芸が届く経路を客の奪い手と見たからである。ところが放送の後、春団治の出る寄席はほとんど満員になった。芸そのものではなく、その演者を見たいという気持ちのほうが売り物だと分かれば、放送は競合ではなく名を広める経路に変わる。営業方針を転換して放送協会と和解し、演者を電波へ送り出したのがその答えだった。1931年9月の改組で演芸人を育て指導する機関が置かれたのは、この読み替えの先にある。小屋を買い、番組を組み、派を吸収してきた会社が、最後に演者を作る側へ回った。

第二文芸館から35館までの劇場・寄席の数 1912年の1軒から1931年の合名会社化まで(軒)

1 第二文芸館の買収 23 吉本吉兵衛の死去 35 吉本興業合名会社
  • 1912年4月の第二文芸館買収(公式沿革)、23軒は吉本吉兵衛の死去までに連ねたチェーンの数(証券アナリストジャーナル 1994年)。
  • 35館は1931年9月の合名会社への組織変更とともに演劇・映画へ業務を広げた結果の到達数(会社銀行八十年史 1955年)。

1912年〜買い取った小屋と番組編成の組み替え

1912年4月、吉本吉兵衛と妻のせいは、大阪・天満天神の裏門にあった寄席「第二文芸館」を買い取り、寄席経営に乗り出した。手に入れたのは演者の一座ではなく、客を入れる小屋そのものである。会社が公表する沿革はこの年を創業と定めているが、上場後に株式会社年鑑へ載せた沿革は1914年4月の吉本興行部の発足から始まり、1955年に刊行された会社銀行八十年史も同じ日付を設立として記録する。小屋を持った日と、興行を業として名乗った日とが2年離れていたことになる。1950年版の株式会社年鑑の備考欄は前身の発足をさらに早い1913年と記しており、創業の年は資料によって三通りに分かれる。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [1]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
    • [2]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [3]1912年4月、吉本泰三・せい夫妻が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [4]沿革の第1項を「大正3年4月 吉本興行部として演芸を主とする寄席経営にて発足」と記載
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [5]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったことに始まると記載
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [6]備考欄に「当社の前身は大正2年に発足した吉本興業部である」と記載

吉兵衛が進めたのは、落語の合間に漫才・民謡・手品などを挟む、変化に富んだ番組の組み立てだった。落語の間に別種の芸を差し込めば、客は同じ木戸銭で複数の型の芸を見ることになる。1915年10月には大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買い取り、「花月亭」の名で興行した。1917年には吉本興行部の看板を掲げ、寄席を連ねて経営する形に踏み出している。客の入れ替わりが速くなれば、同じ小屋で打てる興行の数も増える。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を中心とする寄席経営と記録しており、演劇も映画もまだ業務に入っていない。番組の組み替えは一軒の工夫にとどまらず、買い足す小屋のすべてに移すことができた。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [7]吉本吉兵衛の寄席経営で特筆されるのは、落語の間に漫才・民謡・手品などをはさむバラエティに富んだ番組構成を積極的に推進したことである
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [8]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
    • [9]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [10]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載

