1932年8月、阪急電鉄の創業者・小林一三氏は東京の日比谷に株式会社東京宝塚劇場を設立した。[1]阪急が大阪で築いた、鉄道沿線に劇場・百貨店を配置して集客するモデルを東京に移植する構想で、演劇興行と不動産経営を一体運用する出発点だった。1934年元旦の東京宝塚劇場の開場で、東宝対松竹の興行戦が東京で始まる。当時の実業誌は、浅草・新宿に集中していた興行街の隙間だった丸の内に日劇・東宝・日比谷映画が集まり、新たな娯楽街が出現したと記し、松竹の本丸への奇襲と位置づけた(実業の世界 1935/8/11)[2]。1937年には写真化学研究所やJOスタジオなど映画関連4社を統合して東宝映画を設立し、製作機能を獲得した。1943年に東京宝塚劇場と東宝映画が合併して東宝株式会社が発足し[3]、映画の製作・配給・興行と演劇興行を一社で行う垂直統合体制が固まった。
戦後の1948年、東宝は1200名規模の人員整理に踏み切り、撮影所が長期にわたって組合員に占拠される第三次東宝争議へ発展した。[4]社長の渡辺鉄蔵氏は1948年4月16日の声明で『東宝として起死回生のため已むを得ず行った大手術である』[引用元][5]『一部極端な非協力者、反抗分子を退職させた』[引用元]と公表し、共産党員を含む俳優・スタッフを退職対象とした。1948年4月20日付の読売新聞は、この整理を単なる過剰人員整理ではなく、共産党員を日本企業から駆逐する冷戦初期の動きの一つとして報じた(読売新聞 1948/4/20)[6]。組合側の俳優・浅田健三氏は『流血事件が起こるばかりでなしに、殺害事件が起こるだろう、それでもやるか』[引用元]と渡辺社長に迫ったが、整理は撤回されなかった。
1949年に東京・大阪・名古屋の証券取引所に上場し[7]、松竹・大映と並ぶ映画メジャーの位置を固めた。戦後復興期に小林一三氏は東宝の不動産価値を『日劇だけでも今売りに出せば100万ドル、すなわち3.6億円、買いに来るものがあれば倍の200万ドルで7.2億円の値打ちがある』[引用元]と語り、興行会社というより不動産会社としての素顔を示した。1954年公開の『ゴジラ』第1作は観客動員961万人を記録し、本多猪四郎監督と円谷英二特技監督が手がけたこのIPは70年以上続いて、最長継続のフランチャイズ映画としてギネス世界記録に認定される。1957年の東宝直営館の月間収入は2.5億円で、松竹[8]の1.5億円を上回った。直営館数は松竹49、東宝46と拮抗したが、館の粒の差が収入差を生んだ。直営館100館は小林一三氏の夢で、増資に頼らず借入で押し通せたのは、小林氏個人の信用で資金を引き出せたからだった(実業の世界 1957/5)。
1960年代以降、テレビの普及で映画観客数が急減した。邦画の年間観客動員数は1958年の11億人超をピークに落ち続け、映画会社各社は経営の見直しを迫られた。東宝は映画製作本数を絞る一方、日比谷・有楽町・新宿の一等地に持つ劇場跡地や土地を活用して不動産開発に資源を寄せた。1962年のダイヤモンド誌は、東宝のみが斜陽期に余裕の経営を続けた理由を、清水雅社長が劇場経営を百貨店業や不動産業の合理性に寄せて運営した結果と分析し、ビルの階段・壁・空間まで貸し出す手法を『清水式高度利用法』と呼んだ。半期5〜6億円の利益が家賃収入だけでまかなえる構造で[9]、映画や劇場の興行成績が振れても全体の収益は揺らがなかった(ダイヤモンド 1962/9/3)。
こうした不動産重視の起点は、清水雅社長が1958年5月に本社へ設けた不動産活用委員会にある。[10]委員会は劇場の屋上・壁面・周辺の遊休空間を新規事業の場へ再開発する方針を組織化し、その延長で総合ビルの建設が相次いだ。総合ビルは数館の劇場で構成する従来型と異なり、他企業のオフィスを主たるテナントに据え、館内に劇場や中小の貸店舗を抱き合わせる構造をとる。1963年に東宝仙台ビル、1965年に日比谷の東宝有楽ビルと大阪の東宝梅田ビル、1966年には旧帝国劇場跡へ三菱地所との区分所有で国際ビルヂング・帝国劇場が開場した。[11]映画館を集客装置として下層に組み込み、上層の賃料テナントで稼ぐ都市開発の型が、この時期に固まっている(東宝五十年史 1982)。
