吉本興業 の歴史

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創業 1912年
創業者 吉本泰三、吉本せい
創業地 大阪府大阪市
創業
1912年4月1日、吉本吉兵衛氏と吉本せい氏の夫婦が、大阪・天満天神宮の裏門に面した寄席『第二文芸館』を買い取って興行を始めた。買った小屋に何を掛けるかで、夫婦は当時の寄席の相場から外れた出し物を選んでいる。吉本吉兵衛氏の急逝後は、吉本せい氏の弟で18歳から興行に加わった林正之助氏が経営を担い、92歳までオーナーとして会社を率いた。大正末期には東京や横浜へも進出して30近い寄席を傘下に収め、1932年に吉本興業合名会社へ改組する。1933年にはエンタツ・アチャコの『早慶戦』が当たり、経営する劇場は大阪を筆頭に30有余を数えた。
決断
劇場を、客を入れる場から芸人を鍛える場へ持ち替えた。太平洋戦争で30有余の劇場のほとんどが被害を受け、所属していた芸人も散り散りになる。戦後の吉本興業は焼けた寄席の跡に映画館を建て、アメリカ映画で興行を再開した。1959年、制作部長の八田竹男氏は映画がテレビに侵食されると見て映画館『うめだ花月』を演芸場へ作り直し、毎日放送の本放送開始と同時に劇場中継を始める。劇場を不動産として運用する体制へ移した会社もあったが、吉本興業は1982年に新人を養成する吉本総合芸能学院を開設し、1986年に200席の心斎橋筋2丁目劇場、1987年に877席のなんばグランド花月を設けた。直営の小屋があれば所属タレントを常に舞台へ乗せられるという理由が、興行収入が全収入の6割を割ったあとも劇場を建て続ける根拠になった。
現況
番組を作って人を送る収入が9割を占め、興行は主力から降りた。1963年3月期に収入の77%を占めた興行は、1975年3月期の半期には59.9%まで下がり、1985年3月期にはテレビ・ラジオ部門が56%で首位に立つ。2001年4月には東京・新宿にルミネtheよしもとを開場した。2009年3月期の連結営業収入は488億円、営業利益は43億円で、部門別の内訳は制作が90%、事業が8%、不動産が3%である。2009年にクオンタム・エンターテインメントの公開買付けで同社の子会社となり、2010年2月に東京・大阪の両取引所で上場を廃止した。1949年5月の上場から61年である。2019年6月には吉本興業ホールディングスへ商号を改め、劇場の運営とタレントの斡旋を続けている。
競合
競っているのは芸の中身ではなく、芸人を絶やさず供給できるかである。大阪の演芸は長く吉本興業と松竹の新喜劇が並ぶ構図にあった。1980年10月、吉本興業は東京都港区に9坪の制作部東京事務所を開設し、漫才ブームで所属タレントを東京の番組へ送り込む拠点にする。1982年には徒弟制度に代えて新人を毎年採用する吉本総合芸能学院を開校し、1999年春には採用を150人から600人へ増やした。学院からはダウンタウンが育っている。1993年11月時点の芸人は約400人で、高収入が保証される専属契約は50人に満たない。残る約350人を仕事ごとの契約に留めたことが、当たる演者を絶やさずに固定費を抑える仕組みを作った。
長期業績の推移 1949〜2009年
吉本興業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1980年3月期2009年3月期

創業ストーリー 第二文芸館から30有余の劇場網へ、戦災で場を失った興行会社 (1912年〜)

第二文芸館から30有余の劇場網へ、戦災で場を失った興行会社

創業ストーリー(1)

天満天神裏の第二文芸館買収と漫才中心の寄席興行

1912年4月1日、吉本吉兵衛氏と吉本せい氏の夫婦は、天満天神宮の裏門に面した一角で寄席『第二文芸館』の経営に乗り出した[1]。買い取った小屋に何を載せるかで、夫婦は当時の寄席の相場から外れた選び方をした。演芸を興行する場を自前で持ち、そこに客の入る出し物を掛けるこの寄席経営から、吉本興業の事業が始まった[2]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1912年4月1日、吉本吉兵衛・せい夫婦が天満天神宮の裏門に面した一角で寄席「第二文芸館」の経営に乗り出した
    • [2]提出会社の基礎は、1912年4月1日に吉本吉兵衛・せい夫婦が「第二文芸館」の寄席経営に乗り出したことに始まる

創業者の吉本せい氏の弟にあたる林正之助氏は、姉に請われ、大正の初めに18歳で興行の世界に入った[3]。まもなく吉本吉兵衛氏が急逝し、林正之助氏が吉本せい氏の片腕として寄席の興行を切り盛りした[4]林正之助氏の勤続は74年に及び、18歳から92歳まで吉本興業のオーナーとして経営を握った[5]。夫婦が始めた寄席経営は吉本興行部の名で束ねられ、その設立を1914年4月とし、そこに事業の始まりを置く記録も残る[6]。買い取った小屋を足場に寄席を増やし、大正末期には東京や横浜へも進出して、30近い寄席を傘下に収めた[7]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [3]せいの弟林正之助が姉に請われ興行の世界に入ったのが大正の初め、正之助18歳の時
    • [4]しばらくして吉兵衛が急逝、正之助はせいの片腕として寄席興行に敏腕を振るった
    • [5]林さんは勤続74年、18歳から92歳まで吉本のオーナーだった
    • [7]大正末期には東京、横浜などにも進出、30近い寄席を傘下に収めた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [6]事業の沿革は大正3年4月、吉本せい氏が吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったのに始まる
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1912年4月1日、吉本吉兵衛・せい夫婦が天満天神宮の裏門に面した一角で寄席「第二文芸館」の経営に乗り出した
    • [2]提出会社の基礎は、1912年4月1日に吉本吉兵衛・せい夫婦が「第二文芸館」の寄席経営に乗り出したことに始まる
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [3]せいの弟林正之助が姉に請われ興行の世界に入ったのが大正の初め、正之助18歳の時
    • [4]しばらくして吉兵衛が急逝、正之助はせいの片腕として寄席興行に敏腕を振るった
    • [5]林さんは勤続74年、18歳から92歳まで吉本のオーナーだった
    • [7]大正末期には東京、横浜などにも進出、30近い寄席を傘下に収めた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [6]事業の沿革は大正3年4月、吉本せい氏が吉本興行部を設立し、もっぱら演芸を中心とする寄席経営を行ったのに始まる
創業ストーリー(2)