1921年11月、吉本興行部は東京・神田の寄席を買い取って「神田花月」を開き、大阪の外にも小屋を置いた。買い取った小屋には1915年の花月亭以来「花月」の名が付けられ、大阪から京都・東京へ連なった。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば、一人あたりの出番は増え、小屋の側は毎日の番組を埋められる。第二文芸館から数えて、夫妻が連鎖経営に組み込んだ寄席は23軒に達した。1917年に掲げた吉本興行部の看板は、個々の小屋の名ではなく、それらを束ねる主体の名だった。小屋を買う資金は、その小屋が生む木戸銭で賄う形になっていく。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [11]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
    • [12]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
    • [14]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [13]バラエティに富んだ番組構成を推進した成果として、23の寄席をチェーン経営するに至った
参考文献[1]-[14]
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [1]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
    • [2]1912年(明治45年)、吉本吉兵衛・せい夫妻が大阪の天満天神裏門にあった寄席「第2文芸館」を入手して寄席経営に乗り出した
    • [7]吉本吉兵衛の寄席経営で特筆されるのは、落語の間に漫才・民謡・手品などをはさむバラエティに富んだ番組構成を積極的に推進したことである
    • [13]バラエティに富んだ番組構成を推進した成果として、23の寄席をチェーン経営するに至った
    • [3]1912年4月、吉本泰三・せい夫妻が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手
    • [8]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
    • [9]1915年10月に大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行、1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手
    • [11]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
    • [12]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
    • [14]1917年に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手し、1921年11月に東京・神田の寄席を買収して「神田花月」を開場。1915年の花月亭以降「花月」の名を冠した寄席を大阪・京都・東京に展開
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [4]沿革の第1項を「大正3年4月 吉本興行部として演芸を主とする寄席経営にて発足」と記載
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [5]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったことに始まると記載
    • [10]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [6]備考欄に「当社の前身は大正2年に発足した吉本興業部である」と記載

1922年〜演芸各派の吸収による出演者の内部化

1922年9月、吉本興行部は対立していた「浪花三友派」などを吸収し、大阪の演芸界の大合同を成し遂げた。小屋を買い集めても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。派を取り込むことは、番組の供給元を興行部の内側へ移すことを意味した。演者を抱える側と小屋を持つ側が一つになれば、出演料も番組の順序も内側で決められる。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を主とする寄席経営と記し、演劇や映画への拡張を後年の動きとして分けている。大正の末には東京・横浜へも進出し、傘下の寄席は30近くに達した。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [15]1922年9月、対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [16]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [17]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた

1924年2月、創業者の吉本吉兵衛が没した。寄席を買ってから12年、連鎖経営に組み込んだ小屋が23軒に達した時点での死である。経営は妻のせいが引き継ぎ、1955年の会社銀行八十年史は吉本興行部を設立した者をせいの名で記録している。実務を支えたのはせいの弟の林正之助で、姉に請われて18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝ののちは姉の片腕として寄席興行を担った。1950年版の株式会社年鑑では、会長に吉本せい、社長に林正之助、専務に林弘高の名が並ぶ。正之助は18歳で興行の世界に入ってから74年にわたり会社に在り、92歳までオーナーの座を占めた。創業者の家族が役員の席をそのまま占める構成だった。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [18]1924年2月、創業者の吉本泰三(吉兵衛)が死去
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [19]23の寄席をチェーン経営するに至ったが、吉本吉兵衛は1924年に死亡した
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [20]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立したことに始まると記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [21]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
    • [23]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [22]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載

1924年7月、吉本興行部はキネマ部を設け、大阪・福島に映画の常設館「キネマ花月」を開いた。寄席として使う小屋と映画館とでは、番組を組む手間も客の回転も違う。同じ土地に建つ箱を、寄席にするか映画館にするかを選べる状態になった。映画は演者を抱えずに番組が立ち、フィルムを借りれば同じ小屋で繰り返し掛けられる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇や映画への業務拡張を1931年の合名会社への改組以降の動きとして記し、興行部の時代に始まった映画館の経営を沿革に数えていない。会社が公表する沿革と、後年に刊行された会社史とで、映画へ踏み出した時期の記述は分かれている。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [24]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
    • [26]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [25]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
参考文献[15]-[26]
    • [15]1922年9月、対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同
    • [18]1924年2月、創業者の吉本泰三(吉兵衛)が死去
    • [24]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
    • [26]1924年7月にキネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [16]吉本興行部は演芸を中心とする寄席経営を行い、演劇・映画への業務拡張は1931年9月の合名会社への組織変更以降の動きとして記載
    • [20]事業の沿革は大正3年4月に吉本せいが吉本興行部を設立したことに始まると記載
    • [25]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [17]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
    • [21]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
    • [23]せいの弟の林正之助が姉に請われて大正の初めに18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝後はせいの片腕として寄席興行を担った。正之助は勤続74年、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして君臨した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [19]23の寄席をチェーン経営するに至ったが、吉本吉兵衛は1924年に死亡した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [22]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載