1971年11月9日の読売新聞には、東宝の土地建物賃貸収入が全収入の11.6%を占めると記された。[12]所有ビル13棟のうち映画館の入居は1〜2階までに抑え、総面積の7〜8割を名店街・食堂・ボウリング場などのテナントに貸し出している、というのが当時の東宝のビル運営の実相だった(読売新聞 1971/11/9)。映画館を所有不動産の基層に据えるのではなく、収益力の高いテナントを優先し、映画館はあくまで集客装置として配置する判断である。1984年に有楽町センタービル、1987年に東宝日比谷ビル(マリオン)を竣工し[13]、当時の日経ビジネスは、マリオン開業によって銀座4丁目を中心としていた商圏が有楽町・日比谷ゾーンまで広がったと位置づけた(日経ビジネス 1987/5/18)[14]。映画産業全体が縮みつづけたなか、賃料収入が財務基盤の柱となり、松竹・大映との明暗を分ける構造的な差となった。
FY04の映画事業の営業利益は143億円、不動産事業は112億円で、両事業はほぼ同規模の利益を生んだ。演劇事業の27億円を加えた3本柱が、当時の東宝のセグメント構成だった。連結営業収入は2000億円前後で推移し、経常利益は200億〜250億円のレンジに収まった。映画事業はヒット作の有無で業績が振れる一方、不動産はテナント賃料や劇場運営で安定したキャッシュフローを生み、映画の振れ幅を不動産が吸収する構造が東宝の財務基盤を長期にわたり支えた。松竹は2000年代に大船撮影所を売却して経営資産の縮小を迫られたのに対し、東宝は不動産が稼ぐため映画製作の整理を急がずに済んだ。映画メジャーが不動産で生き残るモデルが、後発各社の参照軸として東宝で先に固まった。
1938年に合併した帝国劇場は、自社の演劇事業の中核であり続けた。1965年に旧帝国劇場を取り壊して新築し、1976年にはグループ内で自社不動産に帝国劇場の運営を移管し[15]、不動産と演劇の一体運営に踏み込んだ。帝国劇場ではミュージカルや舞台公演が年間を通じて上演され、東宝劇場の興行は映画ほど振れ幅がなく、客席を安定して埋める収益構造を備えていた。演劇事業の規模は映画より小さいが、不動産と同じく経営の安定装置として働き、東宝保有劇場という固定資産が長期にわたり稼ぐモデルを担った。
FY04の演劇事業の営業利益は27億円で、映画・不動産に比べて規模は小さいが、利益率は安定していた。2000年代以降はミュージカル市場の拡大に乗って『レ・ミゼラブル』『エリザベート』など海外ライセンス作品の上演が増え、映画IP事業と同じく作品の権利を自社で管理・運用する方向へ進んだ。2020年代には『千と千尋の神隠し』『SPY×FAMILY』などアニメ作品の舞台化が実現し、演劇事業はアニメIPの価値を別チャネルで拡張する役を引き受けた。映画化された原作を舞台で再演するモデルは、原作の知名度を観客動員に直結させやすく、新規企画の打率を上げる狙いがある。映画・アニメで得たIPを演劇で再利用するクロスメディア戦略が、小規模ながら確実な収益として根づいた。
2003年4月、東宝はヴァージン・シネマズ・ジャパン[16]の全株式を取得し、TOHOシネマズへ改称した。日本の映画興行はスクリーン数が増えながら単館劇場の閉鎖が進み、シネマコンプレックスへの移行が加速した時期だった。この買収で東宝は全国規模のシネコンチェーンを手にし、2006年10月に本体の映画興行部門をTOHOシネマズへ会社分割で承継、2008年3月に地域興行子会社4社を統合して全国一元管理体制を整えた。本体は製作・配給と不動産に絞り、興行は専門子会社が担う分業体制が定まった。全国一元管理によって興行データが製作側へ即座に返る仕組みも生まれ、配給スケジュールやスクリーン配分の判断が早まった。