合名会社への改組と30有余の劇場を焼いた戦災

1932年、吉本興行部を吉本興業合名会社に改組した[8]。改組の時期については、1931年9月に吉本興業合名会社へ組織を改めたとする記録も残る[9]。合名会社に形を改めたあとは、興行する場と、そこに立つ芸人を同時に増やすことへ向かった。演芸人を育成し指導する機関を設けたうえで、寄席の興行に加えて演劇と映画へ業務を広げた[10]。芸人を自前で育てながら小屋を買い増した結果、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市へ伸び、30有余を数えるに至った[11]。寄席まで合わせると、大阪を本拠に各都市へ並べた小屋の数は35に達した[12]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [8]昭和7年、吉本興行部を吉本興業合名会社に改組
    • [11]継続して芸人の育成につとめ、演芸・映画への業務拡張にあたり、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市に30有余を数えるに至った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [9]昭和6年9月、吉本興業(名)に組織を改めた
    • [10]演芸人の育成、指導機関の設置、演劇、映画への業務拡張に努めた
    • [12]その経営劇場および寄席は大阪を本拠に各都市に35を数えるに及んだ

1933年には、抱えていた芸人を組ませて漫才コンビのエンタツ・アチャコをつくり、『早慶戦』を大ヒットさせた[13]。この一作で漫才は大阪の寄席を越えて人気を集め、興行主としての吉本の名を高めた[14]。劇場を増やすほど掛ける出し物が要り、当たる出し物が出れば劇場が埋まった。ところが太平洋戦争により、経営していた劇場のほとんどが甚大な被害を受け、焼け落ちた小屋も出た[15]。所属していた芸人たちも戦争で散り散りになった[16]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [13]1933年にはエンタツ、アチャコの漫才コンビをつくり、「早慶戦」を大ヒットさせた
    • [14]「早慶戦」の大ヒットで吉本の名を高めた
    • [16]芸人たちは戦争で散り散りになっていた
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [15]太平洋戦争により経営する劇場の殆どが甚大な被害を蒙り、または灰燼に帰した
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [8]昭和7年、吉本興行部を吉本興業合名会社に改組
    • [11]継続して芸人の育成につとめ、演芸・映画への業務拡張にあたり、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市に30有余を数えるに至った
    • [15]太平洋戦争により経営する劇場の殆どが甚大な被害を蒙り、または灰燼に帰した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [9]昭和6年9月、吉本興業(名)に組織を改めた
    • [10]演芸人の育成、指導機関の設置、演劇、映画への業務拡張に努めた
    • [12]その経営劇場および寄席は大阪を本拠に各都市に35を数えるに及んだ
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [13]1933年にはエンタツ、アチャコの漫才コンビをつくり、「早慶戦」を大ヒットさせた
    • [14]「早慶戦」の大ヒットで吉本の名を高めた
    • [16]芸人たちは戦争で散り散りになっていた
創業ストーリー(3)

アメリカ映画で再開した興行と1949年の大証上場

戦後、吉本興業合名会社は戦災を受けた劇場をいち早く修復し、アメリカ映画を主体に興行を再開した[17]。空襲で焼けた演芸場の跡には映画館を建て、映画興行を主な業務に据えた[18]。散り散りになった芸人が戻らない以上、掛けられるのは自前の演芸ではなく、他社の作った映画だった。1955年に関西学院大学文学部を卒業して入社した中邨秀雄氏は、映画館の管理係として掃除や看板の掛け替えにあたった[19]。入社の動機を、好きな映画をただで見られると考えたからだと中邨秀雄氏は述べた[20]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]戦後はいち早く戦災劇場を修復し、アメリカ映画を主体に興行を再開
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [18]吉本は空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [19]55年関西学院大学文学部を卒業して吉本に入社。映画館の管理係、掃除や看板の掛け替えなどが新入社員の仕事だった
    • [20]中邨秀雄氏の入社動機は「好きな映画がタダで見られるかなと思って」

1948年1月7日、資本金650万円で吉本興業株式会社を設立した[21]。同年7月には吉本興業合名会社から営業の一切を譲り受け、劇場と興行の実体をそのまま株式会社へ引き継いだ[22]。新会社が掲げた事業は映画と演芸の興行で、寄席から始まった会社にとって主業と副業は入れ替わっていた[23]。1949年5月、大阪証券取引所に上場[24]。創業から37年で、夫婦が買った小屋に始まる寄席経営は株式を公開する会社の形に変わった。1954年12月には資本金を1億1000万円へ増やし、設立時の650万円から16倍を超える規模にした[25]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [21]昭和23年1月7日に資本金650万円の吉本興業株式会社を設立
    • [24]昭和24年5月、大阪証券取引所に上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [22]昭和23年7月、吉本興業(名)の営業の一切を譲り受けた
    • [23]事業は映画・演芸興行
    • [25]昭和29年12月には1億1000万円に増資した

戦後の再建は、焼けた寄席を映画館へ置き換えて進んだ。映画興行を主な業務とし、直営の劇場は京阪神地区に6館を数えた[26]。本社は大阪市南区河原町に置き、創業家の林正之助社長が指揮を執った[27]。関東地区は傍系の吉本株式会社が経営にあたり、名古屋地区ではトヨタとの提携で中日本興業株式会社を設立して、東西でチェーンを組んだ[28]。営業収入は1957年3月期、1958年3月期ともに4億円[29]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [26]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館を有した
    • [27]本社は大阪市南区河原町1の1514、社長は林正之助
    • [28]関東地区は傍系の吉本株式会社がその経営に当たり、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立し、東西相呼応してチェーンの強化を図った
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [29]1957年3月期・1958年3月期の営業収入はいずれも4億円
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]戦後はいち早く戦災劇場を修復し、アメリカ映画を主体に興行を再開
    • [21]昭和23年1月7日に資本金650万円の吉本興業株式会社を設立
    • [24]昭和24年5月、大阪証券取引所に上場
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [18]吉本は空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、もっぱら映画興行を主業としていた
    • [19]55年関西学院大学文学部を卒業して吉本に入社。映画館の管理係、掃除や看板の掛け替えなどが新入社員の仕事だった
    • [20]中邨秀雄氏の入社動機は「好きな映画がタダで見られるかなと思って」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
    • [22]昭和23年7月、吉本興業(名)の営業の一切を譲り受けた
    • [23]事業は映画・演芸興行
    • [25]昭和29年12月には1億1000万円に増資した
    • [26]映画興行をおもな業務とし、直営劇場は京阪神地区に6館を有した
    • [27]本社は大阪市南区河原町1の1514、社長は林正之助
    • [28]関東地区は傍系の吉本株式会社がその経営に当たり、名古屋地区ではトヨタとの提携のもとに中日本興業株式会社を設立し、東西相呼応してチェーンの強化を図った
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [29]1957年3月期・1958年3月期の営業収入はいずれも4億円

毎日放送との劇場中継の開始と脱演芸路線の撤回

創業ストーリー(4)