1930年〜放送を排除から活用へ転じた方針転換

1930年、日本放送協会の大阪中央放送局が、落語の初代桂春団治に出演を依頼した。吉本興行部はこれを断っている。放送で落語が流れれば、木戸銭を払って寄席へ来る客が減るという理由だった。放送局は春団治本人と直接交渉し、出演料を先に渡して承諾させた。興行部は全社員を動員して大阪中央放送局の前にピケを張り、出演を阻もうとしたが、放送局は春団治を京都へ移し、京都放送局から放送した。傘下の寄席が30近くに達していた側にとって、電波は客の奪い手に見えた。木戸銭を取らずに芸が届く経路が現れれば、小屋の収入は直に削られる。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [27]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [28]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [29]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [30]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [31]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [32]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた

ラジオで落語を聞いた人々は、演者がどんな顔をしているのかを知りたがった。寄席ならさらに面白い噺が聞けるかもしれないとも考え、足を運んだ。放送のあと客足は落ちるどころか伸び、春団治が出る寄席はほぼ満員となった。これを受けて吉本興行部は方針を切り替え、放送協会と和解のうえ、所属の演者を放送へ出すようになった。1930年には大阪・千日前の「南陽館」も万才の専門館に改め、木戸銭十銭で開場している。安い木戸銭の小屋に名の売れた演者をそろえれば、放送で広まった知名度がそのまま客の数になる。演者を放送へ出すことは以後も会社の方針として続き、知名度を上げるための手段に位置づけられた。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [33]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [34]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [35]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [37]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [36]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放

1931年9月、吉本興行部は吉本興業合名会社に組織を改めた。株式会社年鑑の沿革でも、1955年に刊行された会社銀行八十年史でも、改組の時期は1931年9月である。会社が公表する沿革はこれを1932年3月とし、同時に東京支社を開設したと記す。支社の開設は、大正の末に進めた関東への進出を組織の形に整えるものだった。改組にあたって設けられたのは、演芸人を育て、指導するための機関だった。小屋を買い、番組を組み替え、演芸各派を吸収し、放送へ演者を送り出してきた末に、演者そのものを作る組織が興行会社の内側に置かれた。合名会社は以後、演劇と映画へ業務を広げ、経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。

  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [38]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
    • [39]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [40]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
    • [41]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [42]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [43]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
参考文献[27]-[43]
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [27]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [28]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [29]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [30]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [31]1930年、NHK大阪中央放送局が初代桂春団治に出演を依頼したが吉本興業は寄席の客が減ることを恐れて断り、放送局は本人と直接交渉して出演料を先渡しし承諾させた。吉本は全社員で放送局前にピケを張ったが、放送局は春団治を京都に連れて行き京都放送局から放送した
    • [33]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [34]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [35]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
    • [37]放送以降は寄席の客が急増し、春団治が出演する寄席はほとんど満員となったため、吉本興業は営業方針を転換してNHKと和解し、所属タレントをラジオに出演させるようにした。それ以降も所属タレントの知名度を上げるためメディアを重視する経営姿勢を続けている
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [32]大正末期には東京・横浜などにも進出し、30近い寄席を傘下に収めた
    • [36]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
    • [40]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
    • [41]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [38]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
    • [39]沿革の第2項を「昭和6年9月 吉本興業(合名)に組織変更」と記載
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [42]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [43]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた

