吉本興業の決断社史:経営の意思決定を振り返る

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決断

劇場を、客を入れる場から芸人を鍛える場へ持ち替えた。太平洋戦争で30有余の劇場のほとんどが被害を受け、所属していた芸人も散り散りになる。戦後の吉本興業は焼けた寄席の跡に映画館を建て、アメリカ映画で興行を再開した。1959年、制作部長の八田竹男氏は映画がテレビに侵食されると見て映画館"うめだ花月"を演芸場へ作り直し、毎日放送の本放送開始と同時に劇場中継を始める。劇場を不動産として運用する体制へ移行した会社もあったが、吉本興業は1982年に新人を養成する吉本総合芸能学院を開設し、1986年に200席の心斎橋筋2丁目劇場、1987年に877席のなんばグランド花月を設けた。直営の小屋があれば所属タレントを常に舞台へ乗せられるという理由が、興行収入が全収入の6割を割ったあとも劇場を建て続ける根拠になった。

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