映画館うめだ花月を演芸場に戻した八田竹男氏の判断

戦後の吉本興業は、空襲で焼けた演芸場の跡に映画館を建て、映画興行を主業としていた[30]。これを演芸へ引き戻したのは、1959年に重なった民間テレビ放送の勃興である[31]。前年の1958年12月には東京タワーが完工し、全国でテレビ局の開局が相次いだ[32]。当時の制作部長で後に社長となる八田竹男氏は、やがて映画がテレビに食われる時代が来るとして、映画館『うめだ花月』を演芸場につくり直した[33]。そして1959年3月、毎日放送テレビの本放送開始と同時に劇場中継を行った[34]。最初の出し物は花菱アチャコ主演の『迷月赤城山』で、中邨秀雄氏は花菱アチャコのマネジャーを務めた[35]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [30]戦後の吉本興業は空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、映画興行を主業としていた
    • [31]1959年当時は民間テレビ放送の勃興期だった
    • [32]1958年12月に東京タワーが完工し、全国でテレビ局の開局が相次いだ
    • [33]制作部長の八田竹男が、映画がテレビに食われる時代が来るとして映画館「うめだ花月」を演芸場につくり直した
    • [34]1959年3月の毎日放送テレビ本放送開始と同時に劇場中継を行った
    • [35]最初の出し物は花菱アチャコ主演の「迷月赤城山」で、中邨秀雄が花菱アチャコのマネジャーを務めた

劇場中継の開始とともに所属タレントの人気も出始め、劇場にふたたび客が押しかけた[36]。上場市場も広げた。1949年5月に大阪証券取引所へ上場していた吉本興業は、1961年10月に東京証券取引所へ上場した[37]。もっとも収入の柱は依然として劇場にあり、1963年3月期の半期の興行収入は223,229千円で収入全体の77%を占めた[38]。売店が22,008千円で8%、賃貸収入が19,582千円で7%、喫茶が16,575千円で6%と続いた[39]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [36]吉本新喜劇のテレビ中継とともに所属タレントの人気が出始め、劇場にまた人が押しかけた
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1949年5月に大阪証券取引所へ上場、1961年10月に東京証券取引所へ上場
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [38]1963年3月期(半期)の興行収入は223,229千円で収入の77%
    • [39]1963年3月期(半期)の売店22,008千円8%、賃貸収入19,582千円7%、喫茶16,575千円6%
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [30]戦後の吉本興業は空襲で焼けた演芸場跡に映画館を建て、映画興行を主業としていた
    • [31]1959年当時は民間テレビ放送の勃興期だった
    • [32]1958年12月に東京タワーが完工し、全国でテレビ局の開局が相次いだ
    • [33]制作部長の八田竹男が、映画がテレビに食われる時代が来るとして映画館「うめだ花月」を演芸場につくり直した
    • [34]1959年3月の毎日放送テレビ本放送開始と同時に劇場中継を行った
    • [35]最初の出し物は花菱アチャコ主演の「迷月赤城山」で、中邨秀雄が花菱アチャコのマネジャーを務めた
    • [36]吉本新喜劇のテレビ中継とともに所属タレントの人気が出始め、劇場にまた人が押しかけた
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1949年5月に大阪証券取引所へ上場、1961年10月に東京証券取引所へ上場
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [38]1963年3月期(半期)の興行収入は223,229千円で収入の77%
    • [39]1963年3月期(半期)の売店22,008千円8%、賃貸収入19,582千円7%、喫茶16,575千円6%
創業ストーリー(5)

新喜劇のテレビ中継とボウリング場への劇場改造

劇場とテレビの結びつきは、設備の自前化へ進んだ。それでも収入の中心は劇場のままで、1970年3月期の半期の劇場収入は392,221千円と全収入の49%を占め、テレビ・ラジオ収入は80,472千円の10%にとどまった[40]

  • 会社年鑑 1971年版
    • [40]1970年3月期(半期)の劇場収入392,221千円49%、テレビ・ラジオ収入80,472千円10%

ところが、劇場をテレビへ結び直した路線はいったん否定された。1968年から1969年ごろ、林正之助社長の身辺に不祥事が起こり、社長を辞めざるを得なくなった[41]。代わって社長には、東京市場の開拓を手がけてきた林家の末弟、林弘高氏が就いた[42]林弘高社長はブレーンを引き連れて東京から大阪の本社に乗り込み、脱演芸の多角化を方針に掲げた[43]。中身は、苦戦続きの劇場をつぶして当時ブームだったボウリング場へ改造することにあった[44]。1970年3月期の半期のボウリング収入は147,496千円に達し、全収入の18%を占めた[45]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [41]1968〜69年ごろ、林正之助の身辺に不祥事が起こり社長を辞めざるを得なくなった
    • [42]代わって社長に就任したのは林家の末弟・林弘高で、東京市場の開拓を手がけてきた人物
    • [43]林弘高はブレーンを引き連れ東京から本社に乗り込み、“脱演芸”の多角化戦略を打ち出した
    • [44]苦戦続きの劇場をつぶして当時ブームだったボウリング場に改造する方針
  • 会社年鑑 1971年版
    • [45]1970年3月期(半期)のボウリング収入147,496千円、全収入の18%

方針は人事にも及んだ。八田竹男氏は制作部長を外され[46]中邨秀雄氏は脱演芸の路線に反発して辞表を出した[47]中邨秀雄氏は周囲の説得を受け、前の身分と地位が保証される条件も付いたため、数カ月で会社へ戻った[48]。離れていた間は海外に出て、自分と会社を客観的に眺める機会にあて、会社の欠点もつかんだと後年語っている[49]林弘高社長が突然病に倒れたこともあり、脱演芸の路線は撤回された[50]。制作部長を外れた八田竹男氏は、のちに吉本興業の社長に就いた[51]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [46]八田竹男は制作部長を外された
    • [47]中邨秀雄は“脱演芸”路線に反発して辞表を出した
    • [48]周囲の説得と前の身分・地位の保証という条件が付き、数カ月で会社に復帰した
    • [49]中邨秀雄は海外に出て自分と会社を客観的に眺める機会とし、会社の欠点もわかったと語っている
    • [50]林弘高社長が病に倒れたこともあって“脱演芸”路線は撤回された
    • [51]中邨秀雄が八田竹男の後を受けて社長に就任したのは1991年4月
  • 会社年鑑 1971年版
    • [40]1970年3月期(半期)の劇場収入392,221千円49%、テレビ・ラジオ収入80,472千円10%
    • [45]1970年3月期(半期)のボウリング収入147,496千円、全収入の18%
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [41]1968〜69年ごろ、林正之助の身辺に不祥事が起こり社長を辞めざるを得なくなった
    • [42]代わって社長に就任したのは林家の末弟・林弘高で、東京市場の開拓を手がけてきた人物
    • [43]林弘高はブレーンを引き連れ東京から本社に乗り込み、“脱演芸”の多角化戦略を打ち出した
    • [44]苦戦続きの劇場をつぶして当時ブームだったボウリング場に改造する方針
    • [46]八田竹男は制作部長を外された
    • [47]中邨秀雄は“脱演芸”路線に反発して辞表を出した
    • [48]周囲の説得と前の身分・地位の保証という条件が付き、数カ月で会社に復帰した
    • [49]中邨秀雄は海外に出て自分と会社を客観的に眺める機会とし、会社の欠点もわかったと語っている
    • [50]林弘高社長が病に倒れたこともあって“脱演芸”路線は撤回された
    • [51]中邨秀雄が八田竹男の後を受けて社長に就任したのは1991年4月
創業ストーリー(6)

