吉本興業が最初に買ったのは芸ではなく、芸を掛ける場所だった。1912年の第二文芸館から1931年の合名会社化までの19年、吉本吉兵衛とせいが手を伸ばした先は一貫して小屋である。花月亭、神田花月と買い足して23軒を連ねたのは、演者を独占するためではない。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば一人あたりの出番が増え、小屋の側は毎日の番組を埋められるからだった。ただし小屋をいくつ持っても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。1922年に浪花三友派を吸収したのは番組の供給元を内側へ移す手であり、ここで小屋と演者が一つの帳簿に入った。大正の末には東京・横浜へも広がり、傘下の寄席は30近くに達する。
1930年に初代桂春団治をめぐって起きた騒動は、興行という商売の前提が崩れた瞬間だった。全社員を動員して日本放送協会の大阪中央放送局にピケを張ったのは、木戸銭を取らずに芸が届く経路を客の奪い手と見たからである。ところが放送の後、春団治の出る寄席はほとんど満員になった。芸そのものではなく、その演者を見たいという気持ちのほうが売り物だと分かれば、放送は競合ではなく名を広める経路に変わる。営業方針を転換して放送協会と和解し、演者を電波へ送り出したのがその答えだった。1931年9月の改組で演芸人を育て指導する機関が置かれたのは、この読み替えの先にある。小屋を買い、番組を組み、派を吸収してきた会社が、最後に演者を作る側へ回った。
1912年4月、吉本吉兵衛と妻のせいは、大阪・天満天神の裏門にあった寄席「第二文芸館」を買い取り、寄席経営に乗り出した。手に入れたのは演者の一座ではなく、客を入れる小屋そのものである。会社が公表する沿革はこの年を創業と定めているが、上場後に株式会社年鑑へ載せた沿革は1914年4月の吉本興行部の発足から始まり、1955年に刊行された会社銀行八十年史も同じ日付を設立として記録する。小屋を持った日と、興行を業として名乗った日とが2年離れていたことになる。1950年版の株式会社年鑑の備考欄は前身の発足をさらに早い1913年と記しており、創業の年は資料によって三通りに分かれる。
吉兵衛が進めたのは、落語の合間に漫才・民謡・手品などを挟む、変化に富んだ番組の組み立てだった。落語の間に別種の芸を差し込めば、客は同じ木戸銭で複数の型の芸を見ることになる。1915年10月には大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買い取り、「花月亭」の名で興行した。1917年には吉本興行部の看板を掲げ、寄席を連ねて経営する形に踏み出している。客の入れ替わりが速くなれば、同じ小屋で打てる興行の数も増える。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を中心とする寄席経営と記録しており、演劇も映画もまだ業務に入っていない。番組の組み替えは一軒の工夫にとどまらず、買い足す小屋のすべてに移すことができた。
1921年11月、吉本興行部は東京・神田の寄席を買い取って「神田花月」を開き、大阪の外にも小屋を置いた。買い取った小屋には1915年の花月亭以来「花月」の名が付けられ、大阪から京都・東京へ連なった。同じ演者を複数の小屋へ順に回せば、一人あたりの出番は増え、小屋の側は毎日の番組を埋められる。第二文芸館から数えて、夫妻が連鎖経営に組み込んだ寄席は23軒に達した。1917年に掲げた吉本興行部の看板は、個々の小屋の名ではなく、それらを束ねる主体の名だった。小屋を買う資金は、その小屋が生む木戸銭で賄う形になっていく。
1922年9月、吉本興行部は対立していた「浪花三友派」などを吸収し、大阪の演芸界の大合同を成し遂げた。小屋を買い集めても、そこへ上げる演者を差し向けるのは演芸の各派である。派を取り込むことは、番組の供給元を興行部の内側へ移すことを意味した。演者を抱える側と小屋を持つ側が一つになれば、出演料も番組の順序も内側で決められる。1955年の会社銀行八十年史は、この時期の事業を演芸を主とする寄席経営と記し、演劇や映画への拡張を後年の動きとして分けている。大正の末には東京・横浜へも進出し、傘下の寄席は30近くに達した。
1924年2月、創業者の吉本吉兵衛が没した。寄席を買ってから12年、連鎖経営に組み込んだ小屋が23軒に達した時点での死である。経営は妻のせいが引き継ぎ、1955年の会社銀行八十年史は吉本興行部を設立した者をせいの名で記録している。実務を支えたのはせいの弟の林正之助で、姉に請われて18歳で興行の世界に入り、吉兵衛の急逝ののちは姉の片腕として寄席興行を担った。1950年版の株式会社年鑑では、会長に吉本せい、社長に林正之助、専務に林弘高の名が並ぶ。正之助は18歳で興行の世界に入ってから74年にわたり会社に在り、92歳までオーナーの座を占めた。創業者の家族が役員の席をそのまま占める構成だった。