第2章 1932年〜 映画興行への業態転換35劇場の焼失から映画館チェーンの再建へ

筆者考察y.sugiura, author

戦争が吉本興業から奪ったのは劇場ではなく、劇場と演者を結ぶ仕組みそのものだった。各都市で35を数えた劇場と寄席は、1945年3月の空襲でそのほとんどが焼けている。だが失われたのはそれだけではない。同年6月に演芸人への貸金を帳消しにして専属契約から解いたのは、抱えていた演者を会社の側から手放す決定である。小屋は空襲で失い、演者は自ら解いた。1912年から33年かけて積み上げた興行の仕組みは、この二つで一度に消えた。1948年1月に資本金650万円の株式会社として出直したとき、手元に残っていたのは焼け跡の土地だけだった。同年7月に合名会社の営業を譲り受けて資本金を2,600万円へ引き上げたものの、それは失われた35館を建て直せる額ではない。

焼け跡に建て直したのは寄席ではなく映画館だった。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられ、演者を抱えなくても番組が立つ。演芸陣を解散した会社に選べたのは、この収入の型である。1950年版の株式会社年鑑が営業目的の第一項に映画興行を置き、演劇・演芸興行をその次に並べたのは、その帰結にすぎない。資本金は1948年の650万円から1957年の3億3,000万円まで10年で6度引き上げられ、資金は土地建物構築物へ向かった。もっとも1958年時点の定款には、映画・演劇の興行と並んで演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が演者を取り次ぐ業を書き加えたところから、次の20年が始まる。

株式会社設立から10年間の資本金 1948年の650万円から1957年の3億3,000万円へ(万円)

650 会社設立 5,500 5,500万円へ 11,000 1億1,000万円へ 22,000 2億2,000万円へ 33,000 3億3,000万円へ
  • 1948年7月の2,600万円への増資(合名会社の営業譲受と現物出資)を含め、10年で6度の増資が行われた。
  • 出所は株式会社年鑑 1959年版の沿革欄。

1932年〜劇場35館への拡大と映画・演劇への業務拡張

1931年9月に吉本興業合名会社となった会社は、演芸人を育て指導する機関を置くとともに、演劇と映画へ業務を広げた。経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。1932年3月には東京支社を開き、関東の興行を大阪から離れた組織に担わせた。劇場と寄席を合わせて35という数は、1912年に買った第二文芸館の一軒から数えて19年での到達である。寄席は一軒あたりの客席が限られ、番組を替えても収入の上限は席数で決まる。劇場の数を増やすことは、同じ演者を掛ける場を増やすと同時に、興行が途切れたときに残る固定費を増やすことでもあった。

  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [44]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [45]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [46]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設

1933年、吉本興業合名会社は漫才の横山エンタツと花菱アチャコを組ませ、野球の早慶戦を題材にした演目を当てた。落語の合間に挟む芸だった万才は、ここで番組の主役へ移る。1930年に大阪・千日前の南陽館を万才の専門館としてから3年、専門館のために組んだ番組が会社の名を全国へ広げる演目を生んだ。演者を育てる機関は1931年の改組とともに置かれており、当たった組の型を次の組へ移す下地はすでにあった。万才の一組が当たれば、専門館の番組はその組を軸に組み直せる。当たりの再現を組織で引き受ける形が、この時期に整っていく。

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [47]1933年(昭和8年)、エンタツ・アチャコの漫才コンビをつくり「早慶戦」を大ヒットさせ吉本の名を高めた
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [48]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [49]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置