ヤングお~お~のユニット制作方式とI.T.S設立

1960年代の毎日放送の番組『ヤングお~お~』で、吉本興業はタレント斡旋と番組企画をセットにした『ユニット制作方式』を採用した[52]。笑いとトークと歌を並べた若者向けのバラエティ番組で、中邨秀雄氏が制作を手がけた[53]。この番組が、吉本興業を興行会社から制作会社へ移すきっかけとなった[54]。番組制作へ寄るのに合わせ、支払いの実務も改めた。中邨秀雄氏は1964年にテレビ課長、1973年に制作部長に就いた[55]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [52]1960年代の毎日放送の番組「ヤングお~お~」でタレント斡旋と番組企画をセットにした「ユニット制作方式」を採用した
    • [53]「ヤングお~お~」は笑い・トーク・歌のある若者向けバラエティ番組で、手がけたのは中邨秀雄
    • [54]吉本興業が興行会社から制作会社へ移行するきっかけとなった番組
    • [55]中邨秀雄は1964年テレビ課長、1973年制作部長

1973年、吉本興業は毎日放送と資本を出し合い、番組制作会社『I.T.S』を設立した[56]。1975年10月には株式会社吉本音楽出版を設立し、音楽の権利を扱う子会社も手元に置いた[57]。営業収入は1973年3月期の22億円から1975年3月期の33億円へ増えた[58]。収入の構成も動いた。1975年3月期の半期の興行収入は1,007百万円で59.9%、テレビ・ラジオ収入は374百万円で22.3%、事業収入は299百万円で17.8%だった[59]。1963年3月期に収入の77%を占めた興行は、12年で6割を割り込む水準まで低下した[60]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [56]1973年に毎日放送と資本を出し合い番組制作会社「I.T.S」を設立
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1975年10月に株式会社吉本音楽出版を設立
  • 会社年鑑 1976年版
    • [58]営業収入は1973年3月期22億円、1975年3月期33億円
    • [59]1975年3月期(半期)の興行1,007百万円59.9%、テレビ・ラジオ374百万円22.3%、事業収入299百万円17.8%
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1976年版
    • [60]興行の構成比は1963年3月期の77%から1975年3月期の59.9%へ低下

営業収入は1964年3月期の6億円から[61]、1970年3月期に15億円[62]、1979年3月期には41億円へ伸びた[63]。15年で7倍近い伸び。途中で足踏みもあり、1977年3月期は35億円と前期の37億円を下回ったが[64]、1978年3月期には40億円へ戻した[65]。経常利益は1971年3月期の5億円から[66]1979年3月期の10億円へ倍増し[67]、当期純利益は1964年3月期の0.61億円から[68]1979年3月期の5億円に増えた[69]

  • 会社年鑑 1967年版
    • [61]1964年3月期の営業収入6億円
    • [68]1964年3月期の当期純利益0.61億円
  • 会社年鑑 1971年版
    • [62]1970年3月期の営業収入15億円
  • 会社年鑑 1986年版
    • [63]1979年3月期の営業収入41億円
    • [64]1976年3月期の営業収入37億円、1977年3月期35億円
    • [65]1978年3月期の営業収入40億円
    • [67]1979年3月期の経常利益10億円
    • [69]1979年3月期の当期純利益5億円
  • 会社年鑑 1976年版
    • [66]1971年3月期の経常利益5億円
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [52]1960年代の毎日放送の番組「ヤングお~お~」でタレント斡旋と番組企画をセットにした「ユニット制作方式」を採用した
    • [53]「ヤングお~お~」は笑い・トーク・歌のある若者向けバラエティ番組で、手がけたのは中邨秀雄
    • [54]吉本興業が興行会社から制作会社へ移行するきっかけとなった番組
    • [55]中邨秀雄は1964年テレビ課長、1973年制作部長
    • [56]1973年に毎日放送と資本を出し合い番組制作会社「I.T.S」を設立
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1975年10月に株式会社吉本音楽出版を設立
  • 会社年鑑 1976年版
    • [58]営業収入は1973年3月期22億円、1975年3月期33億円
    • [59]1975年3月期(半期)の興行1,007百万円59.9%、テレビ・ラジオ374百万円22.3%、事業収入299百万円17.8%
    • [66]1971年3月期の経常利益5億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1976年版
    • [60]興行の構成比は1963年3月期の77%から1975年3月期の59.9%へ低下
  • 会社年鑑 1967年版
    • [61]1964年3月期の営業収入6億円
    • [68]1964年3月期の当期純利益0.61億円
  • 会社年鑑 1971年版
    • [62]1970年3月期の営業収入15億円
  • 会社年鑑 1986年版
    • [63]1979年3月期の営業収入41億円
    • [64]1976年3月期の営業収入37億円、1977年3月期35億円
    • [65]1978年3月期の営業収入40億円
    • [67]1979年3月期の経常利益10億円
    • [69]1979年3月期の当期純利益5億円

9坪の東京事務所と吉本総合芸能学院による全国区化

創業ストーリー(7)

新入社員と2人で開いた東京都港区9坪の事務所

吉本興業は1980年10月、東京都港区に制作部東京事務所を開設した[70]。開設を命じられたのは、漫才コンビの横山やすし・西川きよしのマネジャーを8年務めた木村政雄氏である[71]。新入社員と2人、わずか9坪の部屋で東京での営業を始めた[72]。大阪だけを拠点としてきた会社で東京勤務は出世の本線から外れると受け止められ、木村政雄氏の異動を左遷と見る社員が社内には多かった[73]。木村政雄氏自身は、吉本興業と松竹新喜劇しかない大阪と違って東京の芸能界は裾野が広く、横山やすし・西川きよしの成功で所属タレントが東京でも通用するという手応えを得ていた[74]。東京事務所の業務は、木村政雄氏がすべて自分の判断で決めた[75]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1980年10月、東京都港区に制作部東京事務所を開設
  • 日経ビジネス 2003年2月3日号
    • [71]木村政雄氏は横山やすし・西川きよしのマネジャーを8年務めたのち東京事務所開設の社命を受けた
    • [72]1980年、新入社員と2人で東京にわずか9坪の事務所を開いた
    • [73]大阪だけが拠点の会社で東京に行くことは出世の本線から外れたと見なされ、社内では「あいつは飛ばされた」と受け止められた
    • [74]東京の芸能界は吉本興業と松竹新喜劇しかない大阪と違って裾野が広く、横山やすし・西川きよしの成功で所属タレントが東京でも通用する自信があった
    • [75]東京事務所はすべて木村政雄氏自身の判断で動いた