1924年7月、吉本興行部はキネマ部を設け、大阪・福島に映画の常設館「キネマ花月」を開いた。寄席として使う小屋と映画館とでは、番組を組む手間も客の回転も違う。同じ土地に建つ箱を、寄席にするか映画館にするかを選べる状態になった。映画は演者を抱えずに番組が立ち、フィルムを借りれば同じ小屋で繰り返し掛けられる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇や映画への業務拡張を1931年の合名会社への改組以降の動きとして記し、興行部の時代に始まった映画館の経営を沿革に数えていない。会社が公表する沿革と、後年に刊行された会社史とで、映画へ踏み出した時期の記述は分かれている。
1930年、日本放送協会の大阪中央放送局が、落語の初代桂春団治に出演を依頼した。吉本興行部はこれを断っている。放送で落語が流れれば、木戸銭を払って寄席へ来る客が減るという理由だった。放送局は春団治本人と直接交渉し、出演料を先に渡して承諾させた。興行部は全社員を動員して大阪中央放送局の前にピケを張り、出演を阻もうとしたが、放送局は春団治を京都へ移し、京都放送局から放送した。傘下の寄席が30近くに達していた側にとって、電波は客の奪い手に見えた。木戸銭を取らずに芸が届く経路が現れれば、小屋の収入は直に削られる。
ラジオで落語を聞いた人々は、演者がどんな顔をしているのかを知りたがった。寄席ならさらに面白い噺が聞けるかもしれないとも考え、足を運んだ。放送のあと客足は落ちるどころか伸び、春団治が出る寄席はほぼ満員となった。これを受けて吉本興行部は方針を切り替え、放送協会と和解のうえ、所属の演者を放送へ出すようになった。1930年には大阪・千日前の「南陽館」も万才の専門館に改め、木戸銭十銭で開場している。安い木戸銭の小屋に名の売れた演者をそろえれば、放送で広まった知名度がそのまま客の数になる。演者を放送へ出すことは以後も会社の方針として続き、知名度を上げるための手段に位置づけられた。
1931年9月、吉本興行部は吉本興業合名会社に組織を改めた。株式会社年鑑の沿革でも、1955年に刊行された会社銀行八十年史でも、改組の時期は1931年9月である。会社が公表する沿革はこれを1932年3月とし、同時に東京支社を開設したと記す。支社の開設は、大正の末に進めた関東への進出を組織の形に整えるものだった。改組にあたって設けられたのは、演芸人を育て、指導するための機関だった。小屋を買い、番組を組み替え、演芸各派を吸収し、放送へ演者を送り出してきた末に、演者そのものを作る組織が興行会社の内側に置かれた。合名会社は以後、演劇と映画へ業務を広げ、経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。
戦争が吉本興業から奪ったのは劇場ではなく、劇場と演者を結ぶ仕組みそのものだった。各都市で35を数えた劇場と寄席は、1945年3月の空襲でそのほとんどが焼けている。だが失われたのはそれだけではない。同年6月に演芸人への貸金を帳消しにして専属契約から解いたのは、抱えていた演者を会社の側から手放す決定である。小屋は空襲で失い、演者は自ら解いた。1912年から33年かけて積み上げた興行の仕組みは、この二つで一度に消えた。1948年1月に資本金650万円の株式会社として出直したとき、手元に残っていたのは焼け跡の土地だけだった。同年7月に合名会社の営業を譲り受けて資本金を2,600万円へ引き上げたものの、それは失われた35館を建て直せる額ではない。
焼け跡に建て直したのは寄席ではなく映画館だった。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられ、演者を抱えなくても番組が立つ。演芸陣を解散した会社に選べたのは、この収入の型である。1950年版の株式会社年鑑が営業目的の第一項に映画興行を置き、演劇・演芸興行をその次に並べたのは、その帰結にすぎない。資本金は1948年の650万円から1957年の3億3,000万円まで10年で6度引き上げられ、資金は土地建物構築物へ向かった。もっとも1958年時点の定款には、映画・演劇の興行と並んで演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が演者を取り次ぐ業を書き加えたところから、次の20年が始まる。