1934年10月、吉本興業合名会社は日活と提携し、映画「佐渡情話」を製作した。小屋を持ち演者を抱える会社が、フィルムを作る側にも回ったことになる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇と映画への業務拡張を1931年の改組以降の動きとして一括りに記録している。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられる一方、演者の体は一つしかなく、寄席の番組は同じ日に一箇所でしか立たない。直営の劇場で自社が関わった映画を掛ければ、製作から興行までが一つの帳簿に収まる。映画の製作は、演者を抱えなくても番組が立つ収入源を会社に与えた。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [50]1934年10月、日活と提携し映画「佐渡情話」を製作
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [51]1931年9月の組織変更以降、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
参考文献[44]-[51]
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [44]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [45]1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めるとともに演芸人の育成・指導機関を設置し、演劇・映画への業務拡張に努めた結果、経営する劇場および寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えた
    • [49]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置
    • [51]1931年9月の組織変更以降、演芸人の育成・指導機関の設置と演劇・映画への業務拡張に努めたと記載
    • [46]1932年3月、吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設
    • [48]1930年、大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放
    • [50]1934年10月、日活と提携し映画「佐渡情話」を製作
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [47]1933年(昭和8年)、エンタツ・アチャコの漫才コンビをつくり「早慶戦」を大ヒットさせ吉本の名を高めた

1938年〜戦時の動員と戦災による劇場・演芸陣の喪失

1938年1月、吉本興業合名会社は日中戦争の戦地へ演芸人の一団「わらわし隊」を送った。興行の場は劇場から戦地の慰問へ広がり、演者の仕事は会社が取り次ぐ形で外へ出た。1939年には演芸人の養成所「漫才道場」を開き、1931年の改組で置いた育成機関を独立した学校の形に改めている。演者を育てて送り出す機能は、劇場を増やせなくなった局面でも会社の内側に残った。抱える小屋の数が伸びを止めても、抱える演者の数は増やせる。養成所を持つことは、演者の補充を外の一門に頼らずに済ませることでもあった。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [52]1938年1月、日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣
    • [53]1939年、演芸人の養成所「漫才道場」を開校
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [54]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置

1945年3月、東京と大阪の空襲で、吉本興業合名会社は大半の劇場を焼失した。各都市で35を数えた劇場と寄席のほとんどは、損害を受けるか灰燼に帰した。その打撃は、1955年に刊行された会社銀行八十年史の沿革にも書き残されている。1950年版の株式会社年鑑の備考欄も、戦災によって35劇場を失ったことを沿革の一項に挙げている。小屋を買い集めることで伸びてきた会社にとって、失われたのは営業の道具ではなく資産そのものだった。土地が残っても、客を入れる箱を建て直さなければ興行は打てない。1950年版の年鑑が挙げる事業場は、千日前グランドから浅草グランドまでの8箇所にとどまる。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [55]1945年3月、東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [56]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
    • [57]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [58]備考欄の沿革に「戦災により三十五劇場」を失った旨を記載
    • [59]事業場として千日前グランド・常盤座・梅田グランド・新世界グランド・京都花月劇場・浅草グランド・ヤサカグランド・グランド京都(キヤバレー)の8箇所を記載

1945年6月、吉本興業合名会社は演芸人への貸金を帳消しにし、専属契約から解いて演芸陣を解散した。貸金を帳消しにするとは、演者に対する債権を放棄することである。抱えていた演者を自ら手放したことになり、専属という縛りもここで解けた。戦争によって芸人は散り散りになり、戦後に会社が持っていたのは焼け跡の土地だけだった。小屋と演者という二つの資産のうち、小屋は空襲で失われ、演者は会社の側から解いた。1912年から33年かけて組み上げた興行の仕組みは、この時点でいったん失われている。専属を解いた会社には、再び演者を集めるときに使える縛りが何も残らなかった。

  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [60]1945年6月、演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [61]戦後、吉本が抱えていた芸人たちは戦争で散り散りになっており、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建てて映画興行を主業としていた
参考文献[52]-[61]
    • [52]1938年1月、日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣
    • [53]1939年、演芸人の養成所「漫才道場」を開校
    • [55]1945年3月、東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失
    • [60]1945年6月、演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [54]1931年9月の吉本興業合名会社への組織変更とともに演芸人の育成・指導機関を設置
    • [56]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
    • [57]経営する劇場および寄席は各都市で35を数えたが、太平洋戦争によりそのほとんどが損害を受け、または灰燼に帰した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [58]備考欄の沿革に「戦災により三十五劇場」を失った旨を記載
    • [59]事業場として千日前グランド・常盤座・梅田グランド・新世界グランド・京都花月劇場・浅草グランド・ヤサカグランド・グランド京都(キヤバレー)の8箇所を記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [61]戦後、吉本が抱えていた芸人たちは戦争で散り散りになっており、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建てて映画興行を主業としていた