吉本興業は1932年の吉本興業合名会社への改組後、大阪を筆頭に主要都市で30有余の劇場を経営していたが、太平洋戦争でそのほとんどが被害を受けた[76]。東京事務所の開設は漫才ブームと重なり、ブームで活躍したタレントはほとんどが吉本興業に所属していた[77]中邨秀雄氏は代表取締役制作部長から常務となって東京進出の陣頭指揮を執り、所属タレントを東京の番組へ売り込んだ[78]。営業収入は1980年3月期の42億円から1981年3月期に56億円、1982年3月期には64億円へ伸び、経常利益は11億円から20億円へ増えた[79]。1983年3月期には営業収入が59億円、経常利益が16億円へ下がった[80]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1932年に吉本興行部を吉本興業合名会社へ改組し、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市で30有余に達したが、太平洋戦争でそのほとんどが甚大な被害を受けた
  • 日経ビジネス 2003年2月3日号
    • [77]漫才ブームで活躍したタレントはほとんどが吉本興業所属だった
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [78]1980年代、中邨秀雄氏は代表取締役制作部長から常務となり東京進出を陣頭指揮し、所属タレントを東京の番組へ売り込んだ
  • 会社年鑑 1986年版
    • [79]営業収入は1980年3月期42億円、1981年3月期56億円、1982年3月期64億円。経常利益は同11億円、18億円、20億円
    • [80]1983年3月期の営業収入59億円、経常利益16億円
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1980年10月、東京都港区に制作部東京事務所を開設
    • [76]1932年に吉本興行部を吉本興業合名会社へ改組し、経営する劇場は大阪を筆頭に主要都市で30有余に達したが、太平洋戦争でそのほとんどが甚大な被害を受けた
  • 日経ビジネス 2003年2月3日号
    • [71]木村政雄氏は横山やすし・西川きよしのマネジャーを8年務めたのち東京事務所開設の社命を受けた
    • [72]1980年、新入社員と2人で東京にわずか9坪の事務所を開いた
    • [73]大阪だけが拠点の会社で東京に行くことは出世の本線から外れたと見なされ、社内では「あいつは飛ばされた」と受け止められた
    • [74]東京の芸能界は吉本興業と松竹新喜劇しかない大阪と違って裾野が広く、横山やすし・西川きよしの成功で所属タレントが東京でも通用する自信があった
    • [75]東京事務所はすべて木村政雄氏自身の判断で動いた
    • [77]漫才ブームで活躍したタレントはほとんどが吉本興業所属だった
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [78]1980年代、中邨秀雄氏は代表取締役制作部長から常務となり東京進出を陣頭指揮し、所属タレントを東京の番組へ売り込んだ
  • 会社年鑑 1986年版
    • [79]営業収入は1980年3月期42億円、1981年3月期56億円、1982年3月期64億円。経常利益は同11億円、18億円、20億円
    • [80]1983年3月期の営業収入59億円、経常利益16億円
創業ストーリー(8)

吉本総合芸能学院の開校と吉本新喜劇の10歳若返り

東京の番組に吉本興業のタレントを定着させるには、新しい芸人を次々に送り出す必要があった[81]。そこで吉本興業は1982年、新人の発掘と養成にあたる吉本総合芸能学院を開校した[82]中邨秀雄氏は、徒弟制度で芸人を育てた時代と違って社内養成には費用がかかるものの、それを研究開発費と割り切っていると1998年に語った[83]。学院からは漫才コンビのダウンタウンが育った[84]。1993年11月時点で吉本興業の芸人は約400人に達し、うち高収入が保証される専属契約を結ぶのは50人足らずで、大半が1年契約にとどまった[85]。残る約350人は仕事のたびに契約を交わす関係で、面白い芸を持てば仕事が増え、客に飽きられればその他大勢へ戻った[86]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [81]東京市場に吉本芸能を定着させるには新しいタレントを次々に繰り出す必要があった
    • [82]1982年に「吉本総合芸能学院」を開校し、新人タレントの発掘と養成に乗り出した
    • [83]中邨秀雄社長は社内養成の費用を研究開発費と割り切っていると述べた
    • [84]吉本総合芸能学院から漫才コンビのダウンタウンが育った
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [85]1993年時点で吉本興業の芸人は約400人、高収入が保証される専属契約は50人足らずでほとんどが1年契約
    • [86]残る約350人は仕事のたびに契約を交わす関係で、面白い芸を持てば仕事が増え、客に飽きられればその他大勢に戻る

木村政雄氏は東京事務所を離れ、大阪本社の制作部長に着任した[87]。大阪へ戻った木村政雄氏の目には、10年前と変わらない漫才と、吉本と松竹が同じ顔ぶれで続ける新喜劇が映った[88]。吉本新喜劇の出演者は男性の平均年齢が40歳を超えており、木村政雄氏は10歳以上の若返りを進めた[89]。飛んだり跳ねたりのドタバタ劇が吉本新喜劇の持ち味であるのに、年齢が上がった出演者は情に訴える芝居へ寄り、客の期待と乖離して劇場が埋まらなくなっていた[90]。一時は混乱したものの、数年で吉本新喜劇に客が戻った[91]。1989年から人気が回復し、吉本興業は1991年3月期から増収増益を続けた[92]

  • 日経ビジネス 2003年2月3日号
    • [87]木村政雄氏は東京事務所を離れて大阪本社の制作部長に着任した
    • [88]大阪では漫才が10年前と全く変わらず、吉本と松竹が同じ顔ぶれで新喜劇を続けていた
    • [89]吉本新喜劇の出演者は男性の平均年齢が40歳を超えており、10歳以上の若返りを図った
    • [90]飛んだり跳ねたりのドタバタ劇が吉本新喜劇の持ち味だが、年を取った出演者は情に訴える芝居をして客の期待と乖離し、劇場が埋まらなかった
    • [91]厳しい改革で一時は混乱したが、数年で吉本新喜劇に客が戻った
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [92]1989年から吉本新喜劇の人気が復活し、1991年3月期から連続して増収増益を記録した