1931年9月に吉本興業合名会社となった会社は、演芸人を育て指導する機関を置くとともに、演劇と映画へ業務を広げた。経営する劇場と寄席は大阪を本拠に各都市で35を数えるに至る。1932年3月には東京支社を開き、関東の興行を大阪から離れた組織に担わせた。劇場と寄席を合わせて35という数は、1912年に買った第二文芸館の一軒から数えて19年での到達である。寄席は一軒あたりの客席が限られ、番組を替えても収入の上限は席数で決まる。劇場の数を増やすことは、同じ演者を掛ける場を増やすと同時に、興行が途切れたときに残る固定費を増やすことでもあった。
1933年、吉本興業合名会社は漫才の横山エンタツと花菱アチャコを組ませ、野球の早慶戦を題材にした演目を当てた。落語の合間に挟む芸だった万才は、ここで番組の主役へ移る。1930年に大阪・千日前の南陽館を万才の専門館としてから3年、専門館のために組んだ番組が会社の名を全国へ広げる演目を生んだ。演者を育てる機関は1931年の改組とともに置かれており、当たった組の型を次の組へ移す下地はすでにあった。万才の一組が当たれば、専門館の番組はその組を軸に組み直せる。当たりの再現を組織で引き受ける形が、この時期に整っていく。
1934年10月、吉本興業合名会社は日活と提携し、映画「佐渡情話」を製作した。小屋を持ち演者を抱える会社が、フィルムを作る側にも回ったことになる。1955年の会社銀行八十年史は、演劇と映画への業務拡張を1931年の改組以降の動きとして一括りに記録している。映画は一度作れば各地の小屋で繰り返し掛けられる一方、演者の体は一つしかなく、寄席の番組は同じ日に一箇所でしか立たない。直営の劇場で自社が関わった映画を掛ければ、製作から興行までが一つの帳簿に収まる。映画の製作は、演者を抱えなくても番組が立つ収入源を会社に与えた。
1938年1月、吉本興業合名会社は日中戦争の戦地へ演芸人の一団「わらわし隊」を送った。興行の場は劇場から戦地の慰問へ広がり、演者の仕事は会社が取り次ぐ形で外へ出た。1939年には演芸人の養成所「漫才道場」を開き、1931年の改組で置いた育成機関を独立した学校の形に改めている。演者を育てて送り出す機能は、劇場を増やせなくなった局面でも会社の内側に残った。抱える小屋の数が伸びを止めても、抱える演者の数は増やせる。養成所を持つことは、演者の補充を外の一門に頼らずに済ませることでもあった。
1945年3月、東京と大阪の空襲で、吉本興業合名会社は大半の劇場を焼失した。各都市で35を数えた劇場と寄席のほとんどは、損害を受けるか灰燼に帰した。その打撃は、1955年に刊行された会社銀行八十年史の沿革にも書き残されている。1950年版の株式会社年鑑の備考欄も、戦災によって35劇場を失ったことを沿革の一項に挙げている。小屋を買い集めることで伸びてきた会社にとって、失われたのは営業の道具ではなく資産そのものだった。土地が残っても、客を入れる箱を建て直さなければ興行は打てない。1950年版の年鑑が挙げる事業場は、千日前グランドから浅草グランドまでの8箇所にとどまる。
1945年6月、吉本興業合名会社は演芸人への貸金を帳消しにし、専属契約から解いて演芸陣を解散した。貸金を帳消しにするとは、演者に対する債権を放棄することである。抱えていた演者を自ら手放したことになり、専属という縛りもここで解けた。戦争によって芸人は散り散りになり、戦後に会社が持っていたのは焼け跡の土地だけだった。小屋と演者という二つの資産のうち、小屋は空襲で失われ、演者は会社の側から解いた。1912年から33年かけて組み上げた興行の仕組みは、この時点でいったん失われている。専属を解いた会社には、再び演者を集めるときに使える縛りが何も残らなかった。
1948年1月7日、資本金650万円をもって吉本興業株式会社が設立された。同年7月には吉本興業合名会社の営業の一切を譲り受け、個人所有の資産を現物出資して資本金を2,600万円へ引き上げている。1949年5月には大阪証券取引所へ株式を上場した。焼けた小屋を建て直す資金を、興行の会社が株式市場から取る形になった。1950年3月、創業者の吉本せいが没する。1950年版の株式会社年鑑には会長として名が残り、社長の席には弟の林正之助が就いていた。上場した年の下期にあたる1949年9月期の興行収入は6,034万1千円で、半期の収入が資本金2,600万円の2倍を超えていた。
空襲で焼け落ちた演芸場の跡地には、映画を上映する館が建てられていった。戦後の再出発を担ったのは寄席ではなくそうした館で、映画の上映が主な事業となった。1955年刊の会社銀行八十年史は、主な業務を映画興行とし、京阪神地区の直営劇場は6館、関東地区は傍系の吉本株式会社の経営と記す。名古屋地区ではトヨタと手を組んで中日本興業株式会社を設け、東西のチェーンを固めようとしたとも伝える。さかのぼって1950年版の年鑑でも、営業目的の第一項は映画興行で、演劇・演芸の興行はその後に続き、同年の事業場一覧に載る8箇所の中にはキャバレーが1箇所含まれていた。