1948年〜株式会社への改組と映画興行による再建

1948年1月7日、資本金650万円をもって吉本興業株式会社が設立された。同年7月には吉本興業合名会社の営業の一切を譲り受け、個人所有の資産を現物出資して資本金を2,600万円へ引き上げている。1949年5月には大阪証券取引所へ株式を上場した。焼けた小屋を建て直す資金を、興行の会社が株式市場から取る形になった。1950年3月、創業者の吉本せいが没する。1950年版の株式会社年鑑には会長として名が残り、社長の席には弟の林正之助が就いていた。上場した年の下期にあたる1949年9月期の興行収入は6,034万1千円で、半期の収入が資本金2,600万円の2倍を超えていた。

  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [62]昭和23年1月、資本金650万円をもって吉本興業株式会社を設立
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [63]沿革に「昭和23年7月 吉本興業合名会社の営業譲渡を受く」「個人所有の現物出資と合名会社合併により資本金2千600万円に増資」と記載
  • 吉本興業 公式サイト 沿革
    • [64]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
    • [66]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [65]1948年に吉本興業株式会社へ改組し、1949年に大証一部、1961年に東証二部へ株式を上場した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [67]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [68]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円

空襲で焼け落ちた演芸場の跡地には、映画を上映する館が建てられていった。戦後の再出発を担ったのは寄席ではなくそうした館で、映画の上映が主な事業となった。1955年刊の会社銀行八十年史は、主な業務を映画興行とし、京阪神地区の直営劇場は6館、関東地区は傍系の吉本株式会社の経営と記す。名古屋地区ではトヨタと手を組んで中日本興業株式会社を設け、東西のチェーンを固めようとしたとも伝える。さかのぼって1950年版の年鑑でも、営業目的の第一項は映画興行で、演劇・演芸の興行はその後に続き、同年の事業場一覧に載る8箇所の中にはキャバレーが1箇所含まれていた。

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [69]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [70]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [71]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
    • [72]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [73]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
    • [74]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載

吉本興業の資本金は、1948年1月の650万円から1957年10月の3億3,000万円まで、10年で6度引き上げられた。1953年5月に5,500万円、1954年11月に1億1,000万円、1956年2月に2億2,000万円という刻みである。1954年4月から9月の半期の興行収入は1億8,115万8千円で、上場した1949年9月期の3倍に達している。増資で得た資金は土地建物構築物へ向かい、1958年9月期の有形固定資産は4億6,055万6千円に達した。1955年版の年鑑は、定款に挙げたキャバレー・食堂・出版を現在は営業していないと注記しており、定款の広さと実際の事業とは離れていた。同じ時期の定款には、映画・演劇の興行やキャバレー・食堂の経営と並んで、演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が、演者を取り次ぐ業を定款に書き入れたことになる。

