東宝東京宝塚劇場と東宝映画の合併、製作・配給・興行・演劇の一貫経営体制の確立

劇場興行の会社が、なぜ自ら映画の製作機能まで抱え込んだか

時期 1943年12月
意思決定者(推定) 小林一三 創業者
論点 興行と製作の一体化
概要
1943年12月、株式会社東京宝塚劇場は自らが設立した東宝映画株式会社を合併し、社名を東宝株式会社へ改めた。劇場興行から出発した会社が映画の製作・配給機能を取り込み、製作・配給・興行・演劇を一社で束ねる一貫経営体制を固めた合併であった。
背景
阪急電鉄の小林一三氏が1932年に設けた東京宝塚劇場は、日比谷での劇場網の拡張で丸の内に娯楽街を築いたが、上映する映画の製作そのものは他社に依存していた。
内容
1937年に写真化学研究所やJOスタヂオを母体に東宝映画を設立して製作機能を得たうえで、1943年にこれを合併した。砧撮影所を引き継ぎ、製作から配給・興行・演劇までを一つの会社に集約した。
含意
この一貫経営は戦後、松竹・大映と並ぶ映画メジャーの骨格となった。製作部門を抱えた重さは1948年の東宝争議を招いた一方、劇場・不動産と製作を併せ持つ構造は、興行の振れを不動産収益が吸収する長期の収益基盤につながった。
筆者の見解

劇場から始めて、製作を呑み込んだこと

この合併を、戦時下の企業整理の一齣とだけ見ると芯を外すことになる。東京宝塚劇場は劇場という出口を先に押さえ、そこへ流す作品の製作を1937年の東宝映画設立でわざわざ外に作り、1943年に本体へ呑み込んだ。順序が逆でないところに、小林一三氏が阪急沿線で組み上げた「箱を持ち、人を集め、中身まで自前で回す」経営の型がうかがえる。劇場興行の会社が製作の固定費と撮影所の労務まで引き受けた背景には、作品の調達を他社に握られない一貫経営を求める判断があったとみられる。

もっとも、製作を抱えた代償は小さくなかった。撮影所という重い現場を持ったことは1948年の東宝争議として噴き出し、自社製作の当たり外れは以後も経営を揺らし続けた。それでも、映画の振れを劇場と不動産が吸収する構造は、この一貫経営が土台にあってはじめて成り立った。作品を作る会社であり、同時に土地と劇場で稼ぐ会社でもあるという東宝の二重性は、1943年に製作と興行を一つの帳簿へ載せた時に形が決まったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

劇場網は築いたが、映画は他社に頼っていた

東宝の出発点は、阪急電鉄を率いた小林一三氏が1932年に設けた株式会社東京宝塚劇場であった。会社設立の当初の目的は東京宝塚劇場の建設にあり、小林氏はここで長年主張してきた大劇場を実現し、安い料金で見せる国民劇の育成を進めようとした。大阪で鉄道沿線に劇場や百貨店を並べて集客する阪急流の経営を、東京の日比谷へ移す試みでもあった。劇場という装置をまず持ち、そこへ人を集めるところから事業が組み立てられていた[1]

1934年元旦の東京宝塚劇場の開場を皮切りに、会社は日比谷映画劇場や有楽座を相次いで開き、日本劇場を持つ会社の合併で劇場網を広げた。当時の実業誌は、それまで邦楽座と帝国劇場しかなかった丸の内に日劇・東宝・有楽座が集まり、浅草や新宿に対する新たな娯楽街が出現したと記した。だが劇場が並んでも、そこにかける映画の製作は撮影所を持つ他社に依存しており、興行網の充実と作品の調達先とが分かれたままであった[2][3]

決断

製作会社の設立から、本体への合併へ

東京宝塚劇場は、まず製作機能を外に作ってから取り込む順序をたどった。1937年3月に東横映画劇場を合併し、同年8月には写真化学研究所やJOスタヂオを母体とする東宝映画株式会社を設立して、映画の製作を自前で行う会社を手に入れた。翌1938年3月には帝国劇場を合併し、演劇興行の中核も傘下に収めた。劇場を持つ興行会社が、上流の製作と、演劇という別の柱を、数年のあいだに相次いで束ねていった[4]

一連の再編の締めが、1943年12月の合併であった。東京宝塚劇場は設立していた東宝映画株式会社を合併し、映画の製作・配給・興行と演劇興行をあわせて行う総合的な一貫経営に踏み込むとともに、社名を東宝株式会社へ改めた。以後は主に東宝映画から引き継いだ砧撮影所で映画を製作しており、作品を作る現場から劇場で見せる出口までが、一つの会社の内側に収まった。会社の名がここで「東宝」に定まった[5]

結果

争議という代償と、映画メジャーとしての戦後

製作部門を本体に抱えたことは、戦後に重い代償も伴った。撮影所の従業員を多く抱える構造は、経営が傾いた際の負担にもなり、1948年4月に東宝は約1,200名の人員整理と撮影所の一時閉鎖を発表した。これは武装警官や米軍まで出動した第三次東宝争議へ発展した。作品を作る現場を自ら持つことは、当たり外れの大きい製作の固定費と労務を、興行会社が直に引き受けることでもあった。合併で得た一貫経営の負の側面が、ここで表に出た[6]

それでも一貫経営の骨格は戦後の再建を経て残り、1949年に東京・大阪・名古屋の証券取引所へ上場した東宝は、松竹・大映と並ぶ映画メジャーの位置を固めた。合併で引き継いだ砧撮影所は製作の拠点であり続け、1954年11月に公開した「ゴジラ」第1作は観客動員961万人を記録した。自社の撮影所で作った作品を自社の配給網と直営館で回す形が、戦後の東宝の稼ぎ方の土台となった。製作から興行までを一社に置く1943年の体制が、そのまま事業の輪郭として続いた[7][8]

興行の振れを吸収する構造へ

一貫経営はやがて、映画の当たり外れを別の柱で吸収する仕組みへとつながった。1962年のダイヤモンド誌は、映画界が斜陽化に悩むなかで東宝だけが余裕のある経営を続ける理由を、清水雅社長が劇場を百貨店や不動産の合理性で運営した点に求め、建物の階段や壁や空間まで貸し出す手法を「清水式高度利用法」と呼んだ。半期の利益が家賃収入だけでまかなえる構造で、映画や劇場の成績が振れても全体の収益は揺らがなかったと同誌は記している[9]

製作から劇場・不動産までを一社で持つ構えは、清水雅氏の経営思想にも表れた。清水氏は「儲からんもんはすべてやめ、というのがわしの考えや」「バランスシートだけみて判断してきた」と後年語り、赤字劇場の閉鎖をちらつかせて業績を保ったと振り返っている。作品・劇場・不動産という性格の異なる資産を同じ会社の帳簿の上で見比べ、稼ぐものへ資源を寄せる経営が可能になったのは、1943年に製作から興行までを一つに束ねた体制があってのことであった[10]

出典・参考
  • 東宝三十年史(東宝, 1963)
  • 東宝五十年史(東宝, 1982)
  • 実業の世界 1935年8月11日号「東宝の小林一三君」
  • ダイヤモンド 1962年9月3日号「映画界はコップの水の奪い合い」
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
  • 読売新聞 1948年4月17日
  • 東宝 有価証券報告書【沿革】

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