吉本興業は、芸人を鍛える場として直営劇場を増やした[93]。1986年には若手を育てる200席の心斎橋筋2丁目劇場を開いた[94]。1987年10月には大阪市中央区で吉本会館を竣工して本社を移し[95]、同会館内に新喜劇の主要な演目を上演する877席のなんばグランド花月を設けた[96]。さらに1988年10月に名古屋市中区、1989年12月に福岡市中央区へ制作部の事務所を置いた[97]。直営劇場を持てば所属タレントを常に訓練でき、優秀なスタッフが集まる拠点も確保できると木村政雄氏は説明した[98]。1985年3月期の部門別営業収入は、テレビ・ラジオ部門が33億6300万円で56%、興行部門が19億9600万円で33%、事業部門が6億1600万円で10%を占めた[99]

  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [93]直営劇場を持つことが吉本興業のお笑い芸の質の向上に役割を果たした
    • [94]若手タレントを育てる「心斎橋筋2丁目劇場」は1986年オープン、200席
    • [96]新喜劇のメジャーな演目を中心とする「なんばグランド花月」は1987年オープン、877席
    • [98]直営劇場を持つことで所属タレントを常に訓練でき、優秀なスタッフが集まる拠点も確保できると木村政雄氏が述べた
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1987年10月、大阪市中央区に吉本会館を竣工し本社も移転
    • [97]1988年10月に名古屋市中区、1989年12月に福岡市中央区へ制作部事務所を開設
  • 会社年鑑 1986年版
    • [99]1985年3月期の部門別売上はテレビ・ラジオ部門3,363百万円(56%)、興行部門1,996百万円(33%)、事業部門616百万円(10%)
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [81]東京市場に吉本芸能を定着させるには新しいタレントを次々に繰り出す必要があった
    • [82]1982年に「吉本総合芸能学院」を開校し、新人タレントの発掘と養成に乗り出した
    • [83]中邨秀雄社長は社内養成の費用を研究開発費と割り切っていると述べた
    • [84]吉本総合芸能学院から漫才コンビのダウンタウンが育った
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [85]1993年時点で吉本興業の芸人は約400人、高収入が保証される専属契約は50人足らずでほとんどが1年契約
    • [86]残る約350人は仕事のたびに契約を交わす関係で、面白い芸を持てば仕事が増え、客に飽きられればその他大勢に戻る
    • [92]1989年から吉本新喜劇の人気が復活し、1991年3月期から連続して増収増益を記録した
    • [93]直営劇場を持つことが吉本興業のお笑い芸の質の向上に役割を果たした
    • [94]若手タレントを育てる「心斎橋筋2丁目劇場」は1986年オープン、200席
    • [96]新喜劇のメジャーな演目を中心とする「なんばグランド花月」は1987年オープン、877席
    • [98]直営劇場を持つことで所属タレントを常に訓練でき、優秀なスタッフが集まる拠点も確保できると木村政雄氏が述べた
  • 日経ビジネス 2003年2月3日号
    • [87]木村政雄氏は東京事務所を離れて大阪本社の制作部長に着任した
    • [88]大阪では漫才が10年前と全く変わらず、吉本と松竹が同じ顔ぶれで新喜劇を続けていた
    • [89]吉本新喜劇の出演者は男性の平均年齢が40歳を超えており、10歳以上の若返りを図った
    • [90]飛んだり跳ねたりのドタバタ劇が吉本新喜劇の持ち味だが、年を取った出演者は情に訴える芝居をして客の期待と乖離し、劇場が埋まらなかった
    • [91]厳しい改革で一時は混乱したが、数年で吉本新喜劇に客が戻った
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1987年10月、大阪市中央区に吉本会館を竣工し本社も移転
    • [97]1988年10月に名古屋市中区、1989年12月に福岡市中央区へ制作部事務所を開設
  • 会社年鑑 1986年版
    • [99]1985年3月期の部門別売上はテレビ・ラジオ部門3,363百万円(56%)、興行部門1,996百万円(33%)、事業部門616百万円(10%)
創業ストーリー(9)

ペンタゴン経営と銀座7丁目劇場の開設から閉鎖まで

中邨秀雄氏は1991年4月に社長へ就任し、同じ1991年、吉本興業のオーナーだった林正之助氏が亡くなった[100]中邨秀雄社長はタレントビジネス・飲食・不動産・物販・旅行を5本柱に置くペンタゴン経営を掲げ、タコ焼き店やライブハウス、キャラクターグッズ、吉本タレントと行く旅行ツアーへ広げた[101]。失敗と判断すれば手を引くのも速く、出版社の飛鳥新社と組んだ新聞『日刊アスカ』は5カ月で撤退した[102]。多角化の軸には貸しビル業を据えた[103]。1987年に34億円を投じて吉本会館本館・別館を開き、以後6年間で京都吉本ビルやSWINGヨシモトなど5つの複合賃貸ビルを建てた[104]。総売り上げに占める不動産賃貸部門の割合は、1990年3月期の5%から1993年3月期には約15%へ上がった[105]

  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [100]中邨秀雄氏は1991年4月に社長就任。同じ1991年に吉本興業のオーナー林正之助氏が死去
    • [101]タレントビジネス・飲食・不動産・物販・旅行を5本柱にした「ペンタゴン経営」を掲げ、タコ焼き店、ライブハウス、キャラクターグッズ、吉本タレントと行く旅行ツアーを手がけた
    • [102]失敗と判断したら即座に手じまいし、飛鳥新社と組んだ新聞「日刊アスカ」は5カ月で撤退した
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [103]賃貸ビルからのテナント料収入で不安定な劇場の興行収入をカバーする戦術をとった
    • [104]1987年に34億円を投じて吉本会館本館・別館をオープンし、以後6年間で京都吉本ビル、SWINGヨシモト、SWINGうめだなど5つの複合賃貸ビルを建設
    • [105]総売り上げに占める不動産賃貸部門の割合は1990年3月期の5%から1993年3月期の約15%へ上昇

1993年3月期の売上高は前期比20.7%増の148億2900万円、経常利益は同9.8%増の19億9800万円で、テレビ・ラジオからの収入は総売り上げの59%にあたる87億5200万円に達した[106]。好業績を背景に、吉本興業は東京へ自前の劇場を置いた[107]。1994年3月に銀座7丁目劇場を開いたが、連日満員でも150人程度しか収容できず赤字となった[108]。1995年1月、フジテレビジョンの役員待遇エグゼクティブプロデューサーだった横澤彪氏が吉本興業東京支社長へ転じ、同年6月に常務へ就いた[109]。横澤彪氏が陣頭指揮を執るなか、1995年3月には300人前後を収容する渋谷公園通り劇場を東京・渋谷の公園通り沿いに開場した[110]。1997年3月期にはメディア部門の売上高が東京56億円、大阪50億円となり、初めて東京が大阪を上回った[111]