  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
    • [75]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [76]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [78]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
    • [80]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [77]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [79]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
参考文献[62]-[80]
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
    • [62]昭和23年1月、資本金650万円をもって吉本興業株式会社を設立
    • [71]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
    • [72]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館、関東地区は傍系の吉本株式会社が経営、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立してチェーンの強化を図ったと記載
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
    • [63]沿革に「昭和23年7月 吉本興業合名会社の営業譲渡を受く」「個人所有の現物出資と合名会社合併により資本金2千600万円に増資」と記載
    • [77]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [79]昭和29年4月から9月の営業状況として興行収入181,158千円、その他21,963千円、合計203,121千円を記載。主なる事業内容の注記に「キヤバレー、食堂、出版は現在営業していない」と記載
    • [64]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
    • [66]1949年5月に大阪証券取引所に上場、1950年3月に創業者の吉本せいが死去
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
    • [65]1948年に吉本興業株式会社へ改組し、1949年に大証一部、1961年に東証二部へ株式を上場した
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
    • [67]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [68]重役欄に会長 吉本せい、社長 林正之助、専務 林弘高を記載。昭和24年9月期の興行収入は60,341千円、資本金は26,000千円
    • [73]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
    • [74]営業目的として「1.映画興行 2.演劇、演芸興行 3.キヤバレー 4.前各号に附帯する業務」を記載
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [69]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [70]戦後、空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
    • [75]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [76]沿革に資本金の推移として昭和23年1月650万円、23年7月2千600万円、28年5月5千500万円、29年11月1億1千万円、31年2月2億2千万円、32年10月3億3千万円を記載
    • [78]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載
    • [80]昭和33年9月期の有形固定資産は460,556千円。主なる事業内容に「1.映画、演劇、その他各種の興行 2.娯楽場、キヤバレー、食堂、喫茶の経営並びに煙草の販売 3.演芸家の有料職業紹介事業」を記載

第3章 1959-1986 (気が向いたら執筆します!) うめだ花月での演芸再開と吉本新喜劇のテレビ中継、NSCの開校

第4章 1987-2010 (気が向いたら執筆します!) なんばグランド花月とルミネtheよしもと、M-1グランプリとMBOによる上場廃止

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歴史年表 1912〜2019年

吉本興業の沿革1912〜2019年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1912〜1931年寄席興行の垂直統合吉本泰三・せい夫婦が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手★★
大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行★
「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手★★
東京・神田の寄席を買収し「神田花月」を開場★
対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同★★★
創業者の吉本泰三が死去★★
キネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場★
大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放★★
1932〜1958年映画興行への業態転換吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設★★
日活と提携し映画「佐渡情話」を製作★★
日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣★★
演芸人の養成所「漫才道場」を開校★
東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失★★
演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散★★★
林正之助吉本興業合名会社を「吉本興業株式会社」に改組★★
林正之助大阪証券取引所に上場★
林正之助創業者の吉本せいが死去★
1959〜1986年うめだ花月での演芸再開と吉本新喜劇のテレビ中継、NSCの開校林正之助うめだ花月劇場を演芸場に転換し演芸興行を再開★★★
林正之助東京証券取引所に上場★
林正之助毎日放送がうめだ花月劇場から吉本新喜劇の中継を開始★★
林弘高毎日放送「ヤングおー!おー!」で番組制作を一括して請け負うユニット制作に着手★★
八田竹男芸人養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校★★★
1987〜2010年なんばグランド花月とルミネtheよしもと、M-1グランプリとMBOによる上場廃止八田竹男大阪・難波に「なんばグランド花月」を開場し本社を移転★★
林裕章東京・新宿に「ルミネtheよしもと」を開場★★
林裕章漫才の賞レース「M-1グランプリ」を開始★★
吉野伊佐男持株会社制に移行★★
大﨑洋クオンタム・エンターテインメントによる株式公開買付けで同社の子会社に移行★★
大﨑洋東京・大阪の各証券取引所で上場廃止★★★
岡本昭彦吉本興業ホールディングスに商号変更★★
出典・参考 7件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1950年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472801)
  • 株式会社年鑑 1955年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472806)
  • 会社銀行八十年史 1955年 第2篇日本会社史 興行娯楽「吉本興行」(国立国会図書館デジタルコレクション pid3043712)
  • 株式会社年鑑 1959年版 吉本興業(国立国会図書館デジタルコレクション pid2472810)
  • 証券アナリストジャーナル 1994年 別冊付録 吉本興業 中邨秀雄(1994年3月8日・東京)
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
  • 吉本興業 公式サイト 沿革

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