並行して2011年に国際放映を完全子会社化、2013年に東宝不動産と東宝東和をそれぞれ完全子会社化してグループの整理統合を行った。2017年3月には東宝不動産を本体に吸収合併し[17]、不動産事業を本体で直接運営する体制に切り替えた。一連のグループ再編は映画・演劇・不動産の3事業を本体に集約し、意思決定を早める狙いだった。再編後、東宝は持株会社的な管理体制から、事業会社として自ら経営資源を配分する運営体制へ移り、次のアニメIP事業への資源集中の下地が整った。持株会社化ではなく事業会社のまま直接運営する選択は、意思決定の速さをグループ経営の優先事項に置いた判断である。
2010年代半ば、東宝はアニメの製作委員会に出資する事業を『TOHO animation』のレーベル名で本格化した。[18]従来の東宝は他社製作作品の配給手数料を受け取るモデルが中心で、製作リスクを自ら取る比重は小さかった。TOHO animationはその比重を反転させ、テレビアニメシリーズの製作段階から関与し、シリーズの成長に伴うマーチャンダイジングや二次利用の収益を取り込んだ。配給会社から製作者への業態転換が、ここから始まる。テレビアニメから劇場版、商品化やライブイベントへつなぐ連鎖収益のひな型が、2010年代半ばに固まった。同じ製作委員会方式でも出資比率と権利取得の厚薄で以降の収益が分かれるため、東宝は主要シリーズで上位出資の枠を確保する戦略を取った。
2016年7月公開の『シン・ゴジラ』[19]は庵野秀明氏が総監督を務め、興行収入82.5億円を記録した。国産ゴジラ映画としては12年ぶりの新作で、ゴジラIPの国内での存在感を示した。FY19の連結営業収入は2627億円、経常利益は550億円に達し、映画事業の営業利益339億円は不動産事業の186億円の1.8倍に達した。映画事業の利益成長は、TOHO animationを通じたアニメ作品群のヒットと、自社が製作費の大部分を負担する自社製作モデルへの移行が重なった結果といえる。長年続いた映画と不動産の均衡が崩れ始め、経営資源を映画・アニメへ寄せる方針が定まった。配給手数料を取るだけの会社から、シリーズの製作段階で出資し権利を取りに行く会社への姿勢の切り替えが、2010年代後半に明らかになった。
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|---|---|---|---|---|
| 1932〜2009年劇場と撮影所の垂直統合が生んだ映画メジャー | 小林一三が東京宝塚劇場を設立 | ★★ | ||
| 東横映画劇場を合併 | ★ | |||
| 東宝映画を設立 | ★★ | |||
| 帝国劇場を合併 | ★★ | |||
| 東京宝塚劇場と東宝映画の合併、製作・配給・興行・演劇の一貫経営体制の確立 1943年12月、株式会社東京宝塚劇場は自らが設立した東宝映画株式会社を合併し、社名を東宝株式会社へ改めた。劇場興行から出発した会社が映画の製作・配給機能を取り込み、製作・配給・興行・演劇を一社で束ねる一貫経営体制を固めた合併であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 梅田映画劇場・南街映画劇場を合併 | ★ | |||
| スバル興業を設立 | ★ | |||
| 渡辺銕蔵 | 1,200名の人員整理と撮影所の一時閉鎖 1948年4月、東宝は1,200名に及ぶ人員の整理と撮影所の一時閉鎖を発表した。六代目社長の渡辺鉄蔵氏はこれを『起死回生のために止むを得ず行った大手術』と公表した。発表は第三次東宝争議の引き金となり、同年8月には撮影所へ武装警官と米軍が出動する事態にまで至った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 渡辺銕蔵 | 三和興行を設立 | ★ | ||