  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [106]1993年3月期は売上高が前期比20.7%増の148億2900万円、経常利益が同9.8%増の19億9800万円、テレビ・ラジオからの収入は総売り上げの59%にあたる87億5200万円
    • [107]東京本格進出の背景にはここ数年の好業績があり、都内に常設劇場を開く計画だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(中邨秀雄・講演)
    • [108]銀座7丁目劇場は1994年3月オープン、連日満員の盛況ながら150人程度しか収容できず赤字になった
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
    • [109]横澤彪氏は1995年1月にフジテレビジョンの役員待遇エグゼクティブプロデューサーから吉本興業東京支社長に転じ、同年6月29日に常務就任
    • [110]1995年3月、東京・渋谷の公園通り沿いに300人前後を収容する渋谷公園通り劇場を開き、横澤彪氏が東京進出作戦の陣頭指揮を執った
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [111]1997年3月期のメディア部門売上高は東京56億円、大阪50億円で初めて東京が大阪を上回った

東京の2劇場は、どんなタレントが東京でうけるかを知るための実験劇場である[112]中邨秀雄社長は、営業として成り立つのは400〜500人以上の劇場だと語った[113]。吉本興業は1998年10月に渋谷公園通り劇場を、1999年1月に銀座7丁目劇場を所期の目的が終了したとして閉鎖し、よい場所が見つかるまでは東京のタレントが週末に出演できる場としてスタジオアルタなどを確保した[114]。入れ替わりに、1999年3月に小樽よしもと、同年5月に福岡駅前の交通センタービル内へ定員111名の吉本111劇場を開いた[115]。1999年3月期の売上は前期比8.1%増の246億52百万円、営業利益23億33百万円、経常利益24億12百万円、当期純利益8億54百万円[116]。1999年春には吉本総合芸能学院の採用を従来の150人から600人へ増やし、同年6月に中邨秀雄氏が会長、林裕章氏が社長へ就いた[117]

  • 証券アナリストジャーナル 1999年7月号(中邨秀雄・講演)
    • [112]銀座7丁目劇場と渋谷公園通り劇場は東京でどんなタレントがうけるかを知るための実験劇場だった
    • [113]営業的には400〜500人以上の劇場でないと商売にならないと中邨秀雄社長が述べた
    • [114]1998年10月に渋谷公園通り劇場、1999年1月に銀座7丁目劇場を所期の目的が終了したとして閉鎖し、よい場所が見つかるまでは東京のタレントが週末に出演できる場としてスタジオアルタ等を確保
    • [115]1999年3月11日に小樽よしもとを開業、1999年5月1日に福岡駅前交通センタービル内に定員111名の吉本111劇場を開業
    • [116]1999年3月期は売上246億52百万円(前期比8.1%増)、営業利益23億33百万円、経常利益24億12百万円、当期純利益8億54百万円
    • [117]1999年春に吉本総合芸能学院の採用を従来の150人から600人へ増やし、1999年6月29日付で中邨秀雄氏が会長、林裕章氏が社長に就任
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
    • [100]中邨秀雄氏は1991年4月に社長就任。同じ1991年に吉本興業のオーナー林正之助氏が死去
    • [101]タレントビジネス・飲食・不動産・物販・旅行を5本柱にした「ペンタゴン経営」を掲げ、タコ焼き店、ライブハウス、キャラクターグッズ、吉本タレントと行く旅行ツアーを手がけた
    • [102]失敗と判断したら即座に手じまいし、飛鳥新社と組んだ新聞「日刊アスカ」は5カ月で撤退した
    • [111]1997年3月期のメディア部門売上高は東京56億円、大阪50億円で初めて東京が大阪を上回った
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
    • [103]賃貸ビルからのテナント料収入で不安定な劇場の興行収入をカバーする戦術をとった
    • [104]1987年に34億円を投じて吉本会館本館・別館をオープンし、以後6年間で京都吉本ビル、SWINGヨシモト、SWINGうめだなど5つの複合賃貸ビルを建設
    • [105]総売り上げに占める不動産賃貸部門の割合は1990年3月期の5%から1993年3月期の約15%へ上昇
    • [106]1993年3月期は売上高が前期比20.7%増の148億2900万円、経常利益が同9.8%増の19億9800万円、テレビ・ラジオからの収入は総売り上げの59%にあたる87億5200万円
    • [107]東京本格進出の背景にはここ数年の好業績があり、都内に常設劇場を開く計画だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(中邨秀雄・講演)
    • [108]銀座7丁目劇場は1994年3月オープン、連日満員の盛況ながら150人程度しか収容できず赤字になった
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
    • [109]横澤彪氏は1995年1月にフジテレビジョンの役員待遇エグゼクティブプロデューサーから吉本興業東京支社長に転じ、同年6月29日に常務就任
    • [110]1995年3月、東京・渋谷の公園通り沿いに300人前後を収容する渋谷公園通り劇場を開き、横澤彪氏が東京進出作戦の陣頭指揮を執った
  • 証券アナリストジャーナル 1999年7月号(中邨秀雄・講演)
    • [112]銀座7丁目劇場と渋谷公園通り劇場は東京でどんなタレントがうけるかを知るための実験劇場だった
    • [113]営業的には400〜500人以上の劇場でないと商売にならないと中邨秀雄社長が述べた
    • [114]1998年10月に渋谷公園通り劇場、1999年1月に銀座7丁目劇場を所期の目的が終了したとして閉鎖し、よい場所が見つかるまでは東京のタレントが週末に出演できる場としてスタジオアルタ等を確保
    • [115]1999年3月11日に小樽よしもとを開業、1999年5月1日に福岡駅前交通センタービル内に定員111名の吉本111劇場を開業
    • [116]1999年3月期は売上246億52百万円(前期比8.1%増)、営業利益23億33百万円、経常利益24億12百万円、当期純利益8億54百万円
    • [117]1999年春に吉本総合芸能学院の採用を従来の150人から600人へ増やし、1999年6月29日付で中邨秀雄氏が会長、林裕章氏が社長に就任

ルミネtheよしもとの開場からM-1グランプリと非上場化へ

創業ストーリー(10)

東京初の常設劇場ルミネtheよしもととM-1グランプリ

吉本興業は2001年4月、東京都新宿区に『ルミネtheよしもと』を開場した[118]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [118]2001年4月に東京都新宿区に「ルミネtheよしもと」(劇場)を開場

2002年3月期の連結営業収入は376億15百万円、経常利益は28億47百万円、当期純利益は5億93百万円を計上した[119]

