この合併を、戦時下の企業整理の一齣とだけ見ると芯を外すことになる。東京宝塚劇場は劇場という出口を先に押さえ、そこへ流す作品の製作を1937年の東宝映画設立でわざわざ外に作り、1943年に本体へ呑み込んだ。劇場興行の会社が製作の固定費と撮影所の労務まで引き受けた背景には、作品の調達を他社に握られない一貫経営を求める判断があったと思われる。
もっとも、製作を抱えた代償は小さくなかった。撮影所という重い現場を持ったことは1948年の東宝争議として噴き出し、自社製作の当たり外れは以後も経営を揺らし続けた。それでも、映画の振れを劇場と不動産が吸収する構造は、この一貫経営が土台にあってはじめて成り立った。作品を作る会社であり、同時に土地と劇場で稼ぐ会社でもあるという東宝の二重性は、1943年に製作と興行を一つの帳簿へ載せた時に形が決まったといえる。