| 米本卯吉 | 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場 | ★ | ||
| 小林一三 | 映画「ゴジラ」第1作を公開 | ★★ | ||
| 清水雅 | 東宝本社ビルが竣工 | ★ | ||
| 清水雅 | 不動産活用委員会の設置と、劇場を「不動産」として運用する体制への移行 1958年5月1日、東宝は本社に不動産活用委員会を設置した。劇場の内部・屋上・壁面から遊休の空間までを収益源として洗い直し、総合ビルの建設と関係会社の整備を進める常設機関で、清水雅社長の構想によるものであった。映画の斜陽が語られる時期に、興行会社の収益基盤を家賃収入へと組み替えていく出発点の判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 清水雅 | 東京・大阪・名古屋証券取引所の各市場第一部に指定 | ★ | ||
| 清水雅 | 千代田土地建物が東宝不動産に商号変更 | ★ | ||
| 松岡辰郎 | 新宿東宝会館完成 | ★ | ||
| 松岡辰郎 | 東宝不動産が東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 松岡功 | 有楽町センタービル(有楽町マリオン)完成 | ★ | ||
| 松岡功 | 東宝日比谷ビルが竣工 | ★ | ||
| 石田敏彦 | 東京宝塚ビルが竣工 | ★ | ||
| 高井英幸 | ヴァージン・シネマズ・ジャパンの買収と映画興行網の自社一元化 2003年、東宝は英ヴァージングループから複合映画館(シネコン)の運営会社ヴァージン・シネマズ・ジャパンの全株式を約100億円で取得し、子会社に収めた。VCJの全国8館・81スクリーンを自社の284スクリーンに加えて興行網は365スクリーンに達し、興行会社として業界首位へ立った。既存館は『東宝プレックス』へ改称し、六本木の新館には『ヴァージン』ブランドを残した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 高井英幸 | 東宝本社を東宝日比谷ビルに移転 | ★ | ||
| 高井英幸 | 映画興行部門を会社分割しTOHOシネマズに承継 | ★★ | ||
| 高井英幸 | コマ・スタジアムを子会社化 | ★ | ||
| 2010〜2021年シネコン再編とアニメIP事業が利益構造を書き換えた転換期 | 島谷能成 | 島谷能成が代表取締役社長に就任 | ★ | |
| 島谷能成 | 新宿東宝ビル竣工 | ★ | ||
| 島谷能成 | 映画「シン・ゴジラ」公開 | ★ | ||
| 島谷能成 | 東宝不動産を合併 | ★ | ||
| 島谷能成 | 「TOHO animation」レーベルが「鬼滅の刃」テレビアニメを展開開始 | ★★ | ||
| 2022〜2025年自社製作とグローバルIP戦略が変えた利益構造 | 松岡宏泰 | 松岡宏泰が代表取締役社長に就任 | ★ | |
| 松岡宏泰 | 映画「ゴジラ-1.0」公開 | ★ | ||
| 松岡宏泰 | アニメ制作会社サイエンスSARUの子会社化と、Toho InternationalによるGKIDSの取得 2024年、東宝はアニメIP事業の上流と下流を相次いで自社に取り込んだ。5月にアニメ制作スタジオのサイエンスSARUの全株式取得を発表して6月に子会社化し、10月には子会社のToho Internationalを通じて北米のアニメ配給会社GKIDSを子会社化した。製作委員会への出資でIPを取得するモデルに、制作機能と北米配給網を加える動きであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松岡宏泰 | 北米アニメ配給会社GKIDS,Inc.を子会社化 | ★★ |
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事実根拠:出所(東宝)