  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [119]2002年3月期の連結営業収入37,615百万円、経常利益2,847百万円、当期純利益593百万円
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [118]2001年4月に東京都新宿区に「ルミネtheよしもと」(劇場)を開場
  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [119]2002年3月期の連結営業収入37,615百万円、経常利益2,847百万円、当期純利益593百万円
創業ストーリー(11)

お笑いのシェア飽和と2007年の持株会社移行

連結営業収入は376億15百万円から362億84百万円へ減り、経常利益も27億29百万円まで下がった[120]。2004年3月期の連結営業収入は343億4百万円まで縮んだ[121]

  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [120]2003年3月期の連結営業収入36,284百万円、経常利益2,729百万円(2002年3月期は37,615百万円)
    • [121]2004年3月期の連結営業収入34,304百万円

業績は戻り、2006年3月期の連結営業収入は462億38百万円、営業利益は63億51百万円、当期純利益は34億59百万円を計上した[122]

  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [122]2006年3月期の連結営業収入46,238百万円、営業利益6,351百万円、当期純利益3,459百万円

吉本興業は2007年10月に持株会社制を導入し、事業を新設分割により株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー、株式会社よしもとデベロップメンツ、株式会社よしもとアドミニストレーションの3社へ承継させた[123]。提出会社の従業員は2007年3月期末の286名から2008年3月期末の17名へ減り、事業に就いていた社員は子会社へ出向した[124]。連結の従業員数は572名から574名でほとんど動いておらず、単体の減少は事業を子会社へ移したことによる[125]。持株会社となった提出会社に残ったのは管理部門だけで、2009年3月期末の単体従業員は21名にとどまった[126]。2008年3月期には連結営業収入501億8百万円、営業利益59億20百万円を計上した[127]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [123]平成19年10月 持株会社制を導入し、当社の事業を新設分割により株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー、株式会社よしもとデベロップメンツ及び株式会社よしもとアドミニストレーションの3社に承継
  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [124]2007年3月期の提出会社従業員286名、2008年3月期17名。持株会社移行で事業を子会社へ承継し提出会社の従業員が子会社へ出向したため単体が269名減
    • [125]2007年3月期の連結従業員572名、2008年3月期574名
    • [126]2009年3月期の提出会社従業員21名。持株会社のため提出会社の従業員は管理部門のみ
    • [127]2008年3月期の連結営業収入50,108百万円、営業利益5,920百万円
  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [120]2003年3月期の連結営業収入36,284百万円、経常利益2,729百万円(2002年3月期は37,615百万円)
    • [121]2004年3月期の連結営業収入34,304百万円
    • [122]2006年3月期の連結営業収入46,238百万円、営業利益6,351百万円、当期純利益3,459百万円
    • [124]2007年3月期の提出会社従業員286名、2008年3月期17名。持株会社移行で事業を子会社へ承継し提出会社の従業員が子会社へ出向したため単体が269名減
    • [125]2007年3月期の連結従業員572名、2008年3月期574名
    • [126]2009年3月期の提出会社従業員21名。持株会社のため提出会社の従業員は管理部門のみ
    • [127]2008年3月期の連結営業収入50,108百万円、営業利益5,920百万円
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [123]平成19年10月 持株会社制を導入し、当社の事業を新設分割により株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー、株式会社よしもとデベロップメンツ及び株式会社よしもとアドミニストレーションの3社に承継
創業ストーリー(12)

1株1350円の公開買付けによる非上場化と劇場閉鎖

直前の2009年3月期の連結営業収入は488億71百万円、営業利益は43億57百万円で、当期純利益は前期の30億77百万円から6億13百万円へ落ち込んだ[128]。部門別の内訳は制作が90%、事業が8%、不動産が3%で、劇場と芸人を抱える制作が収入の大半を占めた[129]

  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [128]2009年3月期の連結営業収入48,871百万円、営業利益4,357百万円、当期純利益613百万円(2008年3月期の当期純利益3,077百万円)
    • [129]2009年3月期の部門別売上構成は制作90%、事業8%、不動産3%

吉本興業が大阪証券取引所へ株式を上場したのは1949年5月であった[130]

  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [130]昭和24年5月 大阪証券取引所に上場
  • 吉本興業 有価証券報告書
    • [128]2009年3月期の連結営業収入48,871百万円、営業利益4,357百万円、当期純利益613百万円(2008年3月期の当期純利益3,077百万円)
    • [129]2009年3月期の部門別売上構成は制作90%、事業8%、不動産3%
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
    • [130]昭和24年5月 大阪証券取引所に上場

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沿革年表 1912〜2019年

吉本興業の沿革1912〜2019年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1912〜1958年第二文芸館から30有余の劇場網へ、戦災で場を失った興行会社吉本泰三・せい夫婦が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手★★
大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行
「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手★★
東京・神田の寄席を買収し「神田花月」を開場
対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同★★★
創業者の吉本泰三が死去★★
キネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場
大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放★★
吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設★★
日活と提携し映画「佐渡情話」を製作★★
日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣★★
演芸人の養成所「漫才道場」を開校
東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失★★
演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散★★★
林正之助吉本興業合名会社を「吉本興業株式会社」に改組★★
林正之助大阪証券取引所に上場
林正之助創業者の吉本せいが死去
1959〜1979年毎日放送との劇場中継の開始と脱演芸路線の撤回林正之助うめだ花月劇場を演芸場に転換し演芸興行を再開★★★
林正之助東京証券取引所に上場
林正之助毎日放送がうめだ花月劇場から吉本新喜劇の中継を開始★★
林弘高毎日放送「ヤングおー!おー!」で番組制作を一括して請け負うユニット制作に着手★★
1980〜1999年9坪の東京事務所と吉本総合芸能学院による全国区化八田竹男芸人養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校★★★
八田竹男大阪・難波に「なんばグランド花月」を開場し本社を移転★★
2000〜2022年ルミネtheよしもとの開場からM-1グランプリと非上場化へ林裕章東京・新宿に「ルミネtheよしもと」を開場★★
林裕章漫才の賞レース「M-1グランプリ」を開始★★
吉野伊佐男持株会社制に移行★★
大﨑洋クオンタム・エンターテインメントによる株式公開買付けで同社の子会社に移行★★
大﨑洋東京・大阪の各証券取引所で上場廃止★★★
岡本昭彦吉本興業ホールディングスに商号変更★★
出典・参考 15件
出典・参考
  • 吉本興業 有価証券報告書【沿革】
  • 吉本興業 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娯楽「吉本興行」
  • 会社年鑑 1967年版
  • 会社年鑑 1971年版
  • 会社年鑑 1976年版
  • 会社年鑑 1986年版
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1976年版
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(中邨秀雄・講演)
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
  • 日経ビジネス 1998年10月19日号
  • 証券アナリストジャーナル 1999年7月号(中邨秀雄・講演)
  • 日経ビジネス 2003年2月3日号

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