吉本興業の資本金は、1948年1月の650万円から1957年10月の3億3,000万円まで、10年で6度引き上げられた。1953年5月に5,500万円、1954年11月に1億1,000万円、1956年2月に2億2,000万円という刻みである。1954年4月から9月の半期の興行収入は1億8,115万8千円で、上場した1949年9月期の3倍に達している。増資で得た資金は土地建物構築物へ向かい、1958年9月期の有形固定資産は4億6,055万6千円に達した。1955年版の年鑑は、定款に挙げたキャバレー・食堂・出版を現在は営業していないと注記しており、定款の広さと実際の事業とは離れていた。同じ時期の定款には、映画・演劇の興行やキャバレー・食堂の経営と並んで、演芸家の有料職業紹介事業が加わっている。小屋を建て直してきた会社が、演者を取り次ぐ業を定款に書き入れたことになる。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1931年寄席興行の垂直統合 | 吉本泰三・せい夫婦が大阪・天満の寄席「第二文芸館」を買収し寄席経営に着手 | ★★ | ||
| 大阪・法善寺の寄席「蓬莱館」を買収し「花月亭」の名で興行 | ★ | |||
| 「吉本興行部」の看板を掲げて寄席のチェーン化に着手 | ★★ | |||
| 東京・神田の寄席を買収し「神田花月」を開場 | ★ | |||
| 対立していた「浪花三友派」などを吸収し大阪の演芸界を大合同 | ★★★ | |||
| 創業者の吉本泰三が死去 | ★★ | |||
| キネマ部を設置し大阪・福島に「キネマ花月」を開場 | ★ | |||
| 大阪・千日前の「南陽館」を万才の専門館とし十銭で開放 | ★★ | |||
| 1932〜1958年映画興行への業態転換 | 吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組し東京支社を開設 | ★★ | ||
| 日活と提携し映画「佐渡情話」を製作 | ★★ | |||
| 日中戦争の戦地慰問に演芸人の一団「わらわし隊」を派遣 | ★★ | |||
| 演芸人の養成所「漫才道場」を開校 | ★ | |||
| 東京・大阪の空襲で大半の劇場を焼失 | ★★ | |||
| 演芸人への貸金を帳消しにして専属から解放し演芸陣を解散 | ★★★ | |||
| 林正之助 | 吉本興業合名会社を「吉本興業株式会社」に改組 | ★★ | ||
| 林正之助 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 林正之助 | 創業者の吉本せいが死去 | ★ | ||
| 1959〜1986年うめだ花月での演芸再開と吉本新喜劇のテレビ中継、NSCの開校 | 林正之助 | うめだ花月劇場を演芸場に転換し演芸興行を再開 | ★★★ | |
| 林正之助 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 林正之助 | 毎日放送がうめだ花月劇場から吉本新喜劇の中継を開始 | ★★ | ||
| 林弘高 | 毎日放送「ヤングおー!おー!」で番組制作を一括して請け負うユニット制作に着手 | ★★ | ||
| 八田竹男 | 芸人養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校 | ★★★ | ||
| 1987〜2010年なんばグランド花月とルミネtheよしもと、M-1グランプリとMBOによる上場廃止 | 八田竹男 | 大阪・難波に「なんばグランド花月」を開場し本社を移転 | ★★ | |
| 林裕章 | 東京・新宿に「ルミネtheよしもと」を開場 | ★★ | ||
| 林裕章 | 漫才の賞レース「M-1グランプリ」を開始 | ★★ | ||
| 吉野伊佐男 | 持株会社制に移行 | ★★ | ||
| 大﨑洋 | クオンタム・エンターテインメントによる株式公開買付けで同社の子会社に移行 | ★★ | ||
| 大﨑洋 | 東京・大阪の各証券取引所で上場廃止 | ★★★ | ||
| 岡本昭彦 | 吉本興業ホールディングスに商号変更 | ★★ |
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事実根拠:出所(